五齢幼虫期


 いつものようにご飯を食べながら、ふと風が強いなぁ、と思った。それはどんどん強くなって、次第にのんきにご飯を食べてなどいられなくなった。強い風は嫌いだ。なんだか、とっても怖いものが来る気がする。僕はご飯を食べるのをやめて、葉っぱにぎゅっとしがみついた。そうしないと飛んでいってしまいそうだった。風は強くなり弱くなりを繰り返して、やがて周囲の葉っぱが大きな音をたて始めた。何の音だろうと辺りを見回す間も無く、僕がしがみついている葉っぱが大きく揺れた。振り落とされないようにと慌てる僕の顔に、冷たい何かが降りかかった。それは時折落ちてくるもので、どこかで誰かが「雨」と呼んでいた。けれどもこんなに葉っぱが揺れる雨は初めてで、僕は夢中でしがみついた。あんまり雨に当たると酷く寒くなってしまうことも、なんだか息がし難くなることも知っていたので、葉っぱの揺れに気を配りながらゆっくりと葉の裏に移動した。

 そうして暫くしているうちに、雨が葉を強く打つバツン、バツンという音がボト、ボトと弱くなり、やがて聞こえなくなった。風はまだ強かったけれど、振り落とされる程ではないと判断して、僕は再び葉の上に戻った。

 葉の上から周りを見ると、雨だった水の粒がそこらに落ちていた。そのこと自体は決して珍しくはないのだけれど、今落ちている水の粒はいつもより大きくて、いつもより多く思えた。僕はなんだか嬉しくなって、目の前の粒の周りをぐるりと一周してみた。一周し終える頃、にわかに水の粒がキラリと光った。眩しさに思わず顔を背け、その先で見た光景に目を瞬いた。重たい鉛色の空の間から、細く太陽の光が差し込んでいる。そして周囲の水の粒一つ一つがその優しい光を受けてキラキラと輝いていた。それはこれまで僕が見た中で、最も美しい光景だった。その美しさに、僕は恐ろしささえ覚えてただ身震いした。

 綺麗だ。とても綺麗だ。僕の見ていた世界はこんなにも綺麗だったか。それとも僕がまだ無知で卑しいが故にその美しさに気づかなかったのだろうか。今日世界はその美しさの片鱗を見せてくれたのだ。無知な僕に見せつけたのだ。きっとそうだ。きっとそうだ。僕もこの美しさの一部になりたい。アゲハの姐さんのように美しくて高貴になることが出来たなら、きっとそうなれるだろう。きっとアゲハの姐さんには世界の美しい所だけが見えている。だって姐さんはあんなにも綺麗なんだもの。それならば僕はどうしてもアゲハの姐さんのようにならなくてはならない。

 僕は目の前の美しい景色を忘れたくなかった。忘れてはならないと思った。忘れずにいれば、アゲハの姐さんのようになれる日がきっと近づくように思えた。僕は足元の葉にぎゅっとしがみついて、じっと目の前を見据えた。

 ヒラリと、視界の端に何かが映った。何かしら?とそちらに目をやると、何処かで見たことのあるような気がした。

 黒と、黄色と、ワンポイントの青と赤。鮮やかで艶やかで、ひらりふわりと。

 アゲハの姐さんだと、直感的に思った。また会えたのだと、嬉しくなった。だけど、今日の姐さんはどこか様子がおかしかった。前はひらりひらりと優雅に気ままに、ゆっくりと近づいてきたのに、今日は何だか、焦っているように見えた。強く吹く風に合わせるように、はらはらと近づいてくる。

「こんにちは!お久し振りです!僕を覚えておいでですか?アゲハの姐さん。お急ぎですか?」

 僕は精一杯声を張り上げてみたけれど、風に掻き消されたのか姐さんは返事をしなかった。そしてそのまま僕の目の前を通り過ぎていった。


 その時に僕は見てしまった。

 姐さんのあの素敵な羽根は傷だらけで、ぼろ雑巾のようだった。姐さんの目はどこも見ていなくて、細くて長い綺麗な脚も本数が足りず、残ったものも1、2本は変な方向に折れ曲がっていた。

 僕の憧れた綺麗なアゲハの姐さんは、最早何処にもいなかった。




 僕は暫く呆然としていたけれど、ふと我に返って首を傾げた。僕は一体何をしていたのだろうか?風はまだ強い。きっと風が弱まるのを待っていたのだろう。そうに違いない。風が止んだらご飯を食べよう。沢山食べて、沢山寝て、僕はアゲハの姐さんのような綺麗な羽根を手に入れると決めたのだから。



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