マッチ売りの少女
林桐ルナ
金色の星
街は仕事のない人で溢れていました。
昨日まで働いていた会社から突然解雇された人たちが、戸惑いながらケータイを片手に仕事を探しています。
公園には炊き出しを受け取る人々の列が長い線を作り、年末の街の風景も、どんよりと黒ずんで見えます。
100年に一度の未曾有の不況とちまたでは紙面を飾っています。
しかし少女は、「だから、どうしたのだろう?」と心の中で思っていたのです。
少女は年の割に長身で、母親譲りの長く艶やかな黒髪で端正な顔立ちだったため、実際の年齢よりもずっと上に見えました。
少女が生まれたのは、東京のど真ん中、新宿の富久町というところでした。
子供のころから高層ビルの森に囲まれて育ったのです。
狭く薄汚れた空。
そう人々は言います。
そんな高層ビルとは対象的に、家の周りにはいまだ何も建たないままの空き地がちらほらとありました。
バブル経済に湧いた80年代における鬼のような地上げの傷跡たちです。
もともと新宿に住んでいた人間は、今ではほとんどいなくなったと、裏のお婆さんがその空き地を見る度に、目を細めて言いましたが、少女はバブル経済で日本中が熱を持ったように浮かれ、お金を湯水のように浪費していたなどという歴史は知りもしなかったのです。
人々はタクシー代だけでも何万というお金を使い、ブランド物で身を固めて、見返りのないお金を使うことに、少しの躊躇もありませんでした。
少女の母親は、新宿に店を構える、スナックで水商売をしている女でした。少女の母も、そうやって青春時代をバブル経済とともに過ごして来ました。
父親の記憶は、もうほとんど残ってはいません。
少女の母親のスナックは、大変人気があり、いつもお客さんたちの笑う声で溢れていました。
そんな少女の母親のスナックが潰れたのは、半年ほど前のことでした。
もともとお酒を飲むことくらいしか趣味のなかった母親は、それと同時に一気に酒に溺れて行ったのです。
ある日、少女は家の中の母親の宝石箱の中から、父親の連絡先の書いてある紙を見つけ出しました。
その番号に連絡すると、優しい声のお婆さんが受話器を取りました。
「あの…」
「はい。どなた様でしょうか?」
「正さんはいらっしゃいますか?」
「…正は、もうこちらには住んでませんけど…」
そこまで聞くと、少女は受話器を置こうとしました。
「あの…あなた、今日ちょっと時間があるかしら?」
お婆さんの質問に、驚いて少女はまた受話器を耳に当てました。
お婆さんは、新しく出来た複合施設に買い物に行きたいのだが、行き方が分からないので連れて行ってくれないかと、少女に言ってきたのです。
少女はお金を出してくれるなら行ってもいいと答えて電話を切りました。
お婆さんは、少女に買い物に付き合ってくれたお礼だと言って、カシミアのストールをプレゼントしてくれました。
少女は、分不相応なそのストールをぎこちないお礼とともに受け取りました。
それからというもの、少女とお婆さんは時間があれば一緒にご飯に出掛け、食事を共にしました。
お婆さんは少女の素性について聞くことはなかったし、少女もまた、言うことはなかったのですが、少女はそのお婆さんがとても好きでした。
そして、とうとう少女の母親は、家を出たまま帰らなくなりました。
いつもの外泊なのだろうと思いましたが、少女の予想に反して、母親が家に帰ってくることはなかったのです。
大家から家賃を払えと言われても、電気代の請求書が届いても、少女にはどうすればいいのかよく分かりませんでした。
ただいつも言うことは、「今、母は出掛けています」の一言だけでした。
少女の手元には、残り3千円しかお金がありませんでした。
宝石箱を覗いても、つい何ヶ月か前までそこにあった指輪やネックレスは一つとして残ってはいませんでした。
あるのは母親の彼氏が使っていたであろうジッポやゴミのようなライターばかりでした。
しかし、その時の少女は、そのことに対して大きな不安を抱えてはいませんでした。
「困ったことがあったら、お婆さんに言いなさい」
そう、お婆さんが言っていたのを覚えていたからです。
少女は、繋がらなくなった家の電話を一瞥すると、雪の降る新宿の街にストールを羽織り出掛けて行きました。
コンビニで月刊マンガ雑誌を買って、お釣りの小銭を握り締めて、公衆電話を探します。
しかし、ケータイが普及した今、公衆電話のある場所を探すのにも時間がかかりました。
少女が電話ボックスを見つけた時には少女の肩や頭には雪が白く積もっていました。
「もしもし、私です」
少女が受話器に向かって告げると、若い女性の声が返って来ました。
「どなたですか?」
後ろでは何か騒がしく話す話し声が聞こえています。
「あの、梅花さんいらっしゃいますか?」
「あら、お婆ちゃんの知り合いですか?」
「えぇ、まぁ…」
少女が答えると、一時の沈黙が流れました。
「あの、お婆ちゃんが、昨日亡くなりましてね。今晩お通夜なんですけど、いらっしゃいますか?」
少女がその言葉までを聞くと、ブーガタンという音と共に通話は終了していました。
お婆さんに自分の家の住所は教えたことはあるのですが、お婆さんの住所を少女は知らなかったのです。
お婆さんは、きっと自分と会っていることを父には話していないのかも知れないとその時少女は思ったのですが、それも口にすることはありませんでした。
とても寒くてお腹の空いた少女は、そのままファーストフード店でハンバーガーセットを買い、お腹を満たしました。
窓の外を見れば、クリスマスのイルミネーションの中、寄り添うカップルが街の通りを行き過ぎて行きます。
少女の手元には千円と小銭が残るばかりでした。
家に帰っても電気もガスも止められてしまっているので、寒いのに変わりはありません。
しかし、いつまでもここにいるわけにはいかないので、少女はまたストールを頭に被せて、家までの道を歩きました
少女がアパートの玄関までやってくると、1枚の貼り紙がしてあるのが見えました。
『明日までに家賃を支払わなければ、退去してもらいます。』
少女はその紙を見つめながら、しばらく立ち尽くしていました。
家賃はいったいいくらなのかも少女には検討もつきません。
暗いアパートの部屋に入り、ただ足を抱えてうずくまりました。
「お母さん、どこに行ったのかな…」
次第に暗闇に目が慣れてくると、少女は机の上に置いてあった母親の宝石箱に手を伸ばしました。
少女は、その中のライターを一つ手に取ると、火を点けました。
シュポッ
という音と共に、部屋の中は眩しいくらいの灯りで照らされました。
手元にあるライターには『スナックみゆき』と刻まれた文字が浮かんでいます。
それは、少女の母親がやっていたスナックの名前でした。
まだ小さい時には、何度となく駄々をこねて連れて行ってもらった記憶があります。
母は綺麗で、真っ赤なマニキュアを酔っ払いながら、少女の小さな爪に塗ってくれたものでした。
「可愛いチイママだな」とお客さんに言われて、意味は分からなかったのですが、母の微笑む笑顔にウキウキとなったことを思い出していました。
そして灯りの中に映し出された金色に輝くライターが目に留まりました。
「これ、高いライターなんだから触ったらダメよ」
少女はその母の言葉を思い出しました。
すると少女は、手元にあるライターを全てビニール袋に押し込むと、またストールを頭からかけて、アパートの部屋から出て行ったのです。
目指したのは、新宿の駅前にある夷子屋という質屋でした。
母親がそこでバッグや、財布を売ってお金をもらうことを知っていた少女は、急いで雪道の中を走り、そこへ向かったのです。
新宿の駅までは歩くと随分かかります。しかし少女は、酔っぱらった母を迎えに何度となくこの道を一人で歩いたことがあるのです。
夷子屋に着き、そのライターを若い男性に差し出すと、質屋の男はこう言いました。
「2万円ですね」
少女はもともと10万円以上もするライターだとは知りもしないので、その値段に頷いて、「それでいいです」と答えました。
「じゃあ、こちらに記入してください。あと身分証をお願いします」
そう言われて目を落とした用紙には『18歳未満の方とのお取引は出来ません』と書いてありました。
少女はその用紙を男性に突き返すと、台座の上に乗ったライターを掴んで質屋から飛び出していきました。
質屋には売れないけれど、たしかに高級ライターなのだと分かった少女は、そのライターを買ってくれる人を探すことにしました。
数日前から風邪ぎみだった少女は、今はもう激しく咳こんでいました。
しかし、明日までになんとかお金を少しでも作らないといけません。
少女はコンビニに立ち寄ると、紙とペンを買い、震える手で『高級ライター売ります』と書いて、ガード下に座り込みました。
時刻はすでに深夜の12時を回ろうとしており、行き交う人もまばらでした。
たまに酔っ払いのおじさんが話しかけて来るのですが、2万円でライターを買ってくれと言うと笑って通り過ぎて行きました。
寒さで体の感覚が無くなりつつあった少女は、一番安そうなライターに手を伸ばすと、それに火を灯しました。
火の暖かさが、少女の顔に伝わり、暗いガード下の少女の周りは、オレンジ色に包まれました。
少女は暖かさと、灯りに魅せられて、じっと揺らぐ小さな炎を見つめていました。
「お母さん、いつ帰ってくるのかな…」
そうやって見つめているうちに、炎は小さくなっていき、シュポッっと音を立てて消えてしまいました。
まだたくさんライターはある、そう思った少女は、次々とライターを点けていきました。
オレンジ色の暖かい温もりに、少女は安心感を覚えます。
その炎に、タバコを吸ういつもの母親の姿が思い出されました。
何時間そうしていたでしょうか、ライターは1本も売れないままに、残りのライターは3つしか残ってはいませんでした。
きっと、金色のライター以外はお金にはならないだろう、そう思っていた少女は母がいつも使っていた黒く光る細長いライターに手を伸ばしました。
シュポッ
少女がそのライターの炎を見つめていると、通りの向かいのレストランの明かりが目に入りました。
大きなクリスマスツリーに、パスタやピザ、ケーキが次々と運ばれて来るのが見えます。
「食べたいな」
そう思い、少女が近づくと、店員が扉を開けて、笑顔で少女を招き入れてくれたではありませんか!
少女はアツアツの湯気の立つクリーム色のパスタにフォークを絡めると、口元に運びました。
そこで、灯りは消えて、料理もレストランも消え去ってしまい、少女はまたガード下の同じ場所に座っているのでした。
少女はまた残り2つのライターのうちの、銀色のジッポライターを手に取りました。
シュポッ
すると、やはり不思議なことに、目の前にはたくさんのろうそくが刺さった見たこともないくらい大きなケーキが現れました。
まるで誕生日会のケーキのようです。
少女は、母親と過ごした小さなアパートの部屋の中の二人だけの幸せな誕生日会を思い出しました。
「誕生日のケーキのろうそくを吹き消す時にお願い事をすると、そのお願いが叶うのよ」
母親がそう教えてくれたことを思い出し、少女は思い切り息を吸い込むとその何十本もの炎にめがけて息を吹きかけました。
「お母さんと、また誕生日会が出来ますように」
少女が願いを込めた瞬間、また目の前のケーキもろうそくも消え去ってしまいました。
ぼんやりとした炎の光だけがその場に残り、その光は、少女の頭上を超えて、雪の舞い降りる空の彼方に高くのぼり、まるで星のようにきらめきながら空いっぱいに広がったのでした。
そして、その中の一つの光が、まるでダイヤのように光を放つと、すぅっと空のずっと向こうに流れて行きました。
「流星だ」
少女の数少ない父親との記憶の中に、父と一緒に見た流星群がありました。
その時父親が、「流れ星にお願い事をすると、それが叶うんだ」と教えてくれたことを、少女は思い出しました。
「流れ星が落ちる時は、誰かが天に召される時なんだ。だから、お願い事をすると、天使になった人が願い事を叶えてくれるんだよ」
記憶の中の父の顔は曖昧で、しっかりと思い出すことは出来ません。
「今、誰かが死んだのかな…」
少女は、ふとそんなことを思いました。
「お願い、もう一度お父さんと、今度はお母さんも一緒に、流星群を見に行けますように」
少女は、さらに最後に残った金色に輝くライターを手に取りました。
シュポッ
激しくずっと咳こんでいた少女も、もう不思議と咳もおさまり、寒さも感じることはありません。
なんだかとても暖かくて、幸せな気分です。
小さな金色のライターから放たれたオレンジ色の光の輪が大きく広がっていきます。
すると、その輪の中には亡くなったはずのお婆さんの姿が現れました。
その顔にはいつもの優しい笑顔がありました。
「お婆さん!! お父さんもお母さんもいなくなっちゃって、私、どうしたらいいのか分からないの」
少女がお婆さんに駆け寄ると炎の光がだんだんと小さくなっていくのが分かりました。
「私、分かってるよ。この灯りが消えたら、きっとお婆ちゃんも消えて行っちゃうんだよね? お婆ちゃんも、お父さんやお母さんみたいに、どこかにいなくなっちゃうんだよね? お願い、一人だけ置いて行かないで!! お婆ちゃん!!」
少女は手に持っていた金色のライターを天の星に掲げて、そう叫びました。
最後のお願いを、力一杯空に向かって祈りました。
すると、小さくなっていた炎が一気に燃え上がり、空に瞬く星々はいっせいにその光の中に吸い込まれるように集まり落ちてきました。
そして、辺りは目も眩むような真っ白な光で包まれていました。
少女がその眩しさに目を閉じて、また見開くと、目の前にはさっきは小さくなっていったお婆さんの姿が、まるで高層ビルのように大きな姿でキラキラと輝いていたのです。
大きなお婆さんは、少女の体を抱きかかえると、空の彼方遠く遠く、光の世界にのぼって行きました。
お婆さんの腕の中は、カシミアのストールのように柔らかくて、暖かかったのです。
それは、眠れない夜にだっこしてくれた母の腕のようであり、流星群を眺めながらだっこしてくれた父の腕のようでもありました。
少女はお婆さんが来てくれて本当に良かったと、幸せに、微笑みました。
朝が訪れ、少女がライターを売っていた場所にホームレスの男性が通りかかりました。
そこには、綺麗なカシミアのストールにくるまっている、美しい黒髪の少女の姿がありました。
体に巻きつけた指先には真っ赤なマニキュアが塗られ、口元は幸せそうに微笑んでいます。
少女は、寒さで自分が高熱があることも分からず、そのまま凍死したのです。
その少女の周りには、無数のライターが散らばっていました。
少女のお婆さんはとてもお金持ちで、その遺産の半分を、とある美しい孫娘に相続すると遺書に書いてあったことを、少女のいとこにあたる女性が、少女のアパートに伝えに来た時は、少女の体が真っ赤な炎で焼き尽くされて、白い雲となり天に昇って行った後のことでした。
新聞には、『【大不況の悲劇】母親に捨てられた少女、遺産相続を知らず路上で凍死』と書かれ、人々は少女の死が悲惨で可哀想だと口々に言いました。
少女の最後が、本当はどんなに素敵で、どんなに素晴らしいものだったのか、誰も、知ることはありません。
マッチ売りの少女 林桐ルナ @luna_rin
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