破:悪魔の根城、そこに住む者達


 結界を一枚隔てた向こう側――そこは悪魔の地であった。

 空にあるはずの太陽は厚い黒雲に遮られ、大地を覆っていたはずの植物は死滅している。

 動物はいた。が、それはもはや人知を越える“化け物”と呼ばれるような生き物ばかり。

 この地を説明するには、一言で事足りる。

 地獄だ。



 アンドラスに抱えられ、結界を越えてからしばらくした後、ルシアは放心状態が続いた。意識は現実と夢の狭間を行き交い、やがてルシアは完全に気を失ってしまった。

「カカカッ! トウチャァク!!」

 アンドラスの甲高い声で、意識が覚醒する。

 ルシアは見知らぬ集落の広場に降ろされていた。

 集落を見たとき、ルシアは何の感想も抱かなかった――が、すぐに強烈な違和感に襲われた。

 ここは人の手で作られた集落だ。

 木造の家が点々と建ち、畑や家畜小屋などがある。森を開拓したことを示すように、周囲は木々に覆われていた。

 地獄というには、あまりにも相応しくない。

 ルシアは目をこすり、もう一度前を見直す。

 輝く太陽。どこか古めかしい印象を強く受ける家屋。緩やかに回る水車。遠くからは牛の声が聞こえてくる。

 のどかな集落としか見えなかった。

「カカカカッ。これはこれは……オモシロいところだネー」

 背後にいたアンドラスが、キョロキョロと周りを見回しながら呟く。

「……知らないの?」

 ルシアは怖ず怖ずと問いかける。

「もともと、ボクは結界のソトで召喚されたアクマだからネッ。魔女ソフィア=カルデナスの顔もシらないよ。だからぶッちャけ“お土産”が気に入られなかッたら、ココでボコボコされちャうかも。まッ、それはそれでオモシロそうだけどッ! カカカカカッ!」

 お土産と呼ばれ、腹の中に冷たいものが落ちていく。

 ルシアは改めて自分の立場を思い知った。

 誰にも守ってもらえず、誰にも助けてもらえない。

 珠代の後ろ姿が、ふと脳裏をよぎった。

「……」

「さァて! ソフィア=カルデナスがこの町にいるのはワかッてるんだけど、ドコにいるのかナァ!?」

 上機嫌になったアンドラスが声をいっそう大きくすると同時、近くにあった民家の扉が開いた。

 扉の金具の悲鳴が鳴り、一人の女性が家から姿を現した。

 三十代後半の女性、金色の髪、柔和な顔立ち……ルシアはよく知っている。

 ありえない。

 自分の目を疑う。女性から目を離すことができなかった。

 胸が高鳴り、思考が真っ白になる。

 感情が先走り、足が自然と前に出ていく。

「お母さん!」

 民家から出てきた女性は、ルシアの存在に気づいた途端、目を大きく開いた。

「……!?」

 疑問をすべて投げ捨て、ルシアは母親に向かって飛び込んだ。

「ル、ルシア……? ルシアなの?」

「お母さん……! おかあさん…………っ!」

 会えないと思っていた。

 この声。この匂い。この温もり。二度と感じられないと思っていたのに。

 ――ここにある。

 いなくなっていたはずのお母さんがここにいる。

「ルシア、どうして……? どうして、ここに?」

 戸惑いながらも、母親はルシアを強く抱きしめた。

 ルシアが母親の問いに答えようとした瞬間、背後から歩み寄る足音と共にアンドラスの声が聞こえてきた。

「カカカッ、カンドーの再会だネェ。イイネー。デモデモ、どうしてニンゲンがここにいるのかナァ? あっ、まさか幻? ソフィア=カルデナスと契約したアクマは、幻術がトクイなのかな?」

「……それは違います」

 応える母親の声は、弱々しいものだった。

「私は……私たちがここにいるのは……ソフィア様に忠誠を誓った魔女だからです」

「……お母さん?」

 身を離したルシアは母親の顔を見る。しかし、母親はルシアを避けるように目を逸らした。

「忠誠って……? お母さん、どういうこと?」

「……」

 唇を噛み、苦悶の表情を浮かべる母親。

 ルシアの思考は鈍化していく。

 差し出した手を払われたような気分だった。

「つまり、僕らは悪魔の仲間ということだよ、ルシア」

 新たな声にルシアの視線が誘導される。

 いつの間にか、民家から一人の男性が出てきていた。

 その男性が父親であることは一目で分かった。

「お父さん……!」

「来るんじゃない、ルシア。僕には、お前を抱きしめる資格なんてない」

 近寄ろうとするルシアは足を止めた。

「なんで……?」

「もう、僕らは人ではない。人としての心を悪魔に売り、肉体を淵へと落とした“人でなし”だ」

 ほの暗い瞳がルシアを見つめる。それは――泥沼のような濁った眼だった。

 ルシアの知っている父親と重ねることができない。

 もっと芯の通った力強い人だったはず。

 もっと優しい眼をした人だったはず。

 今、目の前にいる男性は憔悴し、小さな衝撃で砕け散ってしまいそうな弱々しい人だった。

「何、言ってるの? 意味、分かんない……分かるように説明してよ、お父さん!」

「そう、責めるでない、英雄の末裔よ」

 返ってくる声は父親のものではない。

 土を踏みしめる音。

 空気が帯電するような緊張感が生まれた。

 ルシアはピリピリとする雰囲気を肌で感じながら、声のする方向を見ようとして――動けなかった。

 声を聞いただけで体が竦む。全身の筋肉がこわばり、じっとりと汗が吹き出てきた。

 支配者、王、強者、絶対者……すべての上位的存在の呼称が当てはまるほどの重圧が、ひしひしと伝わってくる。

 この圧倒的な存在感の正体が何者であるのか。それは声を聞いただけで分かっていた。

 この声の主こそが――

「ソフィア……カルデナス」

 錆び付いたようにぎこちない動きで、ソフィア=カルデナスを直視する。

 存在感、威圧感共に人の領域を逸脱したものであったが、彼女の風貌は決して支配者の出で立ちとは言いにくいものだった。むしろ、その逆。支配される側の弱者の外見をしている。

 使い古された麻の服、病的なほど青白い顔、くすんだ瞳、細い体つき。その貧相な姿は農奴と呼ばれてもおかしくない。

 それでも彼女は魔女であり、悪魔である。永き年月を生きているというのに、見た目は母親よりも若く、三十を越えていない。頭部には羊のような角が左右に生え揃い、口からは刃のごとき犬歯を覗かせていた。

「ほぅ、なかなか聡明な娘だ。……そう。余がソフィア=カルデナス。350年前、この世に悪魔を生み出し、憎悪で世界を絶望へと陥れた魔女だ」



 調査団生存者、五十名弱。過酷な旅で、生き残れた数としては多い方だった。

 しかし、それは生き残れたと言うには誤りがある。

 正確には、調査団は生かさせてもらっていた。

 何十という送り出された調査団の多くは、悪魔に食われて壊滅している。その中でも、ソフィア=カルデナスと対峙できた調査団は運が良かったとしか言いようがなかった。

 幸か不幸か、生き残った調査団には選択が与えられた。

 絶対的な力に蹂躙されるか、強大な力によって支配されるか。

 勇敢に戦う者。

 自ら死を選ぶ者。

 生にしがみつく者。

 何が正しいのかは分からない。

 それでも調査団の人間はすべて選択した。選択せざるを得なかった。

 ルシアの両親は背徳を抱きながら、屈服の道を選んだ。

「……そんなの……仕方ないよ……」

 集落の民家。質素な木のテーブルを挟んで、ルシアは両親から封印の地での出来事をすべて聞いた。

 この場には、ソフィアもアンドラスもいない。彼女たちは、二人だけで話をするために、どこかに行ってしまったのだ。

 数年ぶりの家族団らん――だが、それは殺伐としたものだった。

「違うんだ、ルシア。僕らには戦う選択肢があった。でも、それを自らの意志で放棄したんだ」

「ルシア、私たちと同行していた調査団の人でも、ソフィア様に戦いを挑んだ人はいたわ」

「でも……でも! 誰だって生きたいのに、それが間違ってるっていうのはおかしい!」

「僕らは自分の選択を肯定してはいけないんだ。そうしなければ、死んでいった者たちに顔向けができない。勇敢に散っていった者たちの死をあざ笑っているのと同じだ」

「だったら……死んだ方が正しいの? 私と会えたことも、間違ってるの……?」

「ルシア……」

「せっかく、会えたのに……」

 かすれた声が木霊する。

「お母さんとお父さんは何のために……生き残ったの?」

 身を削るような問いかけをしても、両親は何も応えない。

 なぜ、何も言ってくれないのか。

 ルシアは俯き、涙を床に落とした。


+++


 集落の外れ、鬱蒼とする森の中に一件の家が建っている。

 一人で暮らすには少々大きい家。だが、年季を帯びた一軒家は補強された後が多く見られ、強風で崩れてしまうのではないかと思うほど老朽化していた。

 ダイニングキッチンに招かれたアンドラスは、疑問符を浮かべる。

「ねェねェ、キミッて一応アクマだよネ? しかも、何千万とのアクマを従えるオエライサンだよネ? なのに、なんでこんなシッソな家に住んでるのサ? もっとババーンと、魔城とか拵えないの?」

 台所で作業をするソフィアに向かって、アンドラスは問いかけた。

「貴様、アンドラスと言ったか」

 ソフィアは振り返らずに確認をする。

「ウン、そうだけど?」

「序列63“不和”のアンドラス。ふむっ、知っている。余は貴様の存在を知っている」

「ボクのシツモンに答えるキないネ?」

「答がほしいのなら教えてやろう。余はあくまで魔女だ。体の権利は悪魔に引き渡したが、心はまだ人として有り続けている。悪魔らしい行いは悪魔がやればいい。余は人間らしい行いをしているだけだ」

 瞬時にアンドラスはソフィアを分析するように目を細めた。

「ハハーン、なるほどネ。ソーユーことか。キミ、まだニンゲンなんだ。ボクとはチガって、契約したアクマの意志をヤドしていないんだネ」

「余と契約した悪魔は、まだ向こう側――地獄でこちらの様子を窺っている」

「インシツだネェ……」

「あやつも貴様にだけは言われたくなかろう」

 鼻で笑い、ソフィアはようやく振り返った。その手には紅茶の入ったカップが握られている。

「座るが良い。余がもてなしてやる」

「キミ、ニンゲンのクセにエラそうだネェ……」

 怒ると言うよりも呆れるように呟き、椅子に腰を下ろした。

「実際、偉いのだから仕方あるまい」

 そう言いながらソフィアは目の前にカップを置き、正面に座る。

「それで、アンドラスよ。貴様は何用で、余の前に現れた?」

「あァ、そうそう。実は、ボクもこのセンソーに参加キボーしてるんだ。ニンゲンとアクマのセンソーなんて、チョーオモシロそうだからネッ! ボクもアバレたいんだよネッ!」

 興奮した様子で、肘から先を失った片腕を振り回す。

「その腕……斬られてから間もないようだな」

 ソフィアの意識は自然とアンドラスの腕に集中していた。

「ん? あァ、東洋の剣士にズバーッとネ。いやいやァ、ヨワいクセして、アナドレない相手だッたヨ……ッて、またボクのハナシを逸らそうとしたナァ!? キミ、ホントーにヤル気ある!? 350年もツヅいた結界のコーリョクが消えたトキだって、アト一歩でニンゲンをゼンメツできたのに、軍勢をヒきアげちゃうし!」

「当たり前だろう。余の目的は殺戮ではないのだからな」

「はァ?」

 アンドラスは、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「余は恐怖を与えたい。自分たちの種こそが世界の支配者なのだと自惚れる人間どもを一人残らず粛正する」

「……独裁政権でもツクるキ?」

「国など作るつもりなぞ毛頭ない。これは世直しだ。学習しない愚かな人間どもを矯正させる」

「なんとまァ……ゴーマンで、ニンゲンらしい考えだネェ……」

 背もたれに寄りかかって、呆れ声を漏らした。

「ふん、興味がなければ去ね。元より、貴様の協力などなくとも余は世直しを成功させる」

 そこでアンドラスは紅茶を一口含んだ後、口元を歪めた。

「……それはどうかナー? ボクがいなきャ、タイヘンなことが起きてたんだけどナァ」

「戯言を。余を謀るつもりか?」

「カカカカカッ。それじャあ、ニンゲンが英雄をツカって、この地をまた封印しようとしてたんだけどォ……これ、キミは知ッてたのかナァ?」

 ソフィアの表情に険が混じる。

「それは真か?」

「英雄の末裔にキいてみたら?」

「……もし貴様の言葉に偽りがなければ……ふむ、やはり人間どもは350年前から何一つとして変わっていないようだ」

「オーイ、ボクの働きをガン無視してない?」

「あぁ、忘れてなどおらぬ。アンドラスよ、戦争に加担したければ好きにするが良い。だが、余の邪魔だけはするでないぞ」

「カカカッ、ヤッター! それでそれで!? 次に封印が解けるのは、いつ!?」

 身を乗り出して問う。

 ソフィアは窓から見える深緑の風景に目を転じ、

「断言はできぬが、おそらく三日後。次こそは完全に結界は壊れるだろう」

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