〇閑話:レステルダンケの幼な夫婦 ――――――


 紫に金糸の刺繍が施された絨毯。手触りの良さそうな織物のシックな赤色の垂れ幕に覆われた壁。

 大きな窓は陽の光を浴びているが、同じ赤色のカーテンに遮られて室内には僅かな木洩れ日しか通さない。


「……ん、……んぅ……」

 不意に目が覚めたアレオノーラ。片目を擦りながらうつ伏せより上体を起こし、天蓋に覆われた豪奢なベッドの外に視線を向ける。


 掛け布団を身に引っかけてはいるものの、その身には何一つ纏っていない。夫であるモーロスと結婚した日より今日まで、ベッドの中で寝間着を着る事は妊娠中の時くらいだった。

 ベッドの中、あられもない恰好で日々の朝を迎える事は、彼女と旦那モーロスがいかに仲の良い夫婦めおとであるかを証明していた。




「……今日もまた早いのね、モロ…ふぁ…」

 ベッドの脇で既に身なりを整え終えつつある夫。

 昨晩の愛も軽いものではなかったはずなのに、家人のメイドが起こしに来る時間よりも早く起床しては、休眠の時間は十分なものではないはずだ。


 しかしモーロスはまだ薄暗い部屋の中、ベルトを締めながら振り向き、疲れた素振りなど微塵も見せずに、愛する妻に笑顔を向けた。


「うん、やりたい事が多いからね…僕はまだまだ――――ふにっ?!」

 ベッドより全裸のアレオノーラが伸びてきて、モーロスはその両頬をつまみ伸ばされる。

 グニグニと伸ばしたり縮めたりする手には、少しばかり力がこもっていた。


「いつも言ってるでしょ? モロは焦る必要も、気負う必要もないの。だからそういう事を言わないでちょうだい、よろしくて?」

ふぁいはいほへんよごめんよはへをアレオ

 すると彼女は、最後に思いっきり引っ張ってから彼の頬を解放した。パチンという軽い音と共に戻ったその頬を、モーロスは苦笑いを浮かべながら撫でる。


「何かあれば、ちゃんとわたくしに言いなさい、わかった?!」

「分かってるよ、大丈夫。…じゃあ僕は先に出てくるから、アレオは朝食の時間までゆっくりして。…起こしてしまってごめんね」

 そう言って夫婦の寝室を出てゆくモーロス。その背が扉の向こうへと消えると同時に、アレオノーラはため息をつきながら、もう見えぬ夫の背に一言呟いた。


「まったくもう、また謝って…。隠し事が下手すぎますことよ? 旦那さま」


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―――――2時間後、レステルダンケ家邸宅廊下。


「おはようございます、アレオノーラ様」

「おはようございます、奥様」

 アレオノーラが廊下を歩くと、家人達が恭しく頭を下げ、挨拶の言葉をかけてくる。

 だが彼女が挨拶し返すことはない。


 それは家人を下に見ているとか、人の礼儀を知らないとかではなく、それこそが正しい在り方だ。

 貴族家の主が、多数抱えている家人に対して都度挨拶を返していては時間がかかり過ぎるし、過ぎた対応となる。


 家人は自身の主に対して敬意と礼儀を常々示す必要があるため、返事が返ってこなかろうとも挨拶せねばならない。

 だが主は上位者なので、下位の者である家人に軽々しく声をかけるのは、ちょっとした施し・・の意味を伴ってしまうのだ。


 場合によっては、主人あるじに目をかけられたと思い違いをする者、それに嫉妬する者など、家人の間に不和の種を蒔いてしまう事にもなりかねない。


 なので状況に応じた適切かつ必要なやり取りを除き、家人の労をねぎらったり返礼したりしない。下々に対してはそうであらなければならないのだ。




「(……また、増えていますわね? まったく)」

 現在、主家の当主たるアレオノーラの父親が “ レステルダンケ ” を名乗る家すべての頂点である。


 アレオノーラは、この夫・モーロスと彼女の邸宅における主人あるじではあるが、レステルダンケ家全体においては、分家の長という立場でしかない。


 もっとも彼女は長子なので、ゆくゆくは彼女の夫となったモーロスが父の跡を継いで “ 継当主 ” となるだろう。

 モーロスは庶民の出であり、かつレステルダンケ家系とは血が繋がっていないため、当主という呼び方をされる事は決してない。


 次に “ 当主 ” となれるのはアレオノーラが産んだ、一族の血を継いでいる子供。

 どのような場合においても、モーロスはその中継役という意味での当主にしかなれない。



 しかも、アレオノーラもモーロスもまだ10代。


 それを理由にアレオノーラ夫妻のレステルダンケ一族における実権は、現時点では当主たる彼女の父親が預かっている形にある。


 この家の家人も元からアレオノーラ付きだった者を除けば、父親をはじめとしたレステルダンケ一族親類が送り込んできた人材―――――要するに動向監視と報告役だ。

 表向きは身の回りの世話をする家人を補充してやろうという名目で、堂々と送り込んでは増やしているのである。


 挨拶の仕方その言い回しで、そんな家人の違いがすぐに分かる。


 “ アレオノーラ様 ” と呼ぶ者が生まれた頃から付いている真の意味での彼女の側用人。


 “ 奥様 ” と呼ぶ者は一族の誰かしらの命を受けてしれっと家人として混ざってる者。

 もちろんアレオノーラとモーロスに、それらを排する権限はない。なので一族の様々な思惑によって送り込まれてくる家人の数は増え続ける一方。

 今では、廊下の両脇に等間隔で並んで両腕を広げられないほどの人数にまで膨れ上がっていた。



 正直にいって、アレオノーラは自分の一族の愚か者たちには辟易としている。しかしこれといった実権を振るえない分、容赦なく懲らしめる事もできないのがもどかしかった。


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「本日、午前のご予定はございません。午後はヘッケンマルト卿とのご会談、ジェックハーバー氏との商談、ケケイロン夫人とのお茶会が入ってございます。夜はコーマン商会長主催の立食会へのご招待が来ておりますが、こちらはいかがいたしましょうか、アレオ御嬢様――――っと、これは失礼いたしました奥方様」

「かまわないわ、爺。わたくしはまだまだ若輩の身……今しばらくは口慣れた呼び方も許してあげる」

 朝食の席。

 左後方から本日の予定を報告する執事が、深々と頭を下げている様が見ずとも分かる。


 アレオノーラの執事は彼女が生まれた時よりお仕えしているベテランだ。

 お嬢様お嬢様と呼び慕い、お世話してきた者であり、家人達のトップかつアレオノーラの信頼厚い、数少ない臣と呼べる存在の一人。


 しかし、庶民であったモーロスとの結婚においては反対した人間の一人でもあった。なので今でも彼に対する印象はあまり良いものを持ってはいない。

 そうした思いもあって執事は時折、彼女のことを “ 御嬢様 ” と昔懐かしんでか、つい呼称してしまうのだった。


「…それで。夜はコーマン商会のパーティという事だけれど、ご挨拶だけの参加とするわ。あの商会は今、後ろ盾にこと困り喘いでいる…立食会を催すのは貴族とのコネを増やしたいだけ。こちらに利するものは現時点では何一つとしてありませんもの」

「かしこまりましてございます、ではお召し物・・・・もそのように手配しておきます」

 着ていくドレスにも意味がある。

 顔を出して適当に挨拶を済ませるだけならば豪華な意匠のものは必要なく、色も目立たないものを選ぶ。

 逆に、主催者やパーティ参加者の中に興味や交流を深めたい相手がいる場合、それなりに目立つ、気合いの入った装いで出向く。


 …なんとも合理性に欠ける話だが、それが暗黙のルールと化している以上、想う所あれどアレオノーラとて従うより他ない。


「(本当、余計な出費と見栄ばかりを強要する世界ね、困ったものだわ)」


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 朝食後、違うドレスへと着替えてから彼女は邸宅のとある一室へと向かう。そこはアレオノーラとモーロスの愛の結晶、メルリアナの部屋。


 扉の前を固める執事風の、しかして帯剣したガタイの良い男二人。彼女の接近に気付くとそれぞれ左右に位置取り、取っ手を持って両開きの扉を静かに開いた。



「ぁ~…うー、う? …ぁあ、ううう~」

 明るい色の美しく柔らかい羽毛で覆われたカーペットの上、世話係のメイドの前でお座りし、両手足をしきりに動かしている我が子の姿を捉えると、アレオノーラは一目散に歩み寄っていく。

 メルリアナも母の登場と近づいてくるのを認識し、まだおぼつかないハイハイで頑張って近寄ろうとしていた。


「はぁい、いい子にしていましたかメル~? マァマが来ましたよ~」

 アレオノーラにとって気が休まる時は3つ。夫との夜、自由に行動できる時間、そして我が子と過ごすこの時だ。


 女児ではあるが、アレオノーラに似てしっかりとしていそうな顔立ち。しかして小動物のような愛らしさをどこか感じるその雰囲気などは夫に似たのだろう。

 メルリアナの姿を目にするたび、モーロスとの夫婦愛を、我が子との母子愛を感じて幸せな気分になれる。


 まさに難しい問題や悩み、しがらみなどから解放されるとびっきりのひと時。



「さぁお乳のお時間ね、メル。お腹はすいているかしら?」

 ドレスを着替えたのはこのためだ。

 元より日に数度、着替えるのが当たり前な貴族婦人だが、アレオノーラは無駄が多いとしてその習慣をあまり歓迎してはいなかった。


 しかし乳房を出しやすく、赤子に清潔に接するという有意があるとなれば話は別だ。


 胸元が緩めで大きく開いており、汚れが一目でわかる白色のシンプルなデザインのドレス。今では一番のお気に入りと言えるかもしれない、家で我が子へと授乳するため専用である。


「フフッ、メルは本当にお乳が好きですわね。一度吸い付いたら離れませんもの、たくさん飲むのはパァパに似たのかしら? たくさんたくさん飲んで、大きく元気に育つのですわよ~」

 あるいは我が子は、オッパイを飲んでいる内は母がどこへもいかないと気付いているのではないか? 一生懸命吸い続けていれば母がずっとそばにいてくれると考えて吸い付いているのでは?

 そんなちょっと親バカな想いを脳裏によぎらせてみたりもする。


 アレオノーラの表情は満面の、幸せの笑顔に満ちていた。









――――同じ頃。


 アレオノーラの夫、モーロス…いや、モーロッソは街の一角、建物に隔離された空間にいた。

 石畳とレンガ造りの建物ひしめく町の中にあって、珍しく緑の生えている小さな原っぱ。かつて今よりもっとずっと幼い頃、アレオノーラと初めて出会い、そして一緒によく遊んだ空き地だ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 荒い息を吐き、大量の汗を草花に吸わせる。


 モーロッソは毎日、ここで自分を鍛えていた。

 何のために鍛えるのか――――それを見失わないよう、アレオノーラとの思い出の詰まったこの空間は、彼にとってまさに最高の特訓場所。



「…そろそろ、行かないと」

 いざとなったら自分がこの世の全てから妻を守る―――そのための力をつけたい。だが、もともと背はあまり高くはなく、肩幅も狭い非力そうな小動物系男子な彼は、どんなに己を鍛えてみても、隆々とした筋肉がなかなかその身につかない。


 華奢で礼儀正しい好感の持てる少年。その風貌相応の身体能力。鍛え始めてから、確かに腕や胸板、腹や太ももとそれっぽい硬さと筋が出てきてはいる。


 よーく見れば、腹筋も割れてきたように見えなくもない。


 しかしどんなに力を込めてみても、腕も脚もあまりパンプアップしない。服を着てしまえば、鍛え始める前と比べても太さがまるで変っていない。


 このまま頑張り続ければ、いつかはもっと太く逞しい身体へと鍛え上がるのだろうか?

 その不安は焦りによるもの。モーロッソにはそれほど悠長な事を言っていられる時間がない。


「(権力に抗えるだけの力を…妻と子を奪われない、守れる力をどうか僕に…)」

 ―――――祈りのように己の内で繰り返しつつ、彼は毎朝の日課を終えて思い出の空き地を後にした。







『チーム・モロ、準決勝進出!』


 審判の勝利宣言と共にどっと歓声が周囲に溢れる。大会も終盤に差し掛かり、対戦相手に手強い選手をようするチームが増えてきた。


 さすがにモーロッソも彼のチームメイトも、息を切らしていたりあちこち汚れていたり、軽い怪我をしていたりと、勝利すれども消耗している様が顕著に表れるようになっている。



「ちっ、手こずっちまったなー」

「はーぁ、さっさと帰ってゆっくりしよーぜー」

 一番ぶつくさと文句を垂れている二人は、これまでの試合すべてにおいて一番チームの勝利には役立っていない。

 当然だ。ただの頭数合わせでチームに引き入れられた、典型的な貴族のダメな子弟で、最初から戦力としては期待されていない。


「今日もご苦労だったな、モーロッソ。次の試合も頼むぞ?」

 リーダー格のチームメイトが彼の肩をポンと叩く。一見するとチームメイトをねぎらう良いリーダーのような振舞いだが、モーロッソにとって今、一番の敵とは他でもない彼だ。


 自分の肩を叩くその手には様々な意味が込められている。


「……分かってるよ。話がないなら、僕はこれで」

「まぁそう無愛想にするな――――明日は敗者復活で1日使うって話を小耳に挟んでな。たまにはチームで出店ゾーンを散策でもしようじゃないか?」

「………」

 ニヤニヤと、全て自分の手のひらの上だとでも言わんばかりな、自信ある嫌な笑み。モーロッソは彼の言う事に逆らえない。


 強い嫌悪感――――しかし表面上は無表情・無関心だといった顔のままで対応する。


 最低限、集合場所と時刻だけを問うと、モーロッソは早々に家族の待つ家への帰路につく。

 1分でも1秒でも彼らとは一緒にいたくない。そのうちこの渦巻く憤りと憎しみを我慢できなくなりそうで…。







 彼が家へと帰る手段は徒歩。


 レステルダンケ家におけるモーロッソの立場が、夕焼けを背にして家路を急ぐその姿にありありと表れている。



 権力はない。財力もない。強さもない。


 

 たとえレステルダンケ家の権力が行使できるようになったとしても、今のかの家にはしたる力はない。先人たちが残した負の遺産が重くのしかかり、それが弱みとなったままだからだ。


 光明がない――――自分の幼き妻と子を守り通す未来ビジョンが見えない。


 まだ一家の旦那様として彼もまた幼く若輩者。己が無力感に苦悩し、湧き上がる悔しさを振り切らんとして、走るスピードを速めながら我が家へと急いだ。






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