喫煙室の少女

桜枝 巧

喫煙室の少女

 いつから「俺」でなく「私」と称するようになってしまったのか――そんな生産性のない、どうでも良いことを考えてしまうような、そんな朝がある。

 笑ってしまうくらい真っ青な空だ。

 梅雨明けが発表された今日、頭上には雲一つなかった。

 駅の入り口にある電光掲示板を見て、溜息をつく。

 「六時五十一分発 桂田行」の表示が今、ふっと消えた。

 肩を軽く回し、改札を通り抜ける。



 朝の駅内はそれなりに混んでいる。

 私と同じ、何かを諦めたような顔で歩いていく男性。

 赤い口紅を唇に浮かべたOL。

 私立の子なのだろうか、洒落た制服を着た、小学生らしき女の子。

 階段を上り、改めて電光掲示板を見る。次の列車まで、二十分ほど。

 結局いつもの列車に乗るわけだから支障はないが、ニ十、という数字に肩の重みが増した気がした。

 三・四番のプラットフォームに上った私は、傍にあった柱に寄り掛かる。通路へと続く階段と自販機、ガラス張りの喫煙室だけの簡素なところだ。

 前の列車が行った直後であるからか、ホームにいるのは私と、それから改札口で見た少女の二人だけだった。向こうは私に気がついていないようだ。

 長袖のワイシャツ。その上から、黒く袖のないワンピースを合わせている。ランドセルの代わりに背負った同じく革製の鞄は、一見しただけでも一般の小学校のそれではないと知れた。

 遠くから見る程度であるから、その表情は窺えない。

 ただ、肌の白さがいやに目立つ。


 真直ぐに背を伸ばした彼女は、何でもないかのような足取りで、躊躇なく――喫煙室に入った。


 ……喫煙室?


 ぼうっと少女を見ていた私は、慌てて我に返る。

 小学生が、喫煙室?

 待機室と間違えたのかと思った。

 しかし、彼女は透明な壁の囲うそこから出てくる気配すらない。

 あれだけ煙たい部屋、大人の私ですらすぐに飛び出すくらいであるのに。

 どうすればと、少々迷う。声をかけた方がよいのだろうか。だがそれで不審者と思われるのも――。

 ――一分ほどが過ぎたくらいだっただろうか、少女が、喫煙室から出てきた。

 咳き込むような動作も見せることはなかった。何事もなかったかのように、彼女はプラットフォームを歩きだす。


 その時、不意に少女と目が合った。


 少女の目が、大きく見開かれた。階段へと、慌てて走り出そうとする。

「ま、待ってくれ、別に私は」

 そう言いかけた時、少女が転んだ。

 急に駆け出したせいで足を絡めたのだろう、肌とコンクリートがぶつかり合う音が響く。

「だ、大丈夫か?」

 咄嗟に走り寄って起こしてやる。彼女は口を一文字に結んで、必死に痛みに耐えていた。

 ――モノクロだ。

 それが、間近で彼女を見た時の感想だった。

 眉の上で真直ぐに切られた前髪も、伏せられた睫毛も、その奥に潜む瞳孔も、その全てが漆黒だった。対して肌とワイシャツは、ただただ白い。

 黒と白で構成された彼女は、膝小僧にできた赤を足し、ようやくこの世の住人として留まっている。

 「普通」ではないと、そう思った。

 ガラガラになってしまった喉を必死に震わせる。

「お、驚かせてしまったみたいだね、申し訳ない」

 少女の夜色の瞳が私をのぞき込む。薄い唇は一瞬たりとも動きはしなかった。それが、私の焦りを増長させる。どう、何を、話せばいいのだ?

「その、安心していい、私は誰かに君のことを言わないよ。君の『それ』は、そう、君だけのものだ」

 落ち着かせようとして変な上っ面の言葉だけが口から飛び出したのが分かった。

 何をしていたのか確かめてすらいないのに、だ。

 しかし少女は、私の声に反応した。二、三度肩を震わせた後、ぽそりと呟く。

「……ほんと、ですか?」

 鈴蘭のような、儚い声だった。

 疑わし気な、それでいてどこか縋るような視線に、心臓を素手で掴まれた気分になる。

「本当だ。ただ君が何をしているのか気になって、いや別に変な意味ではなくてね、あーっと、だから、私は別に怪しい者でもなんでもなくて」

 自分でもわかるほど不可解な言葉が並べ立てられていく。

 首筋から汗が噴き出た。

 こういう時、何を言えば良いんだ。娘も息子もいない身としては、子どもの扱いなど知るわけがない。上司からの叱責をうまく避ける方法ばかりを考えてきたから、ああ、もう――。

 少女が小さく噴き出した。

 星が目の前で煌めいたような、そんな気がした。

 慌てふためく中年男性の姿がそんなに可笑しかったのだろうか、頬が幽かに色づいて、びぃ玉のような笑みをこぼす。

「おじさん、変なの」

 彼女はそう一言漏らすと立ち上がった。スカートの汚れを軽く払う。

 そして、はっきりとこう言った。


「わたしはね、友達を待ってるの。いっくん、にこちゃん、たぁくんって言うんだよ」


 視界の端で、清掃員の女性が階段を上ってくる。少女は「やっば」と呟くと走り出した。

 大量の学生とサラリーマンの波が階段を駆け上がり、自身を飲み込むまでの間、私はただ茫然と少女を見ていることしかできなかった。




 次の日のこと。いつも通りの快晴だ。

 私は何となく早めに起きて、駅に向かっていた。

 しかし、今日もまた、駅に着いたのは六時五十一分。すぐに壁際の時計の長針が進み、電光掲示板の表示は消える。

「……いつも通りの列車に乗るわけだから良いか」

 溜息をつきつつも、不思議と肩にのしかかるそれは私を襲ってこなかった。

 プラットフォームに上り、喫煙室を見る。

「……居た」

 昨日の少女だ。

 丁度、喫煙室に入っていくところだった。

 真直ぐに透明な箱の中へと吸い込まれていく。

 私は数秒だけ迷ってから、彼女に見つからない、しかし様子が良く見える柱の一つに隠れた。

 少女は、喫煙室の隅の方でうずくまっていた。

 連なる青いプラスチック製の椅子の上に、両膝を行儀悪く乗せ、両腕で抱え込み、頭で蓋をする。その先にある指たちは絡み合い、解けることのない錠を作り出していた。

 何かの祈りのようだと、ぼんやり思う。

 やはり、彼女がそこにとどまる時間はそう長くはないようだった。

 不意に、立ち上がる。

 重たい喫煙室のドアを開けた少女は、柱の傍で突っ立っていた私を見つけた。


「……なんだ、おじさんか」


 彼女は苦笑いをしながら頬を掻く。

「お友達には、会えたかい?」

「いっさん……いっくん達なら、そこにいるよ。私は、待ってるんだけどね」

 質問に返ってきたのは、矛盾した透明な言葉。

「待ってるんだけれど、大人になれない、の」

 そう言って、少女はプラットフォームを駆け、その先にある階段へと消えてしまった。

「大人になれない、か」

 モノクロの非日常が残した言葉を咀嚼してみる。

 ……やはり、分からなかった。

 答えが出ないうちに、階段から大量の人波が押し寄せてきた。

 すぐに飲み込まれる。

 いつものように溶かされていく自分を、何故だか少しだけ嫌に思った。




 少女は、六時五十三分から五十四分までのきっかり一分間、喫煙室に籠るようだ。私は、毎日早めに家を出ては一本前の列車に乗り遅れる、ということを繰り返すようになった。

 一週間ほどが過ぎたころだった。


『三人のことはね、近所のお兄ちゃんに聞いた。大人は皆、その子達が大好きなんだってさ。つまりその子達といれば大人になれるってことでしょう?』

『私を大人にしてくださいって頼んで、ずっと待ってるのに、誰も姿を見せてくれないの。せっかく親しみを込めていっさんのこといっくんって呼んでいるのにね』


 私は、ここ数日の話を一つずつ思い出しながら、彼女を待っていた。

 理にかなっている、とは言い難かったが、やはりこの少女なりの理論というものがあるようだ。

 ――六時五十三分、おかっぱ頭が現れる。

「……おじさん暇だねえ」

 喫煙室に入ってきた少女は一言、そう言った。

 一つ、息をつく。禁煙室内に入り込んだ自分に何も言わないところを見ると、どうやら私はここで彼女の儀式に立ち会うことを許されたらしい。

 私は五人掛けの椅子に腰を下ろす。

 彼女の邪魔にならないよう、反対側の端に座った。

 少女は、うずくまる。

 やはり誰かを待っているというよりは、何かに祈りを捧げているように見えた。

 普段の私なら、副流煙だの何だのが渦巻く領域に小学生が入ることなど、許しもしなかっただろう。

 だが、私は彼女を止めることができないでいた。

 やがて儀式は終わる。焼けていない、細すぎる足を椅子から片方ずつ落とす。

「今日も、会えなかった」

 きっかり六十秒。

 喫煙室から出た少女は、そこで初めて諦めたような表情を見せた。

「……やっぱり、大人になってあいつらに勝つんだっていう気持ちがフジョウだから、ダメなのかな」

 少女はそう言って、密やかに咲く菫のような笑みをこぼす。

 寂しさと自嘲を含んだ、微笑み。

 訳が分からなかった。ただ、この少女もまた何かと闘っているのだと知れた。彼女にしか分からない特異な理論で、だ。

 ……羨ましい、と思った。

 モノクロの少女が持つ、言わば純粋な「異様さ」というものに――私は惹かれていた。彼女くらいの年代独特の、奇異で、異質で、特別な思考、感情。

 自身にしかない思考を信じ、それが当たり前であるかのように、喫煙室へと足を運んでみせるのだ。

 私もかつて、そうだったのだろうか? 少女のように、純粋な「特別」を抱いていたのだろうか?

 ……もはやかつての思いは薄れ、思考は常識に塗りつぶされ、思い出すことすらできなかった。

 立ち尽くす私に、少女が首を軽くひねった。変なの、と呟いた後、階段へと走っていってしまう。

 やがて人の波が押し寄せた。通勤ラッシュだ。


 ――不意に、逃げたい、という思いに駆られた。


「あ、嫌、だ」


 何故か、そんな言葉が漏れる。

 違う、違う、私は、お前みたいな集団の一部なんかじゃあない、私は、俺は、あの少女みたいに――

 しかし、私は為す術無く流された。

 人混みの中、じわりと背中に汗が広がっていく。




 その日は、案外あっさりと訪れる。やはり突き抜けるような青が、空一面を染めていた。

「いっさん、にこちゃん、たぁくん、ねえ」

 三人の「友達」の名を呟きながら、私は定期の入った財布を取り出した。

 六時五十一分発、の文字を確認する。

 きっと、階段を上る内に消えてしまうだろう。

 改札を通り、プラットフォームに入る。


 その瞬間、私は硬直した。


 少女は既にそこに居た。

 いつもの時間より一分ほど早い。

 そして――その隣にもう一人、いる。

 考えるよりも早く、足が動いた。

 喫煙室の扉を開く。

 思った以上の音が、大人の溜息を詰め込んだ部屋の中で響いた。

 室内にいた二人が振り向く。

「あ、おじ、さん」

 少女の真っ白な頬は、もはや青白くなっていた。肩が震えている。助けを求める瞳が、私を見た。

 その隣、彼女の言葉に眉をひそめたのは、いつかの掃除員の中年女性だった。

「……なんですか、あなた。この子と知り合い?」

 あ、いやその、と、どもった声ばかりが出る。

 どうにか「まあ、そうです」と答えた。

 少女の瞳が、最後の煌めきを見せる。

「わ、私友達を待ってたの、いっさんと、ニ――」

「お友達は、こんな煙臭いところには来ません。ほら、さっさと出る!」

 女性は彼女の言葉を遮り、その細い腕を掴んだ。

 射るような視線が、私を貫く。

「あのねえ、子どもをこんな危ないところに放っておいてどういうつもりなんです?」

 正論に、返せるような言葉はなかった。

 扉を潜り抜ける一瞬、少女が私を見た。

 初めて会った時に見た、縋りつくような視線。

 ――静かに首を振ることしかできなかった。


 少女の中で、何かが割れる音がした。


「いや、やだ、大人になるんだ、あいつらを見返してやるんだ、お願い、好きにさせてよ――」

 少女の掠れた声は空気を引っ掻くだけだった。私達はガラスの外側へと、追い出される。

「大人の領域で子どもが遊ぶんじゃありません」

 女性はそう言って、最後に私を一睨みしてから背を向けた。

 すぐに階段へと消える。

 私は一、二度咳き込んだ。

 煙草の臭いはなかなか抜けてくれなかった。一酸化炭素が、ニコチンが、タールが肺の中に侵入するのがわかる。

 彼女を「大人」にしてくれるという「友達」が、私を満たしていく。

 そのうち、階段の方から、人の集団がやってくる。

 私達は二人で、それに飲まれた。

 誰かの背景と化していく私に対して、少女はやはり際立っているように感じた。

 今まさにそれによって傷ついているこんな時でさえ――彼女は「特別」なのだ。

 私は、静かに口を開いた。

「……なあ、とてつもなく酷いことを言っても良いかい?」

 ぐずぐずに溶けた瞳が、こちらを見上げた。


「私はね、君には大人になってほしくないんだよ」


 一瞬にして表情の固まった彼女の頭を、そうっと撫でる。案外固い。

「残念ながら、私は君の敵を知らない。知ったところで、きっとほとんど何もできない。……そんな勇気も能力もない」

 私はそっと目を伏せた。少女はされるがままになっている。

「それに、このままでいれば恐らく、君はもっと傷を負うだろう。異質には少々厳しい世界なんだ。だから皆『大人』になる」

 常識や身のかわし方、諦め方を身につけて、私達は大人になった。

「だけどね、それでも私は、君にはそのままであって欲しいんだ。……エゴだよ。私の汚い、押し付けさ。本当にごめんな」

 少女から手を放す。自己嫌悪に似た感情が、内から噴き出してくる。私は一体こんな小さな子に何を言っているんだ――


「分かった」

 唐突に少女はそう言って一つ、頷いた。


 目の前が急に開けた、そんな気がした。

「頑張ってみる。わたしは、おじさんみたいにはならないよ」

 私の表情を見て、彼女は「……なんて顔してるの? やっぱり、変なの」と笑った。今までで一番、柔らかな笑みだった。

 モノクロの少女は最後に一つ、小学生らしく頭をぺこりと下げて、走っていった。すぐに階段の向こう側へと消える。

 私はただ茫然と、それを見送った。

 彼女が本当に私の言葉を理解したのかは分からなかった。ただ察して、応えてくれただけなのかもしれなかった。それでも良いと、そう思った。

 やがて列車がプラットフォームに滑り込んでくる。乗り込む前、一瞬視界の端に喫煙室が映った。

 列車のドアが、閉まっていく。


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