Episode 007 「大人までの距離」

 ドアを開けた智史の顔を確認するなり、早川は笑顔を見せる。


「あら智史くん。いらっしゃい」

「先生、名前」

「……目聡めざといなあ」


 相変わらずのやり取りを交わしながら、智史は部屋の中を見回した。少しばかり身構えをしていたのだが、それは徒労に終わったようだ。


「あいつはいないんですね」

「由美奈のこと? 教室にいるんじゃないかしら」


 答えながら何を思ったのか、早川の表情が変わる。


「気になっちゃう?」


 とてもとても、楽しそうな声色だった。


「…………」

「無言で嫌そうな顔するのはやめてくれないかな」

「くだらないことを言うからですよ」


 ソファに座り、智史は鞄から弁当とペットボトルのお茶を取り出す。カウンセリングルームは騒がしい教室から離れているので、静かに食事をすることができる。

 早川もソファへと移動すると、テーブルに手製の弁当を広げた。一緒に持ってきたティーカップには飲みかけの紅茶が入っている。智史は食事の際にお茶を好んで飲んでいるので、それは試したことのない組み合わせだった。


「じゃあ、いただきましょう」

「いただきます」


 決まりがあるわけではないが、二人は揃って食べ始める。

 向かい合い、平凡な昼食の時間を過ごす。

 程なくして早川は唐突に話題を振った。内容はこの場にいない人物について。笹原に関する予想を語る。


「由美奈なら多分、今は新しいクラスメイトたちに囲まれているんじゃないかな」

「……それはそれは。俺なんかとは違う充実した学校生活を送っているようで」

「その辺りは本人に聞いてみないと分からないんじゃない?」


 早川のそれは、暗にかばうような言い回しだった。


「一人でいるよりは複数人でいたほうが充実しているように見えるんですけど」

「なら和島くんは大勢のクラスメイトに囲まれていたい? そっちのほうが楽しそうだって心から思えるの?」

「それは……」


 智史は思わず言葉を詰まらせる。

 気楽な単独行動を好む人間であれば、そのような状況を歓迎することはできない。

 紅茶を口に含み、早川は続けた。


「感じ方は人によって違うから、完璧に『同じ人間』なんていない。だけどそれは『同じではない』だけ。その人に似通った感性を持つ人が、多かれ少なかれ存在するものよ」

「俺にとってのそれが、あの笹原だって言うんですか?」

「信じられない?」


 真っ直ぐな瞳が智史へと向けられる。

 早川はカウンセラーであり、生徒のメンタルケアを主としている。多感な時期にある高校生の感情を真正面から否定することは滅多にしない。どんな意見であっても、個性として、一個人として尊重する姿勢を取っている。

 だから智史は、忌憚きたんのない本心を吐露した。


「簡単に気を許すなんてできません」


 誰が誰を快く思っていないとしても、そのこと自体を早川は責めない。


「昨日先生が伝えてくれたことを受け入れられないわけじゃない。でも……だからって、あいつをすぐに受け入れるなんてできない」

「それは由美奈の見た目のせい?」

「まあ、それもありますけど」

「わたしという前例があっても駄目?」

「……さり気なく自分を美人の括りに入れましたね」

「顔は悪くないつもりなんだけどなあ」


 早川が小首を傾げる。歳上のお姉さんのあどけない仕草は、男子高校生に対して大きな威力を発揮した。智史は食事に意識を割くことで、落ち着きを取り戻す。


「だとしても、カウンセラーを務めるような大人と、思春期も抜けてない高校生とじゃ話が違いますよ」


 多くの人間に接してきたはずの早川と成人前の子供とでは、信用度に差が生まれるのは致し方ないことである。


「今、それとなくわたしが美人だって認めたわね」

「……そっちから話題を振っておいて、進める気あるんですか?」

「ごめんごめん。とりあえず、思春期も抜けない男子高校生の考え方は把握したわ」


 これだから苦手なのだと智史は内心で呟いた。こういった意地の悪い返答が素直になれない要因となっている。

 畳みかけるように、話題は次のものへと移った。


「実は昨日、由美奈に和島くんの第一印象を聞いてみたんだけど」


 あくまで早川はその出来事をただの事実として述べる。

 関心を示さないように、智史は黙々と食事に集中した。

 少しして様子を窺いながらの疑問が飛ぶ。


「気にならない?」

「別に俺のことなんてどうとも思ってないでしょう。根暗そうな奴だな、とかそんな感じで」

「それはどうかなあ」


 詳細を知っているはずの早川は、焦らすように発言に含みを持たせた。


「無駄な期待させるようなことは言わないでくださいよ」

「内容によっては期待しちゃうの?」


 早川がにっこりと笑う。褒められたことではないが、揚げ足を取ることに関しては本当に上手うわてである。真正面から太刀打ちできる人間はそう多くないだろう。

 せめてもの抵抗として、智史ははっきりと気持ちを表した。


「先生のそういうところ、苦手なんですけど」

「それは残念」


 口振りと違って、余裕が崩れる気配はまるでなかった。

 大人の女性カウンセラーの前では男子高校生など形無しである。


「じゃあ異性に慣れるための練習として、あーんでもしてあげようか?」


 そう言って早川は、自分の弁当箱に入っていた卵焼きを箸で摘まみ上げる。そのまま自分の口へ運ぶのではなく、智史の前へ差し出した。

 二人の姿はカップルのそれか、はたまたペットに対する餌付けのようだ。


「そういうのは彼氏さんにやってあげてください。それに、俺が苦手なのは『異性』という大枠じゃなくて、先生個人に対してですからね」

「ふーん。素直じゃないなあ、きみは。照れ屋さんなんだから」


 早川は簡単に諦めると、宙に留まっていた卵焼きを頬張った。

 フランクな関係性を維持しながらも、強引に踏み込むような真似はしない。自ら求めない限り、与えられることはないのだった。

 素直になれないことは智史も自覚していた。適切な距離感を望む気持ちは確かにあった。

 けれど、なけなしの勇気を振り絞る。


「……甘えてますよ。これでも、精一杯」


 曖昧に呟いた言葉に対して早川の反応はない。

 それをどう捉えるべきか、智史は安堵の中に紛れた感傷をそっと撫でた。

 どうということもない雑談をまじえながら時間は進む。良くも悪くも、くだらないやり取りが退屈なはずの昼休みに色を加える。

 たったそれだけのことで、浮き沈みを繰り返しながら心は軽くなっていく。

 これからも智史はこの部屋に足を運ぶのだろう。

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