ローゼンヘン館 共和国協定千四百三十七年大寒
一年のうちで一番寒い道中雪深いだろう時期にリザがやってきたのは正直驚いた。
手紙によれば休暇も怪しいということだったはずだからなおのことである。
ともかく歓迎をすると同行者がいた。
女ばかりの四人旅であった。
全員軍服を着ており軍人であるらしい。
「ようこそ、お帰りなさい。随分と同行者が多いな」
リザの外套の背中は小さく膨れていた。
「いいでしょう。大きな屋敷なんだし。それに人も増えた気配がするわ」
敷地の端々には一昨年にはなかった建物が増えているのは間違いない。
同行者が多い、とマジンは軽く云ったが、軍都からひとつきふたつきも冬の山道荒れ野を渡って歩きぬくとすれば、街道沿いで折々に同道者がいる町を辿ってであっても容易いことではない。
「冬の間、臨時雇いを頼んでいる。あといくらか増えた。……女ばかりで四人旅か。まぁ無事で何よりだ。心配する間もなくついたわけだが」
話している内に自分の迂闊に気付きマジンの言葉の険は緩む。
「五人旅よ。みんなあなたの愛人。喜びなさい」
リザの言葉は説明が足りない。
「意味がわからんが、無事でよかった」
マジンが手綱を預かった馬から飛び降りるリザをそのまま抱きしめて唇を奪う。
唇を離すとリザは不意をつくように平手をマジンに見舞った。
リザの唸る平手を腰を戻しながらマジンが躱すのを、リザは歯を剥いて笑った。
「やっぱり背が伸びたわね。わたしがつま先立ちしないと届かないのに腰をかがめてるとか生意気」
「二年ぶりだからな」
マジンがそう言って改めて接吻をする。今度は容赦なくリザが鼻で喘ぐように息をするまでたっぷりと続いた。
「お熱いわね」
左目に眼帯をした女性が傍らに立っていた。
厚手の長靴を履いた目元は部屋履きのマジンと並ぶ。
「ようこそ、我が家へ」
そう言ったマジンを女は抱きしめ、そのまま唇を重ね接吻をした。
情熱的に貪るそれはリザと最初に交わした挨拶のそれや溶け合うような二度目というよりは、組手に近い。
しばらく付き合いやがて離れる。
「ああ、情熱的なご挨拶をどうも。騎兵……大尉殿」
マジンは困惑して襟章に目をやり言った。
「セラム。早い。ってかガッツキ過ぎ」
リザが睨むように言った。
「ごめん。ごめん。なんか羨ましくなった。ってか、味見したくなった。でも美味しいキスだった」
玄関先の騒ぎに中からアウルムが現れた。
「――あの娘かぁ。ホントだ。かわいい。それに綺麗な色の髪と耳だ」
セラムと呼ばれた女が嬉しそうな声を出す。
「アウルム。すまんが、お客様の馬を馬舎に引っ張るの手伝ってくれ。……リザ。ここはまぁ君の屋敷みたいなものでもある。客間を好きに使っていいからちょっと待っていてくれ」
「なに言ってるの。私達兵隊さんよ。自分のことは自分でするわ。ただ、お気遣いありがとう」
そう言ってリザはマジンの頬にくちづけをした。
「――バールマン少尉。レンゾ少尉。こちらのお嬢様に従い、私達四名の当座の荷物を館に入れさせていただきなさい。私とマークス大尉殿はご主人と共に馬舎に馬を休ませてから合流する」
リザは一際高い声でそう言った。
「こちらのお嬢様に従い、荷物を搬入後、待機いたします」
「こちらのご家族を凍えさせるつもりか、急げ」
馬の脇に待機していたふたりから声が上がり、リザが叱咤するように言うと、ふたりはセラムとリザの馬から行嚢を下ろし始めた。
二人の作業が終わるのを待って、マジンは二人の少尉の馬を牽いて馬舎に先導した。
「休暇なのかと思ったら任務なのか。あの二人の扱いを見ていると」
雪がなく暖かなところで野営具をおろし、馬具を緩めながらマジンはリザに尋ねた。
「休暇よ。ただまぁなんというか、軍学校の後輩で部下だから、なんていうかあんな感じの関係が焦げ付いているっていうか」
「マークス大尉殿もそういう関係なのか」
手際よく馬具を外し馬を磨いている騎兵大尉に目をやり尋ねた。
「彼女は軍学校の同期生。彼女の休暇に私の休暇が重なったから気晴らしに誘ったの。あ、それ洗ってないオムツだから気をつけて」
「すると、背中のそれが、ボクの娘か」
外套のコブにマジンは目をやる。
「そ、あなたの愛人」
「名前は」
「エリス」
「ここは外よりだいぶマシだがまだ寒いな。後ほどゆっくりお目にかかろう」
そうこうしているとマキンズが表から駆けてきた。
「や、遅くなりました。と、リザさん、お久しぶりす」
「ごきげんよう。マキンズ」
リザはマキンズを覚えていた。
「マキンズ。すまないが、お客様の馬に飼葉と寝藁を当ててくれ。様子を見て余裕が有るようなら蹄鉄も。アレだったら、明日でもいい」
「わかりました。でもま、この雪ですからね。蹄の世話くらいまではしてやりますよ」
三人は馬舎に近い戸口から館の中に入ると居間に向かった。
「馬舎もだったが、ここは廊下も温かいな」
幾度かの改装でローゼンヘン館の多くには放射式の冷暖房が敷かれていた。
「この人の贅沢趣味のせいよ」
セラムの言葉に茶化すようにリザが応えた。
「知らない人が聞いたら、本気にする。やめてくれ」
「贅沢趣味以外のなんだってのよ」
マジンが窘めるのにリザはくちごたえをした。
応接間の中は廊下よりは更に暖かく外套を着こむのはちょっとためらわれる室温だった。
二人の少尉は外套を腕にかけたまま窓の外を眺め立って待っていた。
マジンはまずリザの、ついでセラムの外套を脱がせて外套掛けに肩を広げかけ預かる。
机の上に積まれたリンゴに手を付けた様子もない。
「おまちどうさまでした。皆さん。席にお掛けおくつろぎください。遠路はるばるようこそおいでくださいました」
離れてゆこうとするリザを手で引き止め傍らの椅子に座らせ、自分も腰を下ろす。
「私が当館の主人、ゲリエ・マキシマジンです。皆さんがどう聞いているかはわかりませんが、私は自分では彼女の婚約者のつもりでおります。そういうわけですので、皆さんともどうか友人づきあいをさせていただければ、と思っております」
「私の向かいに座っているのが、リョウ・バールマン。席でもわかるように無意識にいいところを取るのが得意技。その隣の栗毛の巻き毛の娘はファラリエラ・レンゾ。見かけどおりフンワリしているけど、中に針みたいな鋭いところがあるから油断すると刺されるわよ。私の隣りに座っている隻眼の麗人はセラム・マークス。軍学校時代は私よりも決闘巧者だった蟷螂の女王。前に見せた髪飾りをくれたヒト。気晴らしに遠乗りしたいって言うから軽く五百リーグも駆けてきました。向かいのふたりは前に約束してたからまとめて連れてきたの。で、背中のこの子はエリス・シア・ゴルデベルグ。可愛いでしょ」
リザの軽い説明に違和感を感じた。
「五百リーグってどういうことだ。軍都までそんなにあったか」
「軍都までだと三百リーグと少しかな。冬場は道が入り組んでいるから、まぁちょっと伸びるけど、五百にはならないわね」
「どこにいたのか、怒らないからいってごらん」
「ギゼンヌ」
マジンの唇が少し尖った。
「ま、そういうことなら、退屈な土地かとは思いますが、居られるだけごゆっくりしていってください」
マジンは来客に向け労うように言った。
「私はひとつきで一回軍都に戻らないとならないの。で、一緒にあなたにも来てほしい」
リザがマジンの手に手を重ねてねだるように揺すり言った。
「ボク、忙しいんだぜ」
手を払い除けて来客向けでない声で言ったマジンにリザは眉を跳ねて、ニヤリと笑った。
「知っているわ。蒸気圧機関とか冷凍機関とか機関車とかそんな話でしょ。それに屋敷にも見覚えもない建物が増えていたり綺麗な道ができていたわ。大きな船もいたわね」
「一周してたか」
ヴィンゼから館まで馬での道はどうやって来ても一晩夜明かしをする。館を目の前にたっぷり半日は巡ったのだろう。二人の少尉が奇妙に緊張した様子であった理由も察しがつく。
「乗り込もうってんだから状況の視察は士官の嗜みよ」
「それでなんだ。手勢四人でボクをどうにかしようってのか」
「彼女らは手勢じゃないわよ。どっちかといえば人質。でも、まぁ休暇だってのもホント」
「ボクが軍都に行くってなら、三人がここに残っても人質としての意味が無いだろ」
「まぁね。でも長くなるかもしれない」
「で、ボクを軍都に連れて行ってどうしようって腹だ」
「いろいろ売って欲しいものがある」
「船と車か」
「あと銃も」
そう言ってリザは自分の腰から拳銃を抜いて弾倉を抜き、遊底を引いて跳ねた弾を手に受ける。
その動きはこのしばらくですっかりこの銃に慣れた動きだった。
「勘違いをしていたら済まないが、ボクの作ったものはどれも魔法の品物じゃないし、ボクのオモチャでしかないよ」
「そんなの知っているわ。でもこの拳銃には助けられたわよ。ともかくまっすぐ弾が飛ぶだけ、だけど、そんな当たり前のことができない銃が多すぎる」
リザの様子は真剣だったが、マジンの言っていることが伝わっているとは思えない。
「冷凍機関はどうやったってリザール湿地を人が踏み渡れるような厚みに凍らせることは出来ないぞ」
「そんなのわかっているわよ。炉の炎は炉の壁があってのもので壁がなくなれば散らばり薄まるってことでしょ。欲しいものは魔法の杖じゃないわ。兵隊が使えるものが欲しいの――」
リザの言いたいことは雑だが間違ってはいない。
「――あなたの作った機関車。あれを千両ほしい」
「あのなぁ。ようやく三十両納車したばかりだぞ」
「知ってる。買わせたの私だもの。試乗もした」
リザの言うことは説明が足りない。
「お前がこの家を出てってからの経緯を説明してくれ」
「まず、ヴィンゼで絡んできたお尋ね者とケンカをしましたぁ。賞金首と決闘騒ぎになり、一人殺して一緒にいた三人をその場で徴発して部下として軍都まで連れて行きましたぁ」
リザが立ち上がり上を向き大口を上げ声を張り上げ始めると、それまで背中でおとなしくしていたエリスがぐずり始めた。
「おい。いちいち大声で語尾を伸ばすのをやめろ。普通に話せ」
マジンがそう云って袖を引くとリザは素直に椅子に腰を戻した。
「猟兵中尉として着任した私はまず軍令本部主計課で資材調達の実務担当になったの。で、妊娠していることが判明して、そこで一年過ごしたわ。で子供がエリスが生まれて今度は主計課はそのままに、ギゼンヌ軍団の主計監査官になったの。前線陣地での要求と幕僚参謀の見積りを後方に持ち帰る仕事なんだけど、つまりは運動不足の本部参謀に乗馬をさせようって腹の仕事ね。ともかくそういうわけでえっちらおっちらリザール湿地帯の陣地やら田園風景を見て歩いて本部に報告する任務」
マジンは眉を顰めた。
「正規軍なのに猟兵なのか。猟兵つうたら軍が雇う傭兵みたいな連中だろ」
「気にしないで。三兵以外の兵科をまとめて猟兵って言ってるだけだから。会計とか庶務とか雑用とか色々やるの。――」
リザは言葉が途切れたついでに茶を注いで、一口湿らせた。
「――で、その中でリザール湿地の陣地網で塹壕に貯まる水の汲み上げに使っているストーン商会の蒸気圧機関を見かけたの。ま、そっちはあまり良い出来じゃなかったけど、とりあえず水を汲み出せているってのは間違いなくて、それなりに使えていて要求もいくらかあった。軍都に戻ってそういう報告をしていると、ストーン商会から軽機関車というものの売り込みがあった。で、話を聞いてみると蒸気圧機関とは別の職人が作っている。とか、更に掘っていくとあなたの名前が出てきた。そういうわけでとりあえず二両手に入ったというものを去年の春の終わりごろ受け取って、軍都から試乗がてらギゼンヌからリザール前面まで足を伸ばし、ギゼンヌに戻る途中で戦端が開かれた。しばらくギゼンヌで一緒に包囲されていたんだけど、突破されていた前線の予備が立て直すにつれてギゼンヌまで突出していた帝国軍は一旦包囲を解き、戦線を無視した形で浸透した一部を除いて、改めて睨み合っている感じ。こっちは後備で向こうはそのつもりの戦闘部隊だから帝国がやや優勢だけど、地の利でヨンロクで不利なまま支えているって感じ。もともと前線に配備されていた帝国軍の戦闘部隊だけじゃギゼンヌ周辺を占領運営できないはずだから後続が来るはずだけど、わたしがギゼンヌを出た時にはまだそういう感じではなかった。
セラムはリザール湿地の陣地網が破砕されたとき予備陣地にいたんだけど、土石流で塹壕ごと半日ぐらい生き埋めになって、馬の体が盾になって九死に一生を得た死に損ない。片目失ったのはその時で暗いところや夜はちょっとかわいい反応をするわ。
ファラとリョウは軍学校の後輩で新品の歩兵少尉として陣地の聯隊に配属されるはずだったんだけど、聯隊がまるごと壊滅して行先不明になったところでギゼンヌが包囲され、臨時編成された私の配下中隊で連絡と偵察をさせていた。ふたりとも現場の下士官たちには評判が良かったけど、卒業休暇を取っていないって言うから解囲されたら、私の本部帰還に付き合って休暇を取りなさいって話で四ヶ月包囲戦を耐えた戦友。
そういうわけでこの三人は年明けるまで休暇が与えられているの。
私は戦況報告で軍都に戻ったら、任務中行方不明扱いで配置がなくなってたからしばらく休みになっているけど、初夏にはたぶん配属が決まる。現場では中尉だったけど、休暇の申請の返事は大尉だったからなんか混乱しているみたい。でもま、給与も大尉で支払われてたからそのうち大尉の襟章が来るんでしょうね。
だけどその前に、ワージン将軍に機関車の報告をしないといけない。その場にあなたを連れてゆきたい。あともうひとつアルジェンとアウルムを軍学校に受験させたい。そういうわけで機関車で軍都にゆきたい。どうやっても馬じゃ間に合わないわ」
「おい。そりゃ、ボクに対する人質がほしいってことか」
マジンは腰を起こし立ち上がり机の上の果物皿から林檎をつかみとる。
手の中の林檎を果物の脇に添えてあったナプキンで磨き、皮を剥き割り、軸を取る。
その間、誰も無言だった。
「どうぞ」
そう言って手の中の剥き割った林檎を客の女性に順番に配る。
最後にリザに渡した。
マジンはナイフの刃をつまんだまま、揺らす。
「最後のは、ボクに言う話じゃないな。お前があいつらを兵隊にしたいってなら、そりゃアイツラを大人だって見ているってことだ。軍学校のことはお前が知っているんだろうし、アイツラが亜人だってことを考えればどういうつもりで連れて行きたいかって話もなんかあるんだろ。ただ、わかっていると思うが、アイツラが死んだら軍学校とやらも共和国とやらも軍都とやらも知ったこっちゃない。全部壊す。全部殺す。全部消す」
マジンはそう言うと改めて林檎をひとつ取り、刃の半ばから指の形に曲がったナイフで林檎を剥き始める。林檎の皮の剥ける音と香りが応接室の空気を支配する。
「相変わらずの過保護っぷりね」
林檎の皮を剥き終わるのを待ってリザが言った。
「そうでもないと思う。単に男親の身勝手なんだろう」
今度は割らず丸のままひとりでかじりながらマジンは言った。
それを見てリザは鼻でため息をついた。
「誓って言うけど、アルジェンとアウルムを軍学校に入れたいと思っていたのは戦争が始まったからじゃないわ。軍学校の規定が少し前に変わって亜人を受け入れているからよ。あの子たちとても頭がいいし勉強が好きでしょ。学校に行かせたいと思ったの。軍学校自体は健全な国民こそが健全な兵士であるという理念に基づいたもので、直接的には戦争と関係ないわ。もちろん第一の就職先は軍だけど、軍学校を修了すれば任期は一旦満了するから、退役しても問題はない」
静かな落ち着いた声でリザは言った。
マジンは林檎を食べ終わるまで口を挟まなかった。
「その言葉は信じるよ」
林檎の軸と曲がったナイフを果物皿の脇に戻しながら、マジンは言った。
「――ご来訪の用向きはそういうところか」
「粗方はそんなところね。私の用向きはあなたに私の娘の可愛らしさを見せびらかしに来たのが最大のところで、私の豊かに膨らんだ胸とお尻であなたの子種を絞りとってエリスの弟か妹作るってのが次なわけだけど」
そんなことをリザが言うと背中におとなしくおぶわれていたエリスが泣き始めた。
「――お、おなかへったか。ここ暖かいもんな」
リザは慣れた手つきで子供を胸に抱え直し胸元をはだけ乳を含ませる。つい先程まで林檎の香りでいっぱいだった応接室の暖かい空気がいきなり母乳の香りになった。
いろいろ言いたいことはあったが、子供が落ち着くまでは打ち切りとマジンはリザから目をそらして、彼女の連れに目を向ける。
「荷物は運ばれましたか」
「はい。立派なお部屋でした」
快活なリョウの応えにマジンは頷く。
「道中寒かったでしょう。食事まではまだあります。旅装をとかれて風呂に入られると良い。気に入られたら、食後もどうぞ」
「ここの風呂は軍学校のよりも立派よ」
エリスに含ませる乳房を交換しながらリザが言った。
四人との談話を終え、リザを応接室に残してマジンは工房に向かった。
ウェッソンがニヤニヤしていた。
「リザさん、おいでなすったってじゃないですか。女っぷりが上がったってマキンズが言ってましたよ。お連れさんも別嬪さん揃いだそうで」
「まぁ、そうなんだが、出て行ったときよりジャジャ馬っぷりも桁違いに上がっている」
ウェッソンのニヤニヤ笑いがマジンの言葉で加速する。
「ま、旦那の惚れた女じゃ、深窓の令嬢ってのはなかなか想像もつきませんな」
「死んだ女房はもうちょっとマシだったよ」
そう言うとマジンの倍も横に広い老人は鼻で笑った。
「死んだ女や別れた女について男は皆そう云うもんですよ」
「機関車千台売ってくれと言われて同じ顔ができるかね」
ウェッソンの眉が跳ね上がった。
「そりゃまた剛毅なことで。戦争ってやつですか」
「まぁそういうことなんだろう。どこまで直接的な関係があるのかはわからない。が、軍が千台欲しがるってことは、そういう使いみちを思いついたということだろう」
マジンの言葉にウェッソンの顔が険しくなる。
「ま、誰が考えたって、指折る間に思いつくようなことではありますがね。で、どうするんです。ヒトがいて材料があってその気になれば、千はムリでも年に五百は超えますぜ」
「やっぱり千はムリかね」
マジンの言葉にウェッソンは口元をしかめる。
「車輪がムリでしょ。ゴムタイヤが。ってかタールからゴムを作るのが今の調子じゃ間に合いません。あと、アルミも今の方法じゃすぐ頭打ちになります。電解炉ももうちょっと考えないとダメでしょうし、せめて発電機と合わせて新調しないとアルミは足りませんね。月に十ストンちょいってのが今のうちの実勢で、本当に千台もって話ならすぐ追いつかれます」
ウェッソンが断言した。
「まぁ車輪の骨の方は別の材料を考えるとして、皮の方は石炭じゃなくて端からコールタールの形で持ってくるしかないか」
「そうなりますな。アルミに関しちゃ蓄えはありますが、車輪だけってわけにもゆかんでしょう」
「両方石炭からだといろいろお得なんだけどな」
「千両分となると時間との勝負ですな。或いは骸炭窯を含めて設備まるごと何倍にもすれば」
わかっているだろうことをウェッソンは付き合うように口にした。
「まぁそれも悪くはないんだがね。銃を作ってくれとも言われている。そうすると火薬も必要だ」
「いかにも絵に描いたような戦争商人ですな」
ウェッソンが苦く笑った。
「賞金稼ぎも戦争商人もヤクザ稼業には違いない」
マジンも相槌のように笑う。
「で、どうするんです」
「ゴムの話は別に千台がどうこうって言わなくてもいずれ必要なことだからコールタールは調達が必要だろうな。まぁコールタールと言わずにああいうドロみたいな油が大量にほしいんだよ」
「や、ま、それもそうですがこの後の作業体制ですよ。町から指の効く連中を集めれば冬の間だけでもかなりの台数仕上げられるのは間違いないところですし、そこ目指して部品作るってなら、身内だけで車組むのはよしにして部品のための型やら準備やらした方がいいでしょうし、手元にあるだけマルゴメぶち込むってなら千は無理でも数百ってところはいけると思いますが」
職人として一家をなしていたウェッソンは先回りをするように尋ねた。
マジンは迂闊さに肩をすくめ愛想笑いを浮かべた。
「とりあえず、注文主にあってみることにする。流石に中尉殿の威勢だけじゃ商売の信用になるかはわからない」
「会えるんで」
念を押すようにウェッソンは改めた。
「なんとか将軍に会えるという話ではあった。ワージンだったかな。場合によっちゃ、機関部だけ売ってあとは任せた。ってことにしてもいいだろうしね」
「それもアリですな。でもま、車輪と足がないとアレだけは動けないんですがね」
少し心配そうな顔でウェッソンが言った。
「その辺は勝手にやってもらって、成果が出るようなら見せていただいてってのが、相互扶助とかもちつもたれつとかそういうものだろう」
マジンが悪い顔をして笑うとウェッソンもそれに付き合うように笑った。
「おじゃましまぁす」
工房の口で声がした。
出向いてみると軍服のままのファラリエラが戸口からキョロキョロと中を覗いていた。
「アトリエの見学をさせてもらおうと思いましたぁ」
「お風呂は入られなかったのですか」
マジンが尋ねると軍帽を小脇に抱えたファラリエラはにっこり笑った
「動きやすい服装で帽子をかぶる方がいいということだったので、このまま来ました」
「そういうことであれば、予備室で上着と武装を外してください。危ないので」
ファラリエラはなにを言われたのかわからなかったようだったが、軍服の上着の腰の裾が長く伸びているのとサーベルの柄を指差すと、サーベルの先が言いたいことを察したようにファラリエラが直立した拍子に戸口をつつき彼女はコロコロと笑った。狙いなのか天然なのかわからないが、やはり危険なのでファラリエラには軍帽の代わりに安全帽をかぶらせ、念入りに髪の毛を帽子の中にしまわせることにした。
工房を案内すると、ファラリエラはかつてユーリが訪問した時よりも、よほど素直に興味を示していた。
試験品の自動紡績機や同じく試験品の体型に合わせた立体織機を興味深げに眺めて、整然と並んだ圧縮熱機関に驚いていた。
そして一周りしてファラリエラは不思議そうな顔をした。
「どうかなさいましたか」
「いえ。これだけ立派な工房で、アレだけ立派な銃を中尉に餞別代わりに差し上げるような方だから、銃か、銃弾、火薬の類を専門に扱う工作台があるかと思いましたのにございませんでしたから」
マジンは肩をすくめた。
「ここは、私の趣味のアトリエです。活かすも殺すも趣味に応じておこないますが、元来他人の財布や欲望とは無縁のところ、武器のたぐいも興が乗れば様々に作りますが、面白げも楽しげも感じないものには興味がありません。治具のたぐいは片付けてあります。ま、土地ばかりは広く余っておりますから」
ファラリエラは遠回しなマジンの言葉に目をパチクリとした。
「アレだけ精度の良い実用的な拳銃を作っておいて、拳銃は、銃はもうつまらないとおっしゃるのですか」
「素材や工作上の限界を感じているので、今は敢えて追う気がしないということです」
ファラリエラは首を傾げた。
「これから戦争が花盛りになれば矢玉の類は紛い物でも飛ぶように売れます。ましてや信用が名前で買えるようなら、それこそ金と同じ値段が付きます」
「そんなものであれば、帝国も求めてくるでしょう。あいにく私の目には人物の愛国心を量る分光器はついていないのです。大事なものは密やかに行うべしですよ。それにデカートに戦禍が及ぶのはまだ先になりそうだ」
ファラリエラは幾度か口を開いて閉じてと言葉を探したが音にするのはやめたようだった。
「――軍人という立場で私の武器の趣味に興味がおありのようでしたら別室をご案内いたしますよ」
マジンはファラリエラを地下一階の銃器類の展示室に案内した。
同じ部屋にあるのは基本的には直径九シリカの同一の銃弾を発射する拳銃であるが、銃身の長さや装弾機構や撃鉄機構が異なり様々な安全装置の試験を行っていた。
量産を前提としない全く純粋に工作精度と設計仕様上の動作確認を目的とした研究用で七十五種類があった。
拳銃と云うよりは工作機械のような複雑なものもある。
口径九シリカの弾丸はつまりは穀粒と大差ない直径の弾丸であるが、展示されている弾丸は次第に長さを増していて、長さでは八十シリカを越えるようにまでなっている。小さな椎の実に釘を差したような銃弾は回しにくそうなコマのようにも見える。
「中尉の持っている銃の薬莢と同じものが使えるのですか」
「基本的には」
「回転弾倉もあるのですね」
「装弾数を少なくして小型化しつつ銃身を伸ばすという試みのものです。多少バランスにクセがあるので思ったほどよくなかったという悲しい作品です」
「色が違うのはどうしてですか」
「材料が様々ですね。いろいろな合金だったり、組み合わせだったり、単に面白半分だったり」
「連発式だと箱型弾倉のほうがいいのかしら」
「というよりも本来単発式が一番良くて、その弾込めの方法をどうするかという方が近いですね。そういう意味では回転弾倉は六本銃身を持つべきところを省いているといえます」
「ここにあるのは違うのですか」
「銃身が薬莢を飲み込みます。ま、簡単なもので、すぐ開いてしまうんですが。そのおかげで一般的な回転弾倉みたいに横から火薬の力がもれないんですよ。銃のシリンダーと銃身の隙間から」
「あの長い銃は何ですか。あれがこの中では一番強い銃なのかしら」
切り裂いた銃身の弾丸が途中で止まっている拳銃がいくつかある。
「あれは試験用の銃身ですね。抜弾抗力の試験をした時の銃身で四キュビットある銃身です。装薬の実験をした時の銃身で何種類かの火薬を試したものです」
隣の部屋の口径直径二十五シリカの拳銃は種類がだいぶ少なかった。ファラリエラはリザが何度か撃ったところを見たことがあるが、当てるというよりは吹き飛ばす感じで、大きな音を立てたり軍勢や馬群に当てればいいというようなときに使っていた。装填薬莢の長さも手の中に縦に握りこむには難しい大きさで拳銃も相応に無骨な隠し持ちにくい大きさのものばかりだった。
一部は握りの後ろ側に弾倉を持ってきているものもあるが大きめの弾倉を握りとずらして配置しているために拳銃としては大きすぎ扱いにくい。
しかし士官が使っている回転式拳銃は口径が大きい物も多く、銃弾の直径が四十シリカを越えるものもざらにあった。そんな中で慎重すぎる態度で狙いをつけて小銃よりも遠くを撃つリザの姿を記憶しているファラリエラにとってはここの拳銃は不思議の産物だった。
「ここの拳銃は戦場の道具としてはお奨めしません。威力が高すぎるし反動が大きすぎて百も撃ったら膝と肩ががたがたになります」
ファラリエラは戦場でリザが迂闊な体勢で撃って転んでいるのを見て知っていた。
だがそれでもリザが軍の小銃よりも自分の拳銃に信頼をおいているらしいことも知っていた。
「ゲリエ様でもですか」
マジンの言葉に不思議な反発を見せてファラリエラが尋ねた。
「ボクは耳が先に馬鹿になりますね」
隣は猟銃小銃の部屋だった。
ここは色々な銃弾が併せて展示されていた。
とはいえみなマジンの手製の銃弾と薬莢なのでそれほど多いわけではない。
とくに銃身の製造はそのまま刃物や治具の問題であったので、工具の数を比例的に増やすことになる。
九シリカの拳銃弾の薬莢をそのまま長く太らせたものや二十五シリカの銃身を使う長いくびれ付きの薬莢などがあった。
「これらは実用されたりはなさらないんですか」
銃身だけで四キュビットはある長い大砲のような小銃は錆のない鋼材のようで、何かの資材か部品のようにしか見えない。
「まぁクマとかを一リーグも離れて撃つつもりなら面白いかもしれませんが、そういう種類のものですね。基本的には火薬の試験用に作った銃身の廃品利用です」
試験品のいくらかある小銃についてはマジンは機能の説明を省略して、ただ銃身の覆いとバランスを重視して命中精度の口上を期待したとだけ述べた。なぜその覆いが必要な事になるのか、どうしてバランスが崩れる可能性があるのかという理由こそがこの部屋の展示品の最大の機能であったが、敢えてそこは説明しなかった。
「これ、全て連発銃なのですね。しかも操作が殆どいらない種類の。例えば中尉の拳銃のような――」
ファラリエラはマジンが不吉を感じ敢えて説明をしなかった結論にこれまでの展示品の様子をみて直感的に理解していた。
「――これがあれば。あの場にこれがあれば――」
ファラリエラは血を吐くように絶叫するように言った。
ファラリエラはほとんど直感的にこの部屋にある展示品で最も危険な物品に目を奪われていた。
そして、説明のないままに幾つかの種類の変化の過程や小銃に付いた刻印や操作部を目で追ううちに、機能について把握していた。
自動装填連発機能付き施条銃身銃。
この部屋に展示されている小銃の殆どは、そう呼ぶにふさわしい機能を持っていた。
引き金を引き続ける限り弾丸を吐き続ける地獄のクラリネット。
小銃の大きさに動作機関機構を押し込み、箱型の弾倉で数十発の銃弾を連続的に自動装填連続発射可能なそれは、自動機関小銃と呼ぶにふさわしいものだった。
ファラリエラはたった一人で補充の士官として聯隊に着任するはずだったわけではない。補充の中隊として歩兵小隊の指揮官として着任するはずだった。
だが、前線の崩壊とそれを知らないまま、戦線を突破してきた敵騎兵との遭遇。所属中隊の壊滅、そして指揮する小隊すら直卒の分隊わずか数名の所在しか確認できないまま敗残として彷徨う中で、彼等をも失い、そののち後送と偵察を繰り返すリザと出会った。
ファラリエラレンゾ少尉の組織名目上の指揮下にあった四個分隊のうち、ひとつは帝国軍の初撃で全滅した。もうひとつは数名をリザが捕捉しとりあえずの確認ができたが、再編成後の遅滞戦闘のさなか戦死していた。残るひとつは混乱のうちに完全に喪失してギゼンヌでも生存者は確認できなかった。ファラリエラは夜ごとギゼンヌの各所様々を歩き、中隊の生存者を探したが、見つからなかった。
それに比べればリョウの中隊は遥かにマシだった。そもそも補充単位が大隊だったし、そのおかげで前方での異常に気がついたうえでの戦闘態勢を取れていた。しかもリョウの部隊の中隊長は新品士官を大事にするだけの配慮を持った人物でリョウの部隊を敢えて中央部。両端を古参の再編成部隊で固め新品士官とそれを支える下士官の苦労を和らげる努力をしていた。リョウよりも更に質の怪しい新品少尉については、後方の安全確保という実はとてつもなく重要な任務を与えていた。
そして疑いを持たれていた新品少尉の機転により、中隊は無事退路を開くことに成功する。
このことが中隊の大部分を救う決断と展開になるのだが、その中隊をそして大隊を救う戦いの最中に中隊長は戦死した。
だが、リョウのいた大隊は最も組織だった信用に足る有力な部隊としてギゼンヌを支え続けた。
陣地網の崩壊を天変地異と思える地鳴りとその後の黒い泥の壁とが静かに納まるのを呆然と見たリザのやったことは、軍の支給品より遥かに明るい私物の遠眼鏡で戦線の状況を確認することだった。前方陣地のあった一帯の地形が帝国側の山地部を含めて変わっていること、その崩壊した地形の向こう側からそれでも感じる軍勢の動きという以外にないものを見た。それは遠すぎて銃声や砲声というわかりやすい戦場音楽を伴ってはいなかったが、より強烈な意志を持った圧倒的な勝利を認識した動きであった。
リザはともかく陣地網の後端を目指して走った。
陣地網の後端は療養所や司令部が残されており連絡参謀の運営する司令中枢があったが、前方陣地の視察を行っていたミレノフ将軍付きをはじめとする前線の連絡参謀の魔導の反応がほとんど消えパニック状態だった。
リザは後方陣地の予備部隊である軍団司令部にいた副官である中佐に前線での大規模な土石流によって共和国側の陣地網が破壊され、湿地の一部が渡渉可能になったことをどうにか整理し伝えると、連絡参謀を後送することを提案した。
彼女が戦域に何ら関わりない立場にあることで、これは全く純粋に越権行為であったが、距離というものがひどくルーズである魔導による連絡参謀を前線に配置する必要は、単に指揮官の肌感覚という戦術を含めた戦域指揮上の都合であるに過ぎなかったから、作戦戦術というレベルが既に崩壊した戦線には無用の長物であるばかりだった。
戦術的に戦域的に兵站にそれぞれ有能な副官バルマス中佐ではあったが、それらを有機的に接続させる想像力に欠けている面もあり、政治的には無能愚物と言って良い人物だった。
リザは軍令本部から必要なら命令として出させる、と言質を与え、その場を言いくるめるようにして軍団全軍の後退命令をどうにか出させ、ともかく一部であっても無事である後方部隊の後退開始を確認すると、更に機関車の快速を活かして後退する友軍を逆走する形で陣地網に向かい、帝国軍の砲声を聞く距離へ進出した。
土石流に寄って埋められた塹壕を踏み越えるようにして進出する帝国軍騎兵を距離約半リーグで確認したところで地形によって機関車が横転した際に発見したセラムを掘り出すと爆ぜるように機関車を走らせた。
途中で後退中だった共和国軍砲兵の指揮官に接近する帝国軍騎兵の規模と距離を概ね伝えると、彼らは一合戦の抗戦の覚悟を整えた。単なる野砲中隊だった彼らは当然にマトモな抵抗をおこなえなかったが、熟練の指揮官の適切な戦力判断は装備の放棄のタイミングを誤らせることはなく先頭の騎兵集団に混乱を与え、すべての砲弾薬は失ったものの少なくとも中隊人員の全滅だけは避けることに成功した。
リザの機関車はその後も小賢しくも帝国軍の先頭についての情報を伝え続け、また彼女の魔導の波を拾った連絡猟兵がリザの位置を頼りに帝国軍の先頭を推定することで後退を支援し続け、リザは明らかな越権行為や軍令違反を更に犯しつつ、途中で本職の連絡参謀を拾ってからは敗残兵の積極的な再編成まで行い始めた。
ただひたすら圧倒的な速度と持久力によって数百リーグを駆けた機関車は僅かな時間に数十の部隊に適切な敵戦力の報告を伝え続け、友軍に決断の時間を与え続けた。
準備と覚悟を奪われた兵こそが敗残の敗残たる所以であれば、わずかでも準備と覚悟があればかすかな勝機を紡ぐこともある。
せいぜい五百キュビット離れていれば危険を感じる必要もない機関車による士官偵察は圧倒的な効果があり、迂闊すぎる敵に対しては高精度高威力の拳銃で嫌がらせをすることまでしてみせたリザは全く時の運がその性格に合致したというだけであったが、敗残の誰もが心に描く戦場の女神の姿のひとつであった。
帝国軍は約二万の共和国軍兵士をその陣地ごと穴埋めにし、推定三万二千の大損害を与えたが、主要拠点であるギゼンヌ・ペイテル・アタンズといった町の短期陥落には失敗し、ギゼンヌについては包囲さえも諦めた。
帝国軍の大戦果大勝利ではあったが、戦略的には目的を果たし損なった。
ほぼ完璧な形で始まった帝国による侵攻作戦は、たった一台の機関車と積極果敢な士官偵察の結果として、単なる大戦果に終わってしまった。
「――ここにある銃のひとつでもあれば、あの戦場は私の部下はっ」
ファラリエラは展示室の飾り棚に拳を打ち付け血を吐くように言った。
そのファラリエラの慟哭を頼りにしたようにリザが薄暗がりに現れた。
「ああ。ここに居たの」
旅装を解いて柔らかく深い紺色の肩口に膨らみのあるフレアワンピースを着たリザの姿は腰と胸の張りと膨らみが締まった長い手足にメリハリを与えていた。風呂あがりに解いた栗毛の髪が美しかった。
「――あなたの部下は、小銃のひとつ大砲のひとつでは救えなかったわ。あの日あの時、帝国軍が十年かけて水を蓄えた山ひとつを爆破したときにあなたの部下と上官は死ぬことが決まっていたの。私とあなたとリョウとセラムの命を救ったのは、この人が遊び半分に作って気まぐれにストーン商会に売ったオモチャのおかげ」
そう言ってリザはファラリエラの頭を抱きしめた。
「でも、ここには一リーグも届く小銃や何発も続けて撃てる小銃がある」
それでも、とえづくように諦められないようにファラリエラが言った。
「そうね。それでも、銃で撃たれたらヒトは死ぬわ。穴に埋められても槍で突かれてもヒトは死ぬ。飢えて渇いてもヒトは死ぬ。たまたまこの人が馬より早く疲れも知らない乗り物をオモチャのつもりで売ったから、私たちは今生きている。それだけよ」
マジンは二人をおいて展示室を出ようとした。
「待ちなさい」
リザが背後から呼び止めた。
「なんだ。ここの銃なら売れないよ」
「そんな覚悟のないことじゃ、あたしの愛人は務まらないわよ。もちろん私の夫なんて全然ムリ。売れないってなら私を殺しなさい。私は諦めが悪いの」
リザは憐れむようにマジンに告げた。
「銃を売ったらボクの嫁になるってことか」
マジンは肩をすくめてリザに向き直った。
「いいわよ。嫁になるってことがどういうことかよくわかんないけど。今だってここで股開いて孕むまで種付けられても、そりゃ望むところだし。多分そういうの犯されたって言わないわね。お情けを頂いたっていうのよ、多分」
リザは美しい顔を歪めるようにマジンを嘲笑った。
「軍をやめてここでおとなしく子育てをするか」
「高いわよ」
「ボクの言うことやることにはおとなしく付き合うか」
「楽しませてね。つまんないなら文句は言うわよ」
ファラリエラを抱きしめたままのリザにマジンは歩み寄る。
「ボクのことを愛せるか」
「バカね。あなたのことしか愛していない」
「嘘だな。共和国軍を愛しているだろ」
室内履きのリザはマジンの鼻息をまつげに感じてくすぐったげにした。
「あれは。……愛っていうか恩とか成り行きとか付き合いとか縁故ってやつね」
「ボク以外の男に抱かれたか」
匂いを嗅いでマジンは離れた。
「……なんで知ってるの」
「誰。どういうこと」
軽いつもりで確認して事実に突き当たりマジンは驚いたように身を引く。
「え。なんかそれなに。嫉妬」
マジンが驚いたことにリザは驚いた。
「そりゃそうだ。嫉妬だよ」
「説明しないとダメ?」
「値段交渉しようってのに商品説明ないとか狡くね」
「セラムよ。セラムが夜怖いからって誰かと一緒に寝ないとっていって、男娼買いまくってたの。で私にもって」
「気持ちよかったか」
「う~ん。話と料理はうまい人だった。多分いい人だけど、男娼としてはどうなんだろ。誰かの旦那さんとかで紹介されたらもうちょっといい付き合いができたと思う」
「その他は」
「言ったら信用する?」
しおらしげに目を伏せてリザは尋ねた。
「……信用せざるを得ない」
「いません」
口を尖らせるように諦めるように言ったマジンに、上目遣いにリザは言った。
「わかった。いくらだ。お前の残りの人生。銃と銃弾で買ってやるよ」
「小銃百万丁銃弾二億発」
「大きく出たな。性能については要求はないのか」
小さな声で大きなことをいうリザに鼻で笑うようにマジンは尋ね返した。
「あなたの作るものは信用している。エリスもすごく可愛い」
そう言いながらリザは空いている方の足をゆっくりあげる。
「すぐにはムリだな。百万丁の小銃は流石にポケットの中に入れて運ぶには嵩張りすぎる。分割でいいか」
「軍都に一緒に行ってくれるなら。でも納品は支払い後よ」
「カネは必要だな」
リザが上げた膝にたくし上げた裾を引っ掛けると蒸れた甘い牝の香りが漏れと膝までかすかに流れているしずくが光っていた。
マジンがベルトのバックルを外し武装を足元に捨てるのを手伝うようにリザがズボンの前をゆるめ引っかかるようになっていた一物を撫で擦り股間でまたぐようにする。
「ああ、もうやだ。なんで背が伸びちゃったの。前はこのまま繋がれたのに」
「はいはい。お嬢様ボクが合わせてあげるから」
展示棚に背中を預け腰を突き出すリザの腰を膝でくぐるようにして高さを合わせゆっくりと膝で腰を起こしてリザの胎内に入り込む。
リザの呼吸に合わせるように、ゆっくりと体を合わせるように爪先立ちになるリザの顔が上気してゆく。
「ああ、やぁ。なんでもう。ふぇっくぅ」
子供を産んだ体であるはずのリザの膣は柔らかさもあったが、それよりもバネのようなしなやかさが芯にあり、脂肪の柔らかさではなく、よく伸ばされた筋肉の柔らかさを感じる。それがマジンが最奥を叩くととたんにざわめくように震え締まり形をなした。
亀頭に生暖かいリザのほとばしりを感じた。
「まだ動いてないよ」
「わかってるぅ。なんか変。もう動かないでもいいよ。きっとほっといてもイキっぱ。ぅく」
そう言っている間にリザは勝手に腰を震わせていた。
リザの胸の中に抱かれたままふたりに挟まっていたファラリエラはリザの顔をまじまじと見ていた。
「抜くか」
「やだ。抜いたら死ぬ」
「値段交渉一回やめようか」
「一生、繋がっててくれるならお嫁さんになる」
「流石にそんな生活はやだな」
「きっと夫婦ってそういうもんだと思う」
そう言いながらリザはまた勝手に痙攣して達していた。
「――やだ。なんでこんな幸せなの。おかしいよ。私おっぱいもなんかピューピューでてるしいろいろだだ漏れだ。ほんのついさっきまでまじめに戦争に勝つために頭使ってたのに」
そう言いながらリザは笑いながら泣き始めた。リザが云うようにリザの胸元は漏れた母乳でマジンのシャツが濡れるほどだったし、股間もリザのふき出す愛液でびしょびしょになっていった。
「――ごめんね。ファラリエラ。助けちゃって。でも、助けたかったんだ。セラムを助けたときに、助けられるの分かったの。あのときの殊勲者のマリールも連れて来たかった。あの娘も私の後輩だった。頑張ってくれたけどそのせいで多分。彼女はもうダメだった。でも生きてたら会わせる。この人の遊び半分のオモチャのおかげで私たちは三つの町を救ったんだって自慢したかったの。だってあの機関車スゴいんだよ。明るい灯火のおかげで夜道だって百キュビット先が見通せるから馬なんかより断然早く荒れ野を走れるし、ちょっとすっ飛んで転んでもきっちり前見て舵輪を掴んでいたらどこにもぶつからないようにできているんだ。落ち着いてから一人でも起こせるし、小さいから馬が通れるようなところならだいたい走れるんだ」
リザは股間をつなげ震えたまま、多幸感に浸った顔でうわ言のように語った。
「――速度自乗の困難則っていうのがあるの。二倍の優速を持つ敵を補足するには四倍の戦力が必要ってことね。騎兵の十倍の速度を発揮できる機関車は乱暴に言えば、百の部隊を振り回せる。実際問題として持久速度に関して言えば騎兵の十倍の速度では利かないわ。だってこの人半日でここからデカートまで往復してみせたんですもの。だから、このヒトの機関車と小銃はこれからの戦争を変えるわ。……でも、それが嫌なんでしょ。アナタは」
そう言ってただ自分の中に収めているだけで勝手に達し続けているリザはマジンの顔を撫でる。
「――きっとこの人は必要ならもっとスゴいものをいくらでも作るわ。際限なく。それが面倒くさいのね。自分の知らないところで自分の作ったものがヒトを殺したり助けたりするのが。……でも、そんな覚悟のないことは許さないわ」
そう言うとリザはまた一際激しく痙攣するように達した。それはお互いの腰骨をほとんどくっつけたまま動かさないような状態だったが、根を張ったマジンの男根を激しくこすり絞り立てるようなしゃっくりをえづくような腹の動きでリザが跳ねるのに子宮が吸い付くようにマジンの精子を無理やりに吸い上げた。こういう体の相性の良さは本当に考えられないとマジンは感じていた。
「このまんま過ごしたい。ってか、アタシがアナタを買いたい。どうやったら一生ぶち込んでおいてくれる」
ようやくユサユサと性交らしく腰を揺らし始めたリザは胸に抱いたファラリエラのことを忘れたかのように言った。
「お前なぁ」
「ああ、やめて、いっちゃう。死んじゃう。気持ちいい、良すぎて死んじゃう」
マジンが呆れるように腰を動かすとそう言いながら膣を細かく震わせながらリザも腰を揺らせくねらせてた。
リザの腹の中でジュルジュルと音がしてマジンも精を放った。
「今日どうだったかなぁ。でもあわてないでもいいかな。ひとつきやってればあたるだろうし」
リザはすっかりとろけた声で幸せそうに言った。
「おーい。おっぱいどこだぁ」
部屋の外からセラムの声がした。
取り繕う間もなくセラムが碧色のドレスに青い花のような眼帯を付けエリスを抱いて現れた。
「――むう。まぁ、館のご主人が自称愛人の婚約者と暗がりで性交に及ぶというのは致し方ないかもしれないが、なんか胸に後輩というか友人を抱いたまま、我が子を抱いた友人が来ても腰を止めないというのはいささか納得いかない」
ひどく冷静なセラムの論評に流石に居たたまれなくなったマジンが腰を離そうとするのをリザが拒んだ。
「やめて、今、抜かないっでっ」
ひどく冷静なセラムの糾弾を正論と感じたマジンがリザの中からまだ根を張る芯を抜くと抜いた瞬間にリザは一際絶頂を極め両の乳首から母乳を吹き空気が抜けたようにへたり込むのを胸のファラリエラが支える形になった。
「ファラ。なんか大変だったな。風呂入っといで。立派なお風呂だよ」
「え、あ、はい」
セラムが労うように指示をすると、それまで呆然としていたファラリエラは幽鬼のように重さのない様子で展示室を出て行った。
セラムがエリスをリザに預けると、リザはほとんど自動的に胸元をはだけ乳房をエリスに含ませた。
「気を使わせてしまったようで申し訳ない。暗いところが苦手とか。大丈夫ですか」
体液に濡れまだ固いままの陰茎をズボンのうちに無理やり納めベルトを締めながらマジンはセラムに礼を言った。
「いや、このくらい灯りがあれば大丈夫。この屋敷はそういう意味では本当に贅沢で助かるよ」
セラムはそう言うと展示室の小銃を眺めた。
「アナタも銃に興味がありますか」
「まぁ軍人だからそれなりに。ただこういうのは使ってみないと使えるところと使えないところがあるから。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、っていうのは確かだけど、鉄砲撃つ矢玉の掛かりもタダじゃないからね。結局一発も撃たないで勝てりゃそれに越したことはない」
セラムは小銃を眺めながら言った。
「なに死に損ないが偉そうに言っているの」
リザが疲労を感じさせるものの、正気を取り戻した声で言った。
「死に損ないだから思うのさ。連中の戦略的着眼点はこちらに鉄砲を撃たず撃たせず勝ちたかった。まさにそこだろう。山間部の輸送はなかなかに困難だからね」
「そのために十年かけて山頂部に水瓶を蓄えていたとは思わなかったわよ。リザール城塞後方に新しい策源地を作るための水源だとみな思ってたもの」
セラムはふっと笑った。
「思えば川の流れを利用した嫌がらせは連中の十八番であったからね。意図は単純に仕掛けは大きく、というアレにやられた。……ところでリザ嬢。おそらくは当人のいる前で確認したほうが良いのだろうと思うのであえて言うのだが、本当に良いのかね。その、私が孕むまで君のその、自称婚約者殿のお情けをいただくということで」
セラムの言葉は聞き捨てならないものを含んでいた。
「おい。どういうことだ」
「いいわよ。どうせこの人町に行く度に女買うような人だもの。その分アナタが楽しく抜くのくらい、気にしないわ」
マジンが咎めるのも無視してリザはセラムに言った。
「おい」
「あら。だって、セントーラとも偶にやっているんでしょ。月に何度か知らないけど、給料の代わりに御情けいただくのが楽しみだって前に彼女言ってたわよ」
リザがまるで市場で作物の出来を話すような気軽さで言った。
「まるでボクがカネを渋って抱いてるみたいな言い方はやめろ」
「いいじゃない。気持ちいいんだし」
子供に乳を与えるままに呆けたようにリザは言った。
「――ま、私が妻だっていうなら、きっちり財産管理はさせていただきますけどね」
きっと下から睨みつけるようにリザは言った。
「そういえば、来たとき玄関先で嫌なことを言っていたが」
少し不穏な言葉を思い出して言った。
「なにかしら。……ああ。愛人ってやつ。そうよ。あの子たちもちゃんと種仕込んであげていいわよ。みんなかわいいでしょ。鍛えているから具合もいいわよ。きっと。……ファラ。可哀想にあんなに思いつめていたなんて思わなかった。子供孕んで産んでで全部どうにかなるなんて思わないけど、この後どうするにしても少なくとも一年は休暇があるんだし、育てるか任せるかはその時でいいと思う」
リザはとぼけていたわけではない、全く軽い感じで応えた。エリスに乳を与えたまま語る子供についてもひどく軽い。
「前も言ったと思うが、もうちょっとそんなふうに生まれる子供について思うところはないのか」
マジンは咎めた。
「え?なんだろ。なにを怒っているの?子供作って育てるかそうしないかってこと?軍都だとその辺は割と手厚いし軍人なんて旅がちだから、親の顔を忘れちゃうような子供たちも多いわよ。でも代わりに友達というか兄弟みたいな関係が強いって言うわ。そういうのもなんかちょっとうらやましい感じもするけど――」
そういえばマジン自身も誰の種かわからない子供を二百人育てていた集落で過ごしたこともあったことを思い出した。そしてマジンには親の記憶どころかどうやって立ち歩けるまでになったか記憶がない。
「――子供が育つのに必要なのは家族そのものじゃないわ。日々の生活や学習を助けてくれる関係性とそれを感謝できる実感。おとなになったときもそれがウソでなかったと思えればその相手とつながっていたいと願うわ。軍のそれはちょっとあざといけど、人と人を結びつけるという意味では効果的だし、本気で永遠不滅を目指しているから手抜きは少ない。そりゃ世の最善の親に比べたら、どうなんだって思うこともあるんだろうけど、こんな世の中だから子供に盗みや春を鬻ぐことを教えたり、ひどいところじゃカタワにするのが子供の為みたいな親もいる。そういうのに比べたら軍の養育院は最低限、軍がなんのためにあるのか、どうして人を殺してまで争うのかということは説明する努力はしているわよ。言っとくけど、正義って言葉について軍は誤っていない。つねに正義の上に我らが正義と冠を付ける。その冠が我らがであることが共和国の誇りであると教えている」
エリスは腹を満足したらしく、吸い付いていた乳首から頭を外して天を仰いだ。
「ご主人が思うことは、とても優しいことだと思う。この館の灯りと暖かさも贅沢だけどそういう優しさの実現だと思う。ただ、それはとても贅沢なことでもあると分かっては欲しい。そしてもし許されるなら、その贅沢を我が身我が友にも注いでいただきたい」
そう言うとセラムは胸を抱き片膝をつき、マジンの足下に身をかがめる深い礼をした。
「だからといって小銃百万丁銃弾二億発というのはどうかと思うね。単純に材料のみで考えても五千万タレルはくだらない。短期間で整えるつもりの工房設備を考えれば数億タレルに達する。それに作った後、どうやって軍都まで運ぶつもりだ。百万丁の小銃ってのは個人が抱えるにはちょっとばかり重すぎる荷物だ」
二人の女軍人が言う事に納得いかないまま、マジンは事業の話を口にした。
腰が軽くなって逆上せていた血が巡ってきたマジンをリザは笑った。
「いいじゃない。商売話を持ってきてあげたと思ってよ。それに銃弾は二億発じゃ済まないわよ。最低でも十億」
リザは胸のエリスが落ち着きを取り戻すと、自身も落ち着いたようで声に張りが出ていた。
「百万二億ってどういうこと。共和国軍の小銃を全部置き換えて、それどころか後備の兵隊にも全部配るつもりなの。そんな計画承認されるかしら」
うずくまった姿勢のまま顔を上げたたセラムがそのまま後ろに転がるように腰を下ろし疑問を口にした。
「この人の見積り聞いたでしょ。ここでジリジリ作るだけなら五千万タレルで出来るって。よそに準備を建てても、数億タレル。あちこちで中抜されるだろう分を考えても十数億タレルというところでしょう。材料だけなら数十タレル。人手を経て前線に配られても一丁二千タレルを超えないなら、いま軍がいろいろ試している新型銃なんか全部やめさせてこの人の銃を作らせた方がいいに決まってるわ」
リザがふんぞり返るように胸の中のエリスを眺めながら口にした。
「そんなうまくいくかな。政治が働くだろ」
疑うようにセラムが言った。
「ワージン将軍。知っているでしょ」
「冗談やデマカセではなかったのか」
セラムが驚いたように言った。
「機関車で前線と軍都を往復しているときに前衛浸透をお手伝いしたことあるの。偶然だけど。休暇はワージン将軍の口添えの効果あったと思うわ。わたし戦失扱いで無任所だったからマトモに申請したらひとつきは後回しになってた。どっかの阿呆みたいに待機令破って軍都で無断除隊や敵前逃亡扱いなんて冗談じゃないから焦ったわ」
「あの人随分南の、下流の方のヒトだろってか。ヌライバ公国とかあの辺りのなんにもない荒れた平原の辺り」
セラムが自分の記憶とリザの言葉を確かめるように言った。
「ま、そう。政争の結果ってのもあるけど、部隊の訓練にはいいっておっしゃってた時の印象は割と本音風だったわ。会ったのはもうちょっとこっち側だったし、司令部ももっとこっちがわで、お互い戦闘目的ってわけじゃなかったけど。ともかく、ギゼンヌから帰ってきて戦況査問会があって報告書をあげたら、何度書いても報告不明瞭で突き返されて、普通は佐官以上の呼び出しなんだけど直接口頭報告を求められたのね。で、なんの嫌がらせだろうと思ってたら、旅程や消耗品の請求の事由を聞かれたの。いくらなんでもそりゃ変だろう戦況査問で小娘の一人旅の小遣い帳を覗きこむのは、と思ったら――」
「まさかその席でそう言ったのかい」
「言ったわよ。連中アタシが途中のドーソンで瓶買いした眠気覚ましの飴の名柄や味まで覚えているかとほじくり返すのよ。アタシの頭がおかしくなったと疑われているみたいだったわ」
セラムは天を仰いだ。
「またコイツは、危ないことを」
そういうセラムの顔を無視してリザはエリスに目をやり、晒したままの胸を軽く揺らす。
「ま、ともかく戦況査問会でアタシが求められたのは、リザール湿地の陣地にいた各部隊からの報告にやたらとたくさん上がっている所属不明の私らしき士官の証言の追跡。いつからいつまでどういう経路地点を結んで移動したのか、より具体的に一日のうちをどれだけ移動に費やしてどこで休憩していたのか、休憩の事由と経路の選定の理由。記憶に無い行動も報告に上がっていて色々困ったわ。……あ。後ろの車輪が傷みやすくて二度破れたけど穴を探して内側から膠塗った糸詰めたら空気も入ってとりあえず走れたわよ。換えの車輪が間に合わないとか言ってたけど、そういうことなら最初から二本付けてくれないと軍で使うと困るわ。あと備品の空気入れはいろいろ使えて便利だった」
「お客様の感想希望は承りました」
マジンは肩をすくめた。
「そんなわけで、前線の戦況報告のあとお目にかかる機会があって、機関車のことを話すことがあったの。そのときに、私の拳銃についての話が出たのよ。アナタがくれたヤツ。将軍もまぁ将軍なるぐらいまで軍に籍を置いているから、銃器武器にはそれなりに興味がお有りでね、ひどく気に入られた様子だったの。とくに九シリカの方の拳銃はあの大きさに二十発も弾が詰まっているでしょ。相当に衝撃だったようよ。どういう工房だって話になって、機関車を千台欲しいと言い出したのは将軍。将軍は騎兵みたいに突撃することを考えているみたいだけど、あれはそういう道具じゃないわね。どっちかというと味方の陣地後方で伝令したり、敵を突破したその後方で連絡線に嫌がらせをするための機械。千台あれば前線の大隊に四両づつ配備できていくらか余る。兵隊千人運んでも、戦力としては砦ひとつ町ひとつ落とすのもやっとでしょ」
リザはよほど冷静に戦争を想像していた。
「元来、騎兵もそうやって使ったほうが長持ちする。まぁ騎兵でないと潰せない潰したほうがいい戦力ってのがあるのは間違いないけど、軍馬を育てるのは結構手間だ」
セラムは乾いてきた黒髪が滑るのを耳元に戻しながら言った。
「……なに黙っているのよ。座りなさい。いま私たちは十年後の未来の戦争について語っているのよ。アナタも意見を述べなさい」
リザはエリスを抱く向きを変え、空けた手でマジンのズボンの裾を引く。
「上で話さないか」
「ここがいいの」
リザはマジンの提案をあっさりと却下した。
「――それに上に行ったらファラと顔合わすことになるでしょ。それはちょっと流石に気まずい」
ファラリエラの混乱を衝撃で押し込むためだったり、純粋に欲望だったり様々が渦巻いていたわけだが、成行きとしてはリザにとっても気恥ずかしいものであった。
「ああ、まぁ」
「ともかく、話に混ざりなさい。アナタのためでもあるのよ」
「なんで」
「私がアナタの嫁に収まるかどうかと、アナタの愛人が出世するかどうかの話なんだから」
「お前の話はいつも説明が足りない」
「わたしは帝国軍にヤラれっぱなしというのは気がすまない。塹壕を山ごと押し流す作戦を立てて承認した連中の横っ面を張り倒したい。少なくともリザール城塞まで帝国軍を押しこむ。その上でアナタと結婚する」
胸に眠る子供を抱え乳房を晒したまま、ただの中尉いわば単なる小間使いにすぎない士官が、おそらく最も母性とは無縁のことをリザは口にした。
マジンは肩をすくめたが、セラムは笑いはしなかった。
「キミの持つその拳銃の延長のような小銃が百万丁と数億発の銃弾があるとして或いは機関車の小集団を自由に扱えるとして当面はここを策源地とするのは悪くないし、おそらくそうした方がいいだろう。あまり前線に近いところで試験をするわけにはいかないからな。だが、そのあとはどうするんだ。機関車千台は出来なくもなさそうだが、小銃百万丁はここを策源に配って歩くにはいかにも遠く多いだろう」
セラムは少し首をひねるように言った。
「騎兵大尉殿。アナタはいささかワタシのそしてアナタの愛人殿を、アナタを救った小さなオモチャをバカにしすぎる。この人物はこの工房があれば小銃を作る機械を作ってのける人物だと私は考えている」
溜息をつくようにリザは言った。
「まぁ、工房だから道具を作るくらいは当然だろう」
「そうじゃなくて、この人はからくりじかけで鉄を板にする機械を作るのよ。更にその鉄の板を曲げ叩き鍛え管にする機械を作る。機関車も組み付けは人が手でおこなっているけど、数打ちの部品はからくり任せ。……そうなんでしょ」
「ま、そうだ」
リザが改めるのにマジンは簡素に応えた。
言葉の意味をセラムは今ひとつ理解できていないようだった。
「だが、つまりどういうことだ。銃を鋼の薄板で作っているということなのか。チョキチョキと冬越しの飾りの切り紙細工でも作るみたいに」
あえぐようにセラムは言った。
「きっと全てではない。全てではないけれど、かわいいクッキーを作るように作っている部分もある。そういうところは火薬の圧力には耐えられないだろうけど、火薬の圧力に晒されない部分は銃には多いわ。そういう機械をこのヒトは作れるの」
リザはわかっている範囲で説明した。
「そんなことをしたら仕事の手間が増えすぎるんじゃないのか」
「ここの屋敷には蒸気圧機関がある」
リザは簡素に説明した。
「いまいちわからないな」
「五十グレノルの大金槌と鉄の板を圧し切る裁断機があるってことよ。そこにある細長い銃身を何本も実験のためにだけ作って使い捨て、確認のために真っ二つに割けるような人なのよ」
リザが言った。
「いまあるので一番大きい金槌は千七百五十グレノルだよ。あの車輪の鍛造に使っている」
「あら、そう。覚えておくわ」
マジンの補足にリザは眉を跳ねた。
「それにしては静かすぎる」
セラムが信じられないように言った。
「叩いていないからね。音がするのは材料が悪い時くらいだ」
マジンが僅かに説明を足した。
「で、どうなのよ。百万丁。ワタシと結婚できる算段は出来たかしら。でもワタシと結婚するんだとこのかわいいエリスちゃんを愛人には出来まちぇんねぇ。残念。きっと気持ちいいわよ。エリスちゃんのまんこ」
リザは胸の中の娘をネタにマジンをなぶるようにからかう。
「ま、今年一年そのつもりで準備すれば日に三百丁。年に十万丁の銃の部品を作ることはできるな。町から冬場なら百人くらいの人手を借りることはできるから一日頑張って数千。再来年の年明けに十万の銃を見せてやることはできる」
リザのからかいを無視してマジンは見積りを述べた。
「同じことが他所でできると思う?」
「商売の先が切り替え利かないなら、やりたがらないんじゃないかな。あと鍛冶屋みたいな連中は嫌がるだろ」
マジンは言った。
「十万丁でも十分なんじゃないのか」
セラムがおずおずと口にした。
「単純に前線に集めることができるならね。でも軍はそういう小器用なことを出来無い。拠点単位に配備してみるのも手だけど、融通の効かない拠点指揮官に当たると死蔵され訓練もおこなわれない。やるなら一気に決着をつける算段が必要よ。結果として慚減的になるにしてもね。最低でも全軍に行き渡る五十万丁は算段をつけておかないといけないし、どうしても拠点単位で武器の転換はおこなうから輸送の行違いと拠点間の疎遠や再度の輸送の手間を考えれば余った分は備蓄と諦めて倍はないと意味は無い。そう考えれば最低でも三十万丁は手当できないと、戦争計画の一部に組み込めない。千とか万とかの半端な数では一部部隊の英雄的軍功の後で横槍が入って霧散する。小銃は歩兵が扱う軍隊の基礎よ。英雄の剣や魔法の道具じゃない」
リザは冷たいほどに断じて言った。
「銃弾二億発の方はやればそんな難しくないな。こっちは前に作った薬莢の製造機もあるし日に十万作るのは簡単だ。同じものを五台並べれば二年でお釣りが来るってところだろ。火薬と雷管はいくらでも作れる。当座は鉄道を作るので切り倒した木材もあるけど、間伐材でいいから森の手を入れる用ができるな」
軽い話題を提供するようにマジンが明るい声で言った。
「十万丁とか安売りしないでよかった良かった」
リザはいたずらが不発にならなかった顔をした。
「戦争が始まったから硫黄と硝石は高いぞ」
マジンの言葉にセラムは指摘した。
「いらないんだ。石炭があればいい。どこかで質のいいタールが手に入ればそっちの方が早いが、まぁなくても何とかなる」
マジンは説明した言葉にセラムは意味がわからず口を閉じる。が思い直して尋ねた。
「ところで、ご主人にお聞きしたいんだが」
「なんだろう」
「銃弾が細長く尖っているのは、標的獲物に突き刺さるためだと思うんだが、あんなに小さくて威力は大丈夫なのか」
今更のようにセラムは尋ねた。
「――小さくしているのは銃自体を小さくまとめるためと思うのだが、その疑うわけではないが、いささか小さすぎないだろうか火薬の量も少なすぎないだろうと。ワタシの知る小銃の弾は指というよりは男性の睾丸のような太さのものなので」
「あらやだ、セラム。玄関先ではあんなにがっついてみせたのに、今更疑っているの」
セラムの言葉にリザが言った。
「疑っているわけじゃ……。いや。疑っている。というか理解が及ばなくて困っている。もともとお前が私達をその、なんだ、愛人に会わせてやる、子供を仕込んで育児配置をしろ、といいだした辺りからちょっとなにを言っているのかわからなかったんだが、どこからどこまでが将軍の指示で、どこからがお前の思惑なんだ」
セラムは表情を改めリザに問いただした。
「将軍なんか関係ないわよ」
あっさりとリザは言った。
「ただ、例えば二十億タレルで百万丁の小銃と二億発の銃弾を……あ、ちゃんと換えの弾倉つけなさいよ――」
「そうするよ」
リザが思いついたように言うのにマジンは笑う。
「――百万丁の小銃と二億発の銃弾を用意する算段を示したら、将軍は乗らざるを得ない。一回乗ったら、振り落とされるまで付き合うしかないわ。そして皆が揃って間抜けでなければ、リザール城塞を挟んだ上でその後方を制圧することになる。リザール城塞は裸とは言い難いけど、もう裸も同然になった。きっと偉い人の誰かも気がついている。けど皆が本当に気がついていないなら私が教えてあげる。新しい戦争が始まったのだと」
リザの確信を持った言葉にセラムは目を瞠る。
「そろそろいいだろ。腰が抜けてへたり込んでいるというなら、抱えて行ってやるよ。上に行こう。食事の前に風呂に入りたい」
「素敵ね。セラムも一緒にどう。この人こう見えてかなりの力持ちなのよ」
リザは笑った。
「いや、わたしはいいよ」
「両手に花というのは男の本懐、というしな」
リザが膝を抱えるようにたたむ腰から膝裏に腕を回しマジンは片腕で掬い上げ、慌てるセラムが立ち上がろうとする間に同じように抱え上げてしまった。
「……重く……ないですか」
「ま、とくには」
「ちょっと、ちゃんと支えて」
セラムが遠慮がちな脇でリザは慣れた風に要求する。
戸口の丈を気にしながらマジンは階段を登り風呂場に向かった。
ローゼンヘン館の風呂は機械化自動化が進んでいて広さの割に暖かく湯量も豊富だ。
女たちは池のような風呂に旅に疲れた体を預け、旅の垢を身からこすって体の筋を伸ばしていた。
「いいでしょう。このひと」
「キミの甘やかされぶりに驚いているよ」
セラムがエリスを預かり浴槽で浮かせるようにあやしながら言った。
「甘やかされっていうけど、まるっきりデタラメを言っているわけじゃないし、このヒトにとっちゃせいぜい下級生が溜め込んでいた課題で泣きついてきたくらいの内容よ。無責任なかわいいものよ」
体を浴槽の中で屈伸しながらリザが軽く応えた。
「まぁ無責任と言うには重大な事業提案だとは思うけどね」
他人事のようなリザの言葉にマジンは感想を述べた。
「事業としての採算性を軍が保証すればいいんでしょ」
「猟兵というものがどういう立場なのか知らないけど、中尉という階級でそれができるような立場であるかが疑わしいのだけどさ」
「そのへんは上手くやるわ。というよりもあなた次第だと思っている。だから一緒に行って欲しい」
「上手くいかなければ面倒も起きないか」
「手抜きはやめてほしいわね」
リザが膨れるように言った。
「できるかできないかの話で言えば、世の中のどんなこともできるんだよ。言葉で表現できるかぎりにおいて、無制限に説明と追求ができる物語は全て事業として成立しうる。事業の完全性というやつは物語の完全性にあるんだ。でも採算性は事業の成立の可能不可能ではなくて、それを説明追求達成する時間と資源にかかっている。だから、リザ。キミの計画はキミ自身が言うように下級生が溜め込んだ課題とおなじ感覚でボクが挑む事はできる。しかもかなりはっきり言葉に出来るだけボクにはわかりやすい。けど戦争に勝てるかどうかは、別の問題だよ。ボクは帝国軍を知らない。それどころか共和国軍も知らない。事業の完全性は保証してあげられるけど、事業採算の完全性については保証してあげられない」
「戦争に勝てるか分からないってことかしら」
マジンの言葉にリザが問い直した。
「できるまで人々が我慢できるかどうかは知らないってことさ」
「で、機関車千両は出来そうなの」
リザが浴槽の水面からつま先を上げ、体を伸ばしながら尋ねた。
「本気ならやるよ」
「本気よ。とわたしが言っても疑わしいっていうのがあなたの言う事業の採算性なんでしょ。でも、本気の話としては千両じゃ足りないわ。たぶん、一万でもまだ足りないと思う」
膨らみすぎて柔らかくなった左右の胸の大きさの違いを気にするようにしながらリザは言った。
「ま、そうだな」
「でも、あらすじはあるんでしょ」
「ある。ヴィンゼから川の港口まで鉄道を引いて川辺に工房を作る。まぁ、実のところそれで小銃も銃弾も車輌も決着がつくよ」
あっさりとマジンは言った。
「鉄道って川辺まで伸びたあの鉄のハシゴみたいなののことかしら」
セラムが尋ねた。
「ハシゴの桁が問題じゃなくて鉄の軌条のほうが問題なんだが、まぁそうだ」
「あれがあるとどうなの」
リザが尋ねた。
「往来が楽になる。一日のうちに十回もヴィンゼと館とを往復できるようになるよ」
「機関車となにが違うのよ」
「運転手ひとりで千人も運べる。そういうものになる。まぁ一日十往復もするつもりなら運転手も四五人必要になるけれど、駅馬車とはわけが違う乗り物になるよ」
女二人は目をパチクリさせて言葉を失った。
「そういうものをどうして川辺に?お客がそんなに増えたのかしら」
「いや。鉱石やら石炭やらたくさん運ぶのに冬場は馬車や機関車じゃ面倒だから。あれは輸送用だ。だが、貨車の代わりに椅子を並べた貨客車をつなぐことはできる」
「そういえばアタシがいたとき作り始めたんだったわよね。二冬で出来たってことなの」
思い出すようにリザが言った。
「ま、そうだ」
「どれくらい運べるの。ヒト千人ってことは、何十グレノルかはいっぺんに運べるってことなの? 」
「そうなる。理屈では軌条や車軸が歪まないかぎり無制限にいけるが、あまり欲張ると危ないというのは間違いないところで、今のところは数百グレノルってところだろう」
「遅くなるってことかしら」
「いや、どっちかというと止まれなくなる」
ふたりは船何十艘分もの荷物が曳かれていく光景はピンと来ないようだった。
「――百万丁の小銃って言うからには千五百グレノルくらいは運ぶことになる。ま、行李で五千両ってところだろうな。小銃弾は二億発といってたが、おそらくそれは一千グレノルというところになる。三千五百両っていうところだろう。道中の手当を合わせりゃ九千両では利かない。一万って言っても多分まだ不安だ。一年でこなすつもりなら月に八百五十両と換え馬と飼葉か。当然それだけの飼葉と御者の手当をボクがこの館で準備するのは御免被りたいわけだが、引き受けるからには必要になる。それを避けるための設備だよ」
リザは自分の願った言葉をマジンが具体的な想像をしやすくしたことを眉を跳ねて示した。
「思ったより少なく軽いけど、人手が必要ね」
マジンの見ている未来の暗雲を無視するようにリザは軽く言った。
「人手があっても、ボクが全部手配するってのはちょっとばかり手間だ。単純に考えてもヴィンゼの人口を十倍にするくらいの人手が必要だ。馬車ったって山を超えるとなれば二頭立てって訳にはいかない。何百リーグって話になれば護衛も必要になる。馬数千を毎月って牧場なら馬数万が必要だぞ。馬は鶏飼うほど簡単じゃない」
基本的に国内軍である共和国軍は食料や被服に関しては概ね現地調達の様式が整っていたが、武装や矢玉に関しては専門性が強く各地の専門の工房との取引がおこなわれ、定期的な備蓄がおこなわれていた。
軍需品の兵站中枢といえる町がデカートから約三百リーグ離れた軍都であった。
舟で行こうとするとザブバル川を下り、泥海を抜けセンヌからエルベ川を遡り、途中独立国であるジューム藩王国を抜けてざっと八百リーグ。機関船で推定六から八日の距離になる。陸路のほうが当然に近いが、ジューム藩王領を通過できるならそちらのほうが重量物の輸送の手間自体は少ない。ただ、河川の通行に関してはジューム藩王国は独立国として相応に目を光らせており、帝国とは独自路線ではあるが、かつては帝国の一部であり衛星国でもある。帝国との戦端が開かれたいま武器の通過は面倒も予想できる。
グレノル半積みの貨物機関車は完成したが、仮にそれで往復したとしても千七百便弱になる。十日に一往復する常識はずれの想定をしたとして、一年で運び切るには五十両弱の貨物機関車が必要になる。
五十両の貨物機関車を自前で管理し、人員を確保する。としても道中を考えれば最小限というわけにはゆかない。
計画が一年ではなく十年であったとして人員や機械の疲労管理は当然にマジンが責任を負う事になる。またその信用問題は重大な意味を持つ。
共和国の道路事情、と言うも愚かな街道の整備の状態はデカートの州内のことを考えるだけで水路のほうが泥濘がないだけマシという面倒臭さだったから、どのみち困難に備える必要がある。
「忙しいわよ」
他人事のように汗を拭いながらリザが言った。
「ところで、キミ。ゴルデベルグ猟兵中尉」
計画に関わる数字を口の中で反芻して確かめるようにしていたセラムがリザに呼びかけた。
「なにかしら。マークス騎兵大尉殿」
「ふと気づいたのだが、仮にご主人がキミの計画を推進するとしてだね。わたしたちが彼の子種を授かるほどにお情けをいただく暇はあるのかね」
「あら。今頃気づいたの。セラム。アナタ、彼が館にいる間はもちろん工房で出入りする間も狙って、彼の時間と仕事ぶりを見守り、滞るようなら手伝うくらいしないと、お情けどころか話をする機会もないかもしれないわよ」
良いところに気がついたと褒めるような顔でリザが言った。
「それは家令とか執事とか云わないか」
「セントーラは手強く働き者よ。放っておいたら彼女が全部やるわ。……そういえば下の子達と可愛いメイドはどうしたの」
なぞなぞの答を示すような顔でリザが笑った。
「学志館で今頃年度末の試験だ」
「そうか。残念。帰るまでに会えるかしら挨拶状のお礼ができてないわ」
「明日行ってもいい」
距離を無視したように気軽にマジンが言った。
「まぁそうね。……ほらね。こういう風になるのよ」
マジンの言葉に同意して、リザはセラムに笑いかけた。
「機関車は別のもあるんだ。そっちを使ってデカートまでゆくか。多少は乗り心地も良い」
「いいわね。楽しみ」
その後、三人はマジンがデカートに建てた春風荘という学生寮兼船小屋の話とその寮生の話でしばし賑わいだ。
食事の席は一転して穏やかな話題に終止した。
ヴィンゼとローゼンヘン館の道のりはリザが館の周辺地形を友人たちに紹介しているうちに日が落ちてしまったらしい。もともと雪が残った道では馬の足も多少は鈍り一日で歩ききるのは難しくなる。日が落ちた道を急ぐのを諦めて野営で一泊したという。
農夫たちの冬の出稼ぎに工作や港での労務の話が家人から出て、客の女たちの興味を惹いた。
激情を示したファラリエラも今は落ち着いていて最初に見えたどこかのどかな柔らか気な表情で笑って食事をとっていた。
今年は蕪や大根キャベツの出来が良くてよく太っているらしいという話は明るい話だった。
ミリズとミソニアンの船頭ふたりとエイザーは鉄道ができたおかげで食事は館で取ることが常になっていた。エイザーの禁酒は今のところ続いているらしく最近は船小屋のあれこれを整理したり、プリマベラの艤装の手入れなどをやっていて、冬の間は出稼ぎに来た連中に脱穀機の部品の切り出しや組立の指導をおこなっていた。
モイヤーとガーティルーは鉄道の前方と後方の機関車の運転手を任せている。ひとりでやれないこともないはずだが、人足の仕切りや積み荷の管理もあるのでひとりでいい加減にやられるよりは少なくとも眼と手を置いておくことにした。モイヤーは人足連中には評判は悪くなく、口は悪いが気配りのできる親分肌で通っていた。アルジェンとアウルムと二人の関係もお仕着せを仕立ててやって一年も経つと落ち着いていて、食事の席で何かを融通するくらいはできて、いちいち揉めることはなかった。
オーダルとライアの親子は広すぎるローゼンヘン館の家政の実働中心として働いていた。マイノラとマキンズが男手として助けることもあったが、なかなか頑張っている。
十五人の家人と四人の来客というのはそれなりに賑わった食卓ではあるが、ローゼンヘン館の大きさを考えればむしろ少ない人数とも言えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます