老錬金術師は衰えず。ただ伸びざかるのみ。
「体育館に行く気が起きないわ。あの爺さん、いまどこにいるのかな。」少女はマーガスを探してうろうろとしていた。実習棟の向こう、教室が並ぶ棟への分かれ道まで来たところで教室側の廊下を見ると少年が一人、ポケットに右手を突っ込んで立っていた。この光景に彼女は違和感を覚えた。
その違和感は、今、生徒が校舎内にいるはずがないということ。
(今、みんな体育館に集められてるはずよね? 後から来たのもそっちに行けって言われるだろうし。)教師が言っていた言葉を反芻する。
(じゃぁ、誰なのこいつ。)安和は少年を頭からつま先まで観察する。確かに少女の高校の詰襟学生服だし人の顔をしている。だけども彼女は目の前の少年が人ではないんじゃないかと感じていた。
(なんか、なんかだけど私達からずれてる。)彼女はマーガスからもらったモノクルをポケットから出すとそのレンズに廊下の奥にいる少年を通す。
モノクルの中にある少年の姿。それは影絵のようにくっきりとした黒色のシルエットで映っていた。
「っい!?」安和が自らの体に見た時に見えていた黒の靄どころではない。まるで空間をその少年の形にべっとりと塗りつぶした真っ黒な何かだった。
(やっぱりこいつ。違うんだ。)モノクルを目の前から外してジッと視線強く観察を続ける。彼はこちらに気づいたようだ。リノリウムも鳴らさずにまっすぐ歩いてくる。その姿が大きくなるにつれ安和の背にぞっとしたものがこみ上げてくる。
(逃げた方がいいのよね? 多分。でも……。)少女の心に刺さった棘が彼女の脚を刺し止めていた。
「オハヨウ。」日本語だけども日本語じゃない声で少年は彼女に声をかけてきた。日本語どころかそもそも人でないような、喉を使っていないような発声。それに彼女は少し動揺した。
「! ええ。いいのあなた? 今みんな体育館にいるはずなんだけど。」
「ン.アア。チョットネ。」少年は左手で頭を掻いて視線をそらした。
その手をみて安和は一つ気になった。
(指、指。あそこにあった指は一本。左手は全部ある。右手は?)彼女が肩口から追いかけた彼の右手はズボンのポケットの中に納まっていた。
(見えない。どうやってか引っ張り出せないかしら。)少女は握手をするように手を伸ばしてみる。それにこたえるように彼の手がポケットから――出ようとしたときに何かが床を打つ音がした。安和が右手を引き下を見るとそれは左手に持っていたモノクルだった。
「あ、ごめん。」彼女は少年から目線を切った。モノクルへと。少年はそれを好機と口を割いた。
モノクルを拾いあげようとした安和の周囲を突如として光が包んだ。
「 ! なにこれ!」驚きに頭を振り上げた彼女の頭上には人の頭ほどある黒い影。その真ん中には赤い線が真横に一本広がっていた。その赤い線が風船のように膨らむと話すようにもごもごと動き出す。
「! グッガ! バリア!? オマエナンデコンナ!」少年は食らいつこうとした女がそのそぶりも見せずに結界を展開したことに心底驚いていた。
安和はその影の下から逃げ大きく後ろへ飛ぶ。少年だった影はせっかくの餌逃がすものかと影を伸ばして少女を襲う。
「っきゃ!」どうしていいかわからない彼女は顔の前で手を交差させて防御らしき動きを取る。本来であれば魔術を通わせてないそれは影相手には何の意味もない行動だった。
「やはり素人!」さっきのは何かの間違いだったのだと影は人語でない言葉を吐きながら決めつける。伸びた影が安和に届けば食うことなど容易い。影は、赤い線を笑みに釣り上げる。
その彼をあざ笑うようにまた少女を囲んで光の柱がそびえ立ち影を打ち払った。
「また!これっていったい何なのよ?」安和に対して影は立て続けにその魔手を伸ばしてくる。
「や! こないで!」少女は、顔の前にある手を影目掛けて押し出した。その手の動きに応える様に光の柱はその範囲を広げ黒い影に衝突すると彼を廊下の向こうまで弾き飛ばした。
「とんでっちゃった……これっていったい。ホントになんなの?」安和は腕を前後左右に振り動かしてみる。自らを囲う光柱は手の動きに合わせてその範囲を広げたり狭めたりを繰り返す。速度を変えるとその拡大も併せて変わる。
「さっきあいつふっ飛ばしたのはこの壁がふっ飛ばしたんだ。(これなら、やれそう!)」勝ち目を、戦える力を見つけたと感じた彼女は吹っ飛んだ黒い影へ強気の視線を向けた。黒い影は、すくっと立ち上がると尋常でない速度でまっすぐに彼女へ突っ込んでくる。戦おうと奮い立った彼女の心はあっさりと折れた。
「うあぁ!!」彼女は手を振り光の壁を押し出すと突っ込んでくる少年を払いのける。
「やっぱ無理。 無理! 何あれ。あんな速さ人間じゃない! 変態! 変態!! ヘンタイ!!!」安和は背中を向けて影から逃走する。
背中でバチンバチンと音がするところを見ると影が何度も光の壁に突っ込んできているのだろう。叩きつける音を追い出す様に背後に手を一度振るう。その腕に応えた光の壁に影はまたも弾き飛ばされる。
「うっひぃ!」わずかに空いた時間。もう言葉にすらなってない声で叫びながら彼女は校舎の中を走り抜けていく。
「だぁれかぁ! たぁすけてぇ!」求めるも応える者は誰もいない。
(助けてくれそうな人! 人!! って。あの爺さんしかいないじゃん! 外にいったから!)手近な窓を開けよじ登って安和は外に躍り出る。彼女を追って悪魔少年はエスカレーターに乗るように斜めに宙に浮くとやすやす窓枠を超え外へ滑り出る。
「ほんっときっもい動きしてる。」安和は、錬金術師がいないか探す。
「オトナシクシテテホシイナ。サワグキミノコエヲ、ゴマカスノモテマナンダ。」
「はぁ? んなこと頼んでないわよあたし!」
(光の壁でもっかいぶっ飛ばして時間稼ぐしかないかな?)グッと足に力を入れて悪魔少年を真正面に見据える。
緊迫した少女だけ命がけの鬼ごっこ。鬼に一度触れられたら命が終わりの鬼ごっこ。
それは校舎の棟を掻っ捌き二人の間をわけ隔てる様に一条の光の帯が夜明けのように入ったことで突如として終わる。
「なに! 今度は何!」少女は光の方向を見やる。帯は校舎の棟を作る構造物を人ごみのようにどかして道を開けさせる。
その奥にはワイン色のスーツを纏った現代離れした古臭い老人が一人。
マーガス・ヴァッヂ・トランディル・シーデルオンがステッキを振るって凛々しく立っていた。
「やれやれ。これ以上暴れるのはやめたまえよ。悪魔としてみっともないぞ。」中庭にたどり着いたマーガスは手をピッと上げ後ろに合図する。その合図に彼のために割れて道になっていた校舎は逆回しのように蠢きぴったりと元の姿に戻って見せた。
「マーガス!」
「嬢ちゃん無事じゃな。いやぁ、アミュレットを肩に挟んどいてよかったわい。何かやらかしそうじゃったからなぁ。」安和のそばに立ちマーガスは彼女の肩のあたりを眺めて示す。
「肩?」マーガスが指し示す方の肩に手を当てるとごつりと布らしくない感触。何か硬いものに当たる。ぐっと引っ張りよせ首をよじって見たそれは青い大きな水滴の形をした宝石をはめ込んだ金色のブローチだった。
「もしかしてあの光の柱って」
「それの力じゃよ。嬢ちゃんは無茶しそうな顔しとったから。あの道端であった二度目の時にパチンとの。」
「さて、お前さん。ようもやってくれたのぅ。食ろうた少年の体を弄びまでしおってからに。まぁ、それよりも嬢ちゃんに手を出そうとした方が頭にきておるがのぅ。」刺すような怒りを込めた目でマーガスは影を見る
「ヒトノフゼイデ、ダレニコトバヲキイテオルカ! ヒサビサニデテコレタセカイ。ココイワタシニマサルモノナドオルハズモナシ!」
「おる、おるのよなぁ。そういう勘違いした悪魔。こっちに自分の様な変異な存在がおらんと思っていきがっておる奴が。」
「マーガス、あんた余裕たっぷりだけど勝てんの?」安和は老人にこの異様で超常的な少年の相手が務まるのかを心配した。
「嬢ちゃん何度も言うようにじゃな。儂は……」
「天才なんでしょ。それミミタコ。そうだってんならとっとと勝って証明して見せなさいよ。マーガス。」その言葉にマーガスはニッと笑い、悪魔少年は驚愕に眼と口を開いた。
「マーガス? マサカ、シェパードノマーガス?」
「今は、その呼び名はつこうとらんのじゃが。やはりそっちの方がお前さんらにはなじみがあるのかのぅ。ならば、署名を見せようか。」そう言ったマーガスの背中で高貴な紫色の光が幾条も走り複雑な図形を構築していく。
それも幾重にも。さながら万華鏡のように。
その署名を見た安和は一言、綺麗と言っていた。
「君も悪魔なら知っているだろう。署名の階層と複雑さは実力と素直に比例することを。この高階層高密度の署名を持つ召喚士を
署名を見た悪魔は狼狽しているようで先ほどまでの余裕はすでに吹き飛んでいた。
「なんで貴様が此処にいるんだぁ!」影は、悪魔の言葉で己の悲運を叫ぶ。少年の死体を盾に殴り掛かる以外この魔物には残っていなかった。
「聞きにくい言葉じゃのぅ。なぜここにいる。と言っているようだが。決まっとるじゃろう。」
「ワシャ天才じゃからして。何処に何時いても何の不思議もない。そうじゃろう?」
ステッキを剣のように持ちなおすと悪魔少年の胸を鋭く突いて悪魔を少年の死体からあっさりと引きはがす。
その悪魔の姿は真っ黒な影だった。
「モノクルで見たのと同じ……。」
「影のみで形をとれんか。限定的に呼ばれているのかそもそもの力がないのか。まぁ、あんな簡単な陣式と素人が呼び出したという状況からすると後者じゃろうな。」マーガスは経験と知識から悪魔の状況を見取る。
「おそらくは、魔界によく居る名もない烏合の者じゃろのぅ。」見定めていた影はマーガスを無視して安和目掛けてとびかかる。魔物は安和を人質に逃げようと猿知恵を働かせる。
「こら、相手は私だ。」老練な召喚術師はステッキを横に振るって少女と影の間に光の壁を構築して遮断する。ならばと、影はもう一度少年の死体に戻ろうとするがはじき返される。
「この感触は!?」弾かれるその感触は光の壁、光の柱とそっくりだった。
「無理じゃよ。もうその少年の体は魔術で封印しとる。」
「さ、終わりにしよう。」彼はステッキの石突でトンと地面を叩く。黒い影の足元から影自身を打ち消す様に光があふれていく。
「いやだぁ! 消滅は! それだけは!」悪魔は魔語で慈悲を懇願する。
「やかましいわい。消えろ。」クンとマーガスは手の中で一番長くすらりと伸びた指を一本天に向ける。その指に応える様に悪魔の足元を満たしていた光が天高くロケットのように撃ちあがった。
後には風と、巻き上げられた塵が残るだけだった。
「さて、嬢ちゃん。おしまいだ。化け物は今しがた消し飛ばした。」
「ほんと?なんかすっごいあっけないんだけど。」尋ねてから気づきモノクルを通して自分の掌を見てみた。そこに映るのはただの掌だけ。あれだけまとわりついていた黒の靄はきれいさっぱりと晴れていた
「まぁ、実力差が月とスッポンどころではなかったからのぅ。そうみえても仕方がないのぅ。」
「ねぇ、あの黒いのどうなったの? 最後なんか叫んでたけど。」
「あの影の存在そのものをこの世界の内から消し飛ばした。人や生物的なことで言うと殺したに近いことをした。死んだという状態にしたと言ってもいいかの。ま、もうあいつが出てくることは永遠にないということじゃ。」
「さて、騒ぎになる前に。ワシはここから去ろう。お嬢さんは……」
「あたしは保健室にでも行っとくわ。でも、彼はどうするの。」死体となって転がる哀れな生徒を気遣う。
「さぁのぅ。それは警察の仕事よの。では失礼する。レディ。」サッと礼をすると老紳士はトランクケース片手に足取り軽く彼女の前から姿を消した。残された彼女の心には一つ忘れ物ができてしまっていた。
「あ、お礼……。あたしマーガスにお礼しそこねちゃった。どうしよ。」
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