第9話 あの軍師 ~小さいおじさんシリーズ4

 薄く西日が差し込む四畳半の一部屋に、小さく背を丸める3人の影が落ちる。しゃわしゃわと重なる何かの蝉の声が、薄暮の部屋を満たしていた。…3人を、押し包んでいた。座布団の代わりになれば…と百均で購入した草の蔓で編んだようなコースターは思いのほか重宝されているようで、傍らに脇息代わりにキャラメルの空き箱を置いて寛ぐのが常となっている。



俺の部屋に時折現れる、3人の小さいおじさんは、神妙な顔で猫ちぐらを見守っていた。




「……で、何なのですかあの男は」

そう呟いて、白頭巾が羽扇を軽く動かす。残暑厳しい8月の末とはいえ、冷房はキンキンに利かせているのだが…。あれは癖のようなものなのだろうか。

「出てくるなり死にそうな顔色で人の居間を勝手に占拠…不躾にも程がありませんか」

お前が言うな。言いかけた言葉を飲み込む。こいつらは俺を『居ないもの』とみなしているのだ。

「ま、そう云ってくれるな」

豪勢な紗の衣装を纏った小男が、とりなすように言った。どうやら猫ちぐらに籠っている客人は、豪勢の知り合いらしい。

「それです」

羽扇でぴしりと豪勢を指す。

「一国の丞相ともあろう貴方が」

言いかけて、徐に羽扇を口元に戻す。この男は、いちいち無意味に芝居かかった動きをする。

「…過分な情を示すあの男は何なのです」

「だから云ってくれるな。…ああ見えて出来る男なのだ。ただ…なぁ」

肩をすくめ、豪勢は横で苦虫を噛潰したような顔で押し黙る端正な顔の男に視線を送る。この傲岸不遜な男が、珍しく他人にフォローを求めているようだ。ほんの数秒、疎ましそうにフォロー要請を無視していた端正は、遂に観念して大きく息をついた。

「――上司を見る目がない、運が悪い、タイミングが悪い。そういう男だ」

「そう!そうなんだよな!肝心なところで情に流されて判断を誤るところがある、そういう男なのだ!」

我が意をえたりとばかりに豪勢が膝を打つ。

「…ま、そこは卿の買い被りとは云えぬ。あの男がなければ、呂布のような癖の強い男があそこまで永らえることはなかっただろうな」

端正もあっさり同意する。白頭巾はふん、と鼻を鳴らして猫ちぐらを忌々しげに睨み付ける。居場所を占領されたことが余程業腹なのだろう。白頭巾はしばしば、とても利己的な理由で人を嫌う。

「ふぅん…私、呂布が生きていた頃なんて、ほんの小童ですからね。阿呆に殉じた木っ端軍師のことなど、ふふ、存じ上げませぬ」

「てめぇ木っ端とか云うな!!」

豪勢が語尾にかぶせる勢いで怒鳴った。猫ちぐらから、苦し気な忍び泣きが漏れ聞こえてきた。

「貴様…曲がりなりにも伝説の豪傑を阿呆呼ばわりとかな…もうな…」

端正も軽い苛立ちを示して眉を顰める。端正は機嫌が悪そうにしていても端正さが増すなぁ…などと、ぼんやり考える。

「あの人、張飛と大体同ベクトルの馬鹿じゃないですか。私の在世にあんなのが士官しにきたら叛骨の相があるとかなんとかテキトーなこと言って速攻で打ち首にしています」

「まじかお前、あれテキトーだったのかよ!!」

「―――俺は分かっていたよ」

貴様はそういう男だ…そう呟いて、端正は麦茶を啜った。暑くなってからは、俺がさりげなく汲み置いている麦茶をガラスの猪口で呑むのが彼らの定番となっている。白頭巾だけはサイダーに異様に興味をもつが、他の二人は嫌がって見向きもしない。

「魏延もな…余のところに仕えていれば…」

大きく息をつき、豪勢は遠い目をした。端正が小さく笑う。

「…卿の部下に多いタイプではあるな」

羽扇の影で、白頭巾がぷっと吹き出した。

「あぁ、そうですねぇ。一桁の暗算出来ない方々…」

「本っ当、言動の隅々まで嫌味が行き渡っているな貴様は。感心するわい」

「あの猫ちぐらに籠っている男が貴方に士官したとして…典韋やら許緒やら…貴方の大好物の脳筋武将に揉まれて胃壁を摩耗する状況が目に見えるようですね…んっふふ、失礼」

羽扇に隠れてはいるが、肩は激しく上下しながら震えている。…明らかに大爆笑している。猫ちぐらから聞こえるすすり泣きが、ひときわ高くなった気がした。

「うっふっふふふ…どう転んでも運もタイミングも手の施しようのない御仁ですなぁ…」

豪勢が顔を真っ赤にして立ち上がった。

「きっ貴様に言われたくないわ!頭でっかちのゴミ武将ばっかり揃えやがって!泣いて馬謖を斬るなどという不名誉な慣用句、末代までの恥だからな!!!」

「言いますな。…ならば一番の豪傑を呼ぶがよろしい。返り討ちにして差し上げましょう」

「おのれ、嫁を召喚する気だな!?あれはもう卑怯だぞ!!」

「あぁ煩い、静かに茶を嗜まれよ」

ゆったりと茶を呷り、端正が大きく伸びをした。こいつがこういうポジションに就くのは珍しい。彼は肩で大きく息をしながらどっかりと胡坐で座る豪勢に、すっと目を向けた。

「卿は彼をどうしたいのだ?猫ちぐらから引っ張り出したいのか」

「――旧交を温めたい、だけなのだがなぁ」

旧交を…か。しかし、俺が知っている限り、あの男と豪勢は…

「はて、旧交…。あの男は、それを望んでいるようには思えませぬがねぇ」

バリバリと小さな、それでも彼の手には余る海老せんべいを齧りながら白頭巾が呟いた。珍しく、少しイラついているように見える。そして自分の頭ほどの猪口を抱え上げて麦茶を一口すすると俺のハンカチで口を拭った。そして言った。



「――貴方は一体、彼に何をしたのですか?」



しん、と水を打ったように静まり返った。猫ちぐらの男の呻き声も、ふと途絶えた。

「ぐぬ……」

豪勢が小さく呻いて俯いた。これもこの男には珍しい。

「し、仕方がなかったのだ。あの頃の余は一介のちんぴら武将。どうあっても董卓に捕まるわけにはいかなかった」

豪勢は猫ちぐらの方向を、遠い目で眺める。

「――結果、優秀な部下が余から離れていった。…後悔など、しようがない。少しでも情に流され判断を誤れば、余は命を落としていた。そういう、時代だった…」

さっきから茶菓子がまるで進んでいない。これも、この男には珍しい。

 彼らが俺の四畳半に出没するようになってから、俺は昔漫画で軽くさらっただけだった三国志を、小説で読んでいた。だから知っている。猫ちぐらに籠って泣いているあの男は、豪勢にとって特別な人間のはずだ。


「貴方の感傷に付き合いたいわけではありません」

白頭巾が場に流れかけた柔らかな空気をバッサリぶった斬った。

「貴方が、あの男に何をしたから猫ちぐらから出てこないのか、と伺っているのです」

「ぐっ……」

「卿、まじか」

そういうの苦手そうな端正が、身じろぎした拍子に、がたりと脇息(キャラメルの空き箱)を転がす。

「それを追及しちゃうか、この空気で!?」

白頭巾はまったく顔色を変えることなく、口元だけで笑った。

「貴方でもいいです。知っているのでしょう?」

「いやいやいや無理無理、あり得ないわこの状況でアレを説明しろとか」

「いやぁ、知りたいものですなぁ。当時小童だった私が知りえない、当時の話を…」

羽扇で顔の半分を覆いながらにんまり笑う、白頭巾。


――あぁ、もう。こいつ、またか……


「一国の丞相ともあろうお方が、一体何をやらかしたのやら。も、もしや大恩を受けた一家を、口封じの為に子供に至るまで皆殺しとか、そんな非道行為を!?も、も、もしや、もしや!!」

「こ、こいつ知ってたな!!!」

端正がガラスの猪口を叩きつけて立ち上がった。…あぁ、また百均で買ってこなければ。

「ぐぬぅぅぅ…貴様、今日という今日は…!!」

「なにを根拠にそのように仰います。私は、もしや、と云ったはずですよ」

「丞相、もう張遼とか呼び出そう!俺も甘寧呼び出すわ」

「……やめておけ、あの召喚獣呼び出されて返り討ちだ」

張遼と甘寧を返り討ちとか…本当に、白頭巾の嫁が女な意味が分からない。端正は苦虫を噛潰したような顔でどっかと腰をおろした。

「なにか皆さんの気分を害することを云ってますか。申し訳ない。なにしろ何も知らない小童だったもので」

まだ云うか、こいつ。もう羽扇の影でめっちゃ笑ってるじゃねぇか。

「ただまぁ…貴方の後に仕えたのがあんなエッジの利いたオモシロ武将とか…なんでそこに全賭けしちゃうかなぁ…ってもう…」

羽扇の裏からくすくす笑う声が聞こえる。…猫ちぐらの様子が変だ。全体的にぷるぷる震えているし、忍び泣きだったのが普通に男泣きになっているし。豪勢がオロオロしながら猫ちぐらを伺う。

「お、おいもうやめろ」

何だかんだで面倒見いいよなこのひと。

「案の定、陳父子の裏切りで呂布軍の内情筒抜けになっちゃて、おまけに讒言食らって最終的には呂布程度の上司(笑)にシカト食らってるし、最後に律儀に一緒に斬られてやった意味が分かりませんねぇ」

「よせって、もうよせって!!」

「―――あの殉死、必要?」

「っ血も涙もないのか貴様は―――!!」

泣き声は嗚咽と化し、四畳半を満たした。やばいな、新聞の集金来るの今日だった気がするわ。

「な、なぁ、俺ちょっと宥めてくるわ」

何だかんだで面倒見のいい端正が腰を浮かす。

「おぉすまん…頼む。余が行くわけにもいかないからな…で貴様はもう黙れ」

「お断りします」

「黙らないの!?この空気で!?」

非道な割には意外と空気を読む豪勢が、白頭巾のあまりのアレさに後じさる。

「ところで…貴方は彼に、今一度自分に仕えないか、とチャンスを与えた。…敗軍の将は一族郎党皆殺しが基本だろうに、本人以外はお咎めなしって破格の待遇…ですねぇ」

「そ、それがどうしたもう黙れよ頼むから」

「貴方、未だに惜しい人材とか思っているみたいだからお伺いしますよ、乱世の奸雄。あの場を生き延びたとして」



―――彼、あの動乱の三国時代を乗り切れたと思います……?



ぴたり、と空気が凪いだ。



「後世の人々は色々美化しているようだが、我が主も、貴方がたも、聖人君主ではない」

「貴様もな」

「あの時代に必要だったのは高潔さなどではない…生きる意志。石に齧りついてでも、血だまりの泥水を啜ってでも生き抜く強固な意志です」

……あ、流した。

「キレイに生きることばかりに拘泥し、生き抜く意志を持たないものはそもそも乱世にしゃしゃり出るべきではなかった。山奥に草庵でも結んで詩でも吟じていれば良かったのです!!」

そう言い放ち、白頭巾が羽扇を振り下げる。意外にも、いくばくかの苛立ちを感じているようだ。

「そう、その猫ちぐらがお似合いだ!!」

自分で云ってから、白頭巾は何かに気が付いたように羽扇を取り落とし、がくりと膝をついた。

「し、しまった…猫ちぐらから追い出そうとしたのに『お似合い』などという結論に辿り着くとは!!」


あいつ…本当に猫ちぐら占領されたのが業腹だっただけなのか。猫か。


「お、おいやばい、そいつ今すぐ黙らせろ!なんかぷるぷる震え始めたぞ!!」

猫ちぐらの中から叫び声が聞こえてきた。ついさっき『彼』を宥めに行った端正の声だ。白頭巾は露骨に眉をしかめて羽扇を拾い上げて口元にあてる。

「なんと、吐くおつもりですか。人の縄張りで最悪ですなそのひと」

「うるせぇよ貴様のせいだろうが!…それより奴をあまり怒らせるな…」

豪勢が急にそわそわしだした。…気のせいだろうか、ダカッダカッと妙に重い蹄の音が聞こえる……

「おや、この音は…」

「皆散れ―――!!これもうやばい、奴だ、絶対に奴が来る!!」

端正が猫ちぐらから飛びだしてきた。

「確実にか!?」

「おう、俺は蜀軍と共闘した際に、この音を何度も聞いた!俺の耳に間違いはない、これは赤兎馬の蹄の音だ!!」

「はて、赤兎馬なら関羽殿では」

白頭巾がくい、と首をかしげる。豪勢が白頭巾の顔面をアイアンクローの要領でがっしと掴んだ。

「たわけが!!赤兎馬はな、余が呂布から召し上げ、関羽殿に贈ったのだ!…呂布は元々、騎馬を得意とする北方の一族の出身。何だかんだで赤兎馬を一番うまく乗りこなしたのは……赤兎馬が、死後も共に居ることを選んだのは」



―――呂布、だったのだ



ドガゴッと鈍い音が響き、押入れの襖から朱の槍が突き出した。槍はぐぐ…と横に動き、強引に襖をこじ開けた。ていうかもう、俺ここ出るとき敷金返してもらえない。

「うぅぅぅ陳宮うぅああぁあぁああ!!!!」

白頭巾の掌から、羽扇が再び、ぽろりと落ちた。そしてそのまま立ち尽くし、うわごとのように呟く。

「なんだ…この…魔獣は…」

蘇芳をかぶったように紅い、悪魔のような四肢の獣?馬か?そしてその魔獣にまたがる、偉丈夫…というにはあまりにも人外な、流木のような両腕に巨大な槍を携えた巨漢。人と馬、というよりも人馬、と称するのがふさわしい一対の『魔獣』。

「こ、これは…赤兎馬、なのか?」

自分が羽扇を落としたことすら忘れ果てたように、ただぼんやりと人馬を見上げる。

「…私が知っている赤兎馬はこんな馬ではない…確かに大きかったが、もっとこう、普通に馬だった…」

「関羽殿では引き出せなかったのだ、あの馬の本当の魔性は。…さて、死にたくなければ逃げろ!!」

豪勢が走り出すと、呂布はくい、と方向を変えて赤兎馬に拍車をかけた。馬は怒号のような嘶きと共に豪勢に迫る。

「きっ来た―――!!!」

猫ちぐらから転びでて来た端正を目端にとらえた刹那、呂布は猫ちぐらに激しく衝突した。横なぎに吹っ飛ぶ猫ちぐらと、細い悲鳴。そこで初めて白頭巾が我に返った。

「…は。彼は一体、なにをしに出てきたのでしょうね。最初は陳宮、とか叫んでいませんでしたか」

「…最初は陳宮を取り戻しに来たのだろうが、恐らくもうその辺は忘れている」

ひとまずターゲットから外れ、肩で息をしながら豪勢が呟く。

「奴の膂力は三国一だがな、行動指針とかもう軸ブレッブレの迷走戦車だからな?戦の最中、敵の兵士に『横にいるやつ、こっちのスパイだぞ!!』て叫ばれたら脊髄反射で仲間に斬りかかるとかそんなレベルだぞ!?」

「なにそれこわい」

横倒しになった猫ちぐらから、陳宮らしき青白い細面の男が這い出してきた。

「わ…我が主…?」

「陳宮うぅぅううううう!!!」

巨大な槍を腰溜めに構え、人馬は陳宮に迫る。うわ、とうとう俺の部屋が殺人現場に!!…と覚悟しかけた刹那、槍は陳宮の衿のあたりを引っ掛けて屹立した。槍の先っぽでぶらんぶらんしながら細い悲鳴をあげ続ける、陳宮。



――えーと、なんだこれ。これは、まるで……



「………ストラップかな?」

「………卿は初めてか。戦場の呂布を見るのは」

端正がそっと二人の後ろに立つ。奴め、うまいこと陳宮に注意をそらして逃げて来たな。

「呂布が自分のとこの軍師をピックアップする時は大抵、槍だ。ぶっちゃけ話、陳宮が呂布に重宝された理由の一つはこの、槍で拾いやすいところだぞ」

「は!?」

「奴にとって自分の軍師を取られるのは、頭をもぎ取られるようなものなのだ。何しろ呂布が自分で下した判断はもう…歴史的にも稀に見るほど裏目に出まくってるからな…」

だから敵の武将に取られないように、槍に引っ掛けるのだと。…と呟きながら、端正が眉間に指をあてて首を振る。度し難い馬鹿の話をするときの、お決まりの仕草だ。最近気がついた。端正は自分よりキレる奴も嫌いだが、それ以上に理解に苦しむレベルの馬鹿を、異常に嫌う。…ちなみに白頭巾は逆で、その馬鹿さ加減を憐れむ振りをして娯楽として楽しむタイプの下司野郎だ。



「敵は何処だあぁあああああ!!!」



人馬が吼えた。なにこれ怖い。馬と合わせるとちょっとした土佐犬くらいのサイズはある。闘犬常勝レベルのものすごい土佐犬が借家で暴れるという悪夢のような状況。

「や、も、戻りましょう、敵はいません、いませんから!」

ストラップが叫んだ。…いい奴だな陳宮。白頭巾くらいは槍の錆にしてやってもいいのに。しかし呂布は、くいと手綱を引き絞り、白頭巾に照準を合わせる。そして叫んだ。

「貴様だなぁあぁあああ!!悪い奴の匂いがプンプンするわあぁあああ!!!」



―――すげぇな野生の勘。



二人が白頭巾からパッと離れる。流石にかばう気はさらさらなさそうだ。…ま、この性根のねじ曲がった白頭巾のことだ。死ぬことはないと思うが…。『石に齧りついてでも生き抜く意志』とやらを見せてもらおうか。

「おあぁぁああああああ!!」

白頭巾が槍の間合いに入ったあたりで尻がぞわっとした。やばいぞこれ、白頭巾まじで死ぬぞ。お、俺なら大怪我くらいで済むよな…腰を浮かせかけた瞬間、白頭巾と目が合った。制された…気がした。

「―――今です!!!!」

この男から発されたとは思えない大音声が耳をつんざいた。同時に白頭巾の隣の畳がぶわりと浮き上がり、小山のような何者かがのそりと起き上がった。『それ』は疾風のように両者の間合いに入り込み、朱の槍をはっしと受け止めた。鋼がギャリリと嫌な音を立て、火花とともに金臭い煙が渦巻いた。煙の中心に見えたのは、異様な人馬と…偉丈夫…?いや『彼女』だ。いつ出るかと思ってたけど彼女だ。

「出たなバハムート!!!」

端正が叫んだ。最近ストレートに失礼だなこいつ。女性には紳士なんじゃなかったのかよ。

「なんと、呂布の槍を止めたぞ!相変わらず惚れ惚れするような豪傑っぷりだのう」

目をキラキラさせながら豪勢が呟いた。お前はお前で一国の丞相夫人をなんだと思っているのだ。

「ふふふ…人の妻に惚れ惚れなどと。悪い癖は治っていませんね」

「ぶっ殺すぞ」


……本当に失礼を隠さなくなったなこいつら。


異形の人馬は刹那槍を引いて間合いを開け、槍を腰だめに構え直した。

「呂布が…構えを変えた!」

豪勢の言葉が終わるや否や、呂布は激しい拍車と共に高速の突きを繰り出した。それらを全て剣で受け流し、もう地獄の獣みたいになっている赤兎馬を『彼女』は止めた。槍の先にぶら下がっていた陳宮は、さっきの突きで落ちていた。

「おあぁああぁぁあああああ!!!」

大家の自宅まで轟くような咆哮。その大音声は衝撃波となり、周りの全てをなぎ倒した。…うわぁ、呂布すげぇ。手に負えなさのレベルが段違いだ。その衝撃に気圧されるように、彼女が一歩後じさった刹那、人馬は殺到した。

「死ぃねえぇええぇえええ!!!!」

とうとう朱の槍が彼女を捉えた!…いや、槍を脇に挟んだのか!!

「……!!」

呂布が眦が裂けんばかりに目を見開いた。槍を脇に捉えた彼女は、槍に手を添えて大きく退き、呂布は朱槍に振り回されるままに、どうと横ざまに落馬した。

「夫人、呂布を落としたぞ!?」

「まじか、こんなの初めて見た!!」

奴らが感嘆のため息をついた瞬間、主を失った赤兎馬が豪放な蹄音と共に奴らに殺到した。うひぃとかおわぁとか言いながら逃げ散らかす端正と豪勢。ついでに赤兎馬に体当たり食らって吹っ飛ばされる陳宮。慣れているのか、受け身が超うまい。そして滅多くそに散らばって踏み散らかされる、わが社の重要書類。何だよこの蹄の跡。何に踏まれたって説明すればいいんだよ。…鹿?いやあれは偶蹄目だ。羊もヤギも…駄目だ。偶蹄目だ。



「…彼にとって幸いだったのです。『三国』が始まる前に、呂布と共に散ったことは」

――これは…誰に話しているのか?

「その身に余る期待をされ、重大な責任を負い、道を誤った者は…永い、永い辱めに」

羽扇が奴の横顔を隠した。

「永久に近い辱めに、遭い続けるのです。愚者の代名詞として、寓話として」

それは誰に向けた述懐なのか。何故か、ふいに、泣きながら愛弟子に剣を振り下ろす彼の姿が脳裏をよぎった。…永久の辱めとは、もしや…。白頭巾は羽扇をかざしながら続ける。

「治世の能臣…彼もそうでした。たった一度の失敗が許される、治世であれば」

何を思い出しているのか、羽扇に隠れた顔は見えない。だが、しかし。




述懐はいいから俺の四畳半で戟を交わしている呂布とお前の嫁をどうにかしてくれ。

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