1989・秋
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1989・秋
1989・秋
僕は今日朝の勤行をしなかった。10時ぐらいに家を出て一部の拠点に行こうと思っていた。そしてそこで朝の勤行をしようと思っていたけれど、バイクに乗っていて今日は暑いな、と思って県立図書館へ行く交差点の手前で急に『やっぱり一部の拠点も今日は暑くて勉強にならないだろうから県立図書館で勉強しよう。』と思って急に右折して県立図書館でそれから2時間余り勉強した。始めの一時間余りはセルシンを10mgとレキソタンを8mg飲んで勉強した。外科の勉強ばかりしていた。
でも一時ぐらいになってもう勉強の能率が上がらないように思えて一部の拠点へと向かった。長崎駅前の先の交差点で交通事故があってて道にたくさん血が流れ出ていた。僕はそのためいつもと違って裏道の方でなくって広い国道の方を通った。僕は夜の8時過ぎに家に帰って来るまでその交通事故が3軒隣りの学会員の松尾さんのもう結婚して3人の子供のいる長女の人がバイクの人を跳ねて事故を起こしたのだと知らなかった。
3時から僕ら木村グループのグループ座があった。夜の勤行をしたあと、4人でグループ座をした。5時にグループ座が終わったあと、6時近くまで湯沢君の部屋で勉強したあと県立図書館で7時50分の閉館まで勉強した。
夕方、県立図書館は空いていてクスリを飲まなくて勉強した。
家に帰ってきてあの事故が松尾さんの長女の人の起こした事故だと言うことを聞いて僕は題目をあげたけど2分ぐらいしかあげなかった。近所のこの前僕の家に来た男子部の人のところへ行って題目をあげよう、とも思ったけれども僕はそれをしなかった。僕は卑怯なのかもしれない。
この世で不幸であってもあの世で幸せであればいいんだ。僕は信仰を捨てない。
8月17日
2年ぐらいは目に映る何もかもが色あせて見えた。でも再び信心するようになると外の景色がキラキラと光輝いて見えるようになった。不思議だった。
女の人が美しく2年ぶりぐらいに見えた。女の人が本当に何年かぶりに美しく見えた。去年の12月か今年の1月頃のことだったと思う。創価学会に戻ろう、と秘かに決意してアルバイト先の病院から午後の講義のために大学へ向かっていたときだった。浜口町の交差点の所で僕はそう感じた。
女の人が美しく魅力的に歩いているのを見たのは何年ぶりのことだったろう。美しく見えた。『創価学会に戻ろう。』と決意してバイクを運転しているとき本当に美しく見えた。頭の後方でカラカラと生命の躍動感と言うか、そんなものを感じていた。
宿命との戦いに疲れきって死を選ぶか、僕はそう思いつめていた。
そんな厳しい日に僕は何年かぶりに女の人を美しく思った。
胸が張り裂けそうで、とても厳しい日々に。
僕が誰よりも知っているはずだった。邪宗教がどんなに落ち込んで自殺の一歩手前まで行ってしまうことを。
今もときどき“死”を思ってしまう。
信心の弱い僕は、一日5分しか題目をあげてない僕は。
死んだ方がずっと楽だと、死んだ方が広宣流布のためになるのだと、勤行はしているけれど一日5分間しか題目をあげてない僕は、毎日ふとそう思ってしまう。
自分が死んだらずっとずっと楽になる人がたくさん居るんだと、図書館なんかで迷惑をかけずに済むようになるんだと、活動してなくて、毎晩目が醒めてから退転することを考えてしまう僕は、本気でそう思ってしまう。
昨日、雨の中、県立図書館からの帰り、卸団地に入っていって、薬品の倉庫の卸の横で方向転換した。方向転換するとき、誰もいない薬の問屋の敷地の中を通った。建物の横にクスリの空き箱とプラスチックの容器が(もちろんもう要らなくなったのだろうけれど)あったためそれを取ろうかな、と思ってそこで方向転換したのだった。
日曜日だったのでその問屋は反対側のずっと向こうの受付のような所しか開いてなかったようだった。でもそこには何人か居た。
家に帰ってものすごく心配になった。警察でクルマのナンバーを調べて家に来るのではないかな、と思った。もういっそ、死んでしまおう、とも思った。
もうクスリがあまり効かなくなっていてかなり大量に飲まないと人の居る処では勉強できないようになっていた。
必死でした。朝の7時18分ごろスクールバスに乗ってから夜8時20分ぐらい家に帰って来るまでずっと勉強していました。毎朝6時20分ごろ起きて朝の勤行をして顔を洗って歯を磨いて朝ごはんを口の中に頬張ってバス停へと走っていっていました。学校では内職ばかりしていました。先生の話を聞くよりも内職をする方が能率が上がったからです。
学校が終わって夕方、学校帰りの途中の県立図書館で閉館の7時50分まで懸命に勉強していました。そして帰りのバスの中でも本を広げて勉強していました。歩きながらでも頭の中で物理の問題を解いたり、歴史を思い出したりしていました。
夜、帰って来ると、夜ごはん食べてお風呂に入ってそして勤行もして寝ていました。高二の頃(そして高三の夏ごろまで)朝晩の勤行は欠かさずやっていましたが題目は一日一時間ぐらいだったと思います。
僕は今からまたワープロを使い始めた。2、3年前によく使っていたその頃のローンで18万円近くした通信販売で買ったキャノワード360をまた使い始めた。僕はこのために文学に凝りすぎて学3から学4に進むときの試験に落ちたのだけど。もしその頃あんまり文学に凝ってなくて真面目に勉強してたら留年はうまく行ったら2年で終わっていたのに。もう留年は5年目を迎えている。教養のとき、学一のときの留年だけで済んで、もうとっくに医者になっていた可能性がとても高いけれど、でもそのために僕の文学が確立されたと思うと(親への強い罪悪感や自分の自殺直前の苦しみがあるけれど)却って感謝しなければいけないのかもしれないと思う。
(9月19日)
今日、学生部の大きな会合に行って夜の9時ごろ帰ってきた。信心をやめようかどうしようかとフラフラと迷っていた僕の心もどんどんと会合に出る度に『やっぱり一生創価学会に付いてゆこう。創価学会が正しいようだから。創価学会こそ不幸な人を本当に救ってゆけると思うから。たしかに創価学会の信心をして分裂病になったり不幸に見舞われたりして却って不幸になったように思える人もたくさんいるけれど、三世の生命感に立てばそれは過去や一家の罪業消滅のためであって、本物の信心だから三障四魔が競い起こるんだ、悪魔がその人やその一家の人々を成仏させるまいと、そして広宣流布させるまいと、一生懸命になってるから(悪霊にとってその人やその一家の人々が成仏すると憑渭できなくなるから。憑渭できないとその悪霊はとても苦しむことになるから)そうなるんだ、と僕はいろんな邪宗教を廻って来てそう確信している。まだ僕にはたしかにこの信心に対する確信が薄いかもしれない。でもこの信心こそ本物のようだと思っている。そう思っているのにノホホンとテレビを見たりしていては卑怯だと思う。ポルノビデオを借りて来てダビングしたりすることなんて自分の快楽しか考えないとても卑怯なことだと思う。
卑怯な人間になるのなら、死んだ方がマシだと思う。正義のために命を賭けないなら死んだ方がマシだと思う。
死ぬもんか。28歳まで親に育てられてきて死ぬもんか。
もしも僕が九医に入ってたら、そしたら僕は全てを捧げて広宣流布のために青春を賭けていただろう。でも魔の力は強くって、僕を九医に入らせずに、僕を長医に行かせ、そして7年余りの退転をさせた。僕は苦しんだけど、誰もあまり僕の苦しみを思ってくれてないようだった。僕の苦しかった7年半を、寂しかった7年半を、誰もあまり同情してくれなかった。
僕は白い馬に跨って、青い空に飛んでゆきたい。そうして幸せになりたい。寂しさがなくなって、幸せになりたい。
きっと誰かが迎えてくれる。誰かが迎えてくれて、僕は孤独でなくなって、幸せでいっぱいになって。
きっと誰かが迎えてくれる。寂しさでいっぱいのの僕を、きっと誰かが迎えてくれる。
どう叩いたって殴ったって僕は創価学会員だと言える人間に僕はなりたい。
高校の頃、僕はいつも学校から帰って来るとポストを開けて『僕へラブレターでも来ていないかな。』と毎日のように期待して開けていたことを思い出す。3年間、結局一度も来なかったけれど、いつもいつも寂しい思いでポストを閉じていたけれど。
いつもいつも期待していたけれどいつもいつも僕の夢に終わっていた。僕はそして毎日寂しさに負けないようにそれから夜の勤行をしていたっけ。するといつも不思議に元気が湧いて来ていた。
僕は毎日帰ってくると
ポストを開けていたけれど
僕への手紙は一通も来なかった。
3年間、僕の高校時代の3年間、
一通も来なかった。
今でも、ときどき、死のうか、と思っ�トしまう。生活に疲れきったとき、楽になりたいと思ったとき、今でもそう思ってしまう。
死ぬことは、自分は楽でも、後に残された人のことを考えると、父や母のことを考えると、僕は死ねない。
もうどうなってもいいと思ってしまう。疲れきってそう思ってしまう。
自殺でも泥棒でもしてみようと思ってしまう。自殺はやっぱり厭だけど、泥棒して百万円ぐらい儲けたり、マイナートランキライザーをたくさんたくさん盗んでみたいと思ったりする。
岸川先生。疲れきりました。僕はこのまま眠ってしまうか、マイナートランキライザーを盗みに薬品会社に入るか、百万円くらい泥棒して新車のバイクを買ったりするかしたいな、と思ったりしています。
明日、サンアイにでもVHSのビデオデッキを買いに行って、そうしてエロビデオを借りて見ようかな、とも思っています。魚つりに久しぶりに行ってみようかな、とも考えました。でもエロビデオを借りて久しぶりに見たいな、と思っています。でも明日、僕はたくさんレポートを書かなければならないし、
生きるって何だろう。真面目に生きるって。人のために生きるって。自分を犠牲にして生きるって。
心美しい自分でありたい。人から慕われるとかそんなことはどうでもいいから、僕は心の美しい自分でありたい。エゴイステイックな自分でありたくない。人の不幸を真剣になって考えてあげる、人の幸せのため自分の幸せを投げ出す、そんな自分に僕はなりたい。
僕は岸川先生に言った。木村君のことに言い及んだときだった。
『はい。何年かぶりに、本当に何年かぶりに友だちができた感じです。本当に何年かぶりです。』
僕はそうして創価学会に戻ったことを本当に良かったと思っていた。本当に良かったと思っていた。
両親が亡くなって、弟と二人暮らしの木村くんのことに言い及んだときだった。
ドッドッドッ、とものすごい振動や音を出して走る400ccの単気筒のバイクに愛子を乗せて野母崎へ行きたかったなあ、と思ってしまう。真夏でもいいけど、今のように秋になりかけた野母崎の浜辺に愛子とそのバイクに乗って行きたかったなあ、ともう何年も何年も愛子とのことは前のことなのに思い出して感傷に耽ってました。
ヤマハのSR400の新車を買って愛子と野母崎に行きたかったなあ、と思っていました。
明るい愛子の声と秋になりかけた潮風と海鳥の声と。
愛子の明るい声と、ヤマハのSR400の音と、海鳥の鳴き声と、僕のぼそぼそとした声と、かすかな波の音が、僕らを包んでいただろう。夕暮れの野母崎の浜辺か岸壁で、僕らを包んでいただろう。
雨が、ものすごい雨が突然降ってきて、バイクの上の僕らを濡らすだろう。でも愛子の家は香焼で近いからいいけれど、僕は日見だから遠くて、この大雨のなかをバイクで行くのは寒くて。
僕は愛子を愛子のアパートの前で降ろして愛子に『ゴメンネ。』と言って日見へと急いで戻るだろう。体じゅう汗びっしょりで、もうすぐ10月になる日だから寒くて、ブルブルと寒さに震えながら、僕は日見へと帰っただろう。でもあの頃の僕はまだ20歳少しで若くて寒さにも負けなかったと思う。
僕はでも、来年になると愛子を置いてハンガリーに旅立って、そうしてそこで医学の勉強をすると思います。遠い貧しい国のようだけど、2月になると国家試験前にもう旅立って、そうしてハンガリーのブタペストの研究所で研究を続けると思います。
ハンガリーで僕は広宣流布のために戦おう。ハンガリーの一粒種となって戦おう、と思っています。
中学の頃の千秋さん、もしも僕がこの信心をしてなくてノドの病気に罹ってなかったら仲良くなれてつき合えたのかもしれない。
そして僕が高校三年の頃の松山の国際体育館でのあのコ。
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でも僕は言語障害だった。却って良かったのかもしれない。ノドの病気のため却って良かったのかもしれない。それにノドの病気に罹らなかったら僕は勉強してなかったと思う。でも僕は勉強しすぎて高三の終わり頃こんな対人緊張症に罹って10年近くも苦しんでいる。
僕はまだ信じきれていないのかもしれない。広宣流布のためと言いながら、僕は自分の得になることしかしていない。このことが広宣流布のためになるんだとこじつけて、そうして僕は広宣流布のためにと頑張っているだけだ。
僕はやっぱり信じきれていないから、“死のうか”とやっぱり思ってしまう。僕はまだ信じきれてないんだ。信じきれてたらこんなことは思わないはずだ。
今、僕は一瞬“死のう”と思った。一瞬だったけれど自殺を思った。
僕は県立図書館や市民会館で、女子高校生や女子大生などに囲まれて勉強したい。県立図書館や市民会館で勉強するととても楽しいし、
…でも僕はできない。
…僕は緊張してしまってできない。
思えば県立図書館や市民会館や、それに福岡の予備校の図書館なんかの勉強で、僕はいろんな思い出があるけれど(一口も口をきかなかったけれど楽しい楽しい思い出がたくさんたくさんあるけれど)
(9月29日 夜)
再び19歳の頃のように命を賭けて活動するか、それとも僕の使命は勉強と小説で、やっぱりこのままの生活を続けるか。僕が活動したって広宣流布のためになるのだろうか。それよりも勉強と小説に明け暮れて、あとでいっぺんに広宣流布のためになるように頑張ることが今の僕の使命なのではないだろうか。医者になれば世界広布に旅立てるし、小説家になれば大きく広宣流布を進めることができる。やっぱり僕は勉強と小説に明け暮れるべきだと思う。
もしもこの御本尊様がなかったら僕は死んでいたということを、知ってもらいたいし、他のこの信心をしていない人にも知ってもらいたい。
去年の春ごろだったと思う。日曜日、一日じゅう家に居て、僕は遺書のようなものを朝から書いていた。そして夕方、思い出の中学校まで首を吊りに行こうと思いながらも僕はその前に仏壇の前に座った。そうして2時間、途中で夜の勤行もして題目をあげたと思う。そして2時間後、僕は今から�\にに行くのをやめた。
僕は今、自分が大学病院の12階の窓から飛び降りて見る陰もないようになって死んでいった自分の姿を見た。
図書館で勉強したい。楽しく県立図書館で勉強したい。そうして僕も思い出をつくりたい。
僕は昨日、もう精神病院で薬を貰いたくなかったから学校の帰りの途中の普通の内科などの個人で経営している総合病院(井上病院)でこれから薬をもらっていこう、普通の病院だから薬は少ししかくれないと思うけど卒業するまでそれでやっていこう、と思って学校帰りそこへ行った。僕は『高見衣料』を手伝っている社会人で十年来の頭痛に悩んでいることにした。(保健証が国民保険だから会社に勤めていると社会保険になるから)頭痛を紛らわすためお酒を毎日飲んで寝ていると言った。
挫けてなかった。高校時代、中学時代、僕は吃りでノドの病気にも罹っていたけど、僕は挫けてはなかった。
僕は明るかった。今よりもずっとずっと明るかった。とても苦しかったけれど、授業中とても苦しかったけれど、僕は今よりもずっとずっと明るかった。
一瞬、いや何分間も、この信仰を捨てて、この信仰に疑いを持って、自分の幸せのためだけに生きようと思った。自分の名誉のためだけに努力していこうと思った。でもやっぱり不幸な人のために、自分の幸せを捨てるべきなのだと思う。
ときどき死にたく思う。信仰に戻ったのに、まだ信じきれてないから、夜になると瞑想法をする僕だから、まだ信じきれてないから。
もうやめよう。もう文学をやめよう。卒業するまでぴたりと文学をやめて、勉強と題目だけに精進しよう。そうしないと僕はきっと卒業できないと思う。
信心をやめることの方がいいのだろうか。そうして文学と勉強のみに没頭する方がいいのだろうか。
エゴイストになろうか。裏切り者になるべきか。
両方ともやるべきだ。信心も、勉強も、そして気分転換に文学も、やるべきだ。
でも超能力者になるべきか。創価学会が本当に人を救えるのだろうか。元気になれる。やっぱり創価学会の方を取るべきだ。超能力ではほんの少しの人しか救えない。
何が真実か。真実は何か。
僕はオカルトの本をたくさん読んできた。いろんな宗教を遍歴してきた。そして今真実が解らない。真実が解らなくて頭が爆発しそうだ。
再び創価学会の信仰を一生懸命して、ごはん食べながらでも勉強するような昔の自分に戻りたい。道を歩きながらでも勉強するような自分に戻りたい。
博多の町並みをずっと前、題目を唱えながら歩いた思い出がある。朝6時ごろ。ずっと前。
ずっと前、あの元気だった頃、僕が浪人していた4月や5月の頃、夜汽車に揺られて長崎から長浜の予備校の寮まで戻るときに。もうずっと前、もう10年くらい前。
(10月6日)
僕は退転しようとした。退転してキリスト教の洗礼を受けようと本気で考えた。
退転したら楽だった。退転したらテレビも見れるし遊べるし、でも。
まあるい、大きな目をした女の子と僕は結婚したい。いつか松山の国際体育館で会ったような、あんな大きな目をした女の人と、僕は結婚したい。
僕は今日も自殺を思った。僕の心は弱くって、市民会館の7階で勉強しながら飛び降りることや家に帰ってから首を吊って死ぬことを思った。
昨夜、小野から電話がかかってきた。上戸町の民医連の病院へ行ってきたと言う。僕は自分も以前そこへ行っていてその頃税務署から300万円追徴金を取られたこと、警察のことを話した。小野はびっくりして“もう二度とあそこへは行かない。誘いの電話がかかってきても宮崎医大に決めたと(小野は宮崎出身だから)言う”と言った。
今日、12時頃、僕は心配になって(僕が言ったと言われたら○○○の人から睨まれるから)小野に電話して“僕がそう言ったということは内緒にしていてくれ”と言った。
電話をかけたあと僕は市民会館へ行ったけど(本当は一部の拠点でのグループ座に参加しようと思って出かけたのだけれど勉強する方が広布のためには今の自分には大切だと思ったし“おくんち”で少し混んでいたので市民会館で勉強することにした。(そして今日、たしか5度目の“薬を絶つ”決心をしたのだった。そうでないと卒業させてもらえないように○○○からさせられるように思ったしたとえ卒業させてもらっても医師免許を貰えられないようにさせられるように思ったから。また昨日○○病院へ薬を貰いに行って久しぶりに○○先生に会って“薬を貰いに2週間に一遍づつ来ていました”と言ったら○○先生の表情が急に変わったし、そうして○○先生は下へ降りて行ったし、院長先生が“僕は言友会についてのレポートでした”と言ったら“僕も昨日健友会に(上戸町の○○○のこと)に行ったよ”と言ったから。
あそこの院長先生はもう○○○に完全に傾いてしまっていて僕を分裂病とでも診断してそう大学へ報告するように思ったから僕は創価学会をやめてキリスト教の洗礼を明日受けに行こうかなどと考えた。馬鹿な、本当に馬鹿な僕だった。もっと本気になって信仰をやれば対人緊張症も軽くなったり治ったりするかもしれないのに薬に頼って昨日薬をたっぷりくれる○○病院へ行った馬鹿な僕だった。
いろんな現実が今まで僕を襲ってきた。苦しい現実の方が多かった。でも勤行・唱題をしたあとの充実感や苦しいときに心の中で題目を唱えるとその苦しさがなくなってしまうことや、いろんな功徳や転重享受と思われるようなことを僕は見てきたし経験したりしてきた。
普通の人なら自殺するような現実に直面しても創価学会の人たちは元気だし、僕もそうだった。今の僕もそうだと思う。あまり熱心にやってないけど今苦しい現実に直面しているけど比較的元気だから。
それに創価学会をやめると人格の堕落が始まってしまいそうだ。以前、8年前、退転したときと同じような人格の堕落が始まってしまいそうだ。
この信心はもう絶望的な人を何人も救ってきたし、僕はそれを見てきた。小学校の頃から、少年部の頃から、絶望的な状態にある人が劇的に立ち直ったのを幾つも見てきた。
(10月8日 市民会館)
自分は真面目すぎたのかもしれない。真面目すぎたからこんな病気に罹ってしまったんだと思う。
薬を絶とう、と5度目の決意をして2日目になるけど、今、市民会館の7階で勉強していてやはり苦しい。ものすごく疲れるし、勉強の能率も上がらない。
さっきまで希死念慮がものすごかった。でも心の中で題目を唱えていて少し軽くなった。
もう駄目だ、もう駄目だ、といった思いが強いけれど(いろんな教授などから睨まれていて。それに勉強が全然はかどっていないから)今度こそ今夜からは夜も勉強するようにしようと思っている。
激しい宗教的煩悶に毎晩悩まされている。今日も昨日も一昨日もその前の日もずっと夜“創価学会をやめよう”と思った。でもやっぱりこれしかないようで(これが本物のようで、それにこれが正義のようで)ずっと勤行は欠かさないでやってきた。
僕は信心を続けるべきか、やめるべきか。でもやっぱり学会の庭の中で生きてゆくより他に自分の生きてゆく道はないと思う。
(10月9日 深夜)
明日、学校へ行って死のう。誰も居ない大講堂のロビーで、首を括って死のう。
ずっと前、明るい学校帰りがあったことを、高校や中学のとき、希望に満ちていたとき、
生きることに疑問を感じて、タバコを飲んだり自殺を図ったことは何度あるだろう。半年前から創価学会に戻って、勤行をしたり活動をしたりしてきたけど、夜になると毎日のようにこの信心をやめようと思って、そうしてやめて死のうと思ってきた。眠るように死んでいけたら、どんなに楽だろうと、僕はずっと思ってきている。
(10・10)
あのコを捜して秋月町をさまよった日があった。大学の3年目のときだったと思う。真昼なのに、あのコが歩いている訳がないのに、あのコを捜して秋月町をさまよった日があった。
(高校の頃のあの坂道を何回もさまよったし、それにもうあの空き地には家が建っていた。白い壁のとても綺麗な家が建っていた。
“正義”のためなら、“広布”のためなら、僕は死んだっていいと思う。この世でみじめで辛くても、死んでからあの世で仏さまや菩薩様に迎えられるなら、“魔”に負けないで、もしもそれが広宣流布のためになるなら、僕は死んでゆこう。“不幸な人を救ってゆけるなら”僕は死んでゆこう。正義のためなら、僕は死んでゆこう。
(H1・10・15)
今でも負けてしまいそうになる。人生や生きることの苦しさに、今でも負けてしまいそうになる。
僕は中学の頃、御本尊様を絶対に疑ってなくて、そうして毎日の学校がノドの病気なんかで苦しかったけどとても楽しかった。
石川さん。石川さんは僕らを不幸にしてそうして去ってゆくんですか。僕らはものすごく苦しみました。信仰をしなければよかったと嘆き続けました。
(僕の他に東高にも純心にも落ちて結局二次募集で総科大附属高校に通うようになってそうしていじけてしまって悪の道に走ってしまった○○さんがいた。ここには居ないけど、今は立派に歯科医として毎日を送っているけど、この前結婚した○○さんもいた。○○さんはあんなに出来てたのに3浪して結局新設の鹿児島大学の歯学部へ行った。九州歯科大をずっと受験していたのに。
『僕は石川さんをこの頃会合で見かけないのは仕事が忙しいからだと中等部のとき一緒に戦っていた創価大に行って今は中学の教員をしている平野と夏のある日にそう言い合った。平野は『石川さんはこの頃忙しいんだろう』と言っていたが、僕は石川さんはもしかしたら退転しているんじゃないのかな、とも思っていた。僕のその醜い邪推が当たっているなんて僕は却って知らなかった方がよかった。
『石川さん。石川さんは僕らを不幸に導いて、そうして去ってゆくんですか。一年浪人して東高に入ることになったKKだって、高校のとき父が死に、大学に入って母が死んだK君のことだって。
僕はもう昨日までの僕じゃない。広宣流布、広宣流布、と言って駆け回っていた、昨日までの僕じゃない。
少年の頃に誓ったあの誓いを僕は忘れてしまおうとしている。御本尊様に、池田先生に誓ったあの決意を忘れてしまおうとしている。僕はまた退転しようとしている。半年間一緒に戦ってきた友だちを裏切ろうとしている。
僕は音楽を聞きたかったしテレビも見たかった。でもこの信心をしている間はそんなことする暇はないし、そんなことしていてはとても罪悪感にとらわれてしまう。
『…元気になれる…元気になれるから真実なのだと思う。これだけが真実で他の宗教はみんな間違っているのだと思う。これだけ元気になれるから。あんなに暗かった僕がこんなに元気になれたんだから。死ぬことしか考えてなかった僕が。
----僕は高校三年の九月から『信心したからノドの病気になってそうしてそのために○○さんとつき合えなかったんだ。もしノドの病気に罹らなかったら僕は中三の頃からきっと
(H1・10・30)
今日僕は卒業試験を受けに行きがけ、道端で(あの荷物をたくさん積んで引っ張る人力車のようなもの…名前が何か浮かんで来ないけれど)自分の力だけで動かす二輪車を引っ張るのに疲れ果てて倒れ込んでいるおばあさんを見た。交通の障害になっていた。僕はそのとき『創価学会の信心を貫き通すか、それとも退転するか』でとても迷っていた。僕はその可哀想なおばあさんの姿を見たとき、この人にこそ創価学会の仏法を教えてあげるべきだ、どんなに苦しい境遇に置かれても不思議と元気が湧いてくるこの仏法を教えてあげるべきだ、と思った。
自分は他のみんなのように事故の幸せのみを追い求める生き方を自分もしよう、何も信じられない、命を懸けられるものがないし、僕も他のみんなのように快楽を追い求めて生きてゆこう、とも思っていた。また、創価学会を貫き通すか、○○○の洗礼を受けるか、とも迷っていた。創価学会の信心を貫き通すならばテレビもほとんど見られないし毎日が自分の極限への戦いになるから。
でも僕は今、お酒を飲みながら、あの可哀想なおばあさんのことを思うとやはり創価学会で命を懸けて戦うべきだと思っている。道端に倒れ伏すようにしていたあのおばあさんのことを思うと自分は安楽に耽ってはいけないと深く思っている。
『五船さん。退転したらダメです。退転したらまた2、3年前からの苦しい地獄のような日々が待っているだけです。五船さん。退転したらダメです。』
(kk君は言っていた。電話の前でうなだれる僕の耳にkk君の声は微かに山びこのように聞こえていた。僕にはでも退転する道しか残されていなかった。)
僕は御本尊様と一緒に育ってきた。少年の頃から池田先生を師と仰いで真夜中の苦しい勉強にも耐えてきたし、勤行も唱題もたくさんあげてきた。
今こうして創価学会をやめることは僕の少年時代の苦しみや苦労がいったい何になるのだろうかという煩悶と現実に治せない僕の対人緊張や吃りなどのことへの
(1989・11月4日)
生きることは何なのかって考えてしまう。もう秋なのに。もうすぐ卒業なのに。
「あのう、長崎の方ですか?」
「あっ、はい。あのう、や、やっぱり創価学会をやめたら仲間がいなくなる
(10月27日)
今日は○○○の講習を受けに行ってきた。朝十時から夜6時までで、昼休みが一時間だった。25日に三内の試験が終わり、26日に浜ノ町に新しく出来た○○の道場へ行って○○○○を受けて今日からの3日間の講習を受けることを承諾してしまった。今朝、やっぱり行かずに勉強しようか、とも思った。でも次のテスト(30日)の2外は楽なようだし、その次のテストの一外(4日)も楽なようだから受けることにした。
6時5分少し過ぎまでだったからきつかった。もう少し早く終わってもらいたかった。それに帰るときはもう明日からの講習は受けずに勉強しようと思っていた。
今、とても迷っている。やるとするならば家の信心である創価学会をしようかな、でも自分には向いてないな、今日来ていた病気で苦しんでいる人たちには創価学会をやったら一発で治ると思うのになあ、と思いながら夕方頃目を瞑りながら講義を受けていた。
僕が今日、4時30分ごろもうこの信仰はやめようと思って外へ飛び出したとき、土曜日の秋の夕方と激しいクルマの行き来する大きな道が僕を出迎えていた。僕はとても嬉しかった。午前10時から続いていた講義の間じゅう僕はずっと考え抜いていた。真理は何なのかと。真光は本当に人を救えるのかと。
いたたまれなくなって4時半に飛び出したとき、僕は創価学会に戻る決心をしていた。僕は創価学会はいいけれど少なくとも僕には合わない、と思ってこの信仰に賭けてみよう、この信仰で僕の病気が治るかもしれない、と思って昨日から卒業試験を投げ打って講義を受けていた。でも僕の失望は午後あたりからだんだんと膨れていって、講義は6時に終わるからそれまで我慢しておこう、という僕の気持ちをも破った。
魔とは真理が広まることを(広布を)阻むために競い起こることを真光の講師はくわしく話していた。熱心に信仰している人に不幸な現象を起こさせて会員にその信仰に対する疑いの心を起こさせて真理が広まるのを妨げよう、とすることが話されていた。
そして現世で苦しむことによって過去世の罪が購われることも
(10月18日 県立図書館にて)
自分は今日、午後4時半ごろ、真光の第2日目の研修会から飛び出した。やっぱり“広布”に命を賭けよう、と思った。
土曜日の夕方の4時半でビルから出ると大橋付近のクルマの雑踏が激しく煩悶していた僕を包み込んだ。3時頃、ものすごく抑欝感に襲われた。以前(2年ぐらい前)ここに通っていたのと全く同じようなものすごい抑�T感だった。僕はそのとき真光の講義を受けていたけれど、心の中で『やっぱり“広布”のために命を賭けるんだ。創価学会がやっぱり一番なんだ。』と思うとその瞬間にそのものすごい抑欝感は消えてしまった。
でもそれからも(僕が広布への情熱というか使命感を忘れる度に)そのものすごい抑欝感は僕を襲ってきた。自殺の誘惑だった。そしてその度に僕は心の中で『広布に命を賭けるんだ。僕はやっぱり池田先生の弟子なんだ。』と思った。すると一遍にまたその怖しい抑欝感は吹っ飛んでいった。
(11月7日)
僕はクリスチャンだ。今まで創価学会員だったけど、命賭けで創価学会の信心をしてきたけど、僕は今からクリスチャンだ。昨夜、4時まで眠らずに考えた。
木村君は心配していると思う。僕から連絡がないことを。でも僕はクリスチャンになることを木村君には言えない。あんなにいい木村君を悲しませたくない。卒業試験が忙しくて連絡して来ないのだと思っていてもらいたい。もしかしたら僕は創価学会にまた戻るかもしれないから。キリスト教に失望してあと一ヶ月か二ヶ月したらまた創価学会に戻って来るかもしれないから。だから今は静かにしておこうと僕は思っている。
『五船さん。またあの2、3年前からの苦しい日々に戻るんですよ。退転してはダメです。五船さん。退転だけはしてはダメです。』
----いつか聞いた木村君のその言葉が僕を苦しめている。僕は本当にどうしようかとても迷っている。
来年の6月、Y君に僕のクルマを車検に出してから渡すと約束していたこと。来年、広布基金に百万か二百万基金すると言ってたこと。一部の拠点にクーラーを付けてやると言ってたこと。創価学会員専用の病院を造ると言ってたこと。世界広布のため外国へ行くと言ってたこと。僕の完璧な卒業試験の資料をあげると言ってたこと。すべてすべてもう消え去ってしまった。ごめんね、Yクン。本当に、ごめんね。
でも僕はキリスト教で僕の病気が治らなかったら再び創価学会に戻ってくるつもりだ。本当に2ヶ月か3ヶ月かして病気が治らなかったら僕はまた戻ってくると思う。
僕が昨夜、4時ごろまで寝ないで、創価学会をやめよう、と考えたのは主に、僕のノドの病気だけでなくってこの対人緊張症さえもこの信心をしたためになってしまったんだ、と思ったからだった。
もう10年、この対人緊張症のために苦しんでいる。そして今あっている卒業試験もこの病気のためにクスリをたくさん飲んで受けてるけど、クスリをたくさん飲むと頭がボーッ、となって問題を解くスピードがとても遅くなって今までの試験はとても悪かった。
それにノドの病気はもう15年になるし。僕の青春時代をずっと暗く覆ってきたから。
昨日も4時まで眠れなかった。『超能力者になろう。超能力者になろう。』と必死で祈った。エドガー・ケイシーのような超能力者になれたらたくさんの不幸な人を救えるし、
木村君が僕のために題目を送ってくれているのだろうことを思うといたたまれない。木村君の題目の声が聞こえてきそうだ。あの一部の拠点で(もう寒くなった一部の拠点で)僕の卒業試験のために題目を送ってくれていることを思うと僕は罪悪感に暮れてしまう。
僕は朝の勤行をしたくないために創価学会をやめようとしているのではないのかとも思える。
昨夜も“死”のことを考えた。4時までの時間は長かった。
どうやって死のうか、と考えた。首吊りが一番簡単なようだった。
明日、夜の7時半からある集会に参加しようと思っている。明日からクリスチャンとして再生することを思うと少し緊張する。
僕は木村君たちを裏切るのだろうか。命賭けで戦っていた同志を裏切るのだろうか。
自分が幸せになりたいからと、教会には美しい女の人がいるからと、自分の病気が治りたいからと、このまえまで“世の中の不幸な人たちを救ってゆくんだ”と一緒に戦っていた同志を裏切って、僕は去ってゆくのだろうか。
自分はやめられないのかもしれない。僕のために祈ってくれている母や父。そして木村君たち。僕はやっぱりやめられないのかもしれない。
でも創価学会をしていては僕の病気は治らない。たぶん創価学会をしていては治らない。僕には向いていない。
でも聞こえてくる木村君たちの題目の声。僕は昨夜教会のミサに行ったけど、僕はやっぱり創価学会に戻ろうと思う。
夜の闇を通して聞こえてくる。午前3時の闇を通して聞こえてくる。
僕は単なるヒロイズムに酔っていただけなのだと思ってきた。でも聞こえてくる学会歌の歌は、僕にとても郷愁を感じさせてくれる。
自分はもう自分の病気のことなんか忘れて、ひたすら創価学会の信仰を貫き通すべきか。…でも教会の美しい女の人の姿…
僕は立ち上がれない。僕はクリスチャンとなって、そうして立ち上がることしかできない。僕はもうこの信仰に立ち上がれない。
さっき、地区部長の中村さんが来た。父に会いに来たのだった。僕はちょうどパンツ一枚だった。中村さんは『あっ、いや、久しぶり。』と僕に声を掛けた。僕は『どうも。どう�焉B』と言ってトイレのドアを開けた。
何十分か考えた。僕はやっぱりキリスト教に入らなくてこの信心を貫き通そうか、と。何故か中村さんの顔を見てそう思った。
僕は迷っている。もう一度、本当にもう一度、素直になってこの信心をやりぬいていこうか、それともクリスチャンになろうか。僕はとてもとても今、悩んでいる。
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人の唸り声ではなかった。バイクの唸り声だった。僕はもう十時間あまりも寝ていた。僕は人の唸り声かと思った。
昨日、地区部長の中村さんが来た。
僕は恋人が欲しかった。恋人ができる夢を昨夜何回も見た。
寂しくていつも図書館へ勉強に行っていた。
(H1・11・12 夜)
いろんな女の子が僕の美しい夢の中から消えていった。千秋さん、高総体のときの女の子、南高の裏の山道ですれ違った子、教養留年のときの女の子、みんなみんな綺麗で、喋らなかったから、喋らなかったから今も(27歳になる今も)美しい思い出として残っているのかもしれない。孤独だった僕の青春時代を彩ってくれた美しい女の子たち。喋れば笑われて幻滅されて去って行かれ悲しい思い出に(屈辱の思い出に)に変わっていたと思うけれど、今もまだ僕の胸に、もう28歳になろうとしている僕の胸に美しく美しく残っている。死も夢見る今頃だけれど、バイクの音や、クルマの中の音楽の音、学三の前半のとき一日6時間ぐらい見ていたビデオのことなど、たくさんのたくさんの思い出があるから僕はまだ死なないで(卒延はまぬがれないかもしれないけれど)今日もまたキリスト教のミサに行って、創価学会員でなくてクリスチャンとして再生することを日に日に心に固めている僕にとって
かつては僕も命を捨てていた。中学二年から大学一年の秋までそうだった。でもその間、楽しかった。生きる張り合いがあったし、毎日とても元気だったし、元気すぎてノドの病気や対人緊張症に罹ったのだと思うけれど、僕は元気だった。葬式のときにも微笑むほど、僕はとても元気だった。
----僕はあの頃、対人緊張症を跳ね返すほど元気だった。その神経症に負けてなかった。それを病気だとは全然思ってなかった。僕はとてもとても元気だった。
僕にとって、創価学会は、公明党は命だった。今、こうしてクリスチャンになろうとしている僕は、命賭けで一緒に戦ってきた友だち・同志を裏切る苦しみ・罪悪感でいっぱいになっている。
僕は創価学会・公明党をやめるけど、この世にこれほど美しい団体(宗教と政治について)はないと今も確信している。みんないい人ばかりだったし、みんな、命を賭けて戦ってくれていたし。
僕はその団体(主に宗教だけれど)をやめることへの後ろめたさ、寂しさに胸が潰れるような思いに囚われている。
創価学会の人はこんな寒い夜もコツコツと歩いている。不幸な人を救うためにコツコツと歩いている。それなのに僕は3週間ぐらい前に創価学会をやめて今、キリスト教へ入ろうとしている。
帰りのタクシーの中での君の優しさは単なる礼儀だったということを
僕をなるべく傷つけないための君の優しさだったということを
僕の質問の一つ一つに答えてくれたのは
君の単なる打算と礼儀だったということを。
(1988・12月26日)
僕は試験中、徹底的に考えた。そうして僕はクリスチャンなることを、僕はクリスチャンになることを
木村君には悪いけど、命を賭けるつもりでいた広宣流布を僕はやめることになるけれど。
僕は純粋に一生懸命信心をしている姉のためにも黙っているんです。僕は今、岸川先生に始めて話しました。
もう卒業試験も半ばになったのに僕は一人きりで、一人きりでずっと朝から晩まで県立図書館で勉強している。クスリをたくさんたくさん飲みながら…。家で勉強していると孤独に耐えきれないから。また留年するのかもしれないけれど。
寂しいから。
朝日に照らされながら、僕は今日もずっと勉強していた。
中学の頃、台風の日に、僕はこの海岸を、波しぶきをかいくぐる遊びをしながら遊んでいた。もちろん、自転車も海水に濡れて錆びそうだったけど、それに僕も少し濡れて夏だったけど(たぶん9月だったけど)少し寒かったけれど。
ゴウちゃんはとてもうまくて何回も何回も挑戦したけど一度も濡れなかった。ビビは6回ぐらいしか挑戦しなかったのに4回か5回も濡れてびしょ濡れになった。僕も七回ぐらい挑戦したけど一回か二回ぐらい少し濡れただけだった。
一度、頭から波を被ったことを憶えている。まるで海の中に落っこちたような感じだった。
僕は、黒い手に掴まれて(たぶん3年ぐらい前から。あの○○○病院へ奨学金欲しさに行ってから)苦しめられて、自殺直前まで何度も行かされ、そうして今、
完
1989・秋 @mmm82889
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