第三十六話 「理由」

■■■第三十六話 「理由」■■■





「舞台、そろそろバイトに行く時間じゃないか? 」





 叙情詩的なギターの音色が奏でられているヘッドホン越しに、父さんの声が割り込んできた。言われた通りにに時計を確認すると、ただ今午前8時20分……





「やばっ! 」





 うっかり音楽に聴き入っていて時間を忘れてしまっていた。間に合うか、バイト先まで間に合わないかのギリギリの時間まで迫っている。ボクは急いで冷蔵庫にしまったスポーツドリンクだけ握りしめて玄関に急いだ。





「ずいぶんハマりこんでるんだな……その……なっだけ? 」





 父さんはそう言ってボクの着ている真っ黒なでロゴ入りのTシャツを指さした。





「May……だよ。それじゃ、行ってきます! 」





「おい舞台! 」





 靴を履いていざ飛びだそうとしたボクを、父さんは引き留めた。そして、目をそらしてボクの足下を見ながら……





「すまんな……」と小声で謝った。





「いいって……それじゃ」





 錆びた手摺りの外階段をカツカツと降り、自宅アパートを後にする。





 ボクは今……安アパートで父さんと2人暮らしをしている……





 3年前……ボクが飛び降り自殺を図ったその日から……





 生活を大きく変えざるを得なくなってしまったのだ。





 屋上から飛び降りたボクが目覚めると、まず聞かされたのが……その原因を作った上流(うえる)の家庭にとんでもない悲劇が襲ったということだった……





 ボクは確かに彼に酷い目に遭わされていて、家族や周囲の人は「自業自得」「いい気味だ」だとか言ってけど……やっぱり後味が悪い……





 その一件で、上流(うえる)は全ての罪を潔く認め、社会的な制裁を受けることになった……彼はもう2度と以前のような生活は送ることはできないだろう……





 そして……辛い出来事はボクたち清水家にも降りかかってしまった。





 上流(うえる)にスキャンダルが生じたことで、その父親が勤めていた会社にも、大きな損害が生じた。それによって仕事を失ってしまった人たちは、上流(うえる)の罪を公表したボクたち家族に逆恨みの嫌がらせをするようになった。





 殺人予告……貼り紙……ネットでの誹謗中傷……根も葉もない噂をたてられ……それに耐えきれなくって両親は離婚。母と妹……父さんとボクとで別れて夜逃げ同然にそれぞれ引っ越した。





 それからあっという間に3年が経ち、今日に至る。





 生活はハッキリ言って苦しい。転職した父さんの給料と、ボクが夜間の学校に通いつつ働いて稼いだバイト代でどうにかやりくりしている……





 青い空の下を走っていると、歩道ですれ違う人々の誰もが幸せな顔をしているような錯覚を起こす。正直、何でボクたちがこんな目に……と何度も思ったし、自分の運命を真剣に呪った……





 あの時……ボクはそのまま死んでいた方が良かったんじゃないか? って考える時もあった……





 でも、こうして外の空気を吸い込み、風の音を聴くたびに……どういうわけか……「そんなことない」と誰かが励ましてくれているような……多くの人がボクの背中を支えてくれるような、そんな温かい気持ちになる。





「ハァハア…………」





 全速力の甲斐あって、どうやらバイトに遅刻しないですみそうだ。交差点の赤信号で足を止めてひとまずの休憩。スポーツドリンクを飲んで呼吸を整える。





「ふー……」と、水分を補給し終え、信号が青に変わった。あとは歩いてでも間に合う距離だ。一歩踏み出して横断歩道を渡ろうとした。





 ……その瞬間。ボクの後ろから、大きな影が覆い被さってきた!? 天気がいきなり曇ったのか? と思ったけど、振り返るとそこには身長が2mはあるかと思うほどの巨体を誇る"男"が立ってボクを見下ろしていた。




「おい坊主……」





「は……はい? 」





 まさか……? カツアゲかなのか? 





 その体格から響きわたる威圧的な声に、ボクは身体を震えさせてしまったが、直後に彼が"ある物"を手渡してくれたくれたことで、その不安はキレイに払拭された。





「ほらよ、落っことしたぜ」





「あ……これ……? いつの間に? 」





 大男が持っていたのはボクの"財布"だった。走っている内にポケットからずり落ちていたのを、彼が拾って届けてくれたのだ。





「あ、ありがとうございました! 」





 深々とお辞儀をしてお礼を言葉を伝えると、彼は「いいって、それじゃあな」と笑顔で一言伝えてこの場から離れてしまった。





 それにしても彼の短く刈られた髪に刻まれたタトゥーのような模様……どこかで見たような既視感がある……





 ボクの知っているプロレスラーに、似ている人がいたっけな……? 





 大男の正体は誰だろう? と立ち去る背中を観察していると、連れと思われる男が一人、彼の元へと近づいた。その人は、ボクと同じくMayのバンドTシャツを着ていて、小脇に細長い菓子のような物がはみ出した紙袋を抱えている。





「セネ、どこ行ってやがった」


「悪い、ちょっと買い物をな」


「買い物って……おめえ、またチュロスかよ? そんな甘ったるいモンをよくもまぁ何本も食えるな」


「うるせぇ。好物なんだよ」


「まぁいいけどよ……明日の試合の為に、またちょっと頼むぜ」


「ああ、抜群の状態に仕上げてやるぜ」


「お前の"針"が一番効くんだ。そんで、ついでにそれ一本くれよ」


「なんのついでだよ……ホレよ、一本だけな」


「サンキュー」





 大男は"セネ"と呼んだ男と親しげにそんな会話をしながら雑踏の中に消えていった。話の内容から察するに、やっぱりあの体格の良い人は格闘系のスポーツをしていて、セネという人はその人の状態を整える為の鍼灸師なのだろう。





 不思議だ……ボクにとって彼らは何の接点もなく全く異なる世界で生きている人間同士なのに、どういうワケかどこかで会ったような気がしてならなかった……





 あの人たちに、小学生の時に使っていた教科書を読み返した時のような懐かしさを感じたのは何でだろう? 





 考えても考えても納得のいく答えは出てこない。というよりも、ボクはそんなコトをしている場合ではなかった。





「やべ! 」





 このままではバイトに遅れてしまう! ボクは急いで携帯電話を取り出して時刻を確認しようとその液晶画面をのぞき込んだ。





「あと何分だ? 」





 ただそこに映し出されるデジタル表記を確認する……それだけのことだったのだけど……





「……まさか……」





 その時、ボクの全身に電流が走ったような感覚があった……





 ボクは……見つけてしまったのだ。





 起動前の真っ黒な画面な写り込んだ、無視できない"ある状況"を発見したのだ……





 誰も……誰も気が付いてないのか? 





 もうバイトどころではない。ボクは弾き出されたように飛び出し、道路を挟んで反対側に建てられている、古い5階建てのビルの外階段を駆け昇った。





 間に合ってくれ! 





 たどり着いた先は、ビルの屋上。その入り口の鉄格子扉は施錠もされておらず、誰でも簡単にここまで来られるようになっていた……このずさんな管理に怒りを覚えつつも、ボクは屋上の縁に建てられたフェンスにゆっくりと足を運んだ。





 刺激しないように……





 警戒されないように……





 そっと……だけど静かすぎず……自然体の歩みで。





「……もしかして……止めに来たの……? 」





 フェンスの向こう側に弱々しく立っていたその女の人は……風の音にかし消されてしまうほどのかすれ声で、ボクにそう言った。





「うん……」





 その女の人は、上下に簡素なスウェットを着込み……頭にはニット帽を深々と被っていた。頬は痩せこけて、顔色は白いというよりも青いという感じだ。





「……放っておいてくれるかな……? 関係ないでしょ……? あなたには」





 この世の全てを否定するような目つきだった。それだけで分かる……彼女は今、とんでもない絶望の中でかろうじて命をつないでいることを……




「……今から飛び降り自殺をしようとしている人を目の前にしたんだ……何もしないワケにはいかないよ……」





「……きれいごと……だよね……それって。もしも、あなた……飛び降りた直後の私を見つけたら"かわいそうに"の一言ですませてあっさりと元の生活に戻るでしょ? あなたは結局ヒロイックな感傷に浸ってるだけ……私が死のうが生きようが……関係な……」





「関係あるよ」





「……なんでそう言い切るの? 」





「ボクも……したことあるんだ。飛び降り自殺……」





「…………………………」





「まぁ……落ちても死ななかったから、ここにいるんだけどね……打ち所が良かったみたいで……足を骨折する程度で済んだんだけど……」





「…………そう……大変だったんだね……」





「……うん……あのさ……"そっち側"に行ってもいい? 」





「…………好きにすれば……」





 ボクは2m近い金網フェンスをよじ登り、ビルの縁に降り立った……下を見ると大勢の人々や、行き来する自動車がおもちゃのように小さく見える。





「高いなぁ……ボクが飛び降りた時は夜中だったから下がよく見えなかったけど……昼だとハッキリ見えるよ……」





「……私も本当は夜中にやろうと思ってた……でも、それは難しかったから……」





 その言葉は、彼女が少しだけボクに心を開いてくれたようなリラックスしたニュアンスが含まれていた……





「あの……ボク、清水 舞台(きよみず ぶたい)って言います。よろしく……」





「…………舞台(ぶたい)……ちょっと変わった名前なのね」





「……はは、よく言われます」





 ボクが苦笑いをすると、彼女もほんの少しだけ口の端を上げ、ずっと立ちっぱなしだった体をゆっくりと下ろし、ビルの縁に腰を掛けて座った。ボクも同じく腰を落として座り、足を空中にパタつかせた。





「……私は……甲州 蛍(こうしゅう ケイ)って言うの……」





「蛍(ケイ)さん……だね」





 お互いに自己紹介をしたあとは、蛍(ケイ)さんしばらくの間黙り込んでひたすら足下に流れる人の流れをずっと目で追っていた。





「私ね……」





 彼女は突然言葉を切り出した。





「私……これで2度目なんだ……自殺しようとするの」





「……2度目……」





「前はね……ちょうど3年くらい前かな……生きるのが嫌になってさ……部屋の中でカーテンを使って首を吊ろうとしたの……結局意識が飛んだ直後に他の人に見つかってね……失敗したんだけど……」





「そうだったんですか……」





「……それから、私を監視する目が厳しくなっちゃって……もう一度やってみようと思ってもなかなかできなくなっちゃった……」





「監視……? ……あの……蛍(ケイ)さん」





「なに? 」





「ボクは……イジメに耐えられなくなって、同じく3年前に屋上から飛び降りました……だから、その……」





「なんで私が自殺しようとしてるのか? って聞きたいんだね? 」





「……はい……」





「いいよ……教えるよ」





 ちょっと失礼だったな……と反省しつつも、ボクは彼女がどうして自ら人生を終わらせようとしているのか……その言葉の一つ一つを漏らさないようにと……神経を集中させた。





 悩みを共有することで、彼女がこの飛び降り自殺を諦めてくれるかもしれないと思ったからだ。





「私はね……病気なの……癌(ガン)なの……」





「癌(ガン)……」





「4年前……18の時に発病してね……それからは辛い闘病生活が始まった」





 そう言って彼女は頭に被っていたニット帽をおもむろに外した……その頭には髪の毛が1本も残っていない……それが抗ガン剤治療の副作用であることはボクでも分かる。





「どうにかなったと思えば、また再発して……苦しくて苦しくて……活路の見えない闘いが永遠に続く感じ……まだ若いのに……何で私だけ? って自分の運命を何度も呪った……」





「だから……自殺を……」





「そう……でもね……本当に辛いのはね、病魔じゃないんだ」





 蛍(ケイ)さんの目尻から、すっと一筋の水滴が流れた。





「本当に辛いのは……私のせいで両親に苦労させちゃってること……母も父も……そんなに体は丈夫じゃないのに……必死に私の治療費を何とかしようとって……」





「……………………」





 ……ボクは馬鹿だ……





 どうにかして彼女の力になれるんじゃないか? だなんて浅はかな考えを持っていた……





 ボクの苦悩なんて、彼女の抱えていたモノに比べれば……なんてコトのない……一度自殺から生還したことで思い上がっていたんだ……





 どう頭を巡らせても……彼女にかける言葉が見つからない……どんな励ましの言葉も、上っ面で表面的な、ただの空気の振動だ。





「ねぇ……舞台……くん、キミなら……分かってくれるよね? 」





「……なにを……ですか……? 」





「キミなら……どうしても自分で自分を終わらせなきゃならない……そんな時だってあるんだ。って……分かってくれるよね……? 」





「それは……」





 そう。





 ……分かる……分かってしまう……





 その辛さは……痛いほどに……





 だからこそ……蛍(ケイ)さんの悩みを知った今……「死んじゃ駄目だよ! 」だとか……そんな軽々しい言葉を伝えるコトができない……





「舞台くん……もういいよ……私の話を聞いてくれてありがとう……だから……もう放っといて……」





「蛍(ケイ)さん……でも……」





「……このままじゃ、あなたにも面倒が降りかかる……だから……早くこのビルから離れて……お願いだから……」





「そんな……」





「早く行ってよ!! 」





「………………」





 ボクは……ひたすらに無力だ……





 気が付いたら……彼女の言われた通りに、フェンスをよじ登って彼女の元を去ろうとしている自分がいた。





 結局……自分は一体何をしたかったんだろう? 





 同じ境遇で悩む人を救う使命感がボクの体を揺り動かしたのか……? それとも、蛍(ケイ)さんの言うとおり……単にヒロイックな感傷に浸っていたかっただけなのか……? 





 いや、どっちにしろ……相手のコトを全く理解しようとしない……自分本位の考えだ……彼女を本当の意味で救うコトにはならない。





 でも……





 いいのかそれで? 





 確かに彼女を自殺から助けても……その後、また絶望に苦しむだけかもしれない……





 でも……このままじゃ……





 このままじゃ……!! 





「蛍(ケイ)さァァァァン!!!! 」





 ボクは必死になって引き返し、ビルの屋上へと舞い戻った! もう色々と考えるのはヤメだ! 





 再びフェンスと対峙すると、そこには今まさに地上へと飛び降りようとしている蛍(ケイ)さんの姿……! 左手の指の力だけでかろうじて体重を支えているような状況だ! 





 そして一本一本指が金網から離れ……その体がゆっくりと重力に引っ張られる! 





「待って!! 」





 彼女は支えていた指を全て解き放ち、その華奢な体を空中に放り出した……





 でも……





「ヌゥゥゥゥゥゥッッシ!! 」





 彼女は落下しなかった……





「ウソ……!? ぶ……舞台くん!? 」





「す、みません……戻っちゃいました……」





 ボクが、間一髪彼女の左手をつかみ取り、その飛び降りを阻止したからだ。





「なんで? なんで止めるの!? 」





 ボクは今、ビルの縁に足の甲を引っかけて真っ逆さまの宙づり状態……サーカスの空中ブランコのような体制で蛍(ケイ)さんを掴み上げている……正直かなりキツイ状態だ。





「馬鹿! 早く離して!! でないとキミまで! 」





 ここまでの状況になって、ようやく地上を歩いていた人達もボクたちの存在に気が付いたようだった……ビルの近くには人混みが生まれて、何人かがこのビルの外階段を駆け上がっていく様子が見えた。あと少し耐えれば助かるかもしれない。





「離して! なんで? なんで死なせてくれないの? 」





 蛍(ケイ)さんは何度も自分を支えている両手を離すように懇願した。でももう……ボクの中では彼女を見捨てる気持ちなんて微塵も無かった。そして……その理由すら無かった。





「…………わからない……」





「え……? 」





「わからないんだ……でも……こうするしか……」





「馬鹿……!! それなら早く手を離して!! 」





「ごめんなさい!! それはできません! 」





「……もう……これ以上私を苦しめて……どうするの……なんで放っておいてくれないの……」





「……ごめんない……」





「なんで……なんでなの……」





 両足の甲が焼けるように痛み、太股がブルブルと震える……蛍(ケイ)さんとボク自身の体重を支えるのには、やはりこの体勢では無理があった……





 だんだんと蛍(ケイ)さんの体重がバーベルのような重さに感じてきた……もう……ヤバい……





 そろそろ……限界がきちゃったみたいだ……





「舞台くん!! 」





 ボクの両足はビルの縁から離れ……





 とうとうボクたちは地面へと……





 真っ逆さまに引っ張られて落下してしまった……





 あの時……3年前に飛び降り自殺をした時と……同じだ……全身に空気の圧が当たって呼吸ができなくなる感じ……





 両手両足が何も触れない、抵抗の無い恐怖……





 だけど……今回は前とは違う……





 この落下は自分が死ぬ為ではない……





 蛍(ケイ)さんと共に……助からなくてはならない!! 





 ボクは落ちながら彼女を抱き抱え、体を丸めた。





 その時見えた、雲一つない青空を最後に……





 ボクの意識は……





 ここで遠のいた……





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