外伝 裏影に生きる者・後編



 ドナウ直轄軍騎兵隊百人長ヴァーツラフは、自分が何故このような仕打ちを受けているのか皆目見当つかなかった。ほんの数分前まで馴染みの酒場で同僚達と酒を飲んで日々の軍務の疲れを癒していたはず。それもお開きとなり、宿の部屋に戻ってきて明かりを点けた瞬間、背後から羽交い絞めにされて声も出せない。未だ酔っているのかと自答したが、残念ながら前後不覚になるまで飲んだ覚えは無く、先ほどまで飲んでいた酒の量とつまみの品目もしっかりと思い出せる。つまり自分は酔っていても、正常な思考をまだ有している。

 だからこそ、今の状況に納得がいかない。部屋の鍵はたしかに掛けてあった。ただの物取りなら、金目の物なり鎧でも持って現場から一刻も早く離れるはず。よしんば物色中に鉢合わせしたかもしれないが、それにしてはいまだに自分の意識があるのはおかしい。こういう時は、気付かれる前に後ろから殴打して気絶させるなり首を絞めて殺してしまえばそれでアシは付かない。動きを止めて布で口をふさぐだけでは不十分である。まるで危害を加える気が無いような扱いだ。

 ただ、気になるのが後ろから羽交い絞めしている相手の手から漂う嗅いだ事のない匂い。悪臭でもなく刺激的な匂いでもない。しかし、後を引き鼻腔を刺激する未知の匂いに精神が昂ぶる。


「影である私が直接顔を見せるのは都合が悪かったのでこのような真似となりました。無礼の程はご容赦を。ヴァーツラフ百人長ですね?私はドナウ本土から派遣された者です」


 一番聞きたくなかった言葉だ。ただの物取りなら不愉快なだけで済んだ。同僚達が自身の栄達を妬んで雇った暴漢だったら納得した。何人もの首を刎ねたホランド人の縁者の仇討ちだったら力の限り抵抗するつもりだった。だが、よりにもよってドナウ本土からの人間とは。思い当たる節がある以上、誤魔化しも逃げも出来ないと思うと力が入らない。


「―――身に覚えがあるようですね。後ろ暗い事をしていると分かった上で背信行為を繰り返していたわけですから、相応に覚悟は有ったと?ふむ、これは予想外だ。もっと足掻く相手だったら、取引を持ち掛けられたものを」


 取引と言ったか後ろの男は。一体なにを取引するつもりかは分からないが、今ここで自分を殺すか捕縛するつもりが無いと、僅かながら助かる選択が残されていた事に力が漲る。そして後ろの男にどうにか意思を伝えるべく、手首だけは自由に動かせたので、足を軽く叩いて喋らせろと伝えた。

 男は大声を出したらすぐさま殺すと警告したが、すんなり口から手を放してくれた。


「取引と言ったが、貴様は俺を殺すつもりが無いのか?」


「貴方一人を殺しても仲間がまだいますからね。全て殺すなり捕まえるなりしなければ、私の任務は終わらない。それは骨が折れるので、貴方に協力してもらおうと思ったんですよ。勿論、見返りは弾みます。協力して頂ければ恩赦が与えられて、ごく軽い処分、精々軍から放逐程度で済むでしょう。今まで貴方が栄達の為に多くの兵と同僚を利用してきた事、さらに罪の無いドナウの民を犠牲にした事を鑑みれば如何に割の良い商談か、お分かりになるでしょう?」


 暗に仲間を売れと囁きかける男に嫌悪感が込み上げる。そしてそれ以上に俺がここ数年何をやっていたのか正確に把握されていた事に恐怖を覚えた。

 戦の無い世で軍人が出世するには地道に普請や演習を積み重ねて成果を出すか、夜盗や賊の討伐で手柄を上げるしかない。しかしここ十年治安の良いドナウに軍が出張るほどの数の賊など居ない。なら、自分で賊を用意せねば手柄を上げる機会も無いと画策して、ホランド遊牧民に軍の情報を流して襲わせた。結果、目論見通り遊牧民は警備の手薄な時間と箇所から侵入して略奪を働き、駆け付けた俺や事情を知る仲間達に討ち取られた。功績をあげ、民からは英雄として感謝される。そして蛮族が少し減る。少しの犠牲で誰もが喜ぶ結末だった。それが職務から逸脱している、機密漏洩として処罰される行為だと分かっていたが、一度味を占めてしまえばもう抜け出そうなどとは考えられなかった。

 最初はほんの出来心だったのだ。仲間の何人かはかつて身内がホランドに相当酷い目にあわされた。その内の一人は母親が凌辱された結果、自身を産み落とし、迫害を恐れてドナウまで流れてきた。そしてその母も孤立無援の慣れない異国で心労が祟り命を落とし、王族の運営する孤児院に引き取られ、どうにか生き永らえたが、それを生涯悔い続けていた。その後、救われた恩を返すために軍に入ってたまたまホランド地方との境界線に配属されて、毎日自らを産み落とした元凶を前に、ただ見ているしかない同僚を不憫に思い、わざと蛮族に攻め込ませるように状況を整えた。結果、略奪を働いた蛮族を悉く討ち取り、同僚は喜びを露わにしていた。そして多くの兵に手柄が入って来た。こうなるともう歯止めが利かず、ひたすらに敵を倒して功を稼ぐ日々が続いた。助けた相手からは感謝され、国や領主からは必要とされた。地位も上がり、給料も増えた。毎日が充実して、背信行為の罪の意識も薄らいでいた。それでも罪が消えたわけではないと、今この場で突きつけられて、自分が何をしていたのかを思い出させられた。


 酔いの醒めた頭で必死になって打開策を巡らせるが、後ろの男の提案以上に自らの身を護る術が無いことぐらい分かる。拒否すれば今この場で命は絶たれる。だが、提案を呑んで仲間殺しの罪を背負うのは良心が咎めた。


「まだ躊躇しているんですか?それとも今この場を切り抜ける方法を必死になって考えている?我欲で国を裏切った人間が同僚を裏切るのを躊躇うのは道理が通りませんよ。

 仕方が無いですね。イグニス、仕事だ」


 首が動かないのでまるで見えなかったが、男の言葉に後ろに控えていたであろうもう一人が足音に交じってガチャガチャと金属音を垂れ流しながら、すっぽりと外套を纏った小柄な人型『イグニス』とやらが俺の前に立った。ランプ一つでは光源に乏しく、頭上からつま先までをゆったりとした麻布で覆い隠しているため性別すら分からないが、仕草から何となく女、それもまだ幼いように感じられた。


「彼をもう少し素直にして差し上げろ」


「お、俺を拷問するのか。い、いいのかそんなことしたら宿の人間にばれるぞ。あ、あんたらだって仕事柄目立ちたくないはずだ。な、なあ早まるなよ」


「ご心配なく、貴方に苦痛を与える真似は致しません。むしろ快楽すら感じるやもしれませんよ」


 呑気なほどに穏やかな口調が後ろから囁かれると、却ってそれが恐怖を掻きまわす。

 『イグニス』がおもむろに左腕を動かすと外套が捲れた。薄暗で分かりにくかったが、そこにあるはずのものが無い事ぐらいは分かる。こいつの左腕は肘から先が無かった。だが、そこから奇妙な光景が広がり始める。

 肘先から青い炎が生まれ、それが無数のミミズのごとく伸びて行き、不規則に蠢くと次第にそれは長く太くなる。まるで炎が腕の代わりのように生えていくかのようだった。冒涜的とも神秘的ともつかない現実感の欠如、その光景に瞬きさえ忘れて魅入り続けると、酔いにも似た酩酊と寝床に入った時のような眠気が襲ってくる。そのどちらもが心地良かった。後ろの男の言う事は真実だった。

 夢うつつの中で何かが囁いている。何故だか分からないが、何かをしなければならないと強烈な衝動が心の底より湧き上がる。


「自分一人だけ楽しんでは勿体無いですよ。この快楽を貴方のお仲間にも味合わせてあげたいと思いませんか?もしそう思うのなら、お仲間にこれを飲ませてあげてください。そうですね、お酒に混ぜたほうがより美味しく飲めます。明日にでも秘密を共有する無二の仲間にこっそり振る舞ってください。大丈夫、これは良き事です。貴方はいつだって、仲間のためを思って行動出来る人です。私達もそれは良く知っています」


 ああ、そうだな。俺一人だけ楽しんでは仲間に悪いよな。仲間の為だ、この小瓶は大事にするよ。その言葉を聞いた二人は何も言わずに部屋から出て行った。

 それを見送った俺は、俺は――――――――――何をしていたんだ?仲間達と酒を飲んで、宿に帰ってきて、それから――――――酒のせいで、いつの間にかうたた寝をしていたんだろう。手の中にある小瓶をいつ手に入れたかは忘れたが、きっと良い物だ。だから仲間にも振る舞ってやらないとな。ビックリさせたいから大事に隠しておこう。

 こんな清々しい気分になったのは生まれて初めてだ。今夜はよく眠れるだろう。



      □□□□□□□□□



 二日後の朝、俺達はクリス殿と一緒にとある酒場の一室で五人分の死体を眺めていた。全員がドナウ直轄軍の軍人、うち一人にはヴァーツラフも含まれている。死体はどれも自分の喉を掻き毟った跡があり、例外なく苦悶の表情のまま口からどす黒い泡を吹いて事切れていた。


「個室だったのは幸いだった。おかげで店の者以外に彼等の死は漏れていない。これなら死体の処理も軍への連絡もかなり手間が減ってやりやすい。クマノ、これも君の想定通りかね?」


「一応事前に諜報部が調べていた中に、酒場では頻繁に個室を借りていたとあったので、可能性は高いと思っていました。密談するにしても、出来る限り人の耳に入らないように配慮するのは当然の自衛手段ですから」


 自分達が後ろ暗い事をしていると分かっている以上、備えを怠るようなヘマはしない。それも軍の士官ともなれば尚更だ。

 ここ最近ホランド遊牧民の略奪も鳴りを潜めていたので、そろそろ情報を与えて動かそうと密談する可能性も高く、一人一人消していくと事を悟られる可能性もあった為、仲間の手による毒殺を考えた。それが殊の外上手くいき、最小限の犠牲と露見に胸を撫で下ろす思いだった。

 反対に相方のイグニスの心は穏やかとは言い難かった。現に物言わぬ躯となった五人の前で外套を脱いで、祈りを捧げている。直接的ではないにせよ、自分の力が人を死に追いやった事実が、彼女の心に重くのしかかっているのだろう。

 普段肌を晒す事を極端に避ける彼女もこの時ばかりは死者への礼を尽くすために外套を脱ぎ去り本来の姿を晒す。イグニスには本来あるはずの半身が存在しない。左腕は肘から、左脚も太ももの部分から失われている。さらに顔の左側は焼けただれており、筋組織が露出している。顔だけではない、彼女の体の左半分も同様に酷い火傷を負い、生きているのが不思議なほどだった。まだ十三歳の娘に、この事実は極めて強い劣等感を植え付け、屋内だろうが竜車の中だろうが常に外套を手放さない。そんな中での数少ない例外の一つが、死人への弔いの時間だった。


「死者への弔辞を忘れないか。だが、却って諜報部では生き辛いだろうに。

 そういえばあの娘は孤児だったらしいが、君の家で直接養育というか教育しているとか聞いたよ。神術が使えるとかで、君の母が手解きしたらしいね。人に命令する類の力なのかい?」


「いいえ、火を操る神術です。人を意のままに動かしたのは応用と言いますか、組み合わせの一つとして火を用いただけです」


 意外過ぎる回答にクリス殿は言葉を失うが、それ以上は追及しなかった。正確にはイグニスが祈りを終えて、帰る意思を示したので、聞きそびれてしまったのだろう。そして死体の処理を命じられた貧民らしき格好の数名が部屋にやって来たので、そちらに気を取られていた。これ以上は諜報部でも限られた人間しか知らない手法だったので、ちょうど良かった。

 クリス殿に先に屋敷に戻っているとだけ伝えて惨状の現場から離れ、二人で街を歩く。義足を履くイグニスの足は遅いが、仕事を終えてゆったりとした時間を過ごすのは悪くない。フィルモアに比べれば田舎臭さはあるが、ここもそれなりの都市なのだから相応に娯楽施設もある、珍しい物もそこそこ揃っている。王都に帰った時に渡す土産を選ぶついでで相方と息抜きに遊んでいくのも悪い事じゃない。


「イグニス、仕事も終わったから2~3日はここでゆっくり出来る。何かやりたい事とかあるか?食べたい物でもいいぞ。お前は肉料理が好きだったから、色々と食べ比べしてもいい」


 仕事で一番働いた者にご褒美があるのは当然。父なら間違いなくそうしただろう。

 劣等感の塊で、いつも遠慮して我を出さないイグニスだって年相応の欲求はある。読み通り、肉と聞いて肩を震わせる。こいつは手足を失った時に言葉も失ったが、元々多感だ。声が無くとも、外套を羽織って顔を見せなくても、その仕草で感情はかなり読み取りやすい。


「遠慮はいらない。今回の仕事はお前が居たからこれだけ早く終わった。なら、余った時間と予算を有効活用したところで、咎められる謂われはない。ほら、そこの露店で売ってる野菜と竜肉の炒め物なんか旨そうだぞ。一緒に食べるか?」


 ちょうど労働者向けに朝食を売っている露店が幾つも開いていた。パンや粥を扱う店もあるが、土地柄肉を扱う店の方がずっと多い。俺達はまだ朝食も食べていないのも手伝って、炭に落ちた脂や焦げた魚醤の匂いは否応なく胃を刺激して食欲を引き出してしまう。二人揃って腹が鳴ったが可笑しかったのか、イグニスも肩を震わせ、俺も噴き出してしまった。

 殺伐とした仕事をしていると腹が減る。人は腹が減ればどんな罪を犯しても腹を満たそうとする。その程度なら分かりやすいし、捕まえるのも容易い。しかし俺達が相手をするのは腹が減って力の出ない奴等じゃない。満腹でも物足りないと言って、さらに他者から食い物を奪おうとする不埒者だ。そんな奴等を野放しにしていては堅気の民が不幸を背負い込む。それを見て見ぬふりは出来なかった。だから俺は望んで裏と影からロクデナシ共を排除する道を選んだ。父はそれについては何も言わなかったが、


「自分で選んだ道なら途中で投げ出すことは許さない。息子だからと言って特別扱いもしないし、泣いても扱き使い続けてやるから覚悟しておけ」


 と、だけ言って認めてくれた。おかげで後ろ暗い事ばかり上手くなるが、それで少しでも不幸になる人が減れば満足だった。ただ、不満があるとすれば隣で野菜だけ俺に押し付けてガツガツと肉を喰らっている、相方の少女に汚れ仕事を手伝わせるのには躊躇いがある。幾ら親に捨てられて身寄りも無く、半身を火傷で欠損した女では娼婦にすらなれない。仮に娼婦になっても特殊な用途に使われて早々に心身を壊されて墓場行き。そんな娘では碌にこの先生きていけないだろうと、生まれ持った才能を最大限利用して生きる糧とするのは理解出来るが、それでも汚れ仕事を強要させる世を腹立たしく思う。同時にその恩恵にあずかり楽をしている自分も同類だと知っているからこそ、後ろめたさを振り解きたかった。イグニスを甘えさせて荒んだ良心を満足させたかった。そんな浅ましい真似こそが、どこまでも身勝手だと己を嫌悪してしまう。

 ただ、父から言わせれば、そんな自己嫌悪があるからこそ危険な知識を教えるに足る信頼が得られると言っていた。イグニスの用いた火を用いた催眠術や、鎮痛薬に使われるシークの葉を調合した催眠薬の取り扱いは諜報部でも極秘中の極秘。それを息子だからと言って無条件に教えるほど父は甘くない。利己的な欲で権力を行使せず、幼い子供を利用するのに嫌悪感を持てる良心があるからこそ、禁忌の取り扱いを許された。それが甚だ皮肉だと思う。

 そんな事を考えていると、目の前の皿には野菜が山となって、代わりに肉がほぼ無くなっていた。俺はまだ一口しか肉を食べていないはずだが。野菜を押し付けるだけでなく肉まで奪うとは思わなかった。流石にこれは怒りたくなったぞ。


「お前、ちゃんと野菜も食べろよ。肉ばかりだと体調を崩しやすくなる。特にお前は肌が弱いから病気になりやすくなるんだぞ。好き嫌いしてるといつまでもチンチクリンなままだからな」


 最後の一言が余計だったのか足を踏まれた。生身の足の方だからあまり痛くなかったが、育ちの悪さには困ったものだ。母達の悪い所を見て育ったせいだな。

 山盛りの野菜を口にすると肉のうま味と野菜の甘さと苦み、それと魚醤の塩気と香ばしさが一体となって舌を楽しませる。こんなに美味いのに嫌がるのが分からない。それに肉ばかりだと飽きるだろうに。まあ、本人が満足してるならそれも良いかと納得して、押し付けられた美味い野菜を平らげた。



 後日、王都に帰還してこの事を婚約者と義理の母であるタチアナ夫人に話すと、義母から呆れられた。


「貴方の子供に甘い性格はお父上によく似ていますね。けど不器用さも同じぐらいに受け継いでいます。あの方は私にも同じような事をしていましたが、そこは治していただかないと困りますよ」


 父に似ていると言われたのは嬉しいが褒められているとは言い難かった。



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