外伝 裏影に生きる者・前編
――――ドナウ歴520年――――
25年前、戦争があった。いや、戦争ならば時代を問わず場所を選ばず行われていた。
我が祖国ドナウは25年間戦争から遠ざかっている。それが良いか悪いかと聞かれたら、大部分の人間は良いと答えるだろう。血を流さずとも、命を奪わずとも生きて、腹を満たせるならそれに越した事は無い。
軍人や騎士のような武力で禄を得る者も別の仕事を与えられれば食うに困りはしない。陸軍ならば演習や訓練以外にも、ドナウ各地の街道および水路整備や堤防の保全、国境線に土塁を張り巡らせる仕事がある。実際に首を狩る事は無くとも、常に移動していれば国内の馬鹿な連中への威嚇としてはそれで事足りた。
海軍であれば海洋交易路の警備がある。広大な海で常に目を光らせるには、今でさえ人手不足だと母親の違う兄がぼやいていたのを思い出す。
騎士とて王宮の護り手として欠かせない。実戦から遠ざかっても、王に不埒な考えを抱く者は常にいる。そんな奴等への最後の砦として日々警護と鍛錬は必要だった。
武は軽々しく振るうものではない。だが、捨て去って良い物でもない。手入れは続け、使わない時は鞘に納めておくのが最良の扱い方だと軍人だった父はよく口にしていた。
実のところ軍と言っても全ての兵士が戦いたいと思っているわけではない。士官である代々武門の軍人貴族を除けば、末端兵士の多くは農家の四男五男のような土地を継げない男が食い扶持を得るために所属しているか、教育を受ける数少ない機会を得ようと入るか、大きく分けてこの二種類になる。
ドナウは25年前に比べ大きく版図を塗り替えた。それはドナウ人以外を民として受け入れたということだ。そうなると困るのは意思疎通が出来ない民が増える。全人口六百万の内、約半分はドナウ語を話せない。これは大問題である。
かつてドナウ直轄軍は一万五千程度だったが領地が数倍に増えた為、兵を増員した。人員は各地から募集したため雑多な人種で構成されている。勿論大半はドナウ語を喋れない。これでは集団として機能するはずもない。これを重く見たドナウ王政府は全ての兵士にドナウ語の教育を義務付けた。それに加えて数学の基礎教育を追加した。これは二度のホランドとの戦いによって磨き上げられた土木技術を末端兵にまで教育するのが慣例となりつつあったからだ。
それはそれとして祖国の風習や言葉をドナウは禁止せず、自由に使えばよいと保証した。あくまで軍内部、あるいは公の場で扱う為に共通の言語としてドナウ語を教えていたので、兵士一人一人の苦労はともかく、大きな反発は無かった。
この手厚い扱いにより兵士一人一人が『ドナウ人』という帰属意識を持ち、ドナウに愛着を持つ者も増えていた。元がどこの生まれなど些末な違いでしかない。かつてアルニア、リトニア、プラニア、サピンと呼ばれた人々も、自分はドナウに仕えていると公然と、そして誇らしげに口にしている。
そして十分に教育した兵士が退役して故郷へ戻れば、彼等は現地でドナウ語を教える教師となった。これも最初から計画された役割である。
複数の言語を操れる者など貴族ぐらいだが、広大な領土に点在する村一つ一つに派遣するには数が足りなさすぎる。そのため、多少稚拙でもドナウ語を教えられる者を大量に用意し、派遣するために退役兵を利用した。彼等が中心となって、ドナウに編入された土地に徐々にドナウの文化や言葉を浸透させ、いずれは全ての民に『ドナウ人』としての帰属意識が芽生えるだろう。百年は掛かる大事業になるが、このまま放置して内憂を抱えるよりは余程良い。遣り甲斐のある仕事だと好意的に受け止める者も多い。
もはや軍人は戦うだけが仕事ではない。街道を整備し、治水を行い、教師として人と人とを繋げる国の橋となる役割を担っていた。
だが、それに満足しない者達も一定数いる。兵士は戦ってこそ兵士である。そう公言して戦いを望む者は少数ながら存在している。彼等の心の奥底には戦で名を上げ、功績によって出世し、いずれは領地を賜りたい。そうした欲が太平の世にあっても未だに燻っていた。
その機会がドナウでも無いわけでもない。かつてアルニアと呼ばれた土地の東には同じくホランドと呼ばれた土地がある。この地に住む卑賤の民、ホランド遊牧民が時々境界線を越えて略奪にやってくる為、国から守備兵を派遣せねばならなかった。
一応かつてのホランドはユゴス、レゴスの領土になるので両国は自国民を管理せねばならない立場にあるのだが、大部分は新たな支配者に従っても、一部はそんなものは関係無いと、復興して裕福になりつつあるドナウのアルニア地方をたびたび略奪していた。
これにドナウも両国に厳重に抗議してるが、なかなか成果は出ないようで、座して見ている気の無いドナウ王政府は、地方領主クリス=アスマンとグスタフ=ツヴァイク、両者の要請を受諾。直轄軍二千を派遣、国境線の防衛に当たらせた。
この判断により、ホランド遊牧民の一団は逆襲を喰らい、略奪は沈静化。そしてユゴス、レゴスがドナウに賠償金を支払う事で決着がつき、派遣された直轄軍兵士には褒賞が与えられた。
しかし、今にして思えばこの結末が新たな騒乱の火種を産みかけたのではと思えてならない。信賞必罰は集団の公正さを示す義務だが、この件が太平の時代に武勲を評価してもらえる数少ない前例を作ってしまった。
そして以後、度々国境線は遊牧民の襲撃を受けている。それもご丁寧に国境に張り巡らされた警備の隙間を抜いてだ。最初の一度二度は偶然、あるいは不運が重なって起きたと軍は判断した。しかし、それが三度四度と続けばそれはもう必然だ。
肝心の隣国に抗議しても事態は改善せず、却って互いの国に悪感情を抱く始末。これ以上進展が無ければ、二十数年の友好関係が揺らぎかねない。それを重く見たドナウ王政府は独自に調査を開始。ホランド地方だけでなく軍にもアスマン、ツヴァイク両家にも秘密裏に諜報部が情報を集めた。
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かつての南アルニア、現在はアスマン家の統治下にある北東部。ドナウ王都からは竜車に揺られて半月といった所か。ほどほどに旅慣れた身体には大して疲労の色は無い。相方も初めての遠出だったが、存外に平気そうだ。
さほど質の良い車では無かったが、舗装された道はあまり揺れない。おかげで車酔いとは無縁だった。
目的の街は目の前だ。王都フィルモアの城壁に匹敵する壁に囲まれた城塞都市は、百年前に対ホランドを意識して建てられたと聞く。かつてあったホランドとの国境はここから歩いて一日程度、脚竜の速さをもってすればほんの数時間の距離。現在も国境を固める直轄軍の後方基地として機能している。そしてそれは平時においては、ユゴス、レゴスとの交易都市として機能するという意味である。その為、ドナウ人やアルニア人以外にも二つ隣国の商人が訪れる、活気のある街でもあった。
街の中に入ると、まず目につくのが煉瓦の建物の多さだった。ドナウと違ってアルニアは陶器産業が盛んで、石材より煉瓦の方が手に入りやすい。白に近い灰色のドナウの街並みに比べると赤が目立つ。
かつてホランドに蹂躙され尽くした過去の記憶が読み取れないほどに街は美しかった。二十年に及ぶアスマン家の努力の成果だろう。
「これがアスマン家のお膝元、エレバの街か。綺麗な街並みだ。どこの建物も手入れが行き届いている」
外の景色の率直な感想に、相方も頷いて同意する。竜車の中でも外套を外さず、隣に座っていてもフードの奥の表情は読み取れないが、長年の付き合いから喜びの感情は汲み取れた。頑なに外界との接触を避ける少女だが、美意識や感性はどこにでもいる年頃の少女と変わりない。
しばらく街中を進むと、街の中心部にひときわ大きな屋敷が鎮座するのが見える。あれがこの街の、そして領主であるアスマンの屋敷か。
屋敷の前で車を止める。先に降りて相方を両手で身体を掴んで抱えて、地面にゆっくりと降ろす。
屋敷の門衛が風変わりな二人組を警戒している。初見では怪しい事この上ない。予想されたことだったので、身分証と紹介状を見せると、大変に失礼したと深々と頭を下げられた。気にしていないとだけ伝え、屋敷の中に案内してもらった。
応接室に通され、少し待っていると扉が開け放たれた。
「お待たせして申し訳ない。アスマン家当主クリス=アスマンです。またお会いできて嬉しいですよ、クマノ=レオーネ殿」
「こちらこそ御当主自らの面会、恐縮です。それと敬称は不要に願います。私はただの使いっぱしりに過ぎません」
クリス=アスマン―――ドナウでも指折りの大貴族、齢五十を超えたためか以前より白髪が目立つようになったが、まだまだ顔に衰えは見えない。
そしてその後ろに控えている二十代半ばの青年。190cmを超える巨躯に金髪を短く刈り上げ、するどい碧眼の眼差しが他者を威圧するが、不思議とその奥に優しさが垣間見える。そう思うのは半分でも自らに流れる同じ血の働き故か。
「久しぶりじゃないかクマノ!前に会ったのは三年前だったか?私が今24だがら、お前は18だったな。あれから随分大きくなったじゃないか。手紙で父の居る諜報部に入ったと聞いているが、兄として誇れる弟が増えて嬉しいよ」
「私も久しぶりに会えて嬉しいですアドリアス兄上。兄上こそ、今は海軍の艦長職を賜った聞いています。私こそ貴方を誇らせてください」
荒々しい腕で抱擁を交わす。昔から兄は力が強くて正直痛いが、幼少期、こうやって何度もこの兄には抱きしめられた。この痛みが昔と変わらないのが嬉しかった。
「――――所でさっきから隅に控えているのは、もしかして…」
「ええ、兄上のお考え通りです。余人に肌を晒すのは嫌がりますので、どうかあのままでお願いします」
兄もレオーネ家の一員。相方の素性に察しが付いたのか、それ以上何も追及しなかった。クリス殿もかつて諜報部に身を置いていたので、屋内でも外套を外さない相方におおよその見当は付いているのか、何も言わない。それに二人が入って来て立ち上がった時にガチャガチャと音を立てていれば、事前知識さえあればおのずと理由には行き当たる。
話題を変えるために使用人に酒を持ってこさせて三人で乾杯した。
「そういえば王都で何か変わった事はあったか?私は五日前に陸に上がって昨日こっちに来たから、内地の情報には結構疎いんだ。例えば母上がまた弟や妹を身籠ったとか」
「さすがにそれはもう無いですよ。マリア母上も今年で44ですから、五年前にラティナを産んで最後です。ただ、本人は今でも産みたがっていますけど」
「ははは、マリア殿下は相変わらずか。よく12人も産んだものだ。それと君の母のエリィも健在かい?」
「はい、それなりに元気です。内向きの仕事が多くなりましたが、今も父を助けて仲良く暮らしています」
「そうか、仲が良いならそれでいい。それと、今この屋敷に私の子供達が居るから後で会ってやってくれ。男の子と女の子、どっちも一人ずついる」
兄が可愛いぞと顔をニヤけさせると、父の顔と重なる。アドリアス兄上は昔から父に似た顔立ちだったが、最近どんどん似てきている。子供の事で破顔すると特に父に似ていた。
元々兄の住居はアルニア地方南部のツヴァイク領の港町だが、兄の妻はこの屋敷の主クリス=アスマンの娘の一人だから、兄がこの屋敷に居るのも久しぶりに奥方と里帰りしたからだろう。
兄はああ言ってくれたが正直、今の自分が無垢な子供に触れる事自体が罪深いように思えてならない。自分で選んだ職務だから後悔など無いが、子供のあどけない視線を真っすぐに受けると、どうしても後ろめたさを感じてしまう。
兄の気を悪くさせたくなかったので先に仕事を済ませてから会うとだけ伝えた。
「そうか、なら近状報告はここまでにして。
――――諜報部のお前が仕事で来たと?ああ、必要なら私は席を外すぞ。私はあくまで偶然居合わせただけだ。仕事の話は家族にも話せない事ぐらい知っている」
「―――そうですね。幾ら家族でも色々と込み入った話になりますので、申し訳ありませんが、兄上には知る権利がありません」
家族と言っても兄は王家の血を引き、自分にはその血が流れていない。父が同じでもこんな口の利き方は侮辱と取られかねないが、兄は何も言わずに席を立った。しかし、去り際に言い忘れたと立ち止まる。
「私は休暇で暫くここに厄介になっている。仕事が終わったら、子供達と遊んでやってくれ。久しぶりに会った兄から弟への頼みだ。聞いてくれるよな?」
兄は答えを聞かずに部屋から出て行った。部屋には俺とクリス殿だけが残された。
「では仕事の話をさせていただきます。アスマン殿もご存知かと思いますが、この土地は度々ホランド遊牧民の襲撃を受けており、それに備える為に直轄軍二千が派遣されています。その甲斐あって最近は随分と被害が減って、治安低下も免れています」
「そうだね。我々だけで対処出来ないのは歯痒いが、直轄軍の兵士には随分と助けてもらっている。彼等には私も感謝しているよ」
クリス殿の言う通り、この地に生きる者は命懸けで自分達を守ってくれる軍に感謝している。それが普通の人間の感性だ。
「それが最初から仕組まれたものだと言ったら、クリス殿は信じますか?」
「――――詳しく話を聞かせてくれ」
先程と異なり視線が鋭くなる。流石は大領主、そして数年だが謀略渦巻く諜報部に籍を置いていただけの事はある。たった一言で仕事に察しがついたらしい。
度重なる襲撃を不審に思った王政府が諜報部に調査を命令。一年近い調査の結果、ユゴス、レゴスは無関係。アスマン、ツヴァイク家も白だった。問題は軍内部にあり、一部の士官が功績欲しさに警備の薄い時間と箇所を意図的にホランド遊牧民に流して、わざと略奪させていた。ホランドもホランドで、三国が仲違いすれば付け入る隙が生まれると取引に乗ったのだろう。
この事実を公にしては西方でのドナウの信用は失墜する。そのため、可能な限り情報を秘匿しつつ、軍の粛清をせねばならなかった。
「いつの世も事態を悪化させるのは人の欲か。
君のお父上が殊更情報の管理に力を入れてくれて助かった。こんな真相が他国に知られたらドナウの恥だ。いや、それどころかこのまま襲撃が続いていたら、当家の統治能力に疑問符を付けられて、領地を召し上げられていたかもしれない」
「心中お察しします。私がこちらに派遣されたのは、軍内部の功績欲しさに戦を欲する愚者を排除する為です。幸いこちらで調べた結果、現在街に下手人が居ます。クリス殿にはこの街で奴等がどうなろうとも動かないよう手を打って頂きたい」
「つまり私はその愚か者が死体になっても知らぬ存ぜぬを通せと言うわけか。他に何か手伝える事は?人員など必要なら貸し出すが」
「いえ、身軽な方が相手に悟られないので、お構いなく」
クリス殿の申し出は嬉しいが、これはアスマン領の問題ではない。ドナウ直轄軍の、ひいては王国の問題だ。これ以上は地方貴族に手を出されては困る。
そしてそれは俺が任務に失敗した場合、誰の助けも得られず、ただの殺人者として裁かれる事を意味する。それを分かった上で父はこの地に派遣した。しかし決して使い捨ての道具として扱われているわけではない。反対に、俺ならば必ずやり遂げてくれると信じてこの地に送り出してくれた。ならばその想いに応えるのが息子の責務だ。
クリス殿もそれ以上は何も聞かず、後の事は任せて全力で任務を遂行しろとだけ、俺達に言って送り出した。多くは語らず、信じて送り出してくれた事が何より嬉しかった。
かつてアルニア人の手によって生まれた赤い街は、ホランドによってアルニア人の血によって、より赤く塗られた。そのホランド人もドナウ人の手によって葬られ、街は血でさらに赤く染まった。そして三度目、ドナウ人の血でエレバの街はまたも血化粧をする。今度は同じドナウ人の手によってだ。これを喜劇と呼ぶか悲劇と呼ぶかは分からないが、一つだけ分かっているのはこれは語り継がれるべき話ではない事。歴史の影、国の裏側の住人の物語だ。それだけは誰もが知っていた。
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