1989・冬

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1989・冬

1989・冬

 

                     カメ太郎


 僕はこの信心をやるのに自分なりにひどく苦しんで夜も眠れないほど考えた。僕はこの信心と小学校の頃からずっと生きてきたと言っても過言ではないと思う。毎晩12時ごろまで題目をあげていた日は何百日にも…いや千日を超えるかもしれない。僕はそれを

 

 

 今日、首を吊って死のう、と思った。でも僕は超能力者になるんだ、もしくは○○○○○○○に_ネるんだ、と思って超能力の本を読み耽った。

 

 

 死ぬもんか

 今日も死ぬことを考えたけど

 死ぬもんか

 死ぬもんか

 

 

 

 

 

                      (1989・11・21)

 今日、県立図書館で勉強しながら僕は死ねない、と思った。夕方、小野が来た。一時間もしないうちに小野は帰った。僕の対人緊張のため勉強に身が入らなかったのだと思う。

 でも僕は死ねない。昨日も今日も、不思議に父と母と口をきいてない。何かあったような気もする。でも僕はこれからは明るく

 昨夜も、その前の晩も、僕は真夜中に起きてみそ汁や全ての食べ物を食べてしまった。そして昨夜は食べ過ぎて吐いた。

 

 

 

 

 

 自分はやっぱり純真にこの信心をしている人たちの心の支えになっていかなければならないのだろうか。不思議と力が湧いてくる、明るくなってくるこの信心を僕はやっぱり父のためにも母のためにも姉のためにもしてゆかねばならないのだろうか。

 

 

 

 

 

 自分は創価学会で人類を救える、この世を幸せでいっぱいの世界にできると思って、夢見て懸命に活動してきた。4つも5つも年下のY君やK君に支えられるようにして7年前退転した僕は退転する前の狂信的とも言えるような僕に戻りつつあった。4月の中頃から僕は7年半ぶりに創価学会に復帰した。始めの頃は勤行は形式ではないかとかと言って勤行はしてなかったし、ときどき何度も何度も再び退転しようと思って勤行をしないで学校や図書館に出かけてゆくことがあった。

 7月の選挙では僕も戦った。友達もほとんどいなくてそれに喋るのが苦手な僕は一つも票を取ることができなかったように思う。でも僕は8年ぶりぐらいに戦った。

 

 10月になり卒業試験が始まろうとしていた前の日曜日に僕は退転を決意した。(でもそれから4度ほど、思い出したように勤行をしたことがある。)

 卒業試験の始まる5日前の日曜日、僕は無謀にも10時間唱題会に出席した。勉強もしなければならない僕は勉強と唱題を交互に行って唱題は4時間半ぐらいした。10時間唱題会の終わったとき残っていたのは僕も含めてたった3人だった。他の人はいろいろな用事で他の処に出掛けていったりしていた。

 幻聴のようなものも聞こえてきていた。体じゅうがねじ曲がるような(特に顔がねじ曲がるような)発作を僕は唱題会の終わったあと何度も覚えた。でも頭はとても冴え渡り、普通なら3時間ぐらいかかる勉強を家に帰って一時間もしないでした。でも頭は今にも爆発しそうで発狂しそうになっていた。

 

 今、K君、Y君、KR君への罪悪感でいっぱいだ。戻ろうか、とも、やっぱり創価学会に戻ろうか、とも思う。あの命を賭けたあの仲間の暖かさを僕は忘れられない。

 クリスチャンになる、と決めた今の僕の胸の中は寂しい木枯らしが吹いているようです。苦しんでいる人を救うんだ、とても明るい世の中を造るんだ、と燃えていた2、3ヶ月前の僕は苦しかったけれど幸せだった。

 でも今もう僕はキリスト教をやめられない、社会的圧迫や義理なんかに縛られてクリスチャンにならなければならないようで苦しんでいる。

 僕は神様を信じてクリスチャンになるのか、義理や社会的圧迫に耐えかねてクリスチャンになるのか自分は悩んでいる。

                      (11月25日 県立図書館にて)

 

 

 

 

 

                            (11月27日)

 波の音が、ステレオの中から、響いてくる。悲しげに一人ポツンと、自分の部屋で酒を飲んでいる僕の耳に、とても悲しげに、とても悲しげに、響いてくる。

 失意の僕の耳に響いてくる。今日も自殺を考えていた僕の耳に響いてくる。中学の頃の思い出と一緒に、苦しかったけど楽しかった中学や高校時代の思い出と一緒に。僕の耳に届いてくる。

 

 

 

 父のため、母のため、僕は生きなくてはいけない。どんなに7階から飛び降りてしまうのが楽だろうけれど、僕は生きてゆかなくてはいけない。僕は生きてゆかなくてはいけない。

 

 

 

 ときどき起こってくるものすごい死神の誘惑も僕は跳ね返してゆかなければいけない。苦しいけれど、父のため、母のため、僕はその誘惑に負けないようにしなければならない。7階から飛び降りることは本当に楽だけれど、本当に楽なようだけれど。

 

 

 何が真実なのか解らないけれど。いつも頭がボーッとしている僕には解らないけれど。でも僕には少しは解っている。父のため、母のため、僕が生きてゆくことだと。僕は死んではいけないんだと。

 

 

 一ヶ月、○○○○教の教会に通いつめてきたけれど、父や母のことを思うと、どっちにすべきかとても迷っている。僕は何が真実か解らない。

 

 

 

 結局僕は権力に負けてしまったんだ。母や姉や木村君たちの必死の祈りも無にして、僕は権力に屈服してしまったんだ。

 

 僕は命賭けのクリスチャンとして全てを棄てるか、それとも再び創価学会員として戦い抜くか、煩悶し続けました。

 

 

 

 

 

                          (11月29日)

○○さんへ

 僕らより苦しんでいる人はいるんだ。僕らは精神病者として陰口を叩かれているけれど、僕らより苦しい人たちはいるんだ。

 

 

 

 

 

                          (11月30日)

 創価学会員として留年してゆくべきか、クリスチャンとなって親や創価学会のみんなを裏切るか、僕は卒業試験中なのに極限の苦しみに立たされている。そして僕は○○○から恨まれて、そして落とし込まれる気もするし。

 

 

 

 何なのか、と思ってしまう。いったい、自分は何なのか、と思ってしまう。クリスチャンになろうと一ヶ月近く教会に通っている自分。やっぱり創価学会に戻って命を賭けた信心をしてみようと思う自分。権力に媚びへつらおう、としている自分。自分はいったい何なのだろう。

 

 留年を覚悟して創価学会に戻るか、クリスチャンになるか、○○○に媚びへつらっていくか、僕はやはり創価学会員として生きてゆこう。どんな�ノ苦しい年月が僕を待ち受けていても。

 

 

 

 

 

                            (12月1日)

 僕は今日も一日じゅう(朝11時45分から閉館の7時50分までだったから正確には一日じゅうではないけれど)県立図書館で勉強した。クスリはたくさん飲んだ。周りは期末試験中の高校生で溢れていた。(僕は4階の扉が開いたとき、いつものとおりすぐに4階に上がったから。3階には予備校生とか大学生とか一般の人たちが多いけれど)

 7時50分にはもう頭は朦朧としていた。そして6時半ごろ県立図書館の3階の一般の人の部屋で勉強していたYのところへ行ってそして下に降りてコーヒーを飲んだ。そしてもう二外と耳鼻科の発表があっているのを知って僕はとても不安になった。そしてやっぱり閉館のあと、家に帰って今日は小説を書こう、と思っていたのに学部へ行って発表を見た。

 二外はやっぱり落ちていた。32人落ちていた。でも耳鼻科は上がっていた。耳鼻科は9人ぐらいしか落ちてなかった。

 それから家に帰った。今日、久しぶりに砂糖食をして詩や小説を書こうと思っていた。

 

 

 

 

 

                          (12月5日)

 この冬の海のように、日連大聖人様の御文はあまりにも厳しすぎて、僕はとまどってしまう。もっと楽な、○○○○○にでも入ろうかと考えてしまう。

 いろんなところから圧迫を受けて、僕はこの信心を棄てなくてはいけないようになってしまった。木村君に悪いけど、Y君に悪いけど、僕はこの信心を棄てなければならなくなった。

 

 僕が必死_フクリスチャンとして立ち上がったとき、君は天国からどういう叫び声を挙げるだろう。君は喜んでくれるのだろうか。それとも悲しむのだろうか。僕の心変わりに悲嘆に暮れてしまうようでならない。

 

 

 海辺に流れ込む小川のせせらぎが罪悪感に沈む僕の心を責めたてているようだ。いろんな人を裏切り、でも自分はずっとずっと苦しい人生を送ってきた。でも世の中には(アフリカなんかには)僕よりもずっとずっと苦しんでいる人たちがいる。僕は正義_エのために僕よりも不幸せな人たちを救うために命を捧げるべきだと思っている。僕よりもずっとずっと不幸せな少年・少女時代を送ってきた人たちのために。

 

 

 

 

 洗礼を受けることを決意してからも、僕は半年間の創価学会での命を賭けたつもりで戦ったあの楽しさ、そしてその僕と一緒に命を賭けて戦ってくれた同志を裏切って別れることへの哀しさ・寂しさを思って何度も何度もやっぱりクリスチャンにならずに創価学会に戻ろうと思いました。

 でも僕は創価学会の信心をしたために病気になったのです。それにもし家が創価学会に入ってなかったら僕は吃りでもなんでもなく、そうして僕はみんなからちやほやされて楽しい少年時代・青春時代を過ごしていたのかもしれない。

 でも僕は物心がついた頃から地獄のような日々を送ってきました。だから小学3年生のとき自分から創価学会のお祈りを毎日30分、一時間とあげるようになってきました。

 学校も、家庭も、地獄でした。小学三年の二学期に僕はもう『八方塞がりだ。』と思って仕事に疲れた母が深夜眠りながら行っていた勤行を僕も夕方自分一人で行うようになりました。

 

 

 

 

 

                        (12・5・夜)

 17日に部大会があると電話に入れていたKくんを裏切ることや、家族の人がみんな創価学会をしているのに、自分だけクリスチャンになるのに僕はとても抵抗を感じている。でも、勤行や唱題は辛いし、僕は真実が解らなくて苦しんでいるし、

 

 

 

 

 

                        (1989・12・7)

 こんな自分に洗礼を受ける資格があるのか、まだ創価学会に未練を持っているこんな自分に洗礼を受ける資格があるのか。

 病院を変わろうと思う。もう○○病院で薬を貰うのは○○○から国家試験のとき医師免許を受ける資格が無い、と訴えられるかもしれないから、もう○○病院では薬は貰うまいと思う。それに病院代も月二千円あまりで済むしたいした金額ではないから。

 

 僕はたしかに創価学会の信心をしてこの病気になったようだ。でもこれをカルマの法則で考えたら

 

 

 

 

 朝、僕は今日はとても早く起きた。4時ぐらいに起きたと思う。9時開館の市民開館か県立図書館に少しも遅れずに行かなければいい席を取れないと思っていたし、昨夜、瞑想法の本を読んで、そうして○○○の夢など厭な夢をたくさん見たから。だから僕は3時頃目が醒めて4時頃たまらず飛び起きた。

 

 死ぬことを考える。隣りの塀を壊してしまったし、県立図書館での勉強は楽しいけれど、卒業試験には落ちそうだし、一人ぼっちだし、

 

 明日ソッと死のうかと思う。麻酔の試験の終わった後、柔道場の裏の森で、首を吊って、たぶん明日は暖かいだろうから。

 

 

 

 

 僕にとってクリスチャンになることは苦しみだ。毎日、僕の卒業のことを一時間も二時間も祈ってくれている母や姉のことを思うと苦しい。

 

 泥沼の中に入ったときに、そこから這い出せる力を与えてくれるのが本物の宗教ではないのだろうか。自殺直前まで追い込まれたときに生きる力を与えてくれるのが本物の宗教ではないのだろうか。

 

 悲しみも楽しみに変えてくれる凄い宗教が日本にあった。あの台風の日や選挙の日にとくに僕はそう思った。

 

 転重享受。抜苦与楽。

 

 Iさんのところに何度も電話をしようとした。でも僕は電話をしなかった。もっと完全にこの信心に立ち直ってから電話をしようと思って何度もかけるのをやめた。そしてそのうちに僕はまた退転してしまった。

 

 

 

 血みどろの創価学会員としての道を取るべきか、安楽なクリスチャンとしての道を取るべきか、クリスチャンとなりそして○○○に媚びへつらってゆくか。

 

 

 正義はやはり元気の湧いてくる創価学会なのだと、正義は生きる力の湧いてくる創価学会なのだと、一ヶ月経って、僕はやっと目が醒めた。

 

 

 

 

 あの○○教に入って創価学会をやめようと思って、聖教新聞を幾束も幾束もゴミ捨て場に持って行った朝。あれからもう一ヶ月半近く過ぎようとしている。○○教は4日ほどでやめて僕は○○○○教へ行った。そこは僕の大学の教授と助教授がその教会の熱心な信者である教会だった。

 そのことを友達から聞いていた。その教授に泣きついて卒業させて貰おう、と僕は思っていた。

 でも僕はやはり○○○○教に命を賭けきれない。創価学会なら命を賭けきれるけれど、○○○○教や○○○にはどうしても命を賭けきれない。

 家に帰ってきて母の祈っている姿を見たりするとやはり僕は創価学会員でなくてはならないような気がする。

 

 

 

 

 

                        (12月10日)

 僕は今日、礼拝には行かないで、PM5:00からの『英語祈祷会』へ行ってきた。10人ぐらい集まっていた。中心者のアメリカ人はとても人格者だった。それに僕が呪われたような留年をしたとき(学3のときに)“診断学”の試験が終わったあとに話に行った『言語治療士』の女の人がいた。

 僕は今、家の信仰である“創価学会”を続けるべきかクリスチャンになるべきか二者選択を迫られていると思う。何が真実かというと僕には解らない。今日も午前9時から5時近くまで県立図書館で勉強した。あまり能率は上がらなかったようにも思う。“留年”の恐怖が今僕を襲っているように思う。

 

 

 僕はもう教会には行かないだろう。そうして創価学会の正義を訴えて行くんだ。この不思議に元気になるこの宗教を広めてゆくんだ。

 たしかに僕はこの宗教をしたためにノドの病気で苦しんできたかもしれない。でも

 

 みんな独善的なような、どの宗教も独善的なような気がする。

 

 

 自分は小学三年生の頃、誰に勧められることもなく、自分から創価学会の信心を始めました。僕の家は一応創価学会に入っていて仏壇があって家の中で母だけが(その頃、僕の家の店は苦しく、夜逃げ寸前でした。夜ご飯も10時、11時になることもありました。僕はそしてひどい蓄膿症でそれに喋るのがとても苦手でした。苦しくてたまらず自分から勤行(※1)を始めました。

※1----創価学会のお祈り。夕方、いつも30分ぐらいかかってやっていたことを憶えている。

 

 

 

 

 

                          (12月14日)

 『…死ぬときは私も一緒よ…敏郎さん…。死ぬときは私も一緒よ。』

----どこから届いて来るんだろう。その声は。天井の、何処から届いてくるのだろう。12月の真冬の寒い夜に。

 明日、バプテスマのことで牧師さんと話し合うようになっている僕はやっぱりバプテスマは受けるまい、と思ってきている。創価学会にやっぱり戻ろう、とも思ってきている。

 

 もう死ぬことは考えては駄目だと君はいつか言った。でも僕はまた考え始めてきた。雪の降ろうとするこの寒い夜に。

 

 

 

 

 

 創価学会に燃えていた夏の頃。10月中旬に一日三時間ぐらい題目をあげるまでに熱心になったけど、(以前の、退転する前の----大学一年の秋までの----自分に戻りかけていたけどまた退転した。K君、KK君、ごめんね。そしてY君、ごめんね。

 

 

 

 

 

 信じたい。夏の頃は楽しかった。でも今の僕はいろんな圧迫がかかっていて、創価学会に戻れない。楽な道を僕は選んでいるのかもしれない。卑怯な道を僕は選んでいるのかもしれない。でも僕は戻れない。少なくとも卒業するまでは戻れない。

 

 楽しかった。夏の頃、楽しかった。苦しかったけど、楽しかった。でも今の僕は。

 

 

 

 

 毎日の図書館の、閉館までの時間が、僕の一番充実した時間なのかもしれない。何も信じられず、何を語る友もなく、恋人もなく、神さまも何も信じられなくなった僕には。

 

 

 君が苦しかった頃、僕は一番楽だったのかもしれない。高校二年の春頃、僕はたしか一番楽だったと思う。

 

 

 

 二時間題目を挙げながら僕は、『退転したら卒業できる。精神病者のレッテルを貼られている僕だけれども、退転したらあの教授が味方になってくれて、僕は卒業できると確信していた自分を情けなくも、またそれが親のためなのだからとついつい思いつつ、僕は迷っていた。

 

 

 

 僕は学会員なんだ。どんなに苦しい目に遭ったって、辛い目に遭ったって、僕は小さい頃からしてきたこの信仰をやっぱり捨ててはいけないんだと、僕はこの夜、やっと気付いた。K君の手紙を読んで、僕は二ヶ月ぶりに目が醒めた。

 

 

 精神病者としてこのまま一生を終えるべきか、それとも命賭けの学会員として一生を終えるべきか。

 

 

 

 

 

                        (12月17日  日曜)

 僕は死ねない。今日も一日じゅう県立図書館で勉強したけれど、頭がボーッとしてあんまり能率が上がらなかったけど、僕はきっと医者になって、悩んでいる人、苦しんでいる人を救ってゆくんだ。僕も苦しんでいるけれど。

 

 

 

 君の幸せな海の中での生活は、本当はとてもとても苦しいのかもしれないけれど、あのオレンジ色の屋根の下で生活していた頃の君の方がずっと幸せだとは思うけれど、なんだか幸せのようにも、僕には感じられる。寒いかもしれないけれど、冷たいかもしれないけれど。

 

 

 

 青い海藻と、元気な小魚たちに囲まれて君は幸せだろ。僕は孤独で、今日も誰とも喋ったか解らない。

 

 

 

 

 

                (12月18日 夜 PM 9:43)  

今日も死を思ったけど、もうすぐクリスマスなのに秋みたいな日差しが試験場の窓から見えていて、留年してもいいから生きよう、と思った。今日、久しぶりに勤行をしたけど、勤行が終わる頃また激しく疑問が湧いてきて、悔しいけど、○○○の言うことが正しいような気がして、Y君やK君たちにとても済まないけど、やっぱり僕はこの信心をやめようと思った。今まで不幸に打ちひしがれていた人をたくさんたくさん救ってきた創価学会だけれど、僕の病気はやっぱりこの信仰に由来しているようだし、元気になるけれど、僕の病気は治らない、と思ったから、僕は学校へ行くクルマの中でも迷ったし、学校でもとても迷ったけど、僕はこの信仰をやめよう、と思った。本当に元気になるけれど、この信仰を一生懸命していたら薬もいらないと思うけれど、僕の病気にこの信仰は悪いと思ったから、僕は学校で試験中『○○○、○○○、』と祈っていた。

 

 

 

 K君は泣きながら言った。『五船さん、立ち上がって下さい。魔に負けないで下さい。自分も早くから両親に死に別れるという宿業に会って、信仰を疑ったり、退転を思ったりもしました。でもこの歓喜は何でしょう。自分は“この歓喜は何なのだ”と五船さんに言いたいです。この信仰は本物だと思います。『末世に地獄の苦を受くべきが、今世に過去世の罪、パッと消えて…』

 K君は父も母も亡くなった苦しみと弟がそれ故に高校にも行かず、暴力団に入ってしまった悩みを背負いながらも、毎日学会活動にとても明るく楽しそうに励んでいる。僕は広宣流布のため命を賭けているK君を裏切るべきか、それとも僕は盲になって再び創価学会の信仰に全てを捧げるべきかとても悩んでいる。

 

 

 

 僕は医者になったら南米かアフリカかどこか医者のいない所へ行って、そこで医者をするんだ。そしてそこの現地の女の人と結婚して子供をもうけて、ときどき日本に帰って父や母を喜ばせるんだ。僕は死なないんだ。たとえ留年しても死なないんだ。卒業して医者になって南米かどこか医者のいないところへ行って、医療を受けていない人たちをたくさん救ってゆくんだ。難病に侵されている人たちをたくさん救って_艪ュんだ。

 

 

 

 僕は死んではいけないんだ。南米で、女の人と結婚して、子供を産んで、そうして一年に一回ぐらい日本に帰って、父と母を喜ばせてあげるんだ。一年に一回ぐらい…僕は父や母の孫を連れて日本に帰って来るんだ。そうして父や母を喜ばせてあげるんだ。

 

 

 

 

『君は神と親とどちらの方が大切なのかね。』

『僕には親の方が大切です。僕の親は、店が潰れかかって、一家心中をしようとしたこともありました。その夜、浜�氓ナ食べた『カキ定食』の味は今でも忘れません。僕は親の方が大切です。今まで苦労をかけてきた親の方が大切です。』

----パプテスマの最後のときに牧師の問いに僕はそう答えた。場内は騒然となっていた。----

『親の方が“神”よりも大事だということがあると思います。とくに僕の場合には…。』

 

 

 

 

 

 林の中で息を潜めて君の後ろ姿に見入っていた13歳の頃の自分。ゴロを脇に抱き、ゴロが騒がないようにとしていた自分。あの頃の僕はとても純真で、君の姿の一つ一つがとても美しく見えた。

 

 僕がもっと早く着いてたら、君を助けられたのかもしれない。でも僕は途中で何度も血を吐き、倒れて、意識朦朧となりかけていた。今でも電灯に浮かぶ網場の停留所までの景色が僕の瞼に思い出される。

 

 

 あのときの景色は美しかった。僕が最後に立ち上がったとき、網場の桟橋の停留所の灯に照らされていた光景は、とてもとても美しかった。

 

 

 

 

 

                       (1989・12・22)

 苦しかったからです。信仰に熱中して治そうと思っていました。でも治らなかった。

----僕は岸川先生に言っていた。落ち込んで…落ち込み果てて…僕はキリスト教をやめ、また再び創価学会の信仰に戻ろうと思っていた。

----でもほかの宗教にもどの宗教にも何もなかった。ただ“死神のいざない”が僕をずっと支配していた。“死神のいざない”を僕の身体から捨て去るにはやっぱり元気になる創価学会しかない、と思った。

 

 

 

 高校の頃、『自分が“雪山の寒苦鳥のようだな。”』とよく思っていました。家に帰ると学校での苦しさを忘れ『雪山の寒苦鳥』となって、学校に居るときに決意した『一晩じゅう題目をあげ続けるぞ。』という決意も無くなっていた僕でした。

 

 

 

 ----僕は、淋しさに耐えかねた雪山の寒苦鳥のようだ。いつも一人ぼっちで孤独で、いつも淋しくて、罪悪感に満ち溢れた雪山の寒苦鳥のようだ。

 

 

 

 

 

                        (1989・12・22)

 明日、死のうか、と思ってしまった。今日、“泌尿器”が落ちてたから。明日、市民会館の7階から、勉強の途中に、死のうか、と思ってしまう。

 

----神父さんは語っていた。----

“He said, This is last. This is last.”

“He saided on the night of christmas-ive. He died only and lonely.”

“He died lonely and only, at the night of christmas-ive. Snow is folling. this night is chilling. ”

 

 

 

 

 

僕は世の中の不平等を思って毎日一生懸命活動していた。大学一年の半年間、僕はそうやって毎晩11時ぐらいまで活動していた。活動の終わったあと、勤行をしていた。授業にはあまり出てなかった。一ヶ月ぐらいして僕はもうこの大学はやめようと思ってきていた。

 不幸な人、恵まれている人、美しい人、醜い人、頭のいい人、頭の悪い人、…あんまり不平等が多すぎて

 

 

 

 

 

                           (12月23日)

 K君の題目の声が、まるで幻聴のように聞こえてくる。K君を裏切って創価学会をやめてクリスチャンになるためらいと、いろんないろんな宗教的煩悶が僕の心を掻き乱して、僕はどう生きようか、どう生きて行ったらいいのかと、今日も一日じゅう寒い市民会館で勉強しながら考えた。

 やっぱり創価学会が正義なのかと、そしてそれに夏のころ僕が思っていたように命を賭けるべきなのかと。

 

 

 全てを捨てて創価学会のために賭けよう、と思っていた夏の頃、あの頃は楽しかった。苦しかったし、寂しかったかもしれないけれど、楽しかった。7年ぶりに“友情”というものを僕は感じていた。K君に。Y君に。平野に。そして懐かしい創価学会の男子部のいろんな人たちに。

 でも僕は退転しようとしている。僕はクリスチャンになろうとしている。

 

 

 

 君は冬の花びらのなかを、一生懸命に走っていた。それ以来僕は君の姿を見ていない。僕は君から手渡された美しい文庫本を手にしたまま、雪の中でぼんやりと君の後ろ姿を見送っていた。

 

 君は雪の中に走って行った。白く煙っている雪の中に、僕に文庫本を手渡して、走っていった。そしてそれ以来、僕は君を見ていない。

 

 君の背中は寂しげだった。バス停へと走る君の背中は雪に曇ってとても寂しげだった。たくさん商業の生徒が乗っていて、君は急いで走っていっていた。僕に

ポツンッと小さな文庫本を手渡して。

 

 

 

 

 

                       (1989・12・24)

 僕は今日も一日じゅう図書館で勉強した。朝の9時から夕方の4時50分までずっと勉強した。今日はクリスマスイブだったから県立図書館に勉強しに来ている人も少なかった。でも来ている人は懸命に勉強していたし、僕も懸命に勉強した。

 綺麗な女の人も居たけど、可愛い元気な女子高校生も居たけど、

 

 

 

 僕はさっきK君に電話した。

『やっぱり僕は創価学会員だ。2ヶ月近く退転していたけれど、不幸な人のことを思うとやっぱり創価学会に戻ろうと思って、さっき2分か3分ぐらい唱題した。今日、一日じゅう県立図書館で勉強しながら考えていた。』

----僕の心にはクリスマスイブの夜なのに寂しく送っている人たちのことがあった。元気になるこの創価学会の信仰を、その人たちのためにも広めていかなければならないと思っていた。----

 

 

 

 

 

                         (12月26日)

 姉夫婦が桜子ちゃんを連れてもうすぐやってくる。28日ぐらいに来るだろう、と母は言っていた。昨日、本気で“死”を二度も三度も考えた自分。そして昨日、久しぶりに勤行と一時間半ぐらいの題目をあげた自分。

 母のため、父のため、死ねないと思った。必死に題目を唱えながらクルマで家に帰った。そうして勤行と題目を2時間ぐらいした。僕はやっぱり学会っ子で、僕はやっぱり創価学会の信仰をやめられないんだ、と思った。

 

 

 おーい、海よ。僕はこの世の真実は何なのかって叫びたい。創価学会なのか、瞑想法なのか、この世の真実は何なのかって、不幸な人を幸福にしてゆけるのは何なのかって、僕は大声で夜の闇の中に叫びたい。

 

 

 麻酔薬を延髄に打ち込んだら楽に死ねると思った。今日の朝、僕はものすごく苦しみながらそう思った。眠るようにそうしたら死んでゆけると思った。

 

 

 僕はそのとき柔道の帯を持たなかった。ただ、家に帰って麻酔薬を延髄の所に打とうかな、という考えがあるだけだった。

 

 

 

 

 

  _@                      (12月29日)

 ときどき何も解らなくなる。何が真実で何が正義なのか、ときどき全く解らな�ュなるときがある。

 不幸な人を救うためなら、僕はそう思って今日も創価学会のお祈りをした。でも不幸な人を救うために、ほかにも別な道があることも知った。でも創価学会の信心を勧める方が、ずっとずっと簡単で確実な方法だと僕は知っている。不幸せな人にはこの信心をさせることが一番早い近道なのだと僕は知っている。

 

 一人ぼっちの僕はどうなってしまうんだ。みんなは幸せそうだけど、一人ぼっちで、孤独な僕はどうなってしまうんだ。

 

 不幸な人を救うためだ。そのためだ。僕が苦しむのは、ただそれだけのためだ。

 

 死ねるもんか。死ねるもんか。父や母や姉のため、死ねるもんか。

 僕が首を吊って、

 

 

 

 僕は死神に捕らわれていた。今日も何回も“死”を思った。でも帰ってきている姉の背中を見ていると、それに姉の子供の桜子ちゃんを遊ばせていると、僕はやっぱり死ねないと思った。僕はやっぱり死ねないと思った。

 

 

 

 姉の背中を見ていると死ねない。僕よりも苦労してきたかもしれない姉のことを思うと、僕は死ねない。母と父の幸せのため僕も生きなくてはいけないと思う。

 

 冬の寒い北風に吹かれて首を吊っている自分の姿を今日何度も思った。思い出の日見中学校のグラウンドの、鉄棒に紐を括りつけて。

 寒い北風に吹かれて揺れている僕。そして一夜気づかれないでずっと冷たい北風に吹かれている僕。正月の朝、誰かが見つけてくれるだろう。首を吊った僕の姿を。

 

 

 

 

 

                         (H1・1・8)

 僕は、明日、試験が終わるのに、お酒ばっかり飲んでいる。耳にはブルドーザーの音が聞こえ、真冬の明るい日差しが見えるのに、

 

 幸せになりたい。でも僕は精神病者として、もう自殺の直前まで追い込まれ、そうして僕は今にも首を吊ろうとしている。卒業さえできれば、そうしたら僕は元気になれるのに。

 

 僕はいつも苦しんできたのに、僕はこのまま親に28年間も苦労をかけ続けて、僕は死んでゆくのだろうか。この冷たい寒い冬の日に。

 

 

 28年間、生きてきて、僕のたった一つの恋だったのかもしれない。中学生の頃の、あの波の音の聞こえる、あの寂しげな浜辺での出会いが。

 

 

 何度も何度も死を思った。でもその度に父や母の顔を思い出して思いとどまっていた。いつもいつも冬の寒い日に柔道の帯が丸くなって風に揺れていた。

 

 冬になるといつも僕は死を思っていた。夏にはいつも明るくなってバイクに乗って駆けづり廻っていた。少しも勉強せずに。冬の厳しいい季節を忘れ果てて。

 

『今更、芥川賞なんていらん』と父が玄関で言っている姿が見えてくる。それよりも自分の息子を返してくれと…飛雄馬を返してくれ、と言っている父の姿が見えてくる。涙にかき濡れた父の姿が見えてくる。

 

 

 

 

 

 僕の生い立ちのことについて口で言ったら泣きそうになると思いますから書きます。

 僕は島原半島の加津佐で(あの海水浴場で有名なところで)あるちょっと大きな農家の長男として生まれました。僕にはそうして二つ年上の姉がいます。(姉はもう結婚して山口県に住んでいます。もう子供もいます。)

 僕が三つの頃、農業は厭だということで僕たち一家4人は長崎に出てきました。そして始め本河地に住みました。父はクルマのセールスマンで、母は内職をして生計を立てていました。でも父はクルマで事故ったりして母のわずかな内職で僕たちは暮らしていました。そんな状態が一年半ぐらい続いたと思います。食べる食器も叔母が買ってきてくれたものをずっと使ってましたし、家賃を払えずに一回引っ越して近くのとてもボロな家に途中で移り住みました。父がその頃、セールス先の人の勧めで創価学会に入会しました。母は猛反対だったそうですが、日見に引っ越してきて僕が小学二年の頃には母がいつもお祈り(勤行)をしていたことを憶えています。

 日見に僕たち一家が引っ越したのは僕が四歳半ごろのときでした。経済的にとてもやっていけなくて『日見市場』というのが出来ると_ォ親戚の人の協力と勧めがあったのだと思いますがそこで衣料品店と果物屋を始めました。母が衣料品店で、父が果物屋でした。

 経済的にとても苦しい状態は僕が小学三年の頃まで続きました。そして家の中は夫婦喧嘩が毎日絶えませんでした。

(だから僕の幼少時代はとても不幸せでした。今と比べると今は天国のようなものです。でも僕は今でもとても苦しくて----淋しくて----たまりません。)

 僕は小学一年の3学期から鼻を悪くしてそしてそれから鼻の病気(蓄膿症)のことで中一の終わり頃までとても学校で苦しみました。いつも鼻をいっぱいにして学校から帰ってきていました。鼻を拭く、ということを僕が何故かしてませんでし_ス。だからいつも2時間目ぐらいから溜まってくる鼻のことで授業中とても苦しんでいました。

 学校もとても苦しかったですし、家もそんな状態でしたから僕は小学三年の二学期に『もう四方塞がりだ。』----八方塞がりというのが正しいのだと思いますけど、その頃の僕はその夜寝ながらそう思ったことを今でもはっきり憶えています。----と思って自分から母のしているのを見よう見まねで『勤行』を始めました。朝はしなくて夕方だけ『方便品』ぐらいまでだけ(『寿量品』の“自我喝”もちょっとやってたような気もします。)20分ぐらいかけてやっていたと思います。

 

 

 

 

 でも僕はこの前、『もう絶対に戻らない。僕の病気は創価学会の信心から来てるんだ。』と思って今はやっていません。でもやはりとても懐かしさを創価学会の信心に対して抱いています。でも僕はクリスチャンになるんだ、それとも自律訓練法か瞑想法でこの自分の病気を治すんだ。』と思っています。

 

 

 

 

 

 憶えても憶えてもすぐに忘れてゆく。窓の外には冬の木枯らしが吹いている。

 僕は卒業試験の始まる5日ぐらい前に退転して、勤行をしなくなった。そしてそれから一週間後、○○教の講義を3日受けた。第2外科の卒試の直前だったので2日目の夕方に帰った。そして2日後、第2外科の卒試があったけど、僕は全然できなかった。

 それからキリスト教の教会に通い始めた。

 朝の勤行が厭だったし、自分が創価学会員のままだと卒業や国家試験で○○○から妨害を受けるような気がしていた。それに朝の勤行をしたために遅刻した○○○の○○教授の通っている教会に通えば○○教授は僕のその遅刻を許してくれて卒業させてくれると思っていた。

 

『宿業現れ出たる』とは思いたくなかった。そして僕は不信の念を日に日に強くしていった。

 僕も迷った。大乗経である法華経を広めることが社会の底辺の人々を救えることになる。でも僕は小乗経で超能力を得たら確実に病気の人を癒してあげられる

 

 

 

 

 不幸な人を幸せにしてあげる方法は、もちろん○○○ではないし、僕が自殺することでもないし、僕が再生して父や母を喜ばせることだと思う。でも僕が再生する方法は何なのか僕は迷っている。

 

 今日も図書館へ行けば良かった。それなのに僕は今日一日じゅう家に居て、自殺のことばかり考えている。そっちの方がずっと楽なようなそんな気がする。

 でも父や母がいる。僕は死ねないし、どうにかやって生きる道を見つけなければならないし、明るくならなければならない。

 

『五船さん。五船さんは学会っ子じゃなかったんですか。僕も、学生部長も、小さい頃から、冷たい冬の朝も6時ぐらいに起きて凍えるような氷で顔を洗って、そうして朝の勤行をし�ト学校に行っていた学会っ子じゃなかったんですか。』

 ----僕はk君の声を受話器越しに

 

 

 

 死ねば楽だ。首をぶら下がり健康器に吊って死ねば楽だ。

 

 

 

 

 

                         (H2・1・15)

 僕の深層心理にある創価学会への思い出を捨て去ったならば僕の病気は治るのかもしれない。でも三世の生命感や不幸のどん底にある人にも希望や歓喜を与えてくれるこの信心のことを思うと…

 

 

 

 

 

                           (1月21日)

 絶望になったとき、もう寒くなったから、外はもうずっと前から寒いから、もう一月の終わりだから。

 

 明日でほとんど試験が終わるけど、僕は今夜も酒を飲んだし、今から砂糖とマーガリンとパンをたくさんたくさん食べて詩を書こうと思っている。さっきまで瞑想法を一時間ぐらいしていたけど、あんまりまだ(もう20日ぐらいしているけれど)効果がないような気がする。今まで20日間ずっとバイオフィードバック装置を使って瞑想法をしてきたけれど、何も使わないで瞑想法をする方がいいみたいな気がする。

 今日も朝早くから夕方まで(日曜日だから4時50分に閉まるから)県立図書館で勉強していた。県立図書館で元気のいい高校生たちに囲まれて勉強するのは本当に楽しいけどクスリをたくさん使ってしまうから。

 早くバイオフィードバックで対人緊張や吃りを治してクスリを使わないで県立図書館で勉強できるようになりたい。ローソク瞑想法とかそんなものを明後日試験が終わったらやってみようと思ってもいる。

 

 田の中に本がなかったら、少なくとも江戸時代のように本がなかったら、僕は信心を退転せずに、“法華経の五船飛雄馬、法華経の五船飛雄馬』と石を投げられたり嫌われたりしながらも、仲間もいて幸せだったと思う。少なくとも充実した大学生活と青春を送っていたと思う。

 

 

 

 君は一人で首を吊って死んでゆくのかもしれない。でも僕は柔道をしているから首が強いから死ななくて、本当に僕は生き残って君だけが死んでゆくのかもしれない。冬の冷たい風の吹きすさぶ立山の森で、君だけが死んでゆくのかもしれない。

 君は冬の風に揺られて幸せそうだったけれど、僕は首に縄があまり良く懸かってなくて苦しかった。君は幸せそうに目を閉じたけど、僕は苦しみもがいて縄をほどいてしまった。君は大きな目を幸せそうに閉じたけど。

 大きな瞳を幸せそうに閉じた君。苦しまぎれに首に手をやって息をした僕。君は幸せに天国に旅立って、僕はこれからもこの世界で苦しまなければならなくなった。

 君は幸せに死んでゆくだろう。でも僕はこの世に未練を残したまま、首に手を掛けたりして助かりたいと思うだろう。君は僕の横で眠るように幸せに死んでゆくのに…。

 幸せは何処にあるのだろう。きっと森を抜けた原っぱの上に、幸せが待っているのにちがいない。

 幸せな少女時代を夢見ながら君は死んでゆくのかもしれない。君のお父さんやお母さんの愛情に包まれて比較的幸せだった少女時代を思い返しながら君は死んでゆくだろう。でも僕は冷たい過去の思い出と、悲しい少年時代の思い出を胸に秘めて死んでゆくと思う。

 悲しみに打ちひしがれていた僕の少年時代も、君の少女時代と同じだったかもしれない。もしかしたら君の方が悲しい少女時代を送っていたのかもしれない。でも君は今幸せに死んでいっている。少女時代の思い出を楽しく思い出しながら死んでいっている。

 

 

 

 僕は、毎日死ぬことを思う。寂しくて、人といるととても緊張してしまって。

 僕は、毎日死ぬことを思うけど、僕より不幸な人はたくさんいるんだから、それに父や母を喜ばせるためにも、僕は自殺してはいけない。できるだけ笑顔を作って、明るく振る舞わなければならない。

 僕は何年孤独でいただろう。たしか5年ぐらい前までは明るかったと思う。毎月十二万円ぐらい使っていて、毎日のようにクルマやバイクをいじったりしていて。

 あの頃はビデオに録画したビデオを見て楽しかったし、小説家への大きな希望があったし、もう留年しない自信があったし、いろんな自信に満ち溢れていたし…。

 幸せになりたい。僕は今日もそして2ヶ月以上も前から、幸せになる方法を求めてきた。いろんな人に幻滅した。でも幸せの道はきっと何処かにあると、僕は信じている。きっときっと何処かにあると。

 

 

 

 

 

                        (H1・1・23)

 僕は君のように病気のない恵まれた人間だったら良いのだけど、僕は小さい頃から病気やいろんなことに苦しんできている。君のように明るくなれない。でも苦しさへの強さだけは君より強いと思う。ただそれだけ君より強いと思う。

 再試県で落ち込み果てた僕への君の言葉は、とても綺麗な君の言葉だったから僕は落ち込むのをやめようとしたほどだった。40問中10問しかできなかった僕は正直に助教授にみんなの前で言った。僕が最低だった。僕より悪い人も16問解いていた。

 もうクリスマスも一ヶ月過ぎて、でも僕たちはやっと長かった3ヶ月にも渡った卒業試験も終わって、そしてクリスマスのときには降っていなかった今日は降っていた。

 僕は君を無視せずに喋っていたら、

 

----僕はいつものように帰りがけ県立図書館に寄って7時50分の閉館まで勉強した。今週末の茂木試験を受けようか受けるまいか、とても迷っていた。でも僕は県立図書館に来てから閉館まで一時間半一生懸命に公衆衛生や産婦人科の勉強をした。

 

 

 

 幸せな夜を迎えたのかもしれない。僕たちの学年で一番綺麗な君のアパートで、僕らは試験の打ち上げをしていたのかもしれない。幸せな、とても幸せな打ち上げをしていたのかもしれない。

 幸せは不幸な人の土台の上に築いてはいけない。僕ら医学性は幸せだけど、世の中にはたくさん不幸せな人、苦しんでいる人がいるのだから、僕らは決し_ト不幸な人の上に幸せを築いてはいけない。

 

 

 

 僕は死なない。僕は死なない。もしも僕が死んだら父や母はどんなに悲しんだり、苦しんだりするだろう。僕は父と母のため明るく振る舞ってゆこう。波の音や潮風が僕の耳に聞こえてくる。傍にゴロがいて、もう亡くなった星子さんが静かに僕を見つめている。もう28歳になったというのに僕はまだ父や母に苦労を掛け続けていて、少しも親孝行をしていないから、だから僕は死ねないんだと思う。

 真実が何か__轤ネい。宗教的煩悶にずっと僕は捕らわれてきて僕は

 

 君は苦しさに耐えかねてもう十年も前に簡単に死んでいった。僕は君が死んだあとの母のお母さんとお父さんの悲しむ姿を見てきた。

 僕は今日も死を思った。でもやっぱり死ねなかった。

 

 君はたしかあのとき絶望の淵に中にあったと思う。でも僕はどんなに言葉や心が病んでても、体だけは丈夫だから、まだ親に孝行してゆけるから、だから僕は死なないのかもしれない。

 

 死んだらどんなに楽だろうとつい思ってしまう。思ってはいけないのについ思ってしまう。

 死んだら本当にどんなに楽だろう。でも死後の世界ってどんなのだろう。

 自殺者の死後の世界はとても苦しいものだといろんな本に書いてあった。やっぱり自殺だけはやめなければ。僕はやっぱり創価学会に戻らなければいけないのかもしれない。

 

 学会っ子はやっぱり創価学会の信心をしなければいけないんだと。クリスチャンになったり、座禅をしてはいけないんだと。

 

 

 僕も、君の処へ行くのかもしれない。今日一日耐�ヲてきたけど、あと2、3日のうちに、もしかしたら今夜にでも。

 

 

 僕は今夜にでも旅立とうと思っている。君のいる世界へ。今夜はこの冬で一番寒い夜のようだけれど、隣りの寒い部屋で、首を吊って…

 

 涙に歪んだ父の顔や、悲しみにうち沈んだ母の顔が、見えてくる。僕は死ねない。また中学や高校の頃の僕に戻って、ひたすら題目を唱えながら、僕はまた生きてゆこう。元気だったあの頃の僕に。十年前のあの頃の僕に。僕は戻ろう。

 

 

 僕は何度も泣いたし、何度も泣きながら御本尊様に祈ってきた。あの中学や高校の頃の苦しさに比べたら、今の苦しさなんて何でもないんだ。

 

 

 朝、目が醒める頃、眠るように死んでいたら。ポカポカとした布団のなかで、いつの間にか死んでいたら、

 

 

 

 

 

                       (1990・1・27)

 福岡の町を走っていた頃、僕のロードマンはタイヤがアスファルトの地面にひっつく音を立てながらずっと走っていた。福岡の町は人が多くて、ちっとも寂しくなくて、今、長崎に帰ってきている僕に孤独感は全然なかった。

 福岡に居るとき僕は元気いっぱいだった。まだ十八歳だったし、創価学会の信心を死にものぐるいでしていたし、寂しくなかった。

 もうそれから10年経つ。僕は今日も自殺を思った。でも父や母のためを思って『生きてゆこう。決して自殺だけはするまい。』と思った。僕はキリスト教の教会で45歳ぐらいのおばさんの言った『医学で不幸な人たちを救ってゆくことを生きる目的にすべきです。医学で不幸な人を救ってゆくことがあなたの使命と義務なのだと思います。』と言われたその言葉が、今も僕の心の支えになっている。名もないそのおばさんの生きることに煩悶していた僕に言われたその言葉が僕を支えているような気がする。

 

 

 

 

 

                         (H2・1・28)

 僕は命を賭けて戦った。あの大学入試が終わってから半年間、11月中旬に退転するまで、僕は命を賭けて戦った。でも僕の病気は治らなかった。僕の病気は治らなかった。でも僕はあの頃とても元気だったし、心はとても美しかった。

 あのとき退転しなければ僕は今ごろもうとっくに卒業していて、そうして父や母を幸せにしていたと思う。父や母を安心させ、そしてもう幸せな家庭を築いて子供も儲けて、僕は幸せだったと思う。僕は“理”に走り、純粋な心を喪って、理屈っぽい僕に変わっていった。そして孤独な僕に変わっていった。

 

 僕は自殺一歩手前の僕に変わっていった。中学や高校の頃はとても苦しかったけど創価学会の信仰を信じていたから元気いっぱいだったし、吃りやノドの病気に苦しんでいたけど僕は元気だった。僕は少しもいじけても、くじけてもいなかった。

 でもあの頃の自分はもう一生、戻って来ないと思う。僕は未来を見渡しても、暗い将来しか見えない。それとも僕は創価学会に戻るべきか。かつての死にもの狂いの僕に戻るべきか。

 

 

 

 

 

 明日死のうかと思う。隣りの部屋のぶら下がり健康器に首を吊って、明日死のうかと思う。でもそうしたらどんなに母や父は悲しむだろう。

 睡眠薬で死ねたらどんなに楽だろう。でも僕は前、2瓶飲んで死ねなかった。一瓶だけ飲んで死ぬつもりだったのに、朝、気が付いたら二瓶も飲んでいた。何ヵ月も何ヵ月も…たぶん半年以上もかかって貯めた睡眠薬だったのに、そして僕の枕元には白い嘔吐物があった。そしてその日、一ぺんに6kgも増えていた。きっと毒消しのためたくさん何か食べたのだと思う。僕は全然憶えていないけれど。

 

 

 死ぬもんか。出てゆけ悪霊。僕は父と母のために生きるんだ。不幸な人たちのため、少なくとも父や母のために、僕は生きるんだ。

 

 

 僕の生命には大きな傷があって、それに悪霊がつけ入って、小さい頃から僕を苦しめてきた。小学生の頃は鼻の病気、中学の頃から今までノドの病気、そして高校の終わり頃から対人緊張感。すべて僕の宿命のために魔が入ってきて僕を苦しめてきたのだと思う。

 小さい頃からの吃りも鼻の病気もノドの病気も対人緊張感もすべて僕の宿命から来ているのだと思う。

 他の人なら罹らないのに、僕だけ罹る。僕の体質というか宿命のためなんだと思う。

 死にに

 

 

 

 

 

                           (2月8日)

 淋しいから、淋しいから僕は毎日、県立図書館へ行って勉強しているけれど。もう留年も決まったのに、僕は淋しいから毎日、県立図書館へ勉強に行ってるけど。

 

 

 クスリをあんまり使っちゃいけない、と思うけど、今度の卒業試験のために貯めておかなければいけないと思うけど、淋しいから、僕は毎日、県立図書館へ行っている。

 

 

 ○○先生へ

 僕にはやはり創価学会員としての血が流れているというか、やはり僕はクリスチャンにはなれないようです。今夜悶々と考えています。今度の日曜日の礼拝に僕は出ないような、そんな気がします。小さい頃から熱心な創価学会の信者だった僕はやはりクリスチャンにはなれないような気がします。すみません。

 

 

 僕は今も心に迷いがある。クリスチャンになるべきかこのまま創価学会員でいるべきか、今日もクリスチャンの人から手紙が来たけど、僕は迷っている。

 

 

 

 

 

                       (1990・1・29)

 寂しかったから、寂しかったから僕はずっと県立図書館で勉強していた。高校や浪人一年間の思い出が残っているし、(あの頃の元気いっぱいだった自分のことを思い出せるし)夕方になると元気いっぱいの高校生たちがやってきて、いろいろお喋りしながら勉強する。僕はそのお喋りを聞くのがたまらなく楽しい。

 

----でも昨夜、眠れなかったとき、僕はもう28歳で彼らは18歳で10年も年の差があることに気付いて落ち込んだ。落ち込んだためますます眠れなくなった。

 僕は今日、脳波をモニターする八万円する瞑想法の機械をやっぱり返してくれるように電話した。『今日付きました』と相手のとても愛想の良い若い女の人は答えていた。そしてすぐに送り返しますと言ってくれた。送料のことなんて全然言わないでくれた。

 僕は今日、市民会館で勉強しながら、『やっぱりあの脳波をモニターする機械の力を借りて瞑想した方がずっといいな。そっちの方がずっといいな。そうすると僕の対人緊張症も治って僕も勉強できるようになって、今のように“大学卒業できるだろうか。国家試験にあがれるだろうか。”』と思って絶望の思いに暮れなくてよくなる。そして僕は自殺を思い絶った。

 

 

 

 

 

                      (1990・1・29)

 僕は明日、“○○○○”の選挙事務所に行って、僕の母は今の○○大臣の○○○であること、母の姉は○○○と同じ埼玉県の自民党の参議院議員で○○さんという人であることを言おう。そうして選挙活動のアルバイトをさせて貰おう。そしてついでに気に入られてボクのクルマの故障しているところも直してもらおう。それに、その事務所でアルバイトしている女の子と仲良くなって結婚したりして幸せになろう。

 僕は○○○○さんからとても気に入られて、彼のbrainになろう。僕は学校の成績は良くないけど、たくさんたくさん本を読んできたし、いろんな奇抜なアイデアをすぐ思いつくからきっと○○さんの有能なbrainになれると思う。

 ○○さんの事務所の綺麗な女の子と恋人どうしになって、そうして結婚して僕も幸せになろう。選挙運動の間、僕はずっと昼間は選挙カーに乗って手を振り続けると思う。僕は声こそ少ししか出ないけどマスクがとてもいいからと言って○○さんはパソコンでなくて選挙カーの方に僕を回すと思う。もしかしたら8時が過ぎてから僕はパソコンに向かうかもしれない。

 そして○○さんに僕が卒業できるよう2月7日の教授会に圧力をかけてくれるよう頼もう。そうして僕は○○さんの主治医とそして参謀となってこれからやってゆこう。○年前、一年間とてもお世話になった○○先生には悪いけど、僕は権力に媚びへつらう人間だから。僕は左が嫌いで右が好きだから。

 

 

 

 

 

                          (2月2日)

 僕は、少しの間、退転しておこうと思う。そうして自律神経法や瞑想法を試してみてもしダメだったらまた創価学会に戻って来ようと思う。でも僕の考えは甘いような、世の中には苦しんでいる人がたくさんいるのに自分だけ(父も母もだけど)幸せになるために(僕の病気が治り、僕が天才になり、父や母を喜ばせるため)幸せになったって、と思って僕は8万円した瞑想法の機械を二回送り返した。でも二回とも途中で心が変わって取り戻した。

 その機械を使っても今のところほとんど効果はない。今度の月曜、○○先生に会うようになっている。僕には創価学会に対する懐疑が強い。折伏をできない。でも劇的には元気になる。やっぱり不幸せな人を救うのは創価学会なのだろうかと思う。

 

 

 

 5日ぐらいずーっとスモークランプが灯いたままだった。今日午前中ホンダのサービスセンターへ行ってそれは駐車灯をそのままにしているのだと解った。5日間ずっと、エンジンを切ったあとバッテリーの付け口を取っていた。僕は何かの呪いだと思っていた。

 

 

 

 

 

                      (1990・2・3)

 ○○先生。僕は今、命を賭けるか、退転するかの選択に迫られています。4度目の留年を迎えよう、とする今、僕の胸の中はとても苦しいです。この高校三年の2月に罹った“対人緊張症”さえなかったら僕は今年…いえもう何年も前に九大医学部を卒業していたことを考えると。

 福岡のあの博多で、みんなからチヤホヤされながら今頃インターン生活を送っていたことを思うと。僕は悔しいです。

 

 

 

 飛び込み折伏というのをやっていた。あの頃は部長が桐山さんで、学生部長が中村さんだった。大学一年のあの頃、苦しかったけど楽しかった。

 

 

 

 僕は今日行かなかった行かなかった。学会の拠点に行かなかった。でも胸の中に、広宣流布への燃えるような情熱を沸らせていればいいんだと、僕は思っている。

 

 

 

 

 

                         (2月4日 日曜)

 僕は今日、県立図書館から帰ってくると、僕の部屋が綺麗に掃除されているのを見た。僕は死ねないなと思った。それから創価学会のいろんな所に電話した。僕は敗れ果てて、親に苦労ばかりかけて、本当に親不孝な息子だけど、(もう28歳になった息子だけど)少なくとも親孝行してから死ななければならないな、と思った。

 フカフカになっていた布団は気持ち良かった。また僕は母のため父のためどうしたらいいのかな、と深く思い悩んだ。

 

 

 

 

 

                          (2月4日)

 僕は今日も県立図書館で一日じゅう勉強した。信仰への懐疑の念と、クスリへの誘惑と必死に戦いながら勉強した。とても緊張していたのであまり能率はあがらなかった。周囲の人も緊張する僕を避けて次々と帰っていっていた。

 瞑想法に賭けるか、創価学会の信仰に賭けるか、とても迷っている。もし創価学会の信仰に賭ければとても元気になって明るくなるけれどとてもきつい。瞑想法は楽だけれど分裂病になったり(たぶん僕のようなのはそうなると思うし)とても危険だ。

 やっぱり創価学会の信仰に賭けようか、とも思う。自分のためだけでなく、三世の生命観に立って父のため母のためにも創価学会の信仰に賭けようと思う。

 

 

 

 

 

 ○○先生へ

 このまえ日曜日、教会へ行かなくてすみませんでした。僕は迷っていました。僕は何のために教会へ行こうとしているのだろう、権力へ媚びへつらうためだろうか、などと。

 僕にはやはり創価学会員としての血が流れています。

 でもやはりクリスチャンとして生まれ変わろうかという気もあります。少なくとも僕は世間の人のように女の子目当てに教会に出入りしていたのでは決してありませんし、今からもそうだと思います。僕は本当に真理の探究者でした。そして自分の病気を治すために宗教を遍歴していました。

 今日も図書館で思いました。醜く生まれてきた女の子。そのコを幸せにしてあげたい。それにはやっぱり創価学会の信心しかないん_カゃないかと。創価学会に入って生きがいのある明るい楽しい人生を歩ませてあげるべきだと。それが正義なんだと。

 でもいろいろある創価学会の矛盾や、その矛盾や創価学会の信仰への疑いのために自分は創価学会…少なくとも日蓮正宗に戻ることはできなかった。日蓮正宗の信心を信じきれたら僕は今日からでも毎晩遅くまで日蓮正宗の広布のための活動をしていたと思うのに。

 不幸な人を幸せにしてあげられる道はいったい何処にあるのだろう。何が正義なのだろう。何が真実なのだろう。

 

 

 

 

 

 “負けるものか”----僕は中学や高校時代、ずっとそう思って生きてきた。----僕は中学や高校時代、ずっとそう思って生きてきた。毎朝、毎晩、そう思って勤行・唱題をしてきて、昼間の学校での辛さに耐えてきた。それにそうやって勉強してきた。

 

 

 

 

 

 2月5日、〇〇病院で診察を待っているとき、『あの医学生はまだ来ているか?』と電話があった。〇〇先生は『はい、今来ていますよ。』と言った。

 2月7日が教授会だった。その日で卒業か卒業でないかが全て決まるのだった。僕はその日、久しぶりに朝の勤行をした。そしてもう絶対に精神科の病院にクスリを貰いに行かないと御本尊様に誓った。でも県立図書館で勉強していてやっぱりクスリなしにはやってゆけない、と思ってその日夕方〇〇病院へ行ったのだった。

 

 

 

 

 

                       2・24(日曜)

 僕はいつもお酒を飲んでいる。今日も○○○○経の教会に行ったけど、僕は何が真実か解らなくてとても迷った。今日も何度も死を思った。でも久しぶりに『創価学会にやっぱり戻ろう。』と思うと元気が湧いてきて自殺のことを思わなくなった。でも僕は今でも迷っている。真実が何なのか解らなくて迷っている。

 リラックスするべきだと思う。それに創価学会の道はとても厳しいし、でも真実のためなら僕は命を賭けなければならないと思う。僕だけの使命のために命を賭けなければ、と思う。

 真実は何なんだ。○○○○先生か、それとも日連大聖人様か、僕はどちらかだと思う。僕はどちらかに賭けようと思っている。

 

 

 絶望のなかで立ち上がった人がたくさんいる。この創価学会を広めてゆくのが正義なんだと僕はやっぱり思ってきた。幸福な人、恵まれた人はいい。でも不幸な人、苦しみに打ちひしがれている人に生きる勇気を与えてくれるこの宗教を広めてゆくことが正義なのだと僕はまた思えてきた。

 

 命を賭けて広宣流布してゆくんだ。魔に負けないで広宣流布してゆくんだ。○○○先生は他力信仰はいけないと言うけれど、ほとんどの人は他力信仰でなければ苦しみ・苦難に耐えていけないんじゃないだろうか。ほんの一部の恵まれた人や、現在あまり悩みのない人ならば自力信仰でもやっていけるけど。

 

 

 

 

 

                       H2・2・27

 僕は今日、学校から帰ってきて春休み“季節従業員”としてきつい肉体労働だけどとても給料のいい“ダイハツ”や“スズキ”などの仕事に応募しようと何十分も風呂上がりなどのときその募集要項に目を通して考えた。

 でも最低が2ヶ月で、しかも2ヶ月だったら給料は4ヶ月や6ヶ月と比べてかなり安いことに気付いた。やっぱり日曜日なんかに“アール引っ越しセンター”なんかのアルバイトをした方がいいのかな、と思った。また、春休み、魚釣りに再び熱中しようかな、とも思った。また、二内の研修医の女医さんのような美しいひとと結婚したいな、とも思った。

 今日、二内の回診だった。僕はとてもあがった。それに吃った。先生たちも僕を諦めているようだった。でも僕は人一倍人恋しくて、淋しくて、それに両親への罪悪感に打ちひしがれていて、それにこの頃、ベンゾジアゼピン系の薬(抗不安薬、僕の吃りや対人緊張に効く薬)にもうものすごく強く耐性を持ってしまっていて今日も回診や授業中、何度も自殺を思った。

 創価学会に戻ろうかな、とも思った。また、やっぱり自律神経訓練法を本気になってやるべきだ、と思った。でも自律神経訓練法を徹底的にやると気が狂う危険性がかなりあるし、僕はどうしようかとても迷った。

 もう○○○○教の所へは行くまい、と思った。○○○○先生の教えを信じてゆこうと思った。また久しぶりに○○先生に電話してみよう、とも思った。

 何かいい方法がないかな、と思った。本当に金持ちのお嬢さんと結婚したら僕の悩みはかなり改善されるのになあ、と思った。それに自律神経法に成功したら僕は今のじめじめした自分から解放されて、自信に溢れた元気な自分になれるのになあ、と思った。

 

 

 

 

 

                          2月28日

 僕は今度の日曜日(今日は水曜日だけど)教会へ行こうか行くまいかとても迷っている。もう瞑想法に賭けよう、と_燻vっている。

 

 

 僕は今朝、やっぱり創価学会に戻ろう、と思った。でも昼頃、やっぱり緊張するな、と思ってクスリを飲んだ。たくさんたくさん2日分ぐらい一遍に飲んだ。もうそんなに飲まないと効かないようになってしまっているから。

 夕方、瞑想法をしようと思った。でも午後、講義中にうっとりと瞑想法のようなものをした。でも僕には強い霊が引っ付いていて、瞑想法ぐらいでは治らないような気がした。

 

 

 幸せになりたいならあの灯台に行こう。今日は辛いけど、吹雪が吹きそうだけど、授業も早く終わったし、今日は県立図書館が月末で休みで(僕はさっきまで全然そのことを知らなかったけど)、灯台まで行こう。僕を元気にさせてくれる冬の海の灯台に行こう。寒いけど。とても寒いけど。

 

 

 

大学四年留年 八月

 僕は“努力を忘れたカモメ”のようだ。高校のときのようなひたむきな努力を忘れたカモメのようだ。

 

 

 

 

 

 苦しかったからでした。僕が一生懸命、創価学会の信心をやっていたのは苦しかったからでした。主に病気を治したいため、一生懸命やっていました。

 

 

 僕の言語障害は仏教でいう“業(カルマ)”だったのか信仰弱き自分にはまだよく解りません。

 今まで、僕は僕の病気をカルマ(業)だったのだ、と思ってきました。そして創価学会の信仰活動に身をすり減らすようにして戦ってきました。

 でも卒業試験を直前に控えて(僕はその年の4月ごろから7年半ぶりに創価学会に戻っていました。7年半ぶりに訪れた創価学会の会館には今もまだ僕の名は“幹部”として残されていました。そしてたくさんの始めて見る大学生の創価学会の人たちが、自殺を毎日のように考えていた僕を暖かく迎えてくれました。そして8年前、僕だけが命賭けで活動していたのに今では幾人かの人が命賭けで創価学会の“広宣流布”のために戦っていました。僕はその頃、慢性胃炎を起こし、下痢と発熱と戦う日々でした。あれは春休みの4月始めのことだったと記憶しています。

 僕が創価学会をやめたのは10月の20日頃でした。創価学会をやめて“○○教”に走ろうとしました。二日、講習を受けました。でも僕はトイレに行くふりをしてそのまま家に帰りました。もう卒業試験の始まっている10月の終わり頃でした。

 そしてそれから僕はこの教会に通うようになりました。思えば幼稚園は矢上のあの教会に通っていました。体の弱い僕はカゼをひいて一ヶ月休んだりして半分も出席しなかったと思います。僕はあの頃泣き虫でバスの停留所から家へ帰れなくて毎日帰りがけ、バスの停留所で泣いていたことを憶えています。その頃、家は貧しく、僕の家は夜逃げ同然の状態だったことを記憶しています。

 

 

 

 

 昨日、雨の中、県立図書館からの帰り、卸団地に入っていって、薬品の倉庫の卸の横で方向転換した。方向転換するとき、誰もいない薬の問屋の敷地の中を通った。建物の横にクスリの空き箱とプラスチックの容器が(もちろんもう要らなくなったのだろうけれど)あったためそれを取ろうかな、と思ってそこで方向転換したのだった。

 日曜日だったのでその問屋は反対側のずっと向こうの受付のような所しか開いてなかったようだった。でもそこには何人か居た。

 家に帰ってものすごく心配になった。警察でクルマのナンバーを調べて家に来るのではないかな、と思った。もういっそ、死んでしまおう、とも思った。

 もうクスリがあまり効かなくなっていてかなり大量に飲まないと人の居る処では勉強できないようになっていた。

 

 

 必死でした。朝の7時18分ごろスクールバスに乗ってから夜8時20分ぐらい家に帰って来るまでずっと勉強していました。毎朝6時20分ごろ起きて朝の勤行をして顔を洗って歯を磨いて朝ごはんを口の中に頬張ってバス停へと走っていっていました。学校では内職ばかりしていました。先生の話を聞くよりも内職をする方が能率が上がったからです。

 学校が終わって夕方、学校帰りの途中の県立図書館で閉館の7時50分まで懸命に勉強していました。そして帰りのバスの中でも本を広げて勉強していました。歩きながらでも頭の中で物理の問題を解いたり、歴史を思い出したりしていました。

 夜、帰って来ると、夜ごはん食べてお風呂に入ってそして勤行もして寝ていました。高二の頃(そして高三の夏ごろまで)朝晩の勤行は欠かさずやっていましたが題目は一日一時間ぐらいだったと思います。

 

 

 

 

 

 僕は今からまたワープロを使い始めた。2、3年前によく使っていたその頃のローンで18万円近くした通信販売で買ったキャノワード360をまた使い始めた。僕はこのために文学に凝りすぎて学3から学4に進むときの試験に落ちたのだけど。もしその頃あんまり文学に凝ってなくて真面目に勉強してたら留年はうまく行ったら2年で終わっていたのに。もう留年は5年目を迎えている。教養のとき、学一のときの留年だけで済んで、もうとっくに医者になっていた可能性がとても高いけれど、でもそのために僕の文学が確立されたと思うと(親への強い罪悪感や自分の自殺直前の苦しみがあるけれど)却って感謝しなければいけないのかもしれないと思う。

 

 

 

 

                      (1990・3・1)

 幸せだったあの頃。夏の頃、創価学会に戻ってて、選挙に燃えてて、

 

 

 

 

 創価学会をやめてキリスト教に入るのは楽な道かもしれな�「。でもその楽な道を歩くのは卑怯なのだろうか。

 

 

思えば僕の人生が狂い始めたのは信仰をやめた大学一年の秋からだったような気がする。

 

 

 平凡な日々を送っていたと思う。そして平凡な青春時代を送っていたと思う。もしも僕が信心してなかったら、そしてもうたぶん平凡に結婚していたと思う。

 

 

 

 

 

                         (H2・3・3)

 岬の突端で、暢気になりかけた僕を見つめて、君が舞っている。僕はもう何もかもにも情熱を持てなくなって、そうしてほかのみんなのように僕も生きてゆこう、と思い始めている。一つの宗教やイデオロギーに縛られることは愚かなことだと、僕はこの頃やっと気づいた。

 みんな平和に、仲良くやっていかなければと。『調和』なんだと思う。『調和』なんだ。僕は今日、12時半ごろから五時間ぐらい県立図書館で勉強した。クスリは飲まなかった。口臭消しのために『強力ワカモト』を幾粒か飲んだだけだった。でもそれでも勉強できた。緊張してて能率は悪かったかもしれないけれど、こうやって自分を慣らしてゆくんだと思った。クスリなしでもやってゆける昔の自分にこうしていって戻ってゆくんだと思った。

 

 

 

 

 

                    (1990・3・4 図書館にて) 

 もう飛んでない。あの頃の鳥は飛んでない。

 そして僕は28歳になり、吃りもノドの病気も対人緊張も全然治らないまま、絶望しかけたまま、来年も卒業できるかとても心配しながら、海を見ている。死んだ方がマシのようなそんな気もする。どうしても絶望に陥ってしまう。

 今年何故あんなにたくさん落としたのだろう。僕は宗教的にいろいろ考えた。試験の間、ずっとキリスト教の教会に通っていたこと、ときどき創価学会に戻って勤行していたこと、脳波バイオフィードバックを8万円で買ってそうして一回送り返したのにまた取り戻したこと、不思議なほど、呪われたようにいろいろな試験を落としてきたこと。

 

 今日、キリスト教のところへ行かなかった。バプテスマを受けるための3回目の講義の日だった。5回講義を受けたらバプテスマを受けられるのだが、僕は今日も連絡せずに行かなかった。

 もう2時だ。勉強するのにも疲れた。さっき寝ようとしたけど眠れなかった。家へ帰って小説をワープロで打とうと思っても寂しいし、でも今日はここに居ても寂しいし、

 

               完

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1989・冬 @mmm82889

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