核よりも熱く死ね

顎男

第1話 超人気アイドル霧島カノンさん、疲れる


 男の子と会っていたことが、牧野さんにバレた。それだけならよかったが、どこから情報がリークしたのか、それともたまたまだったのか、デートの一部始終を駆け出しyoutuberに撮影されていた。当然のように、デートが終わったその夜にはもう、現役世代ナンバーワンアイドル『霧島カノン』の甘くてくすぐったくて少し切ないキスシーンは100万PVを超えていたわけで、カノンのスマホには着拒しても突破してくるんじゃなかろうかと思えるほどの着信履歴が残されていた。そして親だろうと殺しかねない激怒から少しだけ我に返った牧野が、会社支給のスマホはマスター機からなら着信拒否も応答ボタンも無視して通話を開始できることに気づき(いったいだれが作ったんだ? こんな迷惑なもの)、部屋の隅で布団をかぶって震えているカノンに鉄サビじみた声が届く。

『いますぐ事務所に来い。ぶっ殺してやる』

 ぶっ殺されにいくんだと思って、渋谷の事務所に行った。


 ○


 アイドルは恋愛してはいけない。

 そんなことはわかっていた。

 理性ではいくらでも説明できる。男性たちの偶像であるアイドルはスターじゃない。商品だ。身体のボディラインから胸に秘めた想いまで、すべて需要者からの信頼を得るための要素でしかない。

 だからカノンは16歳の春、カノンを実の娘だということをよくわかっていない愛着障害の両親から逃げるために、アイドルになって東京へ行ける契約書にサインした。ニコニコ笑っている牧野が自分を匿ってくれる優しいお兄さんに見えた。

 確かにそれは間違っていない。牧野にとってみれば、カノンが事務所の約束を守って仕事に忠実であれば、いつまでもニコニコしてみせただろう。優しい言葉もかけ、気遣わしげな絵文字でデコったLINEをくれるだろう。それが社会というものだと、カノンは16歳の春の終わりに知った。そして自分が『恋をしない』という契約書にサインをして、それが冗談でも偽りでもなく、本気で交わされた契約なのだと骨身に染みて痛感させられた。

 仕事の合間にわずかにできたオフ日に登校して、たまたま帰り道が同じだった男子と(誓ってもいいが、恋愛感情なんて欠片もなかった。腕でも触られたら逃げ出す程度の関係だった)下校して二時間後、牧野から絵文字のないLINEと電話に出るようにとの要求が来た。いったいどこで誰が見ていて、それをわざわざカノンのマネージャーになど密告したというのだろう。

 カノンはその日、初めて知らない男に怒鳴られた。2時間も。3時間も。泣き声は泣き落としとして罵られた。なにもかもカノンが悪いということになった。それでもよかった。それは恋じゃなかったから。ただの誤解だったから。

 でも、実際のところ、ずっと恋せずにいられる女子高生なんているのだろうか?


 カノンにとって、学校は異世界だった。

 アイドルになって数ヶ月で、カノンは自分が学生だということを忘れた。人生のほとんどを学校に通って過ごしてきたはずだったのに、たった数ヶ月の仕事が、要求された業務をこなし、賃金として受け取るというやり取りが、カノンの中から『学生』の自分を消し去った。

 学校に来て、勉強して、給食をみんなで食べ、部活や塾に追われる放課後を過ごす。そんな普通の高校生の暮らしがカノンには色鮮やかな名前も知らない鳥の羽のように見えた。しげしげと眺めてはひっくり返す。そしてゆっくり考える間もなく、アイドルとしての自分に腕を引っ張られて外へと連れ去られる。だから余計に、普通の男子高校生に興味津々にならざるを得なかった。仕事で会うトップ事務所の男性アイドルは、自分と同じ誰かに丁寧に彫刻された模造品でしかなかった。そんなもの、どうでもよかった。仕事で向けられるカメラと同じだ。誰もがカノンをジャッジした。カノンが『どう』か見定めていた。気が休まる時などない。水着でアイドルだらけのビーチバレーに興じても、グルメ番組で外国の貴重な珍味を食べさせられても、それは『霧島カノン』の経験であって、カノンにはどんな感想も浮かばなかった。日記でもつけていればこう付けただろう。『仕事だった』と。毎日。毎日。毎日。

 だから、クラスメイトに恋をした。ちょっとぼうっとしている、それでも顔と身長は少し吟味させてもらった、クラスでも地味で大人しい方の男の子。ちょっとオタクっぽいところが、狙い目に思えた。アイドルの自分が近づけば、落ちないはずはないとどこかですでに『霧島カノン』を武器にしている自分がいた。だから近づいた。その頃には見つけていた小遣い稼ぎに牧野から監視を命じられていたクラスメイトには牧野が与えている金の5倍を握らせた。わたしはいつの間にこんな悪どい女に、とさすがにちょっと思ったが、恋路のためにはやむを得ない。牧野さんには額を叩いて「やられた!」と思ってもらおう。マネージャーとスーパーアイドルでは、お給料のケタが違うのだ。

 スマホは信用できなかったから、コンタクトはメモ書きだった。すれ違う時にぶつかりかけたふりをしてそっと手渡す。さすがに校舎に監視カメラはないから、空き教室や階段裏でこっそり会った。誰かに見つかると大変だから時間を決めて。厳密に。一分一秒を惜しんでカノンはその彼と語り合った。自分のすべてを知って欲しかった。好きな食べ物、育った環境、そしてなぜか相手も読んでいたあやしくて安っぽいサブカル本まで――だから、

「ねぇ、あのさ、こんなヘンな趣味まで合っちゃって、どうしようね、もうこれ、大変だよ。もう天変地異だよ!」

 そんな雑でヘンテコなセリフが、カノンにとっての人生最初の告白だった。そして、待って欲しい、と言われた。いつまででも待ちたかった。でも我慢なんて家に帰るまでで限界だった。玄関に入って、荷物を置いたら現場へ直行しなければいけないのに、カノンはずるずるとその場に座り込んで泣いた。アイドルなんてやめて、どこにでもいる女の子になりたい――けれどそれは無理だった。家族の元へは戻れない。お金がなければ、最後に頼れるのはどんなに憎んでいても家族しかいない。それに、アイドルの仕事を好きになりつつある自分もいた。どんなに現場が虚ろでも、ファンレターや応援してくれるブログを見ると元気が湧いた。

 ここに自分がいてもいいんだ、と実感できた。それは親から愛されなかったカノンにとって、なによりも、誰よりも大切なことだった。




「よくもやってくれたよな」

 プロデューサーというのがどういう仕事をする人なのかわからない。

 カノンはいつもプロデュースされる側で、現場で指示されたことをやるだけ。右を向けと言われたら右へ。笑えと言われれば笑って。それでお金になった。みんなが喜んでくれた。ほかにしたいこともなかった。だから笑った。そして今、冷えたような痛みを感じる頬を無理やり歪ませて愛想笑いを浮かべたつもりだったが、河野さんは少しもニコリとしてくれなかった。もう何ヶ月も水一滴飲んでいないような血走った目つきで、がさがさに乾燥した月面のクレーターみたいな頬の向こうで噛み締められた奥歯がうっすら見えるような気がした。

「おまえは自分が何したか、わかってんのか? え? いい気持ちだったか、楽しかったか。くだらねぇアホガキとお手々繋いでよ、それが一体いくらになんだよ? いくらもらったんだ? なあ。答えろよ。おい!」

 河野さんが事務テーブルに拳を振り下ろすと、マグニチュード8.5くらいの衝撃が事務所に緊張感として迸った。カノンは被告人として来客用のソファに座らせられ、そして周囲にはカノンの所属する芸能プロダクションで活躍する一流の人たちが固めていた。みんな昨日まではカノンに優しくしてくれた人たちだった。カノンが商品としての自分を弁えない態度を見せたと判断した時にだけ瞳によぎる昆虫じみた黒い光を見なかったことにすれば、みんないい人たちだった。

 さっきまでは。

「おまえには期待してた――なあ、わかるか? 俺は期待してたんだ。おまえならスッゲェ儲かるアイドルが造れるって」

 河野さんはカノンの肩を掴んでガタガタと揺すった。壊れたテレビが映るようにならないか試しているかのように。

「この世界には虫ケラがたくさんいる。金にならない、なんの才能も持っていない、憧れることしかできないゴミども。俺たちはそんな哀れなやつらに夢を見せてやる。もしかしたら自分のものになるかもしれない、もしかしたら処女かもしれない、もしかしたら、本当に彼氏なんていないかもしれない――わかるか? おまえはゲームセンターの筐体の中に仕込まれた、絶対に取れない『景品』なんだよ。それが中古品だなんてわかったら、今まで金注ぎ込んできたやつらはどうなる? え? かわいそうだと思わないのか? おまえはそんなファンの気持ちを踏みにじったんだ。この生まれぞこないの穀潰しが――」

「いっそ死んでくれた方が、悲劇のアイドルとして売れ込めたんすけどねぇ」サポートチーフの西岡が自慢のよれた前髪をいじりながら言った。

「よりにもよって、デートシーンをパクられるなんて――まだ週刊誌の方がよかったッスよ、べつのネタ渡せば黙るんだから。よりにもよって」西岡は繰り返した。ため息をつき、「――素人なんかにねぇ」

「尾行ぐらい気づけよ、このクソアマ!」吠えた牧野が傍にあった小型冷蔵庫をぶん殴って倒した。それだけでは飽き足らないらしく、立ち上がって何度も冷蔵庫を踏みつける。西岡が「ちょっとやめてくださいよ、俺のコーラが」と虚しく抗議したが、牧野の心にはもう何も届かない。

 カノンは思う。生まれぞこないの穀潰し。確かにそうだ。カノンは両親から愛されなかった。だからアイドルになった。契約をして、恋愛から除外された。カノンは約束を破ったのだ。東京にいたいなら、アイドルでいたいなら、自分の居場所が欲しいなら――恋をしてはいけなかった。そういう契約、約束はいつだって破った方が悪く、そして被害者には絶対的な報復の権利が与えられる。だから、ここにいる全員、どこか満たされたものを感じているようだった。河野ですら、殺意満面の表情の中でわずかに口元の微笑を隠せていない。彼らは嬉しいのだ。他人を公然と責め立てられるのが。何人もで抱え上げて磔にするのが。石をぶつけるのが。血を見るのが。それを言葉で心ゆくまでやっているのだ。カノンの父親のように。カノンの母親のように。カノンを見捨てたすべての人達と同じように。それが当然の権利――約束を破られたのだから。

 だから今さら、真実を話したって仕方がない――あのキスのあとに自分が好きな人になんて言われたのか。たっぷりと、幸せを噛み締めた優しい感触が終わって、期待と共に彼を見上げたカノンを待っていたのは、ずっと待っていた返事だった。


「ごめん、やっぱりなんか違う」


 なんか違う――なんかって? 具体的にそこが『どう』なのか教えてほしかったし、そもそも違うと思っているならキスをする前に言え――そう閃光のように反論が脳裏を迸った瞬間、一万年の恋も冷めた。

 ああそう、とカノンは笑った。じゃあ、さよならだね。

 彼はどこか不満そうに、悪いのはカノンだとばかりに、自分の理想を完璧に演じ切れなかった方にどう頑張ってもせいぜい9対1の割合で清廉潔白はありえないと言いたげに、子供じみた表情を向けてきた。好きにすればいい。結局おまえも『霧島カノン』にありもしない願望を重ねていたバカ野郎の一人だったということだ――その時、カノンは芝居だったら監督から帽子を落とすほどの冷たい酷薄な笑みを浮かべてみせた。もしあのyoutuberがそのシーンまでアップロードしていたら、その表情だけで視聴者は事の顛末に気づいただろう。バッシングは避けられないが、男たちの溜飲は下がる――バカな女、でも、俺が許してやる――この世界に自分と同じことを考えるやつなんていないかのように。

 だが結局、あの動画屋はそこをカットした。絶対に撮影していたはずなのにカットした。ただ『霧島カノン』の衝撃的な生デート映像として、彼は(あるいは彼女は)それをサーバーにアップロードし、そして再生数に応じた莫大な広告費を得た。その金で新しいハイスペックPCを買うのだろうし、防音壁のあるマンションに引っ越すのだろうし、ノイズキャンセリングマイクから録音した声で、高解像度カメラから撮影した新しい動画を提供するのだろう。カノンが失った人生を、彼は金として受け取った。そうだ、と思った。動画投稿サイトだから違和感があって思い浮かべなかったが、これは『スクープ』というやつなのだ。カノンは『スクープ』になった。そして今、事務所の中で八つ裂きにされている。

 地獄は8時間続いた。時刻はもう朝の4時だった。ふと河野が時計を見上げて「あ、やべっ、仕事だ」と普段通りの声音で言った瞬間、まるで魔法が解けたかのように事務所から怨嗟の気配が雲散霧消した。じゃあそろそろいきますか、と西岡が何もなかったかのようにあくびをして出ていき、専属メイクの大川さんは鏡で自分の顔を確かめるとそのまま次のモデルのために去っていった。河野はプロデューサーテーブルに企画書を広げウンウン唸り始め、そしてカノンは最後に突き飛ばされた姿勢のまま床に転がっていた。腕時計を見ながら事務所を出ていこうとした牧野が立ち上がりかけていたカノンの髪を踏み、「あ、悪い」と言った。いいですよ、と微笑むカノンに、思い出したように牧野が振り返った。

「てめぇ、もう一度やったら殺すからな」

 いま殺して欲しかった。

 よろよろと立ち上がり、失礼します、と律儀に頭を下げて、カノンは事務所を出た。廊下は寒かった。誰かにもたれかかりたいのに、廊下には誰もいなかった。やっとの思いで給湯室まで辿り着いた。今になって涙が止まらなかった。アイドルとしてのプライドがまだ残っていたのかもしれない。素人の前で本当の涙なんか見せてたまるか。

 なんてね。

 これからの自分のことを考えて、もしかしたら親のところに帰されるかもしれない、クビかもしれないと思うと骨の髄から震え上がって、それを消すために熱い缶コーヒーを買って飲んだ。5分間だけ休もう、とベンチに座った。

 カノンはそこで、悪魔と出会った。

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