PART 9 - 対峙

 密生した樹々の間を摺り抜けるヴァグランの足取りは、しかし平地を疾走する速度にたがわないものである。

 ヴァグランの蒼白く光る眼に映っているのは、極彩色の光の奔流とでも言うべきものだった。

 立ち並ぶ樹木の魔力、身を潜める獣たちの魔力、さらには一面に蠢く小さなたちの魔力。そのすべてが精妙な斑模様となってヴァグランの視覚に入力される。

 この世は魔力に満ちている。

 その流れを視る眼なのである。

 しかし、視え過ぎることは何も視えないことにも等しい。

 施術を受けた者たちはことごとく精神に変調を来した。暴力的な色彩の氾濫に脳が酔うのである。

 辛うじて適応したヴァグランにせよ、平時は魔力を遮断する特殊な眼帯で視界を制限しなければならない所以ゆえんである。

 いまや解放されたその視野の中に浮かび上がる――常人には見分けられない微細な色差――微かな染みのような痕跡を、ヴァグランは確かに辿っていた。


 一切の迷いのない足跡。

 山道を歩き慣れているといった次元ではない。

 ヴァグランのように駆けているわけではないようだが、木々の間を一定の淡々とした足取りで縫っている。

 感情というものの抜け落ちた痕跡だった。

 機械仕掛じみて淡々とした運動の跡。

 そこには追われる焦りのようなものなど微塵もなく、ただの一度、振り返ることすらない。

 ――死人。

 自らが評した言葉を思い出し、ヴァグランは不意に身を震わせる。

 こいつは人をひとり殺した後、たかぶりひとつ無く足を運ぶことができるのだ。まさに死人が這い出てきた墓穴にまた戻っていくかのように。

 そして、ヴァグランはついに発見する。

 前方に五十歩、一呼吸で駆けれる距離。

 足跡の主そのものの魔力の影が、靄のようにヴァグランの視界に蠢いた。

 足を止める。

 こちらはまだ気づかれていないはずである。

 影はやはり精神の揺らぎを感じさせない恬淡とした歩調で、ゆっくりと遠ざかろうとしていく。

 一撃で仕留める。

 身に着けた革帯に連ねた小型の鞄のひとつの留め金を開き、中からじゃらりと一掴み得物を取り出す。

 ひとつひとつは小指の先ほどの大きさ。微妙な紡錘形に成型された金属片。

 ヴァグランがもっとも得手とするのが、指弾の手技である。

 心許なく見えるかも知れぬが、この小さな弾頭に猪の眉間を撃ち抜く威力を乗せる心得が、ヴァグランにはある。狙いもこの距離ならば必中。

 手中の重みを確かめると、ヴァグランは素早く手近な幹に攀じ登った。

 念には念を入れる。頭上からの狙撃。

 さらに一手。

 ヴァグランの右の手指が滑らかに連動し、鋼片を弾く。ほぼ同時に二射。それも微妙に弾道を違えて放つ。

 視界に鮮烈な緑の光が瞬く。

 第一射の弾道を精確に遮り、樹間に正三角の魔力障壁が展開。

 着弾。粉々に砕け散る緑玉色の欠片が色彩の渦に溶けてゆく。

「チィッ」

 鋭く舌を打つ。

 気づかれていた。

 しかも、歩調をまったく変えることなく逃走を続けながら、弾道まで読み切り、結界の発動体を敷設されていた。そのことに、やはり対手の人間離れした手際と胆力を思い知らされる。

 だが、そこまでは想定内である。

 いまの舌打ちは痛惜の念の発露ではない。

 訓練された術師は、単純な発声を魔術の媒体とすることができる。

 直撃の軌道から逸れた二射目。

 その鋼弾――ヴァグランの魔力を濃く帯びた鋼弾――とヴァグラン自身を、視えない弱い力が結ぶ。

 ヴァグランのくする術は、自らの魔力を帯びさせた物体と自身との間に、“引力”を発生させるものである。

 その力はごく弱いが、小さな物体の――それこそ弾丸の――軌跡を微妙に操るには十分。想いどおりの弾道を描く鍛錬も積んである。

 引き合う星の“引力”になぞらえ、“微かな星”と号する。

「喰らいな」

 理外の運動をした第二射が、振り向きかけた影の頭部に着弾。

 花開くような緑の光が瞬く。

 おそらくは、咄嗟に発動させた球面結界。

 だが、三点の発動体で支持する障壁に比べ、ひとつの発動体を中心に球状に発生させる結界は強度に劣る。

 とおった。

 ヴァグランは手応えを感じる。

 影がぐらりと傾ぐ。

「あ」

 しかし、踏み止まる。

「あ、あ、あ、あ……!!」

 いつしか、亡者の響かせる怨嗟の呻きが周囲を圧していた。

「マジかよ……」

 単層の球面結界であれば、ヴァグランの曲射はそれを易々と突き破り、男の頭蓋を砕いていたに違いない。

 しかし、瞬時に展開された幾重もの薄く脆い結界の層が、ぎりぎりのところで鋼弾の殺傷力を削ぎ切っていた。

 その数、十層、いや、二十層で利くだろうか。

 同種の魔術とはいえ、馬鹿げたまでの量の多重複式起動。

 凡そ、人間に可能と考えられているものではない。

 粉砕した魔力障壁の欠片が折り重なりながら、着弾点から捲れ上がり、さながらヴァグランの視界には大輪の緑の薔薇が咲いたように映っていた。

 それが身を起こす影の頭部から、一片ひとひら、また一片と散り、色彩の渦に溶けていく。

 不覚にも、それを美しい、と感じる。

「死人がうろつきまわってるんじゃあねえッ!!」

 半狂乱になりながら放った連弾が、ヴァグランの視界にまた輝く花を咲かせる。

 全身を覆う多重積層結界。

 ヴァグランの眼には、もはや影はぎらぎらと緑玉色に輝く人型に視える。

「あ、あ、あ……!!」

 そして、影が無造作に腕を振るう。

 ――なにか来る。

 ヴァグランが咄嗟に樹上から飛び降りたのは、直感でしかなかった。

 次の瞬間、視界に緑の光が瞬く。

 つい一瞬前までヴァグランのくびのあった空間を上下に隔てて、三角形の結界が展開。巻き込まれた枝々が音もなく落ちる。

 対手の男がやったのは、ツィオル・ロジスカルの命を奪った仕掛けの縮小版である。

 投擲した緑玉の粒の間に、結界を張る。それにより境界面にある物体を切断する。言葉にすれば単純だが、目の当たりにするとふざけた悪夢じみた技である。

「くそォッ!!」

 辛くも着地し、跳び退りながら放った苦し紛れの指弾は、当然のごとく結界の鎧に弾かれる。

「あ、あ、あ、あ……!!」

 そして、再び影が大きく腕を振るう。

 ――また同じ攻撃が来る。しかし、緑玉の微細な魔力は周囲の色彩に溶け込み、ヴァグランの眼ですら見分けることができない。

 咄嗟の回避は仕事人としての勘が為したものでしかなかった。

 跳び退いた空間で、いくつもの球状の光が瞬く。その跡で、匙で抉ったかのように木々が断ち切られていく。

 ――球状結界ですら物体の切断に足る強度が持たせられるのか。ヴァグランは戦慄しつつ、あまりのでたらめさにもはや笑うしかない心持ちである。

 ――旦那が心配したとおりだぜ――足止めにもなりやしない。内心自嘲し、切り替える。ここは逃げるしかない。

「え」

 だが、踏みしめたはずの足場が、ずるりと滑った。

 見下ろすと、輝く緑色の面。それが木々の間を渡り、ヴァグランの左脚を巻き込んでいる。

 為すすべなくへたり込むと、思い出したように鮮血がしぶいた。

「あちゃあ……」

 対手は逃走しながら結界の発動体を仕込んでいたのだ。こうした罠をいくつも仕掛けていくのも、簡単なことだったのだろう。

 あまりの鋭さに、傷の痛みすら感じない。

 ただ、冗談のように流れ出る自身の血潮を眺めながら、ヴァグランはぽつりと呟く。

「まいったね、こりゃあ」

 最後に視えたのは、緑玉色の輝く影が、大きく振りかぶる姿だった。

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