bambini
いつも通っているバーに辿り着く。
仕事疲れにはお気に入りの店のお気に入りの酒を飲むのに限る。
俺は朝の時とは全く変わったヨレヨレのスーツを着たまま、そのバーに足を踏み込んだ。軽快な鈴の音が客の来店を知らせる。直後、店の中から「いらっしゃいませ」と声がする。
このバー、『bambini』は1人の女店長と1人の男性が切り盛りしている。多分2人とも夫婦なのだろう。
紫と青と白色のライトを使用しており、椅子やテーブルは黒という、店内は落ち着いた雰囲気だ。仕事帰りのリーマンやOLが腰を落ち着け、酒の誘惑にどっぷりハマりやすい店だ。
かくいう俺もどっぷりハマっている。
いつもの席、カウンター席に腰掛け、俺に気づいた女店長に手を挙げる。男性店員は黙々と食器を洗っている。
「またいらっしゃったんですね?」
もうすっかり常連だ。
この店は雰囲気もさることながら、出す飲み物も新しく、初めて訪れ、飲んだ時には舌を巻いた。今まで飲んだことのないものだ。そして尚且つ美味い。
そんな魅力的な店に惹かれ、ほぼ毎日ご来店させてもらっている。
「またいらっしゃいましたよ。今日は何がいいかな」
「新しいメニューがございますよ? その名も『ホッパー・アイ』。グラスホッパーは口に合いますか? そのお酒と秘密のお酒を混ぜ合わせたカクテルとなっております。グラスホッパーの本来の味を殺さずに、少しピリッとした刺激を加えております」
「へえ、新しいね。辛口でピリッとしたお酒ならよくわかるけど、甘口でピリッとか……。さすがだね。気になるし、それ、頼んでみようかな」
「かしこまりました。少々お待ちください」
女店長は軽く一礼をし、準備を始める。
待ってる間に、スマホを取り出し、LIMEを開く。
『愛、またbambiniで飲んで帰ってくるから先に晩御飯食べて寝てていいよ』
娘に一言メッセージを残し、スマホをカウンターに置いておく。
シェイクの音が店内にこだました。
女店長が優雅に、素早くシェーカーを動かしている。その動作を終わらせると、予め用意されていたカクテルグラスにゆっくりと注いでいく。グラスホッパーをメインにしているのか、色はグラスホッパーのそれと一緒だ。淡い緑色の液体が入っていく。その上から胡椒を一振りし、俺の目の前にグラスを置く。
彼女はカウンターに置かれたスマホに目を向けると、口を開いた。
「愛ちゃんに連絡ですか?」
以前、酔った勢いで自分の家族の話をして以来、彼女は愛の話をする。まあ、俺たちの共通の話といえばそれだけだからだが。
「ええ。ここに寄って帰るって送りました」
「もう……、奥さんもいらっしゃらないのに子どもを一人、家に置いてちゃだめですよ。最近本当に物騒なんですから」
俺の嫁は数年前に亡くなった。娘1人と2人で過ごしている状態だ。もう、こういう生活も慣れた。娘は小学生になり、1人で判断できるくらいの年にはなっている。それに甘えてか、この店に寄っては遅く家に帰ることが多くなってきた。
「物騒物騒なんて言いますけど、実際自分の周りにそんな物騒なことって降りかからないんですよ。ああ、いただきます」
目の前のホッパー・アイを手に取り、軽く乾杯の仕草をして見せ、味見程度にその液体を舌に乗せる。
生クリームの滑らかな舌触りの後にほんわかと甘い味が口内に広がる。その後に、主張しない程度のピリッとした刺激が走る。
「うん、美味しい。グラスホッパーの味を消さずにまた新しい味が楽しめるね」
「ふふっ、レポーターみたいなコメントですね。ありがとうございます。しかし、もっと加えても良かったかもしれません」
んー、自分自身、バーテンダーではないから、彼女の悩みはわからない。
彼女は「ごゆっくりお寛ぎください」と頭を下げ、他の客の話に相槌を打ち、はたまた別の客の相手をし、と移動しては、食器を洗ったり、カクテルを作ったりとテキパキと動いている。
そういえば、いつの間にか男性店員がいなくなっていた。
家に帰り、靴を脱ぎ、カバンやスーツを自室に放り込み、風呂に入り、愛の部屋を覗く。
……いない?
部屋が暗く、上手く目を凝らしても、奥の方は見えない。
ただ、暗闇に紛れ込んでるだけだろうと軽く思い、自室のベッドに寝転び、目を閉じた。
「今日の新メニューはローズ・アイとなっております。爽やかな風味が大変人気でして。透明感のある赤い液体の上に薔薇の花弁を1枚浮かべ、可愛らしいカクテルに仕上げました。女性にはとても人気です」
差し出されたカクテルは、ルビーのように赤く輝いており、言うように、花弁が一枚浮かんでいた。真っ赤でお洒落なこのカクテルは、本当に女性には人気だろう。薔薇が好きな女性も多いだろうし。いや、これは偏見か?
一口飲んでみる。
アルコール度数が低いのか、水のように飲める。だが、口内には味はしっかりと残り、記憶に残るような飲み物だった。これは確かに女性ならば飲みやすいだろう。
「スッキリしてて飲みやすいよ。女性にとってはアルコール控えめなのも好感だろうね」
「ええ。女性はお酒が苦手な方もいますし……。ところで、愛ちゃん、寂しがってはいませんでした?」
昨夜のことを聞いているのだろう。
「ああ、いや、夜遅いからもう寝てたよ。だいたいいつもそうさ。朝も俺の方が早く起きて出勤だ。ほぼ愛の一人暮らしだね」
「あら、それは寂しいわね……。早く帰ってあげた方がよろしいのではないですか?」
心底心配そうに尋ねてくる。
「いいや、大丈夫だよ。……でも、少し気がかりなことがあってね」
「何ですか?」
俺は懐からスマホを取り出し、LIMEを開き、愛とのメッセージ画面を女店長に見せる。
「昨日のあのメッセージ、既読になってないんだ。もちろん返事もない。今日は学校があるとはいえ、朝起きたら見るはずだ。……昨日……ちゃんと愛の部屋を見てなかったな……」
「それは心配ですね……。もしかして体調が悪いとかではないですか?」
俺はそれはそうかもしれない。と言ったが、何か引っかかるものを感じ始めていた。
家に帰ると、即座に愛の部屋を確認する。
やはりいない。どこを探しても隠れていたり、寝ていたり、姿さえも見つけることはできなかった。
こんな夜中、街を出歩くわけもないし、出歩いていたとしたら警察から呼び止められて、俺に連絡なり何なりあるはずだ。
一応、LIMEでメッセージを送ってみる。
愛のベッドの上から着信音が鳴った。
「それでどうしたんです?」
「もちろん、警察に相談したよ。だけどダメだね。警察は事件性がないと動かない。まあ、それは知ってるんだけど……。というか、全て俺が悪いって言い方されたな……」
「それは当たり前でしょう。まだ幼い女の子を1人にしているんですから」
今日もbambiniに出向き、女店長と話す。
今日の新メニューはブラッディ・アイ。ブラッディマリーと秘密のお酒を混ぜ合わせたカクテルのようだ。
女店長はタンブラーにウォッカ、トマトジュース、タバスコを入れる。その上に塩と胡椒を一振りすると、カウンター下から真っ赤な……いや、赤黒い液体を円を描くように少しだけ入れた。
彼女は最後の動作をしている時だけ、口角を上げ、妖しい雰囲気を纏わせた。
紫と青の光が、彼女の顔を照らし、妖しさも妖艶に映し出した。
「はい、できましたよ。お召し上がりください」
俺の前に来た時には普通の彼女に戻っていた。
いつものように舌で転がすように味見をし、いつものように感想を言う。
彼女は一層妖しく笑んだ。
「そういえば、いつも新しいメニューって『アイ』って付いてますね? 何か意味があるんですか?」
俺はまさかなと思いながら、何食わぬ顔で聞いてみた。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
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