マジン二十七才 1

 ローゼンヘン工業の隠された窮状についてとは別にゲリエ卿としての公人としての立場は、元老院で捕虜送致の事業についてどうにかする必要について判断を求められていた。

 実のところ捕虜収容所の収監者たちの労務はデカート州全域で広く効果を認められていた。

 鍛えられた労務者は単に畑を牛馬の代わりに畑を耕すのとは違って、一段専門的な街道の整備や灌漑治水という作業をおこなっていた。

 労務経費そのものは州税から支払われている。

 ザブバル川の氾濫は多くはなくとも突然に引き起こされ、しばしば数百の家諸共に畑を流し埋める。氾濫を考えれば、日々の畑の手を休めずその対処ができることは重要だし、適度に河川域が整理されることは副次的な利益もあった。

 そもそもにそれなりに道具が扱え土地に応じた手当が惑いなくできるなら、それは先行きに必要な投資であった。

 そして、長らくの堰堤作業の土木工事で鍛えられた帝国出身の労務者たちは、ローゼンヘン工業の保護と指導の下、その有能を大いに発揮していた。

 素人と玄人の差が道具立てと資材をよどみなく選べるところにあるとするなら、収監者の労務は既に玄人の域に踏み込んでいた。

 また、鉄道が従来の街を避けるように外縁を巡ったことで、その鉄道街道に新たな集落ができ始めていた。

 集落が町の外に広がったことは多くは往来の利便によるものだが、人口や資産がそれなりにデカート州内に増え始めていたことの象徴でもある。ソイルも基本的に人の往来と利便からデカートからフラムまでのザブバル川沿いの幾らかの集落をダラダラと飲み込んで繋がった街ではあるのだが、鉄道沿線にも似たように広がり、しかし少し毛色の違う町並みになっていた。

 鉄道沿線の多くの集落は基本的には商会の倉庫や社宅といった街の中心にある必要のないものだったりしたわけだが、水がよく平地があっても途中が険しく割にあわないと放置されていた土地に手が入り始めたことも大きい。

 そういう新田町がデカート州内あちこちに増え始めていた。特にヴァルタのあたりは氾濫対策に水はけが整備されたことで随分と畑も増えていた。

 こういった事業の全てが捕虜の手によるものではないが、多くが彼らの労務によるものであることは地元の者たちも知っていた。

 そして求める者の常としてひどく無神経なまでに無邪気に、捕虜の受け入れを増やせば良いのにと、あたかも家畜を増やすような有様で口にする者が増えていた。

 元老院でのマジンが見解を求められる事柄の多くはすでに州内をあらかた出た鉄道ではなく、完成への道筋が見えた第四堰堤ではなく、捕虜受け入れ事業の話だった。

 個人的な感想としては、このあと近年中に実施する予定の実験炉の検分を含めて、これからの浄水場に稼働の目処がつくまではカシウス湖の危機は去らないし、幾らかは平行して推めていても浄水場の完成と稼働は五年かそこらはかかる腹づもりだった。

 捕虜収監事業は、回転資金とまとまった土地があれば経験ある看守と組織をさし上げるから、どなたか引き継いでいただきたい、と云う種類のマジンの好みとは異なる種類の事業だった。

 しばしば捕虜労務者の利益をデカート州に還元すべきではないか、という無邪気に欲深な人々の意見は全く的はずれでもある。一応完成されている事業を受けて、それは社債の形であと五年もすればローゼンヘン工業の利益から還元され始める事になる。

 元老院で無為に時間を過ごし審問に答弁する度、ゲリエ卿としてマジンは、賢兄の無能を愚弟が知恵を絞って差配していることに疑問があるならいつでも采配は投げて差し上げる、などとぶちまけてもやりたかったが、いまはまだそういう時期でもなかった。

 鉄道も堰堤も様々な事業も他人に投げ渡すような時期ではなく、特に堰堤事業は浄水計画という治水計画の後段に入ったところだったので、いま投げるのは全く危険だったし、いま投げ出すと資金回収をローゼンヘン工業本体に期待するしかなくなってしまう。それがどういう意味を持つかといえば、最終的に鉄道事業の未達を意味することになるだろうということだった。

 無力な誰かがその気になってマジンの采配からカシウス湖を取り上げれば、百年のうちにデカートは毒沼に沈む。

 それにここ数年来の調査の結果、カシウス湖の鉱脈としての見積もりは二桁変わると云う目算も出てきた。

 元来は浄水だけと言うつもりであったのだが、水底の汚泥を回収したところかなりの量の金属が砂やら石塊のような状態で相当に純度高く沈殿していることがわかった。とはいえ広いカシウス湖のいったいどこにどういう風に沈殿しているのかは全くわからない。

 浄水事業が軌道に乗れば潜在的な鉱床の価値としては十六倍から四百倍程度変わる。

 今のところは画餅というのも危険な毒の水たまりという以上の意味もないカシウス湖だったから、単に指のしゃぶり甲斐があると云う皮算用以上の意味があるわけではない。

 もちろんある程度速やかに、浄水事業の採算運転が進み、第一第二堰堤を破壊しないままにカシウス湖の水位が引くほどに浄水事業が順調で、且つ時間予算を含む資源的な破綻がないままに推移した場合、という極めて楽観的な事業見通しによるものであったが、実験室規模では各要素技術そのものは全て順調に稼働していた。

 実験室規模のものを体積時間スケールを考慮にいれれば数億兆倍に拡大する必要があるという点が一つの困難事業ではあったが、実証採算試験を先行的におこなうことである程度の目論見は達せられる。

 仮に核子転換炉発電機が順調に動力として成立してその期待できる力は、単純に動力の投資という意味では無駄ではあるのだが、余剰の電力は鉄道経由でどこなりに供出すれば良いし、熱に関しては浄水装置の性質上ある程度の幅は吸収できる。

 面倒なのは人員の維持くらいだった。

 大規模施設の特徴として平時は極めて静かで問題が起きた場合に兆候段階での対処判断に失敗すると連鎖的に被害が大きくなるというものがある。

 幸いにカシウス湖は完全無欠の禁足地であるが故に殆どの来訪者の問題は避けられるが、例外はあるし、問題は来訪者だけによるものではありえない。

 加圧炉内部で活動可能な作業服の設計や遠隔作業が可能な点検機器等の補機類の整備がないと、実証炉の成績がよくても二百年の稼働を睨んだ運転炉を立ち上げることは難しい。

 ローゼンヘン館の裏手で運転している核子転換炉の試験は今のところ順調だったが、カシウス湖の浄水設備に組み込んでの実証炉や、更に拡大しての運転炉までは十年でたどり着くかは少々怪しい。

 しかしそういう面倒や厄介事があるにしても核子転換炉発電施設は浄水計画の上で必要だった。

 カシウス湖の浄水計画を完全実施を想定して計画する上でわかったこととして、仮に石炭を動力として実施しようとするとフラムを全域平地にするだけの石炭が必要である。フラム全域と言ってたかだか十数リーグ四方のことではあるがその全てが石炭で出来ているはずもない。

 理性的な採算事業としては成立し得ない第四堰堤事業を成立させているのは、全く個人的にマジンの趣味と願望による野心的な実験というその一点にかかっていた。

 漸くに様々が揃い、面白くなり始めたカシウス湖の浄水事業はいままさに全力のマジンの采配を必要としていた。このあと社債の支払いが始まり終わるまでに将来見積もりが出せるような状態に持ってゆかねば、ローゼンヘン工業の巨大な赤字製造部門になりかねない。

 事業が腐る前に初動を揃えたいところで、はっきり言えば元老院への出仕列席もここしばらくは忙しすぎて辞めたいくらいだった。

 だが、ダッカからの公使がゲリエ卿を名指しで指名して様々の案内を希望したり、サイロンの港湾部長が見学に来訪したりと様々な来賓があって、様々に時間や面倒が多かった。

 余計なところで余計な形で名を売ったことが様々に影響していた。

 一時は身じろぎすら出来なかったセントーラはどういうわけか無事男子マルスを出産し、しばらくはやはり立ち歩くのにも介添えが必要だったが、体のあちこちの骨を支えるのに使っていた針や金具を抜くと机仕事を始めていた。

 最初はマジンが溜め込んでいる書簡の類を整理して、マジンに渡したり決済をまとめたりということだったが、シェラルザードに計算を手伝わせて次第に本格的に家令として家政の作業に復帰していった。

 シェラルザードは謙遜していたがそろばんに慣れていて、手回しの計算機や加算装置に入力する手間で答えを出せる技能を持っていたから、経理事務の大半を司る検算という煩雑な作業の助けになってくれた。

 セントーラがローゼンヘン館で事務に復帰しシェラルザードともどもローゼンヘン工業の監査統括を一手に引き受け始めたことは、人員の膨張により責任が散らばり始めていたローゼンヘン工業の紐帯を引き締める役割を果たしてくれていた。

 元来そこはマジンの社主としての責任だったのだが、マジンが事務を刈り込み始めると計画そのものまでも整理が始まってしまい、結局再び全てが社主一人に集約されてしまうことになることを恐れれば、社主には可能な限り決裁以外の何物も頼らない組織を今は固めるべきだった。その上で社主には新たな事業をやっていただく。今はそうしなければ、誰も彼もが新しすぎる様々に追いつけない状態だった。

 もちろん形の上ではなんとかなっている。それは電話や印刷を自由に使え電灯や紙をほぼ無制限に使える事務環境にあるからだが、その紙や灯火或いは電話計算機といった様々があってさえ、或いは時計や眼鏡自動車といった一種の贅沢品があってさえ、それを上回る様々があってさえ、問題を感じるようになり始めていた。

 結局ヒトは自分の想像の範囲を超えることはなかなかに受け入れがたく理解しがたく、気が付くと自分のしたいようにしてしまう、ということだった。

 それを糺すには、人を諭し導く時間が必要になるのだが、日々の中でそれをなすにはローゼンヘン工業の業務は世間一般とはあまりに浮世離れしすぎていた。

 ローゼンヘン工業は早くも二度目の潔斎を必要としていた。

 セントーラは不在の間に起こっていた様々な改革や改定について、概ね好意的な感想を抱いていた。

 特に社主が責任者を定めた事業計画について監査以外の目的で介入しないという原則は全く完全にそうあるべきだとした。

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