第8話 猫飼ってますよね

「猫、飼ってますよね」

俺はおずおずと彼の四畳半の薄暗がりを覗き込んで云った。

「……いや?なんで?」

 彼…ここを借りている学生は、首を傾げてすっとぼけてみせる。しかし薄暗がりの奥には『猫ちぐら』が鎮座している。……ああ、嫌だ嫌だ、もう帰りたい。帰って寝たい。正直、まともに話し合う気がない違法住民なんてどうでもいい。どうせ解約する頃にはどこもかしこもボロッボロなんだからいいじゃないか猫くらい。

 そう云うと親父は怒る。前例を作れば住民が皆真似をする。その結果借家は荒れ放題、場合によっては敷金じゃとてもまかない切れないようなダメージまで蒙ることになるんだぞ。そして維持費が2倍にも3倍にもなる。損をするのは、ここを継ぐお前なんだ。今から悪質な違法住民と渡り合えるように心を鍛えておけ、と。



ああ嫌だ。こんなこと年がら年中やるような仕事、継ぎたくないよ。



「……その籠っぽいの、知ってますよ。猫の家でしょ」

「そ、そうなんだがその……」

男はおどおどと薄暗がりを振り返る。うーん、やっぱり何かいるな。…確かに面倒くさいけど、今後舐められて無茶をされ続ける面倒くささを考えると……。ならもう、何が何でも白黒つけてやる。

「ん?…でも猫の臭いって感じじゃないな、これ。なんていうか…」


気のせいだろうか、獣臭…というよりも、これはアレだぞ、沼の臭いに近い。


「……やっぱり?猫…じゃないよな、これ」

「え!?いや、あなたの猫ですよね、なに言ってんですか」

なんか変な薬でもやってんじゃなかろうな。嫌だぞ事故物件抱え込むのは。

「それなんだが、その」

男は、おどおどと振り返りながら、ぽつりぽつり語り始めた。



数日前、酔った勢いで『猫らしきモノ』を拾った。



段ボール箱(だったかどうかも怪しい)に入ったそれは、抱き上げるとぐんにゃりしてモフモフして、酔った人間の認識力では完全に『猫』だった。お前も一人か、とか呟きながら懐に入れると、喉を鳴らして擦り寄ってきた。

家に帰って古着で即席の寝床を作り、そいつを横たえて俺も寝た。



で、朝目が覚めて、これがどうやらただの猫じゃない…ていうか猫じゃないかも知れないことに気がついた。



「……あの、餌皿に入っている黒いのは」

「……焼き海苔」

「海苔っすか!?猫って海苔食べるんすか!?」

「海苔だけじゃない。黒いものなら何でも食べる。チョコとかも」

「色で!?」



なんか変なこと云い始めたぞこいつ!?



「ま、まぁそういう猫もいるんでしょうね…で、猫どこですか!?」

「それが…俺にもわからない」

「なんで!?」

「……隠れるんだ」

「猫、ですからね。狭いところも好きでしょう」

「いや、壁に張り付いて…保護色、になっていてな。ちょっと待ってろ、壁をさすっていればそのうち、もふっと」

男はやおら壁をさすり始めた。どこだー、もふもふ、どこだーとか呟き始めた。


……あかんやつや、これ完全にあかんやつや。


「あ、足跡発見」

男が小さく呟き、足元の目を落とした。

「……げ」

畳の上に、太さ20センチくらいの粘液の軌跡がぬらぬらと続いている。

「ちょっとやめて下さいよ!こんなん…敷金返りませんよ!?」

「しっ…あいつの足跡だ。近いぞ」

男が声を落とし、そっと身をかがめる。

「お前はこれ以上入ってくるな。…あいつは縄張り意識が強い」

「入ると…どうなるんですか…?」

「粘液まみれの触手を駆使して体中にからみつく。昨日呑みに来た友人が、被害に遭った」

なに?なに飼ってんのこいつ!?

「絡みつかれると、どうなるんですか!?」

「ああ、命に別状はないが…沼の臭いが取れないぞ」

「あんたはどうしてるんですか!?」

「あいつにとって俺は『ボス』らしい。ボスには触手は使わない」

やがて彼はそろりとキッチンスペースに滑り込むと、一抱え程あろうかという貝殻みたいなものを引っ張り出した。

「…やれやれ、眠っているらしい」

「ちょ…ほんと何なのそれ!?さっき毛皮がどうとか保護色とか云ってなかった!?」

「粘液でこしらえた殻に入り込んで眠るんだ。…いかん、殻があったかくなってきた!!おいお前」

「ふぁっ!?」

「起きるぞ、逃げろ!こいつの視界に入るな!!」

「は、はい!?」



俺は咄嗟に部屋から転び出て走り出した。



「…で、この部屋には未知の生き物がいる、と」

親父が、呆れたような口調で呟いた。

どうも俺の手に負える件じゃなさそうなので、一旦自宅に逃げ帰り親父に訴えた。親父は無言で立ち上がり、そのまま問題の部屋に取って返すことになった。

「な、なんか粘液とか貝殻とかつけた奴が」

一応もう一度訴える。親父は無言でずいとドアに寄り、そっと耳を近づけた。そして俺にちらりと目配せして、近くに来るように促す。

「なんだよ、嫌だよ」

「いいから来い。そして聞け」

嫌々ドアに耳を寄せると、さっきとは打って変わった猫撫で声が漏れ聞こえてきた。

「うっふっふっふ、ほーらミケさん、にゃーしてごらん、にゃー」

「にゃーん」

「うっふふふ、にゃーですか、ほーらごろごろごろー、もふもふー」



―――え?



「で、でもさっき粘液が!!」

「よく覚えておけ」

大きく息を吐きながら、親父がぼそりと呟いた。

「ろくに勉強しないくせに、こんなアホみたいなイタズラには知恵も手間隙も惜しまない不可解な生き物、それが『男子学生』だ。いいか、あいつらはナリはでかいが、中身は子供と大して変わらん。いちいち真に受けていたら大家業は勤まらないんだよ」

親父がバンとドアを開け放つと、うわ、なんすかなんすか!?みたいな声が聞こえてきて、親父の背中越しに、猫ちぐらに普通に逃げ込む三毛猫が見えた。

「あの野郎……」

俺はもう、怒鳴り込む気力も萎えて膝から崩れ落ちた。…決めた。俺、絶対ココ継がない。

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