第2話

 その日ネロは、スケッチブックとクレヨンを持って、家から少し離れた海辺に一人で来ていた。ネロは浜辺沿いに並んだ防波堤の上にちょこんと座ると、青いクレヨンを取り出して、スケッチブック一面に大きな海を描き始めた。

「ねえ、なんの絵を描いてるの?」

突然後ろから声がして、ネロは驚いて振り返ると、ネロと同い年くらいの女の子が背伸びをして、ネロのスケッチブックを覗き込んでいた。ネロはその子の綺麗な青い目と、可愛らしい笑顔を見ると、なんだか気恥ずかしくなって、スケッチブックを伏せてしまった。

「見せてくれたっていいじゃない」

彼女はぴょんとジャンプして、防波堤によじ登ると、ネロの左横に座った。ネロは恐る恐るスケッチブックを彼女に渡した。すると彼女は小さく首を傾げてネロにこう聞いた。

「ねえ、海ってきれい?」

ネロは考えたことも無かった質問に少し不思議な顔をして言った。

「うん。僕は、海ってどこまでも続いていて、色鮮やかで、凄くきれいだと思うけど……。君は?」

「きれいだとは思うわ。でも、美しいとは思えないの」

ネロは黙ったまま少し首を傾げた。彼女はカバンの中からスケッチブックを取り出すと、パラパラとページをめくった。

「君も海の絵を描くの?」

「うん。見る?」

ネロは彼女が開いたスケッチブックを覗き込んだ。そこには、真っ黒の鉛筆で描かれた海の絵が描かれていた。ネロは目を丸くした。

「どうして、青い海を黒い鉛筆で描くんだ。これじゃあ海のきれいさが台無しじゃないか」

「私にはこう見えるんだもの。しょうがないじゃない」

ネロには彼女の言っていることがさっぱり分からなかった。

「ねえ、僕、その絵に色をつけるよ」

そう言うとネロは、赤色のクレヨンを取り出し、太陽を赤く塗った。次に、黄色いクレヨンを取り出し、ヒマワリを黄色く塗った。最後に、青いクレヨンを取り出すと、海を青く塗った。

「これで本当にこの景色になったよ」

「ありがとう。そうだ、この絵は、あなたが持っていて。そして、いつかまた会えたら、それを見せて。そうしたら、今日の事を思い出せると思うの」

「うん。分かった」

ネロはその絵を自分のスケッチブックに挟み込むと、カバンの中にしまった。

「私ね、いつか立派な画家になって、こんな狭い世界から抜け出すのが夢なの」

彼女は頬に小さなえくぼをつくって、にっこりと笑った。しかし、隣にいたネロはそれとは正反対に、眉間にしわをよせ、難しい顔をした。

「すてきな夢だとは思うけど、それは君には無理じゃないかな?」

「どうして?」

ネロは少し俯いてから顔を上げ、彼女の目を真っすぐ見て言った。

「色を使えない画家は売れないよ」

彼女はそれ以上言葉を返してこなかった。だからネロも黙り込んでしまった。しばらくの沈黙のあと、ネロの左からすすり泣くような声が聞こえてきた。ネロはハッとして、彼女の方を見た。彼女の瞳から、一滴の涙がスケッチブックに落ちた。

「ごめん……」

ネロはそう言うと、心臓のあたりがキュッとなって、なんだか泣きそうになった。彼女は小さく首を振った。

「いいの。私も分かってるの。でもね、ひとつだけ言わせて……」

彼女は、この海と同じ青色の目を潤ませて言った。

「ねえ、あなたの見ている世界は、本当に色鮮やかなの?」

ネロはまた黙り込んでしまった。そして小さな手を彼女の頬にあてると、彼女の青い瞳から次から次へと落ちてくる涙を拭っては、ごめん、ごめんね、と呟いた。

 ネロは次の日もスケッチブックを片手に、海辺へと向かった。しかし、そこには昨日までとは全く違った景色が広がっていた。ネロは慌てて昨日描いた絵を取り出した。だがしかし、その絵の中にもこの景色の中にも、赤い太陽や黄色いヒマワリ、青い海はどこにも無く、ただ白と黒だけでできたモノクロの世界がネロの前に広がっていた。

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