外伝 シュガードーナツは甘い



 ――――ドナウ歴515年――――



 プラニア王国の王セシルは玉座に座り、周囲に悟られずに心の中で溜息を吐く。

 軍事大国ホランドによって滅ぼされた祖国が父シャルルによって再び地図に記されるようになってからもうすぐ二十年が経つ。その偉大な父から十年前に王冠を譲られ王座に就いてから、毎日家臣から厄介事を聞いてはうんざりした思いでこっそり溜息を吐いたが、今回は極め付けに気分が沈む。

 その元凶が自分の目の前に居る。若い男だ。艶のある黒髪を丁寧に切り揃え、膝を着いても長身と分かる体躯。やや彫りが浅い顔立ちが、自分の良く知る人物の面影を思い起こさせる。

 それは良い。その人物には大恩があり、その子息を預かるのは名誉だと思っている。だが、問題はそこではないのだ。

 セシルの頭を悩ませるのが、自身の横に控えている女性。自身と幼馴染のローザとの間に生まれた娘、第一王女リティアの紅顔。誰の目にも明らかに、まるで恋する乙女のように頭を垂れる男へ視線を注いでいる。いや、事実我が娘はこの青年に恋しているのだろう。

 二人は現在16歳。西方ではそろそろ結婚を考える歳である。ならば恋仲の男女であれば、このまますんなり伴侶となるだろう。

 二人には身分差もそれほど無い。娘は王女ではあるが、正妻との子ではない。青年の方も傍流ではあるが、宗主国の王族の血を引く高貴な身分。ほぼ同じ身分ならば何の障害も無かった。あとは王であり父である自分が良しと言えば全てが上手く収まった。

 娘を嫁に出す寂しささえ無視すればの話だ。自分の娘を他の男に取られる悔しさが、これほど耐え難いとは思わなかった。陰鬱な気持ちが心には溢れていたが、王としてそれを周囲に漏らすわけにはいかない。それが余計に気分を沈ませた。


「―――――娘を、リティアを任せる。君を疑う事はしない。だが、一言だけ父として言わせてくれ。

 ―――――――――――娘を悲しませるな」


 それだけ口にするのが精いっぱいだった。

 そんな心境を知ってか知らずか周囲は祝いの声で溢れかえり、娘は青年へと駆け出し、その身を青年の胸へと投げ出す。誰もが認める夫婦の誕生を祝福し、城内は喜びに包まれた。



 この二人の男女の出会いは四年前に遡る。



      □□□□□□□□□



 ――――ドナウ歴511年――――



 王都フィルモアは今日も活気に満ちていた。表通りの商店には多くの人が並び、遠方から運ばれる珍品、名品を手に取ってじっくりと品定めした後、気に入った物を購入して行く。

 父から聞いた話では、最近はかなり遠方の国とも交易をしており、珍しい品が入ってくるとか。いずれは西の果てのドナウと東の果ての名前も読めない国と国交を結び、反対に西の大洋を渡って様々な人や物が行き来する日が来ると、楽しそうに語っていたのを思い出す。

 子供ながら父は夢追い人だなーと思ったが、本人から言わせればそれは夢でも何でもなく、少し先の未来でしかないと、したり顔で口にしていた。一体父には何が見えているのか、母達も家族の誰も分からなかったし、取り柄のない自分には余計に分からないだろう。

 自己嫌悪に陥りそうになるが、時間が勿体なかったので慌てて頭から余計な考えを振り払って、目的の店へと歩いていく。

 だんだんと街の中心から外れると店舗も少なくなり、多くは移動式の屋台に近い露店式の食材を扱う商人が増えてくる。まだ表通りだが、この辺りになると今まで珍品を求めていた貴族の客は随分と少なくなった。

 食べ物など貴族が自ら買うような物ではない。そんな雑務は平民に任せれば良かったので、貴族が立ち止まって商品を買うのは、急に喉が渇いて果汁が欲しくなった時ぐらいだ。それでさえ食べ歩きは行儀が悪いと敬遠される為、皆無だった。

 だから、その屋台で非常に目立つ貴族の少女が青果の店主らしき中年女性と揉め事を起こしているのに目が行ってしまい足が止まった。


「だーかーら、ちゃんとお金を持って戻ってくるから信じてよー!お金払う前に齧っちゃったのは悪いと謝ってるんだし」


「そんなこと言ってもお付きの人もいない、銅貨も見た事も無い子がまた戻って来れるわけないんだから帰せないよ。今、警備の人を呼んでるからここで待ってて。お嬢ちゃんが盗みを働くような子じゃないのは分かってるから、ねっ」


 話を聞くに店の品を代金を払う前に食べてしまったらしい。しかも手持ちのお金が無いようだ。店の人間も身なりから貴族だと思って、非常に穏当に接している。下手に暴力で訴えると、今度はそれを理由に貴族側が店を取り潰す事もある。出来るだけ第三者、例えば治安維持をしている巡回兵などに事情を話して引き取ってもらった方が穏便に解決する事が多い。

 しかし、それは少女の方が困るのか、どうにかしてお金を用立てて戻って来ると店主を説得しようとしているが、あまり効果が無いらしい。ぐずぐずしていると兵士が来るだろうが、ここで安易に逃げないのは、自分が悪い事をしてしまったのを分かっているのか、単にそこまで気が回らないのかのどっちかか。


「―――ああ、もう!そこの子、食べたのはハーシの実を一個?」


「ふえ?そ、そうだけど」


「なら、小銅貨一枚で足りるよね?おばさん、その子の食べた分の代金は僕が払うよ」


 そう言って財布から硬貨を一枚を取り出して、店主に差し出した。


「あら、アウグスト坊ちゃんの知り合いの子だったの?」


「全然知らない子だよ。けど、困っていそうだから。それにこのまま押し問答して、晒し者になるのは可哀想だし」


 自分でもおせっかいな行為なのは分かっているけど、このまま騒いで通行人に顔を見られ続けるのは貴族として非常によろしくない。

 何が何だかわからないという顔をしている同じ年頃、多分12歳ぐらいの女の子。細い金糸のような髪を後ろで束ねて垂らし、赤い大きなリボンで纏めている。眼は深い海を思わせる藍色、一つもそばかすの無い透き通るような白い肌、しかし唇はリボンのように鮮やかな赤で、より白を引き立たせている。さらに口元の左にある黒子が目を引く、文句なしに可愛い女の子だった。


「これからはちゃんとお金を持ってるのを確認してから商品を取りなよ。じゃあね――――」


 ちょっとした寄り道だったが構わない。小銅貨一枚で女の子一人が衆人環視から外れるなら、懐の痛みも我慢出来た。


「ちょ、ちょっと待って!助けてくれたのに、お礼もさせてくれないの!?」


「そんなもの良いよ。もし感謝するなら二度と同じ失敗しないように気を付けてよ」


 そそくさとその場から離れようとしたが、女の子に両手で腕を捉まれてしまった。無理やり振りほどく事も出来たが、女の子に乱暴はしたくなかったので足を止める。

 が、次の瞬間その子はとんでもない事を口走った。


「私お金とか持ってないから、えっと――――身体で返すからね!!」


「それ、意味分かって言ってるの?というか誰に教えられたんだよ」


 それは女の子が言って良い言葉じゃない。そして周囲の物売りやその客達が、呑気に捲し立てているのに腹が立つ。


「男の子はこう言ったら喜んでくれるって、年上の友達の子が言ってたの。貴方は違うの?」


 やっぱり意味を知らずに口走ったのか。しかし抱きつかれた状態で、不思議そうに首を傾げる仕草は凄く可愛い。これだけで小銅貨一枚分の価値はあったと思う。


「小銅貨一枚じゃ全然釣り合わないよ。それに僕はこれから行く所があるんだから手を放して。それと、早く自分の屋敷に戻るかご両親の所に帰りなよ」


「駄目!今戻ったらお父様に怒られるもん!ねえ、一緒に付いて行っていい?」


 ああ、やっぱり屋敷から逃げてきたのか。銅貨も知らないとなると、普段から王都に居ない地方の子か、外国の子だろう。好奇心に負けて飛び出したはいいが、怒られるから今さら帰るに帰れない。可愛いけど頭は残念な子だな。

 別に見ず知らずの子だからこのまま放っておいたって構わないが、そんな目を潤ませて見上げられると、優柔不断な僕では断れない。


「―――分かった、なら付いて来なよ。と言ってもあんまり面白い所じゃないからね。えっと名前は?僕はアウグストだけど」


「私、リティアっていうの!よろしくね、アウグスト!」


 天真爛漫とはこの子を表すためにあるような言葉だと思う。それだけリティアの笑顔は眩しく、花のように生命力に溢れて、太陽のような輝きを宿していた。



 露店から足早に離れた僕とリティアは表通りの外れにある店舗に入る。この店は昼間でも明かりを入れないようにしており薄暗いので、リティアは入る前に僕の背中に隠れて身構えていた。

 そこは壁一面に本が陳列し、中央には十を超える棚が並び、全てに巻物が積まれている。紙とインクの匂いが充満し、さらに照明用のランプが天井から吊り下げられて、爛々と輝き灯油の臭いが鼻腔を刺激した。


「ね、ねえアウグスト。ここって書物を扱うお店なの?」


「そうだよ。本を扱う店は初めて?」


 今まで本屋を見た事が無かったとリティアは言って、物珍しそうに店内を見渡す。

 そもそも本を扱う店は相当少ない。理由は簡単、食料や衣類を扱う店と違って客が全然居ない。字を読める人間が圧倒的に少ないのだから、貴族と平民のごく一部だけを相手にしていては商売として成り立たない。

 最近は平民にも少し余裕が出てきたから、裕福な商人や近衛騎士の従士にも読み書きが出来て、娯楽用の本を買い求める人間が出始めたようだが、まだまだ数は少ない。

 王都でさえ本屋は十に満たないのだから、リティアのように外から来て初めて本屋の存在を知る子も珍しくないと思う。

 きょろきょろと本を観察するリティアをよそに先に用事を済ませようと、店の奥で机に脚を乗せて本を捲る行儀の悪い中年男に話しかける。


「こんにちは、ロアルドさん。相変わらず行儀の悪い人だ」


「随分なご挨拶だなアウグスト坊や。女の子連れでこんな辛気臭い所に来るのは駄目だぞ。こう女の子はもっと晴れやかで楽しい所に連れてってやるのが男の子の甲斐性ってやつだ」


 行儀もそうだが、相変わらず口も悪い。しかも一度も僕に視線を向けずに、ひたすら本を読んでいる。正直客を馬鹿にしたような態度だったが、客全員に同じ態度だと後に知って、生まれや育ちで差別しない所は結構面白い人だとも思う。今では慣れたものだ。


「用事を済ませたらそうしますよ。じゃあ、これ借りた本です」


 カバンから一冊の本を取り出して机に置く。そこで初めて本から視線を外して、机に置かれた本をパラパラと捲る。これは貸し出した本に損傷が無いかを軽く調べているのだ。


「頁に欠損も無く、汚れてもいないな。よし、罰金は無いぞ。お前さんは本の扱いが丁寧だから、貸す側も安心出来る。次までにまた面白いのを仕入れておいてやるよ」


「ねえ、おじさま。ここって書物を売るお店じゃないの?」


「そういう客もいるが、基本は貸し出しする商売だよお嬢ちゃん。最近は印刷した麻紙の本が出回って書物が安くなったがまだ高くてな。そういう書物を読みたくても手の出ない客に安く貸し出すのがうちの商売だ。裕福な平民とか下級の貴族なんかが客には多いな。

 ちなみにこの商売を考えたのは俺が最初だ」


 リティアに自慢するが、そこまで偉そうにする理由ではないだろうが。まあ、毎度世話になっているので黙っていた。


「お嬢ちゃんの連れはちょくちょく来る坊やでな。家には親御さんの集めた学術書とか古い娯楽用のは山のようにあるが、最近の娯楽用の書物が無いからここに借りに来るんだよ。まあ、常連ってやつだ」


 不良中年の言葉にリティアは素直に凄いと言うが、実のところ嬉しくない。僕にもっと金銭的な余裕があれば、借りたりしなくても買う事だって出来る。父にそれを言っても、小遣いを増やしてくれた事は無い。他の兄弟達も同様に、幾ら小遣いの無心をしても全く取り合わなかった。曰く、


『お前達子供が大金を持った所で欲望に任せて散財するだけ。それより、少ない小遣いの中から如何に自分の欲しい物を手に入れるために、知恵を巡らせるほうが将来のためになる。衣食住に困らないんだから、娯楽品ぐらいあとは自分で知恵を絞って何とかしろ』


 父の言う通り、おかげで金銭感覚が鍛えられたのは事実だが、常に友人同士の付き合いに小遣いの事を考えねばならないのは正直辛い。


「ただまあ、店主の俺が言うのもなんだが、書物を読むより人と付き合った方が人生、勉強になることが多いぜ。坊やも今日はお嬢ちゃんと目一杯遊んでみろ。新しい発見があるだろうよ。

 ただし、いかがわしい所に連れ込むんじゃないぞ」


「うっさい!大きなお世話だ!!ほら、リティア行くぞ!」


「え?あ、うん。おじさまありがとう」


 強引にリティアの手を引っ張って店を出た。余計な事を言う中年が後ろで爆笑しているのが聞こえたが知った事じゃない。

 そのままどんどん店から離れて行き、やっと足を止めたのは裏通り、主に平民が住む下町と呼ばれる区画の手前だった。


「まったくあの不良中年は。客に対する礼儀がなってない!」


「でも面白い人だったよ。それに沢山遊んでこいって言ってくれたし。アウグストは私と遊ぶの嫌だった?」


「うっ、嫌じゃないけど、客なんだからもっとらしい言い方をしろって事だよ。まったく、なんだよいかがわしい所って。そ、そんな所行くわけないじゃないか」


 自分と居るのが嫌なのかと、目に見えて落ち込むリティアに誤解だと言って慰める。すると彼女はすぐに機嫌を直して笑顔を向ける。その笑顔が可愛くて、顔が熱くなる。本当にこの子を連れ込んで押し倒したくなってきた。くそ、これじゃあの不良中年の思惑通りじゃないか。絶対今度店に顔を出したら、僕をからかうに決まっている。


「ああ、もう!こうなったら今日はとことん遊ぶぞ!ほら、リティアこっちだ」


 不良中年の言う通りにするのは癪だが、それはそれ。可愛い女の子と一日遊びまわるのは悪い事じゃない。僕はリティアの手を引いて下町へと繰り出した。



 下町にはそれなりに詳しい。小遣いが限られているから貴族向けの娯楽施設には何度も行けないので、かなりの頻度で安い平民向けの遊戯場に隠れて通っていたからだ。おかげでこの辺りの土地勘は相当鍛えられたし、顔を覚えられた。

 だから貴族の恰好をしていても町人は何も言わない。むしろ気さくに挨拶しては、遊戯場を気兼ねなく使わせてくれた。リティアは物珍しそうに的当てや吹き矢を楽しんでいる。彼女の故郷のプラニアにはこうした遊戯場は無いらしい。正確には昔はあったらしいが、二十年前までホランドに占領されていた時に娯楽に割く余裕が無くなり、悉く廃れたそうだ。

 最近ようやく復興して余裕が生まれたが、まだまだドナウのように浸透はしていないのだという。そのため生まれて初めてこうした遊戯を体験して、とても喜んでくれた。



 かなり遊びに時間を費やしていると、いつの間にか日が傾き始めてきた。そろそろリティアを親元に帰さないと捜索隊を結成される恐れがあったので、名残惜しいが彼女の元居た所に送り届ける事にした。

 手を繋ぎながら道すがらお互いの事をぽつぽつと口にする。


「私のお父様はね、プラニアの王様なの。今日はドナウの王様に挨拶に来たんだけど、途中でつまらなくてお城から抜け出したの。その時走って喉が渇いて、思わず果物を食べちゃって、その時アウグストが通りがかったんだ」


「あーやっぱりか。今日は城にプラニアの王様が来るって聞いてたから、その関係者だろうとは思ってた。王女様なのは意外だったけど」


「もう、王女様なんて呼ばないでよ。私は側室の娘だから、そんなに偉くないんだもん。

 それでね、昔お父様とお母様がまだ子供の頃に何年かこの街に住んでて、よく二人で街に遊びに行ったって話してくれたから、私もどうしても遊びに行きたかったの。

 アウグストのおかげで今日はとっても楽しかったよ。それに助けてくれたし、私どうしたら貴方にお礼を出来るかな」


「そのうち返してくれればいいよ。それに僕も今日はリティアと一緒に遊べて楽しかった。最近僕は色々迷っててさ、今日は良い息抜きになったよ」


 リティアはどういう事と聞き返す。それに僕は少し迷ったが、彼女に聞いてもらう事にした。


「僕には兄弟が多いけど、まだ自分が将来どんな仕事をしたいかが分からないんだ。一番上の兄はもう義姉さんと結婚して南リトニアで領主になってるし、二番目の兄さんも来年には海軍に入るって言ってる。一番上の姉さんは学務官僚の人と今年結婚してるし、二番目も結婚したい相手がいるって言ってた。弟妹の中にはもう将来何になりたいか夢を持ってるのが居るけど、僕はまだ何も思いつかないんだ。

 父さんは僕の事を行政官、代官とか官僚に向いてるって言うけど、それが僕のやりたい事かって言われたらよく分からない。ごめん、詰まんない話だよね」


「そんなの誰だって一緒だよ。私だって毎日王女だって言われてるけどよく分からないし、何をしていいのかもよく分からないんだよ。朝起きて、勉強したり、お裁縫したり、お客様とよく分からない話をしたり、お茶を淹れてるけど、それが私がしたい事かって聞かれたら、違うって答えるよ。

 なんでこんな事するのって、お母様に聞いても、お嫁に行く為の練習としか答えてくれないもん。誰か顔も知らない人のお嫁になる為にそんな事してても全然楽しくないよ。アウグストと遊んでた方がずっと楽しかった」


 身体を寄せて、僕の腕を強く握って笑顔を向ける。自分と違うが悩みを抱える相手が見つかって少し安心したのかもしれない。

 でも、ふと考えるとリティアみたいな生まれた時から定まった道を歩く王女のほうがずっと苦しい生き方なんじゃないかと思うようになった。

 今の僕はどんな道でも進める。中央官僚になってもいい、どこかの代官にもなれる、医者や学者にだってなれる。今から頑張れば軍人だって務まる。結婚相手も自由にならないリティアと何でも出来る立場の僕は全然違う。

 なら僕はどうすれば良いのか。このまま安易に流され続けるのか、すぐにでも取り敢えずの目標を立てて、何かやってみた方が良いのか。あれこれと考えてしまい出口の見えない霧の中を彷徨っている気分になってしまった。

 しかしそれを引き戻したのは隣にいた女の子の声。そして香ばしく甘い匂い。


「―――――ねえ、ねえってば!アウグスト、聞いてるの!」


「えっ?あ、ああごめん聞いてなかった。どうしたの?」


「もうっ!あのお店で売ってる食べ物は何なの?凄く良い匂いがするんだけど」


 指で示した方向にある店を見ると合点が行った。つい最近出来たばかりのお菓子の店だった。油を使った香ばしい匂いが鼻をくすぐり、甘い匂いがお腹を刺激した。


「あれはドーナツ屋だよ。油で揚げて砂糖をまぶしたお菓子を売ってるんだ」


「砂糖!?あれってすごく数が少ないんじゃないの!?私もお祝いの時にしか口にした事ないよ!」


 驚くリティアを見て、ドナウとプラニアの格差を察する。西方で砂糖を作っているのはドナウだけ。だから国内、それも王都なら砂糖も比較的手に入りやすいが、プラニアは一応外国になる。そしてあらゆる面でドナウに助けてもらっているプラニアでは、王女だろうが滅多に砂糖が手に入らない。

 砂糖と知ると余計に匂いが刺激的になったのか、リティアはごくりと唾を飲み、腹の虫を鳴らす。それを僕に聞かれたと思われて、流石に恥ずかしくなったのか顔を赤くした。凄く可愛い。


「えっと、食べたい?」


「――――――――――うん」


 僕の提案に言葉短く頷く。可愛い女の子の頼みを聞くのが男だ。だが、先立つ物が必要なのも事実。以前友人から聞いたドーナツの値段と財布の中身を照らし合わせ、ギリギリ足りているのに安堵し、貰ったばかりの小遣いを全てつぎ込む悲壮感を悟られずに、出来立てでまだ湯気の立つ輪っかのお菓子を店員から受け取った。

 お値段一つ銀貨二枚のお菓子。ちなみに銀貨二枚は平民が一日働いてもらえる給金である。今の僕には一つ買うのがやっとだった。

 差し出されたドーナツを見てリティアは喜びを露わにするが、同時に一つしかないのを不思議に思い、僕の分を訪ねる。


「リティアが食べたいから買ったんだ。僕はまた今度食べるよ。ほら、冷めない内に食べなよ」


「うん、ありがとう」


 不審に思いながらも差し出されたドーナツの匂いに抗えないリティアは恐る恐る一口頬張る。何度もドーナツを噛みしめ、甘さと温かさ、油のうま味を堪能してから飲み込む。


「―――――美味しい。こんなに美味しいお菓子、私初めて食べたよ」


 そう言ってもう一口食べる。それを僕は嬉しさ半分、羨ましさ半分見ていた。ドーナツ自体は屋敷で時々食べているけど、お店で買って食べた事は無い。多分味は屋敷の方がずっと良いだろうけど、人が食べている所を見ていると、ずっと美味しそうに見えてしまう。それに今は結構空腹だ。リティアが凄く美味しそうに食べているから、余計に食べたいと見つめてしまう。

 その視線に気付いたのか目が合う。最初は食べている自分を見ていると顔を赤くしたけど、違うと気づいたのか、視線を下に向ける。僕がドーナツを見ている事に気付いたみたいだ。

 三口目を食べてからドーナツから口を離す。唾液が糸を引くのが凄く卑猥と言うか淫靡と言うか、これもう今すぐ押し倒したい。


「アウグストも食べてよ。私だけ食べるのは何かイヤ」


 リティアは僕に食べかけのドーナツを差し出す。それを僕は無言で一口食べた。思った通り、屋敷で食べた物より味は落ちる。油臭いし、砂糖もザラザラとした感覚が舌に残る。多分安い砂糖を使っているんだと思う。

 けど、不思議と屋敷で食べるより美味しいと感じる。


「美味しい。リティアと一緒に食べてるからかな?」


「えへへ、私もアウグストと一緒だから凄く美味しいよ」


 僕が食べたら今度はリティアが。次はまた僕と、交互に食べ続けると、あっという間にドーナツは無くなった。今月の小遣いをほぼ全て失ったが、全然後悔していない。目の前の女の子が本当に嬉しそうにしているのが、僕には誇らしかった。



 ドーナツを食べ終わると、もう日が暮れていた。流石にここまで遅くなったら僕は良いがリティアは確実に怒られる。どうにかして庇わないとと思いながら、城までの道を歩いていた。

 リティアはドーナツを食べてご満悦だったが、城が見えてくると気持ち足が遅くなる。彼女もきっと父親のプラニア王に相当怒られると分かってて心配なのだろう。


「あー、僕が何とか言い訳するからそんなに心配しないで。城から抜け出したのはアレだけど、この時間まで連れ回したのは僕の都合だし」


「ありがとう、アウグストは優しいね。けど、これは私が怒られなきゃ駄目だから」


 とは言え腕を強く掴まれているのだから説得力が無い。けど、もうどうしようもないのは分かっていたから、勇気を出して城の前に立つ。


「二人とも随分遅かったな。楽しかったのは分かるが、あまり大人を心配させないでくれ」


 夕暮れの城の前に立っていた中年男性に声をかけられた。少し暗かったが間違えるはずがない。よく知る声、いつも見ている顔、僕と同じ黒髪。


「父さん、何でここにいるのさ!?」


「おじさま、何で!?って、父さん?アウグストの!?」


「ここは私の庭だよ。誰が誰と何をしているのかを知るのは容易い。おっと、紹介が遅れたが、リティア殿下の隣にいるのが私の三男だ。随分仲良くしてくれて私も嬉しい」


 余裕綽々、何でもお見通し。そんな自信に満ちた顔が時々羨ましくて妬ましい。そしてリティアと面識があるのは意外、いや父とプラニアとの付き合いを考えれば知ってて当然か。


「殿下、城で父上がお待ちだ。早く行って怒られてきなさい。ここまで来た以上、逃げてはいけませんよ」


「―――はい。アウグスト、今日はとっても楽しかった。ドーナツも美味しかったね」


「うん、僕もリティアに会えて凄く嬉しい。またね」


 短い別れの挨拶を済ませたリティアは名残惜しそうに城へと入って行った。

 僕も父と一緒に屋敷に戻った。道中怒られるかと身構えていたが、父は僕を叱らない。不思議に思ったが、


「お前が何か悪い事をしたわけじゃないからな。休日にたまたま街で知り合った女の子と一緒に遊んでいただけだろう?それを叱るのは道理に合わない」


 当然、父の仕事上知ってて手を出さなかったのだろう。ある意味息子の僕を信頼してくれていたのだろうが、手の平の上で転がされているようで面白くなかった。



 翌朝、父に連れられて僕は再び城の前に来ている。勿論リティアの見送りだ。

 プラニア王の側に彼女は居る。化粧をしているが少し目元が赤いのはもしかしたら、叱られて泣いていたのかもしれない。

 竜車に乗る直前、僕の事を見て悲しそうに、しかし少しだけ嬉しそうに笑顔を向けた。

 それを見た父が僕の背中を押した。よろけるように前に出た僕の目の前には昨日出会った少女と対面する。


「えっと、また会えるかな?せっかく仲良くなれたのにこれっきりじゃ寂しいよ」


「うん、きっとまた会えるよ。その時はまた一緒にドーナツを食べようね。

 ――――そうだ、昨日ずっとアウグストにするお礼を考えてたの」


 そう言ってリティアは一歩前に出て、僕の顔に自分の顔を近づけ、唇を重ねた。

 突然の行動に僕は頭が真っ白になって何も考えられない。周りが騒いでいるのは耳に入っているが、もうどうでもいい。大好きな女の子の匂い、唇の感触、肌の温かさ。そのどれもが脳を蕩けさせる。


「男の子ってこうされるのが好きなんだよね。でもね、私も大好きだよ」


 赤くした顔を放して微笑む。最初に見た時と全く同じ、太陽のように眩しい笑顔。ちょっとどころじゃないぐらい頭が残念な子だけど、だからこそ可愛くて仕方がない。ああ、もう抱きしめたい。そしてもう一度ドーナツより甘い唇を味わいたかった。



 この後、表向き何も無かったかのようにプラニア王とその娘は去って行った。去り際に僕を睨み付けるセシル陛下は怖かったが、父に宥められて、不承不承といった顔でその場は納めてくれた。

 帰り道、父は嬉しそうだった。理由を聞くと、僕が理由だそうだ。


「お前が良い顔をするようになったからだ。それに今まで将来の事で悩んでいたが、これで目標が出来ただろう?ならそれに向かって走り続ければいい。お前は出来が良いから、怠けなければ将来はプラニアに無くてはならない行政官になれるよ」


 頭をぐりぐりと撫で回される。何でもお見通しなのは面白くないが、喜んでいる父に水を差したくなかったので何も言わなかった。



 一か月後、僕とリティアが婚約したという情報が飛び込んできた。何の脈絡も無い―――わけではないが、急な話に学友達からお祝いとも呪いともつかない言葉をぶつけられたが、一番驚いているのは僕自身だった。だが、公衆の面前で王女とあんな事をすれば、当然だと罵倒されれば返す言葉も無い。


「顔がニヤけてるぞアウグスト=レオーネ!うらやましけしからん奴め!」


 友達の罵倒がなぜか心地良かった。



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