破:不可侵の箱庭

 日が昇る。

 ヨーロッパ共和国の軍港は賑わしくなっていた。

 主に騒音を奏でているのが、大ニホン帝国軍壱番戦艦“クモドリ”。全長210mの戦艦であり、主砲9門、副砲18門を搭載している。大ニホン帝国海軍でも、二番目に大きいサイズの軍艦である。

 そのクモドリの甲板上に、清六の姿があった。

 行き交う船員を余所に、清六は腕立て伏せを黙々とこなしていた。

「ふっ、ふっ……!」

 ボタボタと大量の汗を流し、一心不乱に同じ動作を繰り返す。

 数は覚えていない。そもそも数える必要がなかった。

 腕が動かなくなるまで、やる。ただそれだけのこと。

「……?」

 太陽が雲に隠れたように、周囲が暗くなる。

 清六が何事かと首を上げようとした瞬間、

「このヴァカタレェェ!」

 珠代のエルボードロップが首筋を捉えた。

「ひぎゃあ!」

 首をへし折らんばかりの威力に、意識が飛びかける。

 珠代は、続けざまに襟首を掴み上げ、往復ビンタの嵐で追い打ちをかけてきた。

「絶対安静だって言われたばかりだろうがっ! それなのに、なにベッドから抜け出して筋トレしてんだよ! このヴァカ! 傷口開いて、即行あの世逝きだぞ!?」

「……今、珠代の手で、あの世に逝きかけたでござるよ……」

 顔を色白くさせ、清六は言い返す。

「うるせぇ! ヴァカは口で言っても分かんねぇから、体に教えてやってんだよ!」

 腹部の傷のことを考慮して、腹筋や背筋は避けていたのだが、そのことを珠代に説明しても焼け石に水だろう。

 ――やれやれ、兄想いの妹を持つと大変でござるな。

 あれほど派手に斬られたのだが、奇跡的にも内臓の傷は浅かった。今は、エリクシールという奇天烈な薬品によって傷口は塞がっている。それでも、あくまで辛うじて繋ぎ止めているだけ。無理をすれば、傷が大口を開いて、あの世逝きもあり得なくはない――そのようなことを昨晩説明された。だが、あいにく清六の記憶には微塵も残っていなかった。

「ベッドに戻れ! いつ、悪魔どもが攻めてくるか分かんねぇ状況なんだぞ!」

「嫌でござる。拙者はもっと体を動かしたい」

 今の状態でベッドに寝ていろ、と言う方が無理な命令だ。

 一秒一刻でも、前へと進まねばならない。あの悪魔たちを倒すために、足踏みをしている暇などなかった。

「あんたって奴は……どこまでヴァカなんだよ! 死にてぇのか!? 死にてぇのなら、今ここで俺が死体未満の状況にしてやらぁ!」

「むっ……」

 まくし立てる怒声に清六は怯む。しかし、退くつもりなどなかった。

「我が輩も命令しよう。清六、さっさと傷を癒すのだ」

 清六が言い返そうとしたとき、第三者の声が割って入る。

「作戦が開始するまで、少しでもまともな体にしておけ。戦の場で、古傷で死ぬ間抜けなど、笑い話にもならんぞ」

 足音も立てずに現れた辰之兵は、淡々とした口調で告げた。

「でも、拙者は――」

「お前の気持ちも理解できなくはない。あんなものを見せられては、ジッとはしてられんだろう」

 辰之兵の視線は船の下――軍港の波止場――に向けられていた。

 波止場に立つ二つの人影。

 端から見れば、その二人の格好は異常としか見えなかった。

 水着姿の女子が箒に跨り、海へと飛び込んだ。正確には、数十秒間だけ宙を進んで、海へと落ちた。着水後は箒を決して手放さず、近くに垂れ下げられたロープを伝って波止場に戻る。

 そして、再び空へと挑む。

 何度も何度も。朝から続けている。

 帝国軍人が冷やかすような言葉を投げかけるが、彼女たちは何も反応しなかった。

 ただ、自分たちの行いを主張するように、空を飛ぶ。

「何してんだ……あいつら? よく冷たい海に何度も飛び込めるよな……」

「あれは、神風特攻作戦を聞きつけた魔女見習いであるな。先ほど、我が輩のところに、作戦に参加したいと申し出してきた」

「はぁ? なんでわざわざ、テメェのところに来るんだ? 自分の国の軍にでも掛け合えばいいじゃねぇかよ」

「知らん。我が輩もそう言ったが、彼女たちは帝国軍の方が良いらしい」

 肩を竦める辰之兵。その様子から、二人の申し入れがまともに受け止められなかったのが手に取るように分かった。

「あの二人は、ルシア殿の友達でござる」

「そう言われれば……なるほど。そういうわけであるか。だから、帝国軍か」

「あん? なんだよ。自己完結してねぇで、俺にも分かるように説明しろよ、ハゲ」

「おまえに分からないように説明すると、な。アンナ=ストレームは魔女代表代理ではなく、教師として入隊を拒否したのだ」

 珠代は眉間にしわを寄せる。

「クソが。意味分かんねぇぞ」

「だから、分からないように説明したのだ」

 おざなりの返事をしつつ、辰之兵は甲板の縁に歩み寄る。そして、息を大きく吸い、

「先ほどから目障りだ!! さっさと着替えて、甲板に上がってこい!!」

 二人に向かって怒鳴りつけた。

 一人は憤慨し始め、箒の先をこちらに向けたと思いきや、すぐさま中指を立てる。だが、片割れの女子に何やら話しかけられ、急に改まった様子で土下座した。

「……何をしているのでござるか?」

「知らん。それよりも、さっさとお前はベッドで寝ていろ」

 辰之兵に睨まれたが、清六は自室に戻るつもりはなかった。

 もう筋トレは諦めている。しかし、あの二人がこれからどうする気なのか、見届けたかった。

 おそらく二人の行動原理にはルシアが関わっている。それならば、清六に無関係な話ではないのだ。

 辰之兵に適当なことを言って、この場にとどまる。

 すると、ローブに身を包んだ二人――ジネットとマルティナ――が甲板にやってきた。

「先ほどから、何様のつもりだ? ここは女子供の来る場所ではない、と言っただろう」

 威圧するように、辰之兵は目を鋭くさせる。

 しかし、その重圧を気にも留めずにジネットとマルティナが口を開いた。

「あたしたちを作戦に参加させて!」

「私たちは未熟ながらも魔女です。制空権を有している悪魔に、唯一拮抗できる存在はきっとあなた方の作戦に有効に働くはずです」

「有効……か。その言葉は、まともに飛べるようになってから言うべきではないか?」

「と、飛べるよ! 短い距離だけど、あたしたちはちゃんと飛べる!」

「飛距離は二十メートル。飛翔と着地を繰り返し行えば、短距離飛行の欠点を補えます。それに、その場での上昇だけなら、私とジネットはどんな高い壁でも越えられます」

 補足するようにマルティナは言う。

 すぐさま、辰之兵の罵倒が返ってくると清六は踏んでいた……が、

「そうか。それではお得意の飛行とやらを我が輩に見せてくれ」

 やけに淡々とした口調で言い、辰之兵は一歩後ろに下がった。

 ジネットとマルティナは自分たちの努力が実ったことに表情をほころばせ、すぐに箒に跨った。

 二人の足が甲板から浮く。辰之兵の頭上を越え、人の手では届かない高度まで上昇する。

「おぉ、高ぇなぁ。すげぇすげぇ」

 珠代が顎を上げて、率直な感想を述べた。

「どう!? すごいでしょ!?」

 ジネットが自信に満ちた顔で答えを求める。しかし、辰之兵の表情は変わらない。

 答えの代わりに、辰之兵は一つの行動を取った。

 二本の分銅付き鉄鎖を袖から抜き出し、ジネットとマルティナに向かって投げつける。鉄鎖は箒の柄に絡まった。

 辰之兵は何の躊躇いもなく、鉄鎖を引っ張り、二人を甲板の床に叩きつけた。

「あ……くっ……」

 二人は苦痛に声を絞り出す。

 ジネットは背中を打ち、マルティナは右肩をぶつけていた。

「魔女以下のワッパが調子に乗るな。空を飛べるからと言って、それが何なのだ? 我が輩は鉄鎖一本でお前たちを落とせたぞ? たかが、鎖一本でだ。この意味が分かるか?」

 その声音は、凍えるようなほど冷たい。

「我が輩たちが行うは戦争なのだぞ? 命が泡のように消えていく戦場いくさばを知らずして何が『役に立つ』だ。お前たちなど盾にも使えん。リスクを考えろ、この無能が」

 すべて言い終えたことを示すように辰之兵は、きびすを返す。

 端から見ていた清六は、辰之兵の人柄を改めて思い知らされた。

 ――優しい人でござるな。

 厳しい言葉であったが、それが彼女たちのためなのだ。

 今の状態で戦場に立てば、二人は確実に死ぬ。ただ死ぬだけならば、まだいいだろう。周囲の足を引っ張って、死ぬ必要もない人間が死ぬかもしれない。

 清六は二人に目を配らせる――と、

「――」

 立ち上がった二人。

 二人の周囲に、火炎弾と水弾が浮遊する。

 魔術だと分かった瞬間、無数の弾が辰之兵に殺到した。

 響く轟音。

 先刻まで辰之兵が立っていた場所は、黒煙に包まれていた。

 周囲の作業員たちが騒ぎ立ち、何事かと戸惑いの色を強くさせる。

「あたしたちだって何も考えずにここに来たわけじゃないっ!」

「死ぬ覚悟はしてきました。盾にならないと言うのなら、せめて囮くらいにでもしてください。餌くらいにはなれるかと」

 鬼気とした表情を浮かべ、二人は黒煙を睨みつけていた。

「……では、確認をしておこう」

「っ!?」

 辰之兵の声は二人の後ろから聞こえてきた。

 清六が消えかかった黒煙を凝視する。すると、そこには黒こげとなった丸太が転がっているだけだった。

 忍法・変わり身の術。相変わらず、出鱈目な技術である。

「その行動原理は何だ? 何のために戦う? 何のためにリスクを負う? 前線に出ずとも、この地に留まれば、確実とは言えないまでも生き残れるだろう。その可能性を手放す理由とは何なのだ?」

 責めるような強い口調の問いかけ。

 二人は視線を落とした。

「……私たちは、友達たった一人さえ守れませんでした」

「ルシアが一人で辛い思いをしたのに、あたしたちは何もしてない。守ることもしてあげられなかった」

「だから、助けたいんです」

 二組の瞳が辰之兵を映す。

「さらわれたルシア=エローラの生存率は限りなく少ないぞ?」

「ここで無駄に命を落とすのなら、せめて友達のために使いたいんです」

「たかが他人のために死ぬことを、馬鹿らしく思えんのか?」

「違う! ルシアは友達なんだよ!」

 そこでようやく辰之兵は表情を崩した。悩ましい、とでも言うように頭を抱え、深いため息をつく。

「……はぁ……親が泣くぞ?」

「私も、マルティナも親はいません」

 鎌首の曲がり具合が鋭角になっていく。もはや、そのまま首が取れてしまいそうだった。

 ふと辰之兵と清六の視線がぶつかる。

『どうにかできんか?』

 そう目が語りかけてくるものの、清六には二人の覚悟を打ち砕く方法など持ち合わせていなかった。

 力づくならば彼女たちの心をへし折れるだろう。が、その場合、一筋縄ではいかないことは想像するに簡単である。

「いいんじゃねぇの? やりたいやつには、好きにやらせちまえよ」

 ジネットとマルティナに助け船を出したのは、珠代だった。

「お前は、そうやってまた適当なことを……」

「うるせぇ、ハゲ。俺には分かるんだよ。他人のために死ねるっていう馬鹿がな」

 珠代の言葉に辰之兵が二人に視線を戻す。

 無言の間を入れた後、

「戦場では、お前たちを守る者なんて誰もいない」

「はい」

「動けなくなっても、背負ってくれる者はいない。目が見えなくなっても手を取ってくれる人はいない。耳が聞こえなくなっても危険を知らせる人はいない」

 脅しではなく、事実を述べる。

「だから――最期の一秒まで戦え。惨めに、足掻いて、足掻いて、足掻ききって、悪魔どもに人間の怖さを思い知らせてやるのだ」

 腹に力の入った返事が二つ。

 辰之兵は険しい表情のまま、告げた。

「『わけあえば平和、奪い合えば戦争』とは、この地で生まれた言葉だったな。戦は奪い、奪われるのが常。相手の命を奪い続けろ。――本日より、ジネット=ファビウス、マルティナ=バルツァー、以上二名を大ニホン帝国軍に配属させる」


+++


 悪魔襲撃から数日後。

 街道を少し外れた場所――港から大きく離れた自然公園。そこの広場で五名の魔女が作業を行っていた。

 広場の地面に白線が走る。白線は円を描き、円の内部に複雑な言語が組み込まれた模様が書き込まれていた。

 一見、理解不能な図形。それは、広大な敷地を最大限に使って描かれた魔法陣であった。

 五人の魔女の内、一人が羊皮紙の本を片手に魔法陣を見つめている。酷く顔色の悪いアンナだ。

 彼女は魔法陣を凝視していたと思いきや、すぐに手に持つ本を開く。手慣れた手つきで目当てのページを見つけだし、列記された文字を目で追う。

「……そこ、違います! スペルミスです!」

 これで何回目かも分からないほどの指摘にアンナは苛立ちを覚えた。だが、ミスを犯してしまうのも仕方がないことだった。

 魔法陣を作るというのは、針の先端に球体を置くような繊細な作業である。その上、突貫作業のせいで、魔女たちにも疲労が溜まっていた。

 できるなら休ませてやりたいのだが、時間がない。

 魔術に精通した魔女は数少なく、その中でも信頼できる人材は限られている。

「間に合わせなければ……」

 その後も何度も注意をし続けると、タリスが広場に現れた。

 彼は魔法陣を描いている魔女を眺めながら、アンナのところに歩み寄ってくる。

「作業の邪魔です」

「ただの視察ですよ。そう長居はしませんので、気にしないでください」

 タリスは薄っぺらい笑みを浮かべた。

「……暇なんですね」

「暇じゃありませんよ。僕自身がわざわざ視察しないといけないんです。人手不足もいいところです」

 あくまでアンナと目を合わせずに言う。

「そうですか」

 アンナは本に視線を落とした。

「あのとき……僕の取った行動を根に持ってるようですね」

「……当たり前でしょう」

 脳裏に浮かぶ、少女の死体。

 顔に出ないように無表情を突き通すが、そのせいで本の内容はちっとも頭に入らない。

「はぁ……あれは大勢を守るための英断だったんですけどねぇ……」

「っ!」

 とっさに顔を上げるアンナ。だがそんな様子を気にも止めずにタリスは口を開いた。

「アンナさん、トロッコ問題って知ってます?」

「……それが何か関係あるんですか?」

「あぁ、知らないようですね。わりと近年になってから提唱された議論なんですが、『大多数のために少数を殺すことは正しいのか』というものでして……。

 簡単に説明させてもらうと『ブレーキが壊れたトロッコに乗っていたあなたは、行き先の線路上に五人の作業員がいることに気づく。このままでは五人はトロッコに轢かれて死んでしまう。しかし、線路には切り替えポイントがあり、あなたは五人を助けるために、脇道に続く方向に変えることができる。が、切り替えた脇道の先には一人の作業員が線路上で仕事をしていた。五人と一人はこちらの様子に気づく様子はない。さて、あなたは五人と一人どちらを選ぶ?』という取捨選択の問題です」

「なんですか……その悪趣味な問題は」

 嫌悪を隠さずにアンナは言い返す。

「だから、トロッコ問題ですよ。正義を測るための問題です。それで、答はどうなんですか?」

 飄々と答えるタリスが返答を催促してきた。

 一旦、アンナは手元の本に目を向け――そして、

「……五人と一人を救います」

 きっぱりと言い放った。

「それは答えではないんですよ。非論理的で思考停止の結果です。これでは、あのエクソシスト総長と同じ――」

 タリスを黙らせるように、羊皮紙の本を突き出す。

「私は魔女です。たかがトロッコの一つ、どうにでも出来ます」

「……だったら、条件を付けましょう。アンナさんが魔術を使えなかった場合、どうしますか?」

「別の方法を探します」

 肩を竦めるタリス。

「そうですか。これまた幸せな考えです。すばらしいですね」

「あなたは……なにも分かってない」

 本をタリスの目の前に持っていき、主張させる。

「これは私の母が作り上げた第五元素の魔導書です。極めれば、人の存在の有無を自在に扱うことさえ出来る最悪の魔術です」

「さすがは、フレデリカ=ストレーム……とでも言ってほしいんですか?」

 タリスの言い分を無視して、アンナは話を続けた。

「母は、これほどまでの本を作り上げるのに、実験を自らの体で行っていたんです。誰も犠牲とせず、最後の最期まで第五元素の実験を繰り返しました」

 その結果、フレデリカ=ストレームはこの世から消えてしまった。第五元素の実験中に存在を、ここではないどこかへと転移した。たった一冊の魔導書を残して。

「この書を持つ私には、母の意志を継ぐ使命があります。私は自分以外の犠牲を出すつもりはありません」

「なるほど。ただ理想を並べているわけではないようですね。……羨ましい限りです」

 疲れたような――それでも微笑む顔。タリスが浮かべた表情は、今まで最も素顔に近いものだった。

 予想外の反応にアンナは戸惑いを抱く。が、それもすぐに意識の底へと沈殿していった。

 魔法陣が完成した報告を受けたからだ。

 アンナは魔法陣へと目を転じる。立ち去るタリスの姿は、その目には映っていない。


+++


 集落に連れてこられてもう何日も経っているが、ルシアは束縛という束縛は受けていなかった。

 久しぶりの両親との生活は、初めは刺々しい雰囲気ではあったものの、今では隔たりがなくなっている。

 ここが悪魔の地ではないことを考えれば、昔と同じような生活が送れるのだ。

 互いに衝突するような話題を避けて生活すれば、何の支障もない。

 集落には両親以外の人間も居る。彼らともルシアは接触したが、エローラの娘であることを知ると優しく接してくれた。

 奇しくも、ルシアにとってこの地は、人間が住む土地よりも過ごしやすかった。

 ここにはルシアを殺そうとする敵はいない。ソフィア=カルデナスはルシアに興味がないのか、全く顔を見せなかった。

 誰も自分を傷つけない。

 理想郷と呼ぶには抵抗があるものの、居心地が良いことだけは確かだった。



 その理想郷から少し離れた森林の中を、ルシアは歩いている。森の中に生える果実を採ってくるように言われたのだ。

「……暗いなぁ……」

 時刻はまだ昼前だというのに、森の中は薄暗い。

 行き先はほの暗く、まるで何かが潜んでいるような不安を抱いてしまう。

「早く、採ってきちゃお」

 ルシアは歩を速め進む。

 馴らされた道は、やがて終わりを告げた。

「……あれ?」

 道の先に建つ一軒家。

 母親から教えられた通りに進んでいたはずだが、分かれ道を見落としてしまったようだ。

「こんなところにも人が住んでるんだ……」

 何の警戒心もなく、ルシアは盗人のように家に近づく。窓から家の中を覗き見ると……

「ひっ!?」

 眼前には、泣く子も黙るソフィアがいた。それも、まるで鏡のように向かい合った状態で。

 まさかソフィアがこんな家にいるとは夢にも思わず、ルシアは後ろにひっくり返ってしまった。

 尻餅をつき、身悶えすること約五秒。痛みが引いたときには、ルシアの側にソフィアが立っていた。

「ひゃああああああ!!!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!!!」

「恐れるでない。余は貴様を害するつもりは――」

「ごめんなさいぃぃぃぃぃぃ! 殺さないでぇぇぇぇぇぇ!」

「いや、だから――」

「うわあああああああああん!」

「人の話を聞けぇ!」

「……は、はいぃぃぃ!」

 涙目でルシアは、その場に正座した。

 ソフィアは深いため息を吐いた後、

「驚かせてしまったようだな。それで、余の家に何の用だ?」

「……あ、いえ、ただお母さんに果実を採ってくるように言われて……その……」

「道に迷ったのか?」

「たぶん、ですけど……」

 そう答えるしかなく、ルシアは首を縦に振った。

 相手の様子を伺う。

 眉間にしわを寄せ、気むずかしそうにしているソフィア。

 一秒でも早く、この場から逃げ出したいルシアだった――だが。

「ならば、ついて来るがよい。余の私用が済んだら、家まで送ってやろう」

「……へ?」

 あまりにも不可解な提案に反応できない。口をあんぐりと開けていると、ソフィアが怪訝顔になって、

「何だ? 嫌か?」

「い、いえ! あああああ、ありがとうございます!!」

 怒らせてはならない、と反射的に思い、その提案を呑んでしまった。

 ルシアの返答を聞くと、ソフィアは森の奥へと歩き出す。

 遅れてルシアは目眩をするほどの不安に襲われた。

 ――どどどどどど、どうしよう!?

 気持ちの悪い脂汗が吹き出し、喉がカラカラになる。定まらない視線をさまよわせながらも、フラフラとおぼつかない足取りでソフィアの後についていった。

 ソフィアが前を歩き、その後にルシアが続く。

 恐怖と緊張が混じったカオスな状況。神がいるのなら、今のルシアは完全に見放されている状態なのだろう。

 一歩一歩踏み出すごとに先の見えない未来が、恐怖を増大させてルシアの精神を蝕んでいく。

 しかし、ルシアが発狂するよりも前にソフィアの足は止まった。

 気付けば、森が途絶えている。

 行き着いた先は崖のようだった。その崖の先、いつ地震が起きて削り落ちてしまうかわからないような場所に一つの墓石がある。

 そのとき、ソフィアの手に一束の花が握られていることに気付いた。

「私用って……お墓参りですか?」

「地獄の使徒が、墓参りをするのは意外か?」

「い、いえ! ぜんぜんっ!」

 口ではそう言いながら、ルシアは強い疑問を抱いている。

 ――誰の墓石なんだろう?

「夫と娘のものだ」

「な、なんで、私の考えてることが……!?」

「言っておくが、心など読めんぞ。貴様は顔に出やすいからな。少し頭を使えば分かる」

 顔を背けるものの、ソフィアの笑う声が聞こえて、視線を下げる。

 ルシアの動揺をよそに、ソフィアは墓石に花を添えていた。

「……余も人だ。家庭の一つも持っていた」

 毅然としていた声に感情が混じる。

 それは、わずかな哀愁。

 何万との悪魔を従える長が見せた弱さに、ルシアは目を丸める。

 別世界の生き物だと思っていたソフィアが、今だけは近い存在に思えた。

「なあ、ルシア=エローラ」

 ソフィアの浮かべる表情は悲しみではなかった。冷たく、鋭い怒りが表情として現れる。

「貴様は、人間が憎くないか? 貴様の家系の話は聞いている。人間は醜く、愚かで、救いようがない。英雄であるはずのエローラ家が受けてきた仕打ちは、悪魔にも成せぬ所行だ。いびつだと思わぬか? 世界を救ったはずの英雄が、なぜ殺されなければならぬ。異質で、異常で……あの国の人間は狂っている」

 何かに取り憑かれたように、口調に熱を持っている。

 近しい存在だと思っていたのは幻想だった。

「だから、余が粛正しなければならぬ。余がしているのは、人の心を正すための戦いだ」

 ルシアは不思議な気持ちになっていた。

 ソフィアの言葉を否定できない。一つも間違っているとは思えなかった。

「ルシア=エローラ。人間を懲らしめてやろう。貴様はその資格と力を兼ね備えている。貴様の手で世界を変えるのだ」

「私の手で……?」

 悪魔と契約し、この手で世界を変える。

 とても甘味な誘いに、ルシアの心は揺らいだ。

「貴様もこちら側に来い。慈悲深きことは、神だけの特権ではない」

 差し出された手を見て、唾を飲み込む。

 答えに迷ってしまっている自分がいた。

 良心の呵責と悪意の勧誘。

 揺れる天秤は右へ左へと交互に傾き、

「時間が来てしまったようだな。答えは後で聞こう」

 結論が出る前に、ソフィアに遮られてしまった。

 彼女は遠くを見つめている。

 その視線をルシアは目で追っていく。すると、黒き結界の色素が薄くなっていることに気付いた。

 次こそ、完全な形で封印が解ける。

 ルシアの足は自然と前へと進んでいた。

 崖の先端にまで近づいたところで、不意にソフィアに呼び止められる。

「落ちたら死ぬぞ」

 我に返って、足下を見た。

「ひっ!?」

 崖の下に広がる地面が遠い。いびつな木々が突き立った枝のようにしか見えなかった。

 まるで雲の上から下界を覗いているような光景に、足が竦み、そして、

「あっ……!」

「馬鹿者っ!」

 バランスが崩れる。

 前へ前へ。

 谷へ谷へ。

 ついに地から足が離れた。重力がこれほど憎いと思ったことはない。

 宙に放り出され、即死コースまっしぐら。パニックを起こしたルシアはまともに魔術を使うこともできず、両手で無意味に空気を掻くだけだった。

「ひゃあああああああああああああああああああああああああ!」

「カカカカカカッ! タノシそうなことしてるネェ!」

 落下するルシアの隣に黒い影が並ぶ。

「た、助けてぇ!」

 ルシアは黒い影の正体がアンドラスだと分かりながらも、手を伸ばした。

「ん~、どうしよッかナァ? ボク、アクマだし。あッ、そうだ!! タスケてあげるんだから、ナニか代価とかくれるよね?」

「――!?」

 声にもならない悲鳴を上げる。

 その様子を楽しむようにアンドラスは大口を開けて笑った。

「カカカッ! ジョーダンだよッ、ジョーダン! 魔女のモノを盗ろうとするほど、ボクはバカじゃないからネェ!」

 アンドラスが下へと潜る。次いで、ルシアの体をすくい上げると、お姫様抱っこの形になった。

 宙を浮遊するアンドラスとルシア。

「白馬の王子ならぬアクマの王子ッてところかな? カカカッ!」

「あ……ありがとうございます」

 震える体を抱きしめ、ルシアは自分が落ちてきた場所を見上げる。

 狭かった視野が広がり、今まで見えなかったものが見えるようになった。

 目に映る光景に、目を疑う。

「…………なにこれ」

 広大な岩肌が空を覆っている。

 天から差された番傘のような形をした岩の天井が、そこにはあった。

 状況を理解できない。

 空に巨大な岩が……陸が、土地が、大地が――水面に浮かぶ木の葉のように浮遊している。

「驚いちッた? 大地をウかすくらい、ジョーキューアクマにならトーゼンの技量なんだよネェ!」

「まさか……あれって……」

 空中にそびえる大地こそが、先ほどまでルシアが居た地なのだ。

「ツバサのないニンゲンでは、到達することのできないリョーイキだネ。カカカカカカカカッ!」

 アンドラスの笑い声が、結界のない青空に溶け込んでいった。

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