Episode 008 「強い自制心」

 昼休みは短く、すぐに午後の授業が始まった。

 午前中とは違い、やって来た数学の先生は非常に真面目な人物だった。春休み明けの気の緩みを正すべく小テストを行うと言う。クラスメイトは少なからぬ不満の声を上げた。

 しかしテスト内容は復習を兼ねた易しいものだった。智史は着実に問題を解き終える。残りの制限時間の中、意識はこの教室の外へと向いていた。


 ――二人はきっと友達になれる。


 早川の発言が頭から離れない。

 友達という関係性の在り方についての見解と、相手をよく知る友人としての願い。それが心からの言葉であると感じられたからこそ、智史は考えることに時間を割いた。そして、今も考え続けている。

 一度閉ざしてしまった心は簡単に開かない。校内一の美人と称される笹原が相手でも、智史の態度は変わらなかった。むしろ、そういった華やかな存在とは縁遠いはずだと思っている。間に立つ人間がいなければ関わることもなかっただろう。


 けれど、早川は二人を引き合わせた。

 男子として、浮ついてしまう心の動きは抑えられない。

 異性と親しくなれるかもしれない、という可能性は大いに魅力的である。一人で日々を過ごすことが楽だとしても、誰かと関わりたいという願いが完全に消えることはない。女性に対する関心についても同じことだった。

 突然目の前に現れた機会。それが美少女ともなれば、なおさら気持ちは揺らぐもの。たった一度顔を合わせただけなのに、整った顔立ちを簡単に思い出すことができた。

 異性に関して、それは真っ当で健全な反応だろう。反対に女性の場合であっても、相手となる男性の容姿次第で多くの者が態度を変えるはずだ。思春期の少年少女なら、頭の中が異性に関係する事柄で埋まっていてもおかしくはない。


 それでも、自制心は強く働いた。

 どう思うことが、智史にとって正しいと言えるのか。

 どのような形で人と関わり、接していくべきなのか。

 考え続けても、その答えは出なかった。




 簡単に時間は進み、放課後が訪れる。

 クラスメイトが続々と教室を出ていく。その姿を見送りながら、智史は箒でゴミを掃いていた。教室の当番として数名の生徒が掃除を進めている。

 担任である男性教師もそこに加わる。勉強や部活に関する無難な話題を広げながら、生徒との交流を図っているようだ。その雑談を横目に智史は黙々と掃除を続けた。

 一通りを済ませ、残りは二つのゴミ袋をゴミ捨て場まで持っていくだけとなる。


「なあ和島、こっちの袋を頼めないか?」


 脈絡もなく、担任は名指しで智史に運搬を頼んだ。普通ならジャンケンや持ち回りで運ぶのではないだろうか。


「まあ……大丈夫ですけど」


 ゴミ袋を持ち上げて肯定の意を示す。教室を出た智史と担任は並んで廊下を歩き出した。

 教室のゴミ箱は可燃ゴミと不燃ゴミに分けられている。智史が手にした不燃ゴミの中身は缶とペットボトルなど。片手でも軽々と持てる分量だった。担任が持つ可燃ゴミも重さを感じられるほどではない。


「どうだ、和島。このクラスでの調子は?」


 不意に質問を受ける。智史は自分が選ばれた意図を悟った。


「今のところ、問題はないです」

「そうか。……二月の件はおれも聞いてる。もし何かあったら遠慮せずに言ってくれよ。できる限りのことはするつもりだから」

「ありがとう、ございます」


 智史の返事はぎこちなく、声も小さかった。

 本来であれば心から感謝すべき場面。そのはずである。


 迷惑をかけてしまって申し訳ない――そんな思いを、智史は抱いてしまう。


 自分は本当に、助けられても良い存在なのか。そんな資格がどこにあるのか。

 感情論の域を出ない、後ろ向きで卑屈な考え方が脳裏を掠めていく。ネガティブな自問自答は、陥ることがあっても抑えることは得てして難しいものだ。

 智史はゴミ袋を握り直した。指先には無駄な力が入っていた。

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