Episode 017 「春は青いまま」

 足早に教室へ戻ろうとする背中を、笹原の声が引き止める。


「待ちなさい」

「……まだ何か、言い足りないことでもあるのか?」


 声だけが応えた。

 智史は正面を向いたまま、後ろに立つ笹原の呼びかけに振り向こうともしない。

 少しでも間が空いてしまえば、その背中はすぐにでも消えてしまいそうだった。


「ええ。さっきのことについてだけど」


 視線を交えず、顔さえ合わさずに、二人の時間が進む。

 智史は強く覚悟をした。

 次こそは無様な失態を晒さないように。平常な精神を保てるように。

 そして耳にする。


「私は、謝らないから」


 笹原は逃げも隠れもしない。ただただ真っ向からの宣言だった。

 あまりに堂々とした言葉の響きに、智史は思わず乾いた笑みを浮かべる。一方的な独断であるはずなのだが、その意思表明はすとんと腑に落ちた。下手な謝罪を重ねられるより、楽だったのかもしれない。

 多少なりの罪悪感を抱いているのだろう。笹原の口振りに先程までの力はなかった。けれども、強い意思は絶えず健在していた。

 それは、開き直りとはまた違う意味を持っている。


「君がどんなことを経験して、何を言いたかったのかなんて知らない。けど、だからって私の考えてることは変わらない」


 視線は交わらず、顔も合わせていなかったが、切々とした感情だけは生々しく伝播でんぱする。


「……男子って、そういうものでしょう?」


 荒く削り出されたような批判は、思春期の心に鋭く刺さる。

 否定できるようなことではないからだ。

 智史はそこで初めて振り向いた。


「容赦ないな、お前」

「必要だったかしら」

「そんなことを気にするような奴には見えない」

「よくご存知で」


 慇懃無礼な態度を前にして、智史は鬱屈とした心情を溜め息とともに吐き捨てる。対抗するように沈んでしまった気持ちを切り替えようとする。

 止まっていた思考は辛うじて動き始めた。


「俺も、無理に謝って欲しいなんて思わない」


 少なくとも笹原の主張に間違いらしい間違いはなかった。平均的な男子高校生の身では、強く否定したところで空々しい目を向けられるだけである。

 ――そんなことは、とうの昔に理解していたはずなのに。

 智史ははやる気持ちを抑えられなかった。


「それに非があるとすれば、それはきっと俺のほうだ。そんなふうに思われても仕方がないことだって分かってる。俺にも分かってるんだ」


 搾り出すように本音を口にする。笹原は静かに続きを待っていた。


「俺だってそうだ。お前が何を感じてどう考えてるとか、そんなこと知らない。……ただ」


 智史が真正面を向く。

 ようやく、二人の瞳が互いの姿をはっきりと捉える。


「聞くけどさ、下心が一切ない人間なんて、いると思うか?」

「きっと、いないでしょうね」


 即答。

 淀みも躊躇いもなく、笹原は問いに答える。男子を批判する人間にとっては当然の解なのかもしれない。そういう生き物であるのだと、かたくなに断じている。

 だから、智史は今一度、諦めることができた。


「そうだよな……。俺も、同意見だ」


 反応は待たず、笹原を残して歩き出す。

 全面的な意見の一致。それが二人の距離を引き離していく。

 傷は変わらず傷のまま、智史は廊下の角へと消えていった。




 笹原由美奈は優れた容姿をしている。

 そのことを智史も否定はしない。

 魅力的な外見を持ち合わせていれば、当然異性からの注目を浴びやすくなる。そして、恋愛対象として見られるということは、少なからぬ下心があるということでもある。

 その流れ自体は自然な働きであり、至極健全なものだ。

 純粋で、なおかつ不純な欲求だと言える。


 常日頃からそのような視線を向けられることが、果たして何を意味するのか。それは当事者にしか分からないことだ。

 あるいは、不愉快に感じる人間がいるかもしれない。

 もしくは、優越感を覚える人間がいるかもしれない。

 性別が変われば、捉え方も大きく異なるだろう。


 高校生でしかない智史にとって、それは安易に触れることのできない難題である。

 思春期を迎えていれば、誰でも経験するのであろう感覚。しかし、そこから生じる意味も価値も認識も、断言するには複雑かつ曖昧で、深く考えるほど自問自答の正否に惑う。

 個人差すらある以上、共通の答えさえないのかもしれない。

 理解に至らなかったとして、どうして責めることができるだろう。


 だから。

 そうやって、すれ違う。

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