序:プールサイド

 室内プールには、異様な光景が広がっていた。

 身の丈と同じくらいの箒を片手に持ち、プールサイドに集まっている。もちろん全員水着姿で、だ。

 唯一、水着を着ていないのは、飛行専門の女性教師マーガレットだけ。

「いいですか!? 魔女がなぜ!? どうして!? 空を飛ぶために、箒を選んだのか!? 空を飛ぶためなら、鳥のように翼を生やせば済む話です! ですが、あえて! 箒を選択した! その理由が分かる人!?」

 生徒たちの反応は薄い。だが、同じ教師であるアンナとは異なり、マーガレットは生徒達の反応など、お構いなしに熱弁を続けた。

「分かりませんか!? それもそうでしょうね! 安心しなさい! 実際の話! そんな理由は存在しない! 諸説では、箒に薬物を塗ってトリップしただの、箒は男のチ○コを示してるだの言われておりますが、そんなの推測でしかなく、事実ではないのです! “認識されない事象は存在しない”! つまり、魔女が箒を使って飛ぶ理由なんて存在しない! 分かりましたか!?」

 ちらほらと生徒たちが「無茶苦茶だ……」とぼやいているが、あえてマーガレットは無視を決め込む。

「まあ、そんなことはどうでもいい! いいのです! 地があるから天がある! 天使がいるから、悪魔がいる! 人がいるから、世界がある! その真理をここで語ることなど、海水に砂糖を混ぜるのと同じ! 無意味! 無価値でしかない!

 では! 本題に入るとしましょうか! そこのイチゴ! あなたですよ、マルティナ=バルツァー! あなたは、なぜ水着姿なのでしょうか!? 答えなさい!」

「裸は恥ずかしいからです」

 キラーパスのような質問に動揺することなく、マルティナは答えた。

「理論的すぎる! あなたは1+1が、2だと本気で思っているようですね! ですが、それでいいでしょう! 私はそういう筋の通った答えが大好きです! では! ジネット=ファビウス! あなたはなぜ水着を着ている!? 理由を説明しなさい!」

「分かるよ、センセー! プールに入るから!」

 自信満々のジネットに対して、他の生徒達は口々に「そのままだろ」と突っ込みを入れる。

 しかし、マーガレットは満面の笑みで拍手した。

「ジネット=ファビウス! あなたは素晴らしい! 最高級の解答です! そう! それが答え! あなた達が水着を着ているのは、これからあなた達が水の中に落ちるからです! それ以上の意味など存在しません!」

「いえーい! センセー、ご褒美ちょうだーい!」

「それならば! 本日一番の落水の権利をあなたに贈呈しましょう!」

「あ、やっぱ、ご褒美なし――」

「さあ、飛びなさい、ジネット=ファビウス! そして落ちるのです! 人が空を飛ぶことなどは不可能! ですが、魔女ならば空を飛べます! あなたはまだ魔女の見習い! 故に、飛んで落ちなさい!」

 マーガレットはジネットの肩を掴み、プールの前に立たせる。

 抵抗しようとするジネットだったが、マーガレットの気迫に圧されて、箒に跨ることとなった。

 意識を集中するために、ジネットは目を瞑る。

 魔術によって起きる超自然的現象。

 魔女が使う魔術には、大まかに二つに分かれている。

 悪魔と契約をして、超自然的現象を起こすものと、四大元素に属する精霊を使って超自然的現象を起こすものの二通りだ。

 今、ジネットが行おうとしているのは、後者――精霊を使って、空を飛ぼうとしていた。

 精霊を扱うに、言葉は要らない。精神を集中し、精霊に話しかければいいだけだ。

 彼女たちはすでに、その技術を会得している。

「体の重心はまっすぐ! 箒を握る右手と左手はくっつけない! いいですか!? 空を飛ぶにはイメージ力が大切ですが、それよりもまず空気の精霊シルフを喚ばなければなりません! 呪文は必要ですか!? いえ! あなたは精霊との意志疎通は上手な方なので呪文などと言う無粋なものは必要はありませんね!」

 四大元素の内の一つ“空気の精霊シルフ”との対話を始めたジネットに、マーガレットが熱意のこもった助言を送る。

「あーもー! センセー、少し黙っててー!」

「よろしいでしょう! 沈黙とは、すなわち無! アンナ=ストレーム先生が研究している五番目の元素は無に関与しており、四大元素の常識を打ち壊すための――」

「だあああああああ! ジネット行っきまーす!」

 やけくそになったジネットは精霊との会話を中断して、地を蹴る。

 体は宙に浮き、自然に水面へと落ちていく――はずだった。

 プールの水面から30センチほど高い位置。ジネットは、まるで上からワイヤーで吊されているように空に停滞していた。

 驚くことではない。

 空に停止するのは初歩的な技術であり、ジネット達は空を飛ぶための実習を三十回以上もこなしているのだ。

 多少、ふらふらと危なっかしく揺れるものの、ジネットは落ちる様子はなかった。

「空に留まることは、飛ぶとは言いません! 今、あなたは浮いているだけ! 故に、進むのです! そうすれば、あなたは飛ぶことになります!」

 背後から聞こえるマーガレットの声。

 それを聞き流しながら、ジネットは前を見据える。

 問題なのは、浮くことではなく飛ぶこと。

 空気の精霊シルフは気まぐれで、扱うことは非常に厄介な精霊である。

「行っけぇえええええ!!」

 次の瞬間、ジネットは魚を狙うカモメのようにプールへ突っ込んだ。



 プールの水面に浮かぶ、ジネットと箒。

 マーガレットはジネットと箒に狙いを定めるように右手を突き出す。流れる動作で、右手の狙いをプールサイドへと移動させると、先ほどまで照準を合わせられていたジネットと箒が引っ張られるように動き出した。

 ジネットの体がプールサイドに近づくと、水面が波打つ。そして、水中から見えない腕に突き飛ばされるように、ジネットの体がプールサイドへと弾かれた。

 今、マーガレットが行ったのも魔術と呼ばれる行為である。水の精霊ウンディーネを操り、ジネットをプールから引きずり出したのだ。

 地を転がるジネットは、意識を失っている。

 そんなジネットを放置して、マーガレットは生徒達に話しかけた。

「さて! ここで復習! 四大元素というのは、この世に存在する“火”“水”“土”“空気”のことを示します! そして、それぞれの元素に相当する精霊が存在するのです! 元素ごとに精霊の気質は異なり、火は短絡的、水は穏やか、土は怠け者、風は気まぐれ、などという特徴を持ち、魔術を行う際には、その気質をよく理解していなければなりません! それはなぜか!? 分かる人は!?」

「私達が行う魔術では、精霊に協力してもらわなければならないからです」

 返答したのはマルティナだった。

 マーガレットは首肯し、再度声を張り上げる。

「そう! あくまで私達は協力をしてもらわなければならないのです! 悪魔との契約ならば、簡単でしょう! 代価を払えば良いのです! ですが、精霊は代価を求めてはいません! 彼らは自然! 天然! つまり、無欲! 純真ということです! それ故に、最も有効的な協力をしてもらう方法が存在するわけですが、そこは分かりますか!? そこのルシア=エローラ!」

 ジネットの様子を窺っていたルシアは、突如名前を呼ばれて、目を白黒とさせた。

「ふぇ……?」

「もう一度言いましょう! 精霊に協力してもらう方法! それを私は問うたのです!」

「あ……えっと、火の精霊なら誘うようにお願いして、水の精霊なら優しくお願いして、土の精霊なら命するようにお願いする……っていうことでいいですか?」

 指を折りながら、ルシアは自分なりの言葉で説明した。

「いいでしょう! 及第点をあげましょう! 一つ抜けていますが、合格です! 故人は有名な言葉を残しました! 『火は私と共に闘い、水は私のために寄り添い、土は私が導く』。すなわち精霊の性質を理解し、会話し、知っていくことで私達は精霊の協力を得て、魔術を使うことができるのです! それでは、ルシア=エローラ! 空気はどうなのですか!? 空気の精霊! 目に見えぬ彼らは、どうすればいいのでしょう!?」

「それは、えっと……うぅん……」

 悩み、そしてルシアは答えを出す。

「感覚……とか?」

「すばらしい! それはまさに私が求めていた答え! 真理です! 空気の精霊は気まぐれ! 理屈でないものを理解することは難しい! 故に、会話を繰り返すことでしか、私達は彼らを理解できません! 『考えるな! 感じろ!』ということです! ということで! マルティナ=バルツァー! 次はあなたです!」

 もはや脈絡のない指名であったが、それでもマルティナが動じることはない。

 ベテランを彷彿とさせる堂々とした足取りで、プールの前に立ち、箒をまたぐ。

「考えずに……感じる」

 箒を強く握り、マルティナはつぶやく。

 同時、その足が地面から離れていった。マルティナは浮遊し、プールの上に移動しようとして――水上に顔面をぶつけながら滑走した。



「よろしい! マルティナ=バルツァー! 今のは、現時点のあなたには、最も理想的な形でしょう! その勢いです! どんどん飛びなさい! どんどん落ちなさい! そうしていくことで、空気の精霊シルフがどんなものなのかを理解できるのです」

 ジネット同様、マルティナはプールサイドへと打ち上げられている。

 それを見ていたルシアは、顔を青白くさせた。

 なるべく自分の順番が後になるように他の生徒の後ろに隠れるが、それはマーガレットの前では無意味なことだった。

「次! ルシア=エローラ! 行きなさい!」

 まるで自分が隠れようとしたのを逃さないように、マーガレットはピンポイントで名指ししてきた。

「は、はひぃ!」

 小走りで指定の場所に行き、準備する。

「さあ、行くのです!」

 マーガレットの声に急かされながら、ルシアは念じる。

 空を飛ぶイメージを思い描く。

「ふぬぬぬ……」

 集中する。

 だが――

 浮遊するどころか、ルシアの足は地面に張り付いたままだった。

「ぬぬぬぬぬぬっ!」

 ルシアの力む声が虚しく響く。

 その様子に、マーガレットは肩を震わせていた。

「ルシア=エローラ! どうしたのですか!? あなたはシルフの声が聞こえませんか!? 彼らはあなたに好意を抱いてします! なのに、あなたはなぜ飛べないのです!?」

「ふぬぬぅ!」

 ルシアは念じて、そして――

「英雄アレシア=エローラの末裔でもある、あなたが精霊の言葉を理解できないはずがないでしょう!? 飛びなさい、ルシア=エローラ! あなたは飛べます! 飛ばなければならないのです!」

 期待と使命感を背負わされるような言葉を聞いて、集中力が一気に霧散した。

 英雄の末裔。

 その単語は、ルシアにとって最も聞きたくない言葉だった。

 箒が手から落ちる。

「なにをしているのですか! 箒を拾いなさい!」

「……出来ません」

 目を伏せ、沈んだ表情になるルシア。

「私、飛べません」

「何を言っているのですか!?」

「私には無理なんです。空を飛ぶ才能がありません」

「自分が出来ないことを、才能という言葉で逃げてはいけません! 挫折というものは誰でも味わうものです! いいですか!? あなたの翼は折れていません! その翼が折れない限り、あなたには可能性というものが存在するのです!」

 食い下がるマーガレットに対し、ルシアは本心を吐露する。

「先生、私には翼なんて初めからなかったんです」

「なんと嘆かわしい! 私は認めません! 諦めるという行為は、人類が最も選択してはならない行為です! いいでしょう! あなたが諦めるというのなら、私は諦めません! ルシア=エローラ! あなたの人差し指に、はめている指輪を外し、もう一度チャレンジしなさい!」

 マーガレットはルシアがはめている指輪を示す。

 指輪は質素なデザインで、宝石などの類は付いていない。若いルシアには似合わないものだった。

「実習では貴金属の類は外すように言ってあるはずです! 精霊は貴金属を好みますが、それが有効に働くとは言えません! 精霊が嫌う貴金属だって存在するかもしれないのです!」

「こ、これはダメです! この指輪はお母さんの形見で――」

「私は何も、市場に売りに行け、と言っているわけではありません! 飛行実習の間だけ外すように言っているのです!」

「……わかりました」

 指輪を外し、ルシアはその指輪をマーガレットに渡す。

「これは実習が終わったら、返します! さあ! 行きなさい!」

 叱咤され、そのままプール前まで移動する。

 水面は、まるで鏡のように日光を反射していた。

 ルシアは箒を拾い上げ、飛行の姿勢を作る。

 意識を集中させ、精霊の言葉に耳を傾けた。

 マーガレットの言うとおり、ルシアにはシルフの“声”が聞こえている。

 精霊の“声”は音ではない。頭の中にダイレクトに伝わってくる、感情が彼らの“声”なのだ。

 今の“声”は酷く小さく、切ない。それが意味するのは、空気の精霊シルフがショゲているということだ。

 理由は分からない。精霊の考えることは、人には理解できないことだから。

 ルシアは意中でシルフと対話をしようとして――やめた。

 すると、それに気付いたように、マーガレットが声をかけてきた。

「……そうですか。本日は気が乗りませんか。ルシア=エローラ」

 マーガレットは嵐のような激しい口調をやめ、穏やかに話す。その姿はどこか落胆しているように見えた。

「もう寮に戻りなさい。今は、やるだけ無駄です」

「……はい」

 ルシアはマーガレットと目を合わせない。すべてを見透かされてしまいそうで、嫌だったから。

 逃げるようにプールから離れ、生徒達の脇を通り過ぎていく。

 そのとき、小さな声が聞こえてくる。

「やる気ないなら、何で来たのよ」

「……」

 誰が言ったのかは分からない。

 だけど、ルシアには初めから言い返すつもりなどなかった。

 胸の内では、言いたいことは沢山ある。でも、それを言うつもりは毛頭ない。

 知っているから。感情のままに何かを言っても無駄だということを知っているのだから。

 ルシアはプールサイドから階段で降りたところに位置する更衣室に入ろうとした。

 そのとき。

「センセー! あたし、頭がガンガンするので、今日は自主休講したいと思いまーす!」

 ふとプールサイドから、健康そうな声がした。

「ジネット=ファビウス!? 大丈夫ですか!?」

「私も、痛いような気がするので、寮で休みたいと思います」

 マルティナの声が続いて聞こえた。

「マルティナ=バルツァーもですか!? 流行病か何かではないでしょうね!?」

「大丈夫です。でも、念のため、ルシアに連れていってもらいます」

 プールサイドから聞こえる会話とは別に、ルシアの背後から軽快な足音が近づいてくる。とっさに振り返ろうとしたが、それを邪魔するように背後から誰かにのしかかられた。

「あたしはもーだめだー! ルシアー! おんぶしてー!」

 覆い被さるように、ルシアに寄りかかってきたのはジネットだった。

「あうっ……ジネット、重いぃ!」

「失礼な! それはあたしのせいじゃない! きっと水着の重さだよ!」

 ジネットは体を離し、バスト部分のビキニを指差す。

「あっ! むしろ、胸の重さだよ! ほぉうら、ルシアにはない、この質量! この重量!! 重い理由が分かったでしょ――がふぅ!」

 ふざけて胸を持ち上げるジネットの頭を、プールサイドから降りてきたマルティナが箒で殴りつけた。見事なフルスイングである。

「仮病を使うなら、せめて病人らしくしなさい」

 箒を立て、マルティナは言った。

「たった今、病人から怪我人になったよ! 見て! タンコブ出来たじゃん!」

 涙目で訴えるジネットを、マルティナは無視してルシアの前に行く。

 責めるような鋭い視線に、ルシアは身を縮める。だが、

「たまには休養も必要よ。最近のあなた、調子が悪いみたいだし、今日は気晴らしでもしましょう」

 マルティナは薄らと笑い、更衣室に入っていく。

 あまりにも意外な一言に、ルシアは呆然としてしまった。

「騙されちゃ駄目だよ、ルシア。マルティはね、サボりたいだけなんだからね」

 そうジネットが囁くと、更衣室の扉が少しだけ開き、マルティナが顔を出す。

「聞こえてるわよ。サボりたいのは、あなたでしょう?」

「そんなことないもーん! ルシアのためだもーん!」

「どうかしらね」

「あっ、信じてないな! マジ仮病だし! ルシアのためだし! そういうマルティはどうなのさ!」

「日頃、勤勉な私がサボっても、一日なら許容範囲内よ。むしろ、リフレッシュとして必要なくらいだわ」

 二人のやりとりを見て、ルシアは胸の奥がこそばゆくなる。

 いつも困ったときには、二人は側にいてくれる。

 そんなマルティナとジネットを誇らしく思う。

 そして、自分は恵まれていると思う。

 ルシアは満たされた気持ちになり、視線を上げる。

 その視線の先に――怒りの形相をしたマーガレットがいた。

「ジ、ジネット! マ、マルティナ! そ、その気持ちは、すごく嬉しいんだけど……今ここで大声で言うのは、駄目だと思うよ?」

「何言ってんのさ、ルシア――あっ」

「――あっ」

 ジネット、マルティナの順にマーガレットの存在に気付く。

「ルシア=エローラ、ジネット=ファビウス、マルティナ=バルツァー。友情とは賛美に値するものです。えぇ、私は好きです、友情。……で! す! が! それが許されるような理由ではないことは、言うまでもありませんね! 三人とも! 覚悟はよろしいでしょうねぇ!?」

 その後、三人は耐久飛行姿勢訓練(二時間コース)を課された。


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