Episode 016 「不純の気配」

 親身なカウンセラーは、申し訳なさそうに自らの非力を述べる。


「ごめんなさいね。それほど大したことは言えなくて」

「いえいえ、充分ですよ。得るものはありましたから。男性が歳下の女の子に弱いってことも再確認できましたし」


 隣に座っている上級生の男子を見遣りながら、後輩女子は得意気に笑った。

 話に夢中で忘れられていると思っていた智史は慌てて抗議する。


「俺をからかうのやめてくれない? 仮にも先輩だよ? 仮にだけど」

「さすがにそこは自信持って、和島くん」

「ごめんなさいです先輩。歳上の男性が慌てる姿って見てると楽しいので、つい」

「ついって、あのなあ……」


 翻弄されてばかりいる智史をかたわらに、強く同調する人物がいた。


「分かる。とても分かるわ。反応が面白いと、ついからかっちゃうものよね」

「はい、まったくもって同意見です!」

「……ねえ先生、そこはたしなめるところでは?」

「真面目じゃない時の綾乃って大体こんな感じでしょ。残念ながら」


 慣れているのか諦めているのか、笹原から溜め息が零れる。


「笹原先輩はどうなんですか? 部活で先輩方と話してると、時々話題に出てきますよ。注目されてるってことは、それだけお近づきになりたい男子がいるってことだと思うんですけど」


 自分自身のことについては納得がいったのか、後輩の関心は他人へと向いた。

 途端、笹原の態度が億劫そうなものに変化する。


「あなたが期待するほどのことなんてないわよ? そこまで恋愛したいとも思ってないし」

「そうなんですか? 機会はいっぱいありそうなのに……。じゃあこっちにいる人は? いつも昼休みは一緒にいるんですか?」


 視線を智史に向けながら、後輩は疑問を投げる。


「ソレのことなら気にしないで。喋る置物みたいなものよ」

「そうでしたか。了解です」

「おい待て納得するなよ」


 からかわれていると言うより、ぞんざいに扱われていると表したほうが適当かもしれない。その証拠に、智史の文句は簡単にスルーされてしまう。


「そういえば先週、部活の先輩方と話してた時、野球部の人が笹原先輩に告白したって聞きましたよ? そこそこのイケメンだそうで。なのに、断ったとか」

「ああ、そんなこともあったわね」

「一言だけであっさり済ませましたよこの人。これが美人の余裕ってヤツですか。羨ましい、マジ羨ましい……」

「心の声が漏れてるわよ」


 指摘する笹原は、特別なことなど何もないという様子だった。

 昼休みに智史を含めた三人が集まった時、なされる会話の大半は世間話である。主に早川が話題を持ち上げ、意見や感想、文句などが交わされる。けれど恋愛に関して話すことはほぼなかった。あったとしても放送中のドラマで描かれた愛憎劇について軽く触れる程度なのだ。

 早川が現在交際しているという彼氏に関して引き合いに出すことはある。反対に、笹原が自身の経験に基づいて語ることは極端に少なかった。

 つまり笹原は、恋愛というものを快く捉えていないのかもしれない。


「今までに詰め寄ってきた人の中で一人くらい、いいなって感じた人は?」

「私はあなたほど恋愛に対して前向きになれないの」

「嘘だあ。それってなんか損してるっていうか……勿体ないと思わないんですか?」

「――思わないわ」


 疑問の余地を断ち切るように、笹原は強く主張した。今までマイペースに動いていた後輩の勢いが失速する。

 空気が少し、ひりついた。

 途絶えかけた会話を立て直すために早川が手を加える。


「注目を浴びやすい分だけ面倒事も多いのよ。この子の場合は、特にね」

「あー、そういう話でしたか……。不用意に立ち入ってごめんなさい」


 後輩は察するのが早かった。同性だからこそ通じるものがあるのかもしれない。


「私のほうこそごめんなさいね。こういう話題は得意じゃないから」

「ええと、その……。うまく言葉にできないんですけど、頑張ってください」


 ぎこちない様子ではあったが、努めて誠実な気持ちを届けようとしていた。


「ありがとう。あなたも頑張って」

「わたしも応援してるからね」


 柔らかく笑む笹原に続いて、早川も激励を送る。


「はい、頑張りますっ」


 恋する乙女は元気な声で応えた。




 お茶目ながらに憎めない、そんな後輩女子の退室を見届ける智史。すると、途端にカウンセリングルームが静かになったことを意識した。


「凄かったな、あの一年生は」

「明るくて真っ直ぐな子だったわね」


 くだんの少女について、早川の印象は良好だった。それは笹原も同じらしい。


「あんなふうにさっぱりしてて分かりやすいタイプなら、苦労も少ないのにね」

「そういえば、あの子のことは割と平気そうだったな。この手の話題は全般的に嫌いなんだと思ってた。……まあ、自分のことに関しては随分と否定的だったけどさ」


 智史は興味本位の疑問を抱く。


「手当たり次第に手を出してるわけじゃないんだし、構わないんじゃない? 一途なのはいいことよ」

「へえ、そんなもんか」

「私は恋に恋してるような周りの見えてない女が嫌いなの。でも、あの子は違った。きちんとした気持ちで臨んでいるのなら問題なんてないでしょう」

「なるほど、それは確かに」


 その点は智史も同意見だった。

 しかし、話はそれで終わらない。


「そういう君こそどうだったの? ああいうのが好みなのかしら?」

「何がだよ」

「満更でもなかったんでしょ、あの子のこと」

「別に、そんなふうに言ってないだろ」

「男子って大概、あんな雰囲気の子が好きよね。どうだった? 積極的な歳下の女の子はお気に召したかしら?」

「…………」


 過去にはなかった。カウンセリングルームを満たす、重たい沈黙。

 智史は笹原の目を見ていた。真意を探ろうとするように。

 笹原も智史の目を見ている。本質を暴こうとするように。

 息苦しい空気の中、早川が慎重に問いかけた。


「ちょっと、どうしたのよ急に」

「どうもしないわ。ただ、はっきりさせたいだけ。同世代の男子なんて、大半は簡単で分かりやすいのが好きなのよ。そうやって勝手な思い込みをして、下心で頭がいっぱいになる。君もどうせそうなんでしょう?」

「由美奈、あまり言い過ぎるのは」

「――俺を、そういう奴と一緒にするなよ」


 感情は整うより前に、智史の口から飛び出していた。

 強い反発を受けても笹原は動じない。眼差しが鋭く尖る。瞳は絶えず一人の男子を捉えている。否定の発言を単なる強がりと判断したのか、懐疑的な姿勢は変わらない。


「隠さなくてもいいのよ? 思春期を持て余した歳頃の男女なんて、どれも似たようなものなんだから。誰だってそう。どうせ裏ではこそこそと――」


 その時だった。


「でも、俺は……ッ!!」


 室内に声が反響する。

 勢い余って、智史は叫んでいた。

 けれども感情が振り切れたのは一瞬で、続く言葉が放たれることはなかった。

 執拗なまでに、理性が精神を縛っている。

 認められないものを、許せないまま今に及んでいる。

 まるで――揺るがない事実に怯えているようだ。

 笹原は想定外の反応に驚きを隠せない。


「和島くん」


 唯一冷静だった早川が、智史に優しく話しかけた。

 この場にいるカウンセラーだけが激情に至った理由を知っている。

 真正面から交わる、二人の視線。


「わたしは、ちゃんと解ってるから」

「……大丈夫です。少し、取り乱しただけですから」


 深呼吸を一度。改めて気持ちが整理される。膝の上で作られていた握り拳から力が抜ける。

 先程の自身の状態を省みて、智史は謝罪を口にした。


「悪かったな。急に大声出して」

「いえ、別に、私は」


 智史と早川の間には確固たる信頼が築かれている。そんな二人のやり取りを、発端となった笹原は眺めることしかできない。

 現実に引き戻すように、午後の授業の予鈴が鳴った。


「時間だな」


 ぼそりと呟いて、智史は鞄を手に立ち上がる。外へと向かう頼りない背中。

 一度開いたドアが閉ざされるのを見て、早川が笹原にう。


「由美奈、和島くんを追って」

「でも、綾乃だって知ってるでしょ? 私には……」

「いいの。それでもいいから。このままにするのだけは、駄目」


 笹原は息を呑んだ。

 懸命に訴えるその瞳は頼りなく揺れていた。何もせず放置してしまえば、何かが終わってしまうような。積み上げてきた小さな欠片が、崩れ落ちてしまうような。そんな不安をたたえていた。糸のような繋がりでさえも、守ろうとしていた。


「私は、私の言葉でしか話せないわよ?」

「お願い」


 迷わず早川は頷いた。たとえ期待通りの結果にはならないとしても。

 いつだって他人に気を配っている、そんな優しいカウンセラーが願っている。

 笹原は腰を上げた。数少ない親友のために、せめて形だけでも応えようとする。

 廊下へ出ていった二人を案じて、早川は祈った。

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