1989・夏

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1989・夏

     1989・夏




 昨夜、夜の11時半ごろ中場をたった。2時間ぐらい、従弟たちと雑談したりしていた。セルシンをたしか25mg. レキソタンを16mg飲んだと思う。僕の吃りは夜になるといつもひどくなるのでそれだけ飲まなければならなかった。そして明日は午前中、熱研内科の第一日目で休む訳にはいかなかった。それで11時半ごろ僕は中場をたった。

 途中から意識がなくなった。何度も中央分離帯を越えて反対側の車線を走っている自分を発見してあわてて左にハンドルを切った。小浜からはほとんど僕は眠っていたようだった。あまりにもマイナートランキライザーを飲み過ぎたし、夜遅かったからだろう。僕は飯盛の近くで左肩のガードレールへクルマを激しく接触させて目を醒ました。

 よく考えると何度も反対車線を走っている自分を見いだしてあわててハンドルを左に切っていた。夜遅かったためか幸運にも反対車線からクルマは来ていなかった。

 僕はその夜、ようじ君など従弟と久しぶりにたくさん会ったのだった。僕はその日、一日じゅう家に居るつもりだった。でも孤独に耐えきれなかったし、それに広宣流布や創価学会を理解させるために僕は思い切って家を出た。夜8時のことだった。


 魔が働いていたんだ。

 魔が僕のクルマを路肩にぶつからせたんだ。

そして一緒に僕の信心をも破らせようとしたんだ。






 手が震える。僕の手が震える。字が書けないし、何もできない。





 僕はあの大学一年の11月中ば頃、僕はそれから孤独になったし不幸への道を、まっしぐらに駆け始めた。僕は盲のままで、ずっと信仰を続けていれば良かったんだ。









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        (星子さんへの手紙)      6月3日


 もう6月になってすっかり夏になりました。熱い眩しい日差しは僕を元気だったそして希望に溢れていた少年の頃の日々に帰してくれるようです。

 3日前、祖母が亡くなりました。86歳で死ぬ3日前に母と母の妹が一日じゅう見舞いに行っていました。

 

 僕はもう泣きごとは言わないと、昨夜眠れない夜に誓った。どんなに苦しくても辛くても、心の中で題目�・えながら、必死に耐えてゆこうと僕は昨夜誓った。


 2日前、僕はお通夜に行ってきた。夜8時ごろ家をクルマで出て夜の12時半ごろ帰ってきた。帰り際、居眠り運転をして、クルマの横をガードレールに激しくぶつけました。そして行かなかった方が良かったと、また泊まって朝早く帰ってきたら良かったととても後悔している。






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                         (H1、6、7)


 波の音も、もう僕には幻のようにしか聞こえない。十何年前になるだろう。僕らが幸せだった時代は。今はとても淋しくて、波の音は僕に涙を誘う。疲れ切って孤独な僕に、涙を誘う。


 いつ死のうかと考えている。明日死のうか今日死のうかと、もう全てに疲れてしまった僕は、何も信じられなくなった僕は。


 今見つめている海はなんて寂しいんだろう。僕は27歳の今まで生きてきて、今までずっとずっと親に苦労かけとおしてきて、僕は死んでゆくのだろう。僕は全てを知りすぎたし、何事もつきつめて考えすぎてきた。僕は孤独で、そして何も信じきれなくなって、明日ぐらいに死んでゆくのだろう。僕はもう疲れ果ててしまっている。


 でも僕は苦労して僕をここまで育て上げてきてくれた母や父のことを思うと死にきれないし、たしかに僕は哲学的に行き詰まり果てて、何のために人は生きているのか、何のための人生なのか、僕は全く解らなくなりかけていた。でも僕はやはりもう創価学会を信じ切るより他に生きる道はないのだと、昨夜、○○○○を批判する本を読んで創価学会をやめよう、でもやめたら自分は今から何のために生きていけばいいんだろう、何を生きてゆく指針にしてゆけばいいんだろう、と思って激しく悩んだ。


 もう盲目的に創価学会を信じてゆくしかないんだ。小さい頃から創価学会とともに生きてきた僕だった。

 僕は創価学会ゆえにノドの病気になったし、またこのどうしようもない対人緊張症に罹ってしまったのかもしれない。


 僕の目にこの前見た母によく似た人が坂道を重い荷物を提げて登っていっている姿が蘇ってきていた。父や母の今までの苦労を思うと、僕はやはり死ねなかった。学会が正義なら僕は再び命を賭けて炎のように信仰をやろう。でも僕はもう一つ信じきれないでいる。全てを棄てることに躊躇している。

 このまえのガードレールにぶつかった交通事故。あの魔のような夜、僕は御本尊様に守られていたのかもしれない。それなのに僕は信仰の故にあんな事故を起こしてしまったんだ、と思って信仰をやめていた。


 何も知らない方が良かった。一途に信じ抜いていたとき幸せだった。血のにじみ出るほどの辛さだったけれど幸せだった。中学や高校の頃、創価学会を一途に信じ抜いていた頃幸せだった。


 今僕は何も信じられるものがなく、生きてゆく張り合いがなく、いろいろ迷ったけれど、母の苦労している姿を思い出してしまうけれど。


 すべてに追い詰められ、すべてに迫害され、


 もう死ぬしかないんだと、すべてに行きづまり、すべてに希望を持てなくなった僕は思っている。でも最初の砦が、それでも創価学会を信じ抜いてゆくという方法が、生きてゆく道が残されていることを僕は思っている。


 希望の灯は、いつの頃から消えたのだろう。僕が中二の頃、その希望の灯は最も輝いていた。そしてそれは僕が大学一年の秋に燃え尽きてしまった。そしてそれから7年間消えていた。半年前、僕は再び気がついて、半年間迷ってきたけれど、もう僕の心のなかのローソクは燃え尽き果てて、もう火が付かないのかもしれない。そして僕はこのまま全てに失望し果てて、死んでゆくのかもしれない。

半年前から僕は何度も再起を誓った。でも僕は起きあがれなくて、このまま死んでゆくのかもしれない。七年間苦しみ抜いて、もう耐えきれなくなって、再び創価学会に戻ろうとしていた僕だけど、僕はもう、戻れないのかもしれない。いろんな圧迫に、僕はもう耐えきれない。


 少年の頃の僕は、苦しくてたまらなかったとき、一生懸命題目をあげて耐え抜いてきた。今の僕は、もう素直でなくなった僕は、信仰に打ち込めず、自殺を考えてしまう。それが一番楽な方法だと思えるけど、働いている母や父のことを思うと死ねない。死ぬか宗教の道に戻るか。僕は再び創価学会の信仰に戻るしかないだろう。再び一生懸命に創価学会の道をひた走るしかないだろう。命賭けで信仰をやり抜くしかほかに道はもうないだろう。僕が生きてゆくには。こんな僕が生きてゆくには。






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            (星子さんの海)         H1・6・11


 夕陽が浜辺を照らすとき、もう何も信じられなくなった僕は、絶望しながらも楽しかった遠い昔のことを思い出している。もう遠い少年時代の思い出を、遠い悲しい少年時代の思い出を。

 あの頃の僕は元気だった。喉の病気や言語障害なんかでとても苦しんでいたけれど、僕はとても元気だった。創価学会に命を懸けていたあの頃の僕は苦しかったけど、とても毎日きつかったけど、未来に希望を持っていたし明るかった。友達もたくさんいたし、こんな対人恐怖症にも罹っていなかった。僕は元気だった。元気すぎるほど元気だったのに。

 今の僕は死の直前にいるのかもしれない。毎日死の誘惑と戦っている。友達も居ないし、恋人なんて居ないし、家族ともあまり口をきかないし、一人っきりの毎日が続いている。僕は何も信じられない。僕はもう何も信じられない。

 僕は疲れはて、もう干涸らびようとしているらしい。もう何も信じられなくなった僕は。






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                     (6月12日)

 昨日も僕は死を思った。夕暮れ時、下で勉強しながら、

 4時ごろだったろう。智恵子が帰ってきた。僕はその足音を下の応接間で勉強しながら聞いていた。僕は横たわっていた。そうしてぶら下がり健康法に柔道の帯を掛けて死ぬことを考えていた。でも智恵子は帰ってきてしばらくして出ていった。中場に帰ったらしかった。

 智恵子が帰らなかったら、僕の死体の第一発見者は母や父にならずに済むので僕は死にやすかった。でも智恵子が帰ったため僕は死ねないように思えた。







                           (6月13日)

遠い海の音が、かすかに聞こえてくるとき、僕は初恋のときの思い出や、そして母の実家の中場のことを思い出してしまう。

 初恋のときめきを、母の苦労を、そして今僕はとっても辛いけど決して死んではならないことを、かすかに波の音を聞きながら思ってしまう。

 死にたいけれど、死んだら楽なようだけど、でも死んだら今よりも淋しくなりそうだから







                           (6月15日)

 僕は裏切り者なのかもしれない。僕は今までたくさんの人に迷惑をかけてきたし、たくさんの人に心配をかけてきた。このまま薄暗い森の中に消えてゆきたいけど、でも僕には母や父がいる。もう何も信じられなくなった僕だけど、いつも苦しんできた不幸だった僕だったけど。





                           (6月16日)

 自分だけのために生きるか。そうしたら楽だ。





 人を幸せにする道は、そして自分も幸せになる道は。

 僕はそうして頭を抱え込む。何が何だか解らなくて頭を抱え込む。





 森へゆこう。そこには安らぎが僕を待っているだろう。

 森へゆこう。柔道の帯を手に持って、全て身の回りの整理を済ませて。


 朝には雨が降っていた。僕は勉強しながらも少しもはかどらず、そして生きることの無意味さを思っていた。土曜日で今日は学校へ行かなくてよかった。昨日久しぶりに○○病院へ行って○○先生と喋った。またクスリも2週間分貰った。

 でも今朝僕は不安でいっぱいだった。僕は○○先生に『もうこれからは難しいことは考えないようにして生きていこうと思っています。』とか『自分だけの幸せだけを考えて生きてゆけば楽です。でも僕にはそうすると罪悪感にとらわれてしまいます。』などと言った。

 また創価学会のことも…このごろ創価学会に戻っていたけれども『創価学会は緊張します。書痙になりかけていました。一週間ぐらい前に。』とか言った。また4日前にキリスト教の所へ行って『洗礼を受けさせてください。今日でもすぐに。』と言ったことも言った。

 また最近創価学会への批判の本を片っ端から読んでいます、とも言った。そして創価学会でない日蓮正宗へ入ろうかとも思っています…でも…解りません…とも言った。

『僕は友達では満足できないんです。“同志”でないと満足できないんです…とも言った。


----正義は何処にあるんだ。真実は何処にあるんだ。


 僕は昨日○○先生に言った。

『僕は小さい頃から親の苦労している姿を見て育ってきました。だから僕は人一倍…


 君が死んでから十一年、僕は僕なりに頑張って生きてきた。始めの八年間は苦しいだけだったけど、この三年間ほどは“孤独”まで加わってしまって僕は死の一歩手前で苦しんできた。もうすぐ卒業だけれど。うまく行けばあと半年で卒業だけれど。

 でも僕はその前に死ぬのかもしれない。行きづまり果てて圧迫されている僕は。いろんなことに苦しみ抜いている僕は。


 足元に押し寄せる波も、親の期待を一身に担っている僕には重く…とても重く響いてくる。卒業試験に落ちたら…ということを思うと僕は今死んだ方がいいようにも思える。また宗教的不安と。創価学会をやるべきかそれとも檀徒会に入るか。それとも瞑想法をやってゆくか。僕は○○先生を裏切れないし裏切ったら怖い。


 ○○先生

 僕は裏切れませんでした。かつて広宣流布のため一緒に戦った同志を裏切れませんでした。僕は迷っていました。○○先生を裏切るか創価学会の同志を裏切るか激しく僕は迷っていました。






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                (6月18日 朝 酒を飲みながら)


真実が何か解らない。


 僕は題目を唱えながら朝5時半ぐらいに博多駅に付いて舞鶴の英数学館の寮まで30分かかって歩いていったことがある。博多の人は朝が遅いのかその頃は夜よりも閑散としていた。とくに○○あたりの閑散とした風景は夜の華やかさを知っているからとても哀しげに見えた。僕は30分のその道をずっと沿道の人たちの幸せを祈りながら早足で歩いていった。

 

 元気だった、あの頃の僕は。僕には夢があったし希望に溢れていた。浪人の頃でも苦しかったし友達もあまり居らず家族とも離れ離れになっていて淋しかったけど。

 

 僕はあのころ幸せだった。学会の同志がいたし、毎日三時間題目をあげていたし、幸せだった。苦しかったけど幸せだった。


 自分はやっぱり創価学会に付いてゆこう。いろいろと批判されているけれども。○○先生を裏切ることになるのかもしれないけれども。僕はやっぱり創価学会が真実だと思うし、卒業して医者になったら今まで心配かけてきたりした英数学館の寮の用務員さんや、石川さんや、いろんな人に挨拶をして回ろう。僕は本当にみんなに迷惑ばかりかけてきたし、とくに僕の親には

 僕は創価学会の戻って、いろんな圧迫が加えられるかもしれないけれど、僕は創価学会が真実であることを訴えていこう。題目を上げると本当に元気になることを…生きる勇気が湧いてくることを…みんなに訴えてゆこう。


 不思議に元気になれるから。題目をあげてるとものすごく元気になれるから。やっぱり創価学会は真実なのだと、世の中のみんなに訴えてゆこう。命を賭けて訴えてゆこう。

 それが正義なんだ、と僕にはやっぱり思えるから。


 いろいろと創価学会は嘲られてきた。でもこれが真実なのだと思うから、僕は命を賭けて守ってゆこう。


 楽しかった。苦しかったけど楽しかった。生命の充実や躍動というものがあった。僕が立ち上がるためには、もう創価学会に戻るしかないだろう。少なくとも人間的に立派になるためには。


 正義は何処にあるのかと今日も一日考え続けた。正義が何処にあるのか解らなくてほとんどの人はその日その日を送っている。僕も迷っている。信じきれるものがない。命を賭けきれるものが、正義がどれなのか、解らない。








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                         (6月18日)


 僕は不幸な人たちのために命を捨てるのかもしれない。創価学会を信じきって、日蓮正宗を信じきって、僕は不幸な人たちのために、自分の幸せを投げうって、僕は戦うのかもしれない。


 僕の進む道は創価学会の正統派でなくて変則的な広宣流布への道だけど、僕にはたぶんそっちの方が向いていると思うから、僕は広宣流布こそ正義だと思うから、広宣流布しなくては不幸な人を救えないと思うから、危険な、とても危険な道かもしれないけれど、危険な賭けかもしれないけれど、僕は広宣流布への自分だけが思っている変則的な道に、命を賭けて進んでいこうと思っている。ちょっと突飛な考えだけれど、僕だけが考えている方法かもしれないけれど、たぶんこっちの方が広宣流布に役立つと思えるから。






                           (6月20日)

 夜のクルマの中で僕は思った。もう愛子と別れて何年になるだろう。僕のクルマは浦上川沿いの梁川公園の近くに建てられた創価学会の平和記念会館へ向かっていた。僕は今、死とのぎりぎりのところで生きている。死のう、と思うたびに心の中で題目を唱えると不思議にふっと心が明るくなるのを感じていた。今日は夜3時ごろ、どうしても目が醒めて眠られず朝の勤行をした。目の前がぱっと明るくなったようになった。でも僕は疑っている。真理が何なのか解らなくて僕は迷っている。何が正しいのか解らなくて僕は迷っている。







                           (6月21日)

 僕は川の中央で立ち尽くしている。何が真実か解らなくて、何のために生きていっていいのか解らなくて、生きる目標は何だろうと考えて、僕は川の中央で立ち尽くしている。高校時代の思い出の松山付近の浦上川の中央で、淋しさに耐えきれずに立ち尽くしている。空を見上げながら、青い青い空を見上げながら。


 川のまん中で、僕は“死”を見つめながら、川縁に乗って、自分の将来のことを考えたりしている。僕が死んだあとの父や母のことや、そしてちっとも変わらない社会のことや。







                           (6月23日)

 僕を運ぶ川は、僕を何処へと運んでゆくのだろう。信じきれるものがなくなって、生きる価値が解らなくなって、途方に暮れている僕を、こんな僕を、いったい何処へと連れていこうとしているのだろう。疲れきった僕を。“正義”が何か解らなくなった僕を、命を賭けきれるものがなくなった僕を。







                           (6月24日)

 涙のような梅雨の雨が降っている。もう6月も終わりに近づいて、7月になろうとしているのに、27才の真夏が来ようとしているのに、僕の胸の中は寂しさで弾けようとしているようだ。涙のような雨が、10年前の僕を回想させてくれる。高校時代の、元気だったけど、辛かった日々を、懐かしく思い出させてくれる。







                          (6月25日  日曜)

 昨夜何年ぶりかに○○さんの夢を見た。本当に何年ぶりだろう。○○さんは以前より綺麗になっていた。今日、結婚式なのだろうか。僕は中三の秋ごろからずっと○○さんを思ってきた。でも夢に見たことは始めてだった。

 僕は今日の夕方から勤行はしなくとも題目を毎日あげるようにしようと思う。小説を書くのは休みの日の午前中だけにしようと思う。あとは正しい食事と題目を基本にして勉強に頑張って行こう、と思っている。

 昨夜、





 悲しみの風が吹いている。もう菊池さんは25になっていて、もしかしたら26にもなっていて、もう結婚しているような気がする。僕は卒業試験を控えて、勉強に身が入らなくて、真理は正義は…と、昨夜も考えあぐねていた。人が居る所へ行くと頭が締めつけられ、自分はもうダメなような気がする。父と母に27歳まで大事に育てられてきて、自分は死ぬのかもしれない。でも自分は今日の夕方から信心を再び始めて、元気になるんだ。中学や高校時代のように元気になるんだ。






 僕は親を悲しませたくないため、親の幸せのために、僕はお金持ちの気立てのいい可愛いお嬢さんと結婚しなけれなならない。たとえ卒業試験に落ちたとしてもそれだけが今自分にできることのような気がする。



 本当に優しい父と母だった。そんな父と母を裏切って死んでゆくことはやはりできない。僕は生きなくてはいけない。僕は再生しなくては…再び創価学会に戻って再生するしかないような気がする。


 僕のこの十年間は何だったのだろう。淋しかった十年間。一人ぼっちだった十年間。


 僕が小学三年の頃、母は『浜勝』のチケットを持って僕と姉と三人で浜ノ町の『浜勝』へ夕食に行った。その頃、店は借金に追われていた。母は西海橋まで行って心中するつもりだったのかもしれない。

 カキフライ定食を食べた。とてもおいしかった。今までこんなおいしいものを僕は食べたことがなかった。

 もしも僕が食事を終えたあと正座していた足を崩したとき足が痺れて苦しさを訴えなかったら、そのあと母は僕と姉を連れてタクシーに乗って西海橋まで行っていたのかもしれない。







                          (6月25日 夜)

 真理は何なのかと今日も一日じゅう考え続けた。お祈りもたくさんしたし、宗教書も2つ読んだ。それに今まで僕や母の周りに起こったいろんな現象のことを思った。そうして僕は解らない。真理が何なのか僕には解らない。


 福岡でのいろんな思い出が蘇ってくる。浪人の頃、2ヶ月半住んでいた福岡での思い出がもう9年前のことなのに今鮮やかに思い出されてくる。あの頃が一番元気で希望に溢れていたからだろうか。そして大学へ入ってからの日々が(長崎での日々が)あまりにも暗くて淋しいからだろうか。

 自転車競技の選手を目指して福岡の町を駆け回ったこと。きつい坂道を自転車で登りつめたりしていたこと。

 ○○の町や○○の町。西公園。南公園。博多港。


 苦しい息の中で若葉の香りを匂ぎながら登った南公園。潮風を感じながら登った西公園。

 一週間だけだったけど8月ごろ予備校に戻ろうと下宿していた○○の町、そしてその周りの自転車の練習場になった坂道。

 4月、5月と居た長浜の寮。

 そして○○の僕がいつも練習場にしていた小さな真っすぐな一本道。






                          (6月27日 夜)

 題目を心の中で唱えながら○○2丁目のバス停でバスを待っていた夏の頃の思い出。高校時代の親友だったNを創価学会に入れようと懸命に頑張った思い出。(Nは現役で物理学科に合格したが教養過程でほとんど単位を取りきれず、そしてパチンコなどで高利貸しから100万円の借金をつくって退学してしまったけれど。とても人の良い、人の良すぎる奴だったけど)そして高校時代の同級生の○○が(○○はその頃、歯学部を目指して浪人していたけれど。何年かのちに2浪して松山の歯学部に入学したと人づてに聞いたけれども)○○の近くにアパートを借りていてよく福大の学生部員と折伏に行った思い出。

 もうあれから9年が経つ。僕は懸命だったし、長崎から泊まりがけに福岡に来ている僕をNはよく泊めてくれた。

 僕は何回○○のアパートに折伏に行っただろう。6回か7回ぐらい行ったと思う。そんなしつこい僕によく○○は逆上しなくて立派だったと思う。

 いつも夜、僕は福岡の学生部員を連れて○○のアパートに折伏に行っていた。○○のアパートには○○の兄のほかに兄の親友や○○の親友で僕のクラスメートでもあった○○も一緒に住んでいた。

 愛子は今も僕の思い出に残っている○○辺りに住んでいるのかな、と思うといたたまれない気持ちになってしまいます。僕も早く卒業して、福岡に遊びに行きたいけど今の僕にはそんな時間の余裕も心の余裕もありません。

 打ちつづくビルや人家に自分の存在のはかなさを悲しいまでに感じていたあの頃。そしてその寂しさを打ち消すように必死に信仰活動に励んでいたあの頃。

 僕はもう愛子を忘れて、新しく恋人を見つけようと思っている。できるだけ金持ちの女の子を見つけて、(そしてそれは“革命”のためなんだけど)結婚しようと思っている。打算的だと非難されるかもしれないけれど、それがたくさんの人を救える、道だと思うから僕は愛子との愛を捨てようと思っている。







        (星空を見つめながら             6月28日 夜)


 生きる目標がなくなって、自分のためだけに、自分の家族のためだけに生きること。僕は盲目になって創価学会を信じてゆこう、とも思っている。でもその道は辛いし厳しいし、元気にはなれるけど、僕は煩悶している。


 おととい、僕が十数年ぶりに金縛りに遭ったとき、僕は始め『○○○○、○○○○』と心のなかで唱えた。そのすぐあと、中学二年の頃よく金縛りに遭っていたときのように『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と唱えた。僕の手を悪魔のように縛って、天井付近で『コン、コン、』と音を鳴らしていたその霊はそして去っていった。

 朝の5時ぐらいだった。僕はそのあと起きて何年かぶりに朝の勤行をした。でもその日は薬をいくら飲んでも吃っていた。ちょうどこの前まで○○先生の肖像画を飾っていた所から『コン、コン』と音がしていた。そしてすぐに僕に霊が乗り移った。そのまま何も唱えなかったら僕はもう発狂していたかもしれない。僕は自分の宿業の深さに唖然としたし、真理はもう解らないんだ、と投げやりな気分になった。






                          (6月29日)

 海が、僕を包み込もうとしている。悲しみの海が、僕を呑み込もうとしている。


 真実が解ったならば、中学の頃のようにひたすらに信じきれていたものが今の自分にあったならば、僕は死なないし、僕は元気になれると思う。でも信じれるものがない。何を信じて生きていっていいのか、今の自分には解らない。みんな盲で、いろんな宗教や○○主義を信じているけれど、そしてその人たちは本当に毎日が充実しているけれど、僕は創価学会くずれとして、何も信じきれるものがなくって、毎日、金縛りにあったり、涙ぐんで思い出の浜辺に出掛けたり、学校では『低能』と毎日のように怒られているし、死にたいけれど、卒業まであと少しだから、あと少し頑張っていればいいんだから、僕は命を賭けて、卒業試験が終わるまでの日々を、挫けずに歩んでゆくしかないのだろう。辛いけれど、毎日、孤独との戦いみたいだけど、死ぬよりましだから、親のために僕は生きてゆかなければいけない。どんなに辛くても生きてゆかなければいけない。


 僕は正義と信じた道を歩んでゆこう。厳しい道かもしれないけれど、不幸な人を救える道ならば、僕は一生懸命進んでゆこう。






                            (6月30日 夜)

 足元にひたひたともう夏になりかけた波が打ち寄せているけれど、僕の心のなかは迷って頭はボーッ、としている。真実が何なのか、何に命を賭けていいのか解らなくて僕は苦しんでいる。


 遠い昔に、僕を中等部総会の司会者にしてくれた人がいた。僕が中一の秋のことだった。そして僕はその頃から大きな声が出ないノドの病気に罹った。耳鼻科へ行くと精神科へ廻されるし、僕は、僕は中一のあの12歳の頃から、27歳の今まで、僕はこのノドの病気でどんなに悩まされてきただろう。もし、あのとき中等部総会の司会者に選ばれていなかったら、僕はもしかしたら明るい、そして幸せな、親にも迷惑を掛けない少年・青春時代を送っていたと思う。僕は今日、僕を市の中等部総会の司会者に推した石川さんに会おう、とした。でも僕はためらった。とても懐かしかったけど、僕のためを思って一生懸命に尽くしてくれた人だったけれど、それが裏目に出たのかもしれない。苦しみはもう終わりたい。







                            (7月1日 夜)

 苦しくなったとき、題目を唱えると不思議と楽になるよ、と誰かが言った。もうずと前のことだった。僕がまだ十代の頃の、純粋な心のままのときだった。苦しんでいる僕を見て誰かがそっと僕に囁いた。


 あれは若葉が春の風に揺れている福岡での出来事のような気がする。大学受験に失敗して、あれだけ頑張って大丈夫だとみんなから言われていたのに、僕は落ちた。2月の下旬から僕はひどく対人緊張感を覚えるようになってしまって、僕はもう勉強ができなくなった。でも僕の心はそのころ純粋で、その人の助言を素直に聞き入れた。そして浪人の頃は毎日3時間題目をあげていた。もう遠い、遥かな昔のことかもしれないけれど、何が真実か解らず、今も創価学会をやめようか迷っている僕だけれど。






                           (7月2日 朝)

 雨が、僕の涙のように降っている。苦しみに負けそうになっている僕に雨垂れの音が淋しく淋しく聞こえてくる。幸せは何処にあるのだろう。そして楽しかった少年の頃の日々はもう何処に行ってしまったのだろう。

 僕はこれからどうやって生きてゆけばいいのだろう。僕は死神からとり憑かれ、自殺しかないような気もする。でもたった一つの灯が僕には見えている。たった一つの、本当かどうか解らない灯が。


 淋しい雨の音は、僕をますます孤独の思いに沈ませてしまう。僕はこの孤独に耐えきれるだろうか。一人ぼっちの日曜日と、親を悲しませ落胆させ続けている僕と、自信を喪ってしまった僕と。






        【坂道】                   (H1・7・2)

 世の中には、一ヶ月ぐらい前に見た、重い荷物を手に持って坂を登っていっていたあの可哀想な女の人なんかがたくさんいるんだから、僕は遊べない。僕は正義のために一生懸命努力するしかない。首を吊って死ぬとたしかに楽かもしれないけれど、たしかに楽だけれども。







                          (1989・7月)

 死神が僕からだんだんと離れていっている。中学や高校の頃の元気だった僕が戻ってきている。大学一年の秋に信心をやめるまで元気だった僕が。


 僕は今日、一部の拠点から帰りながらバイクの上で飛び跳ねたいような歓喜を覚えた。西山越えで帰っていて、水源池の少し手前だったと思う。一部の拠点で何年かぶりに(本当に何年かぶりに。七年半前、退転するまで)一日二時間近く題目をあげた。そして題目をあげたあと、十ぐらい友だちや知り合いに選挙の依頼をした。


 目の前が真昼のようになって、苦しさも楽しみに変わってゆく不思議さを、僕は何度も味わった。幸せだった。苦しかったけど幸せだった。


 僕は魔に負けて、いつか死ぬかもしれない。遠い昔の恋人の死のためにも、僕は負けないで、これからは立派になって、不幸な人を、僕はどんどん救ってゆかなければならない。僕は負けないで、みんなに希望の灯をともしつづけてゆかなければならない。



----外は雨がしとしとと降っていて、今日は日曜日だった。----

 中学の頃のこういう日は、僕は、勤行をしたり勉強をしたり『人間革命』の本を読んだりしてきた。もうあれから十三年ぐらい経つだろう。そして僕は27歳になっている。


 僕のあの頃の勉強は革命でもあったんだ。だから君に手紙を書く時間も惜しんでいたんだ。


 自転車で福岡の町を駆け回った思い出ももう遠い9年前の思い出になっている。予備校に通っていたとき、ホームシックみたいな長崎への郷愁の思いにとらわれていて、一週間に一回ぐらい長崎に帰っていたあの頃の僕。寂しがり屋だった僕。

 懐かしい福岡での生活ももう遠い過去のあの元気だった頃の僕の幻想のような思い出に変わってしまっている。辛いことが多かったけど楽しいこともたくさんあったあの頃。いろんなことがとても新鮮で輝いていた。僕はとても元気だったし自転車競技の選手になってオリンピックで金メダルを取ることも夢見ていたしとても幸せだった。







                          (7月3日 夜)

 信じていたかった。信じれるものがなくなると僕は、何のために生きているのか、生きるのは何なのか、生きる目標は、そして僕の心の支えは、と考えてしまう。


 僕は創価高校へ行っていたら良かったのかもしれない。創価高校へ行っていたら僕はこんな対人緊張症になんて罹らなかったと思う。指導がなかった。石川さんはその頃(僕が中三の頃)全く僕の家に来なくなっていた。

 もし僕が創価高校へ行ってたら楽しく明るい青春時代を送れることができたと思う。もし石川さんが中三の頃も僕の家へよく通って来て下さっていたならば。


 福岡の町。博多の町。かつて僕が青春を謳歌した町。たった2ヶ月半ぐらいだったけど(その間にも何回も何回も福岡に来たから)元気だった20歳前の僕の青春の町。


 僕は南区のずっと岡の上に登って福岡の町並みを眺め遣ったことがある。僕のいつもの黄緑色のロードマンで春の5月のある日、予備校からずっと離れた所に僕はそのときやって来ていた。そうして打ち続く果てしもない町並みに僕はなんだかやるせない気持ちに陥った。


 たくさんの人たちが、この町並みの中で苦しんでいて、僕は頑張って救っていかなければならないのだけど、あまりにも多すぎて僕は







                          (7月9日 朝)

 明るい綺麗な女の人と、福岡の道を歩きたい。明るいとても気立てのいい女の人と、福岡の夜の道を歩いてみたい。大濠公園へ向かう赤坂の綺麗な道を。  


 福岡はもう遠くなってしまった。もしも僕が高三の2月の終わり頃、この対人緊張症にさえ罹らなかったら僕は現役で九大医学部に上がれてて、そして大学に入ってからも高校の頃のようにひたすらに勉強していたと思う。もしも僕が創価高校へ行ってたら、きっとこんな病気に罹らずに、僕はきっと九大医学部へ行っていたと思う。でも今の僕は、病気で苦しみ抜いていて、長崎の医学部で、卒業できるかどうかも解らなくて、とても苦しんでいる。本当に誰か、僕の心の支えになってくれる女の人が現れたなら僕はこんなに苦しまなくてもいいのにと思うけど、淋しくて、友達もほんの少ししか居なくて。







                          (H1・7・9 夜)

 九医の二次試験の終わったあと、僕は首を曲げながら、いつまでもいつまでも、汽車の窓を流れゆく夜景を眺めながら、ずっとずっと心の中で題目を唱えながら、長崎まで帰ってきたことを憶えている。

 僕は理科と英語があまりできなくて最後の一番配点の大きい数学に賭けていた。でも僕はそれもできなかった。最初の一時間は少しもできなかった。そして残りの一時間半で5問のうち2問半ぐらいできた。

 僕は英語の試験が終わったあと、数学では220点ぐらい(満点が250点)取らなければ駄目だなあ、と思っていた。でも一問目、二問目と全然解けなかった。四問目、五問目を一ヶ月ぐらい前にうろ覚えした数三の知識でなんとか解けた。でも2つとも中途半端だった。

 三問目を最後の30分で半分ぐらい解いた。窓の外を見れば春を告げる木の葉が舞っていた。高校一年の終わり頃からの2年間の血みどろの勉強が虚しく、僕はこの試験が終わったら解放されるという思いを抱いていたのに、虚しく朽ち果ててゆくことを思ってとても悲しかった。

 僕は2年間、全てを捨てて勉強に励んできた。道を歩きながらも頭の中で物理の問題を解いたりしてきた。バスのなかではずっと勉強してきた。勤行はほとんど欠かさずしてきたし、題目も一日一時間以上してきた。そしてこの半月ぐらい前からは毎日2時間3時間と題目をあげてきた。

 やっと解放されるという思いも、窓の外に見えている風に揺れる木の葉を見ながら、絶望の思いに変わっていた。二年間の全てを棄てたような血みどろの勉強も僕にとっては窓の外の木の葉のようにはかなく散ってゆくらしかった。

 2年間、僕はこの日のために生きてきたみたいだった。でも僕は敗れ去って、僕は敗れ去って、長崎へと帰らなければならないようだった。そして親に、二次試験ができなかったことを悲しく告げなければならないようだった。







                        (H1・7・14 金)

 誰からも見捨てられてきた。誰も救ってくれなかった。あの頃の僕を、苦しんでいた僕を。


 目を潰れば、十年前のあの子の姿が見えてくる。とっても目が大きくて、とっても美しかったあの子の姿が、僕に微笑みかけているあの子の姿が、もう十年前になってしまったあの子の姿が、今も、そしてあの頃も苦しかった僕だったけれども。







                    (平成元年7月14日 金曜 晴れ)

 池田先生。自分は7年あまり退転していました。今もまだ信仰心弱く、今朝も信仰をやめようと思ったほどでした。自分は苦しんでいます。自分は今、3つの病気に冒されています。自殺もやはり今も考えたりするほどです。

 自分は中一のとき、市の中等部の大会の司会役に選ばれて、そしてそれから一生懸命題目をあげるようになりました。それまでは夕方の勤行と題目を一日20分ぐらいしかしていなかったと思います。でもそれから朝晩の勤行を欠かさずやるようになり、題目も大会へ向けて一日一時間半ぐらいもあげるようになったと思います。そしてその頃、僕は今のノドの病気に罹りました。

 大会で僕は声がかすれてほとんど出ませんでした。母は心配して(今までダメだった僕が大勢の前で司会役をできるのだろうかと心配して)その日、店を休んで来ていました。大会が終わったあと自分は自分が情けなくて恥ずかしくてたまりませんでした。

 市の中等部の大会のことなんてどうでもいいのだと思います、それからの僕が受けたこのノドの病気での苦しさに比べたらその部員会のことなんて。

(先生。5年間分のこの日記帳もあと一年半しか残っていません。だから僕はこの日記帳をこんなふうに使っていこうと思いますけどすみません。)

 先生。僕は今でもこの信仰への疑いをぬぐいきれません。この信仰を始めたために9年半前に対人緊張症に罹ったのかもしれません。

 この信仰をすると三障四魔が湧いてきます。自分はそれに怯えています。またその苦しみを受ける信仰心が自分にはまだありません。以前の、あの純粋に信仰をしていたあの頃の自分だったならば。

 でもやはりこの信仰をやり抜くのが正義なんだ、広宣流布をやり抜くのが正義なんだ、とは思っています。でもやはり疑いがぬぐい切れなくて。

 それに自分には特別の使命が、僕がやらねばならない特別な使命があるようで。




(7/15)

 広宣流布に全てを捧げることに自分はためらいを感じている。昨日は8年ぶりぐらいに学会の会合に出た。平和会館での本部幹部会へ出た。そして久しぶりに(8年ぶりぐらいに、そしてこれが2度目だった)池田先生の声を聞いた。

 でも昨日、ものすごくためらったあと本幹へ出るぞ、と思って家を出たときのあの歓喜は何だろう。そうして7年ぶりぐらいに会った平野の俺のために尽くしてくれたあの真心。

 自分はやはり創価学会には義理がある。たくさんの人に迷惑をかけてきた。でも疑問も…。そして自分には自分の使命があるのだという思いと…。

 

 純粋に信じきって全てを捧げてきた大学一年の11月までの日々。僕はその頃の日々に戻ろうと思っている。全てを捧げ尽くす日々に。


 ただひたすら信じ抜くこと。疑わずに…大学一年の秋までの頃のようにただひたすら信じ抜くこと。







                   (平成元年・7月18日 火 晴れ)

 僕は広宣流布のために生きているんだ、と叫べる僕になりたい。心の底からそう叫べる僕になりたい。それに大きな声で、ノドの病気が治って、そう叫べる僕になりたい。


 いつの日か、星子さんを苦しめたあの悪魔もいない。幸せな世界を造るんだと僕らは戦っている。いつの日か、きっときっと近いうちに造り上げるんだと、僕は思っている。みんながとても明るくて幸せな世の中が、早く早くできないかなと。日本でなくっても南太平洋のどこかの島でもいいから、早く早くみんなが大聖人様の教えを信じて、明るく毎日を送ってゆく国土ができないかな、と。僕は思っている。


 いつの日か、きっと幸せな日が来るんだよ、と僕は星子さんに言った。でも星子さんの顔は淋しそうだった。僕がきっと幸せな日々が来るんだと言っても、星子さんは信じようとしなかった。


 疲れ果てて、灰になって、僕は死んでゆくのだろうか。もう何も信じられなくなって、僕は灰になってゆくのだろうか。

                     (H1・7・19)







(僕は今日も一日じゅう悩み通した。創価学会に戻るのやめようかどうしようかと激しく悩んだ。檀徒会(※1)に入ろうかとも思った。

 夕方、3時間、県立図書館で勉強したけど、激しく緊張した。頭が爆発しそうだった。手も震えて線もまっすぐに引けなかった。

 でも図書館が閉館になってバイクで帰るとき『やっぱり創価学会に戻ろう。』と思っていた。そして帰りのバイクの上でとても楽しかった。なぜこんなに楽しいのだろう、やっぱり、創価学会が真実だからだろう、と思った。

 そうして図書館からの帰り、二部の拠点にそのまま行った。家で一人で勤行するよりも、拠点で勤行した方が組織に自分を付けることができると思ったからそれに今日、一時間40分も題目をあげたのに(昨日も朝も夜も勤行して題目も一時間半ぐらいした)心がこんなにも揺れ動いているのは(創価学会の信心を…創価学会だけでなく日蓮正宗の信心まできっぱりとやめようと思ったりするのは)きっと自分一人でやっているからかなあ、とか思ったから。

 二部の拠点で僕は『自分の身を広宣流布のために捧げよう。自分の身を広宣流布の敵がやってきたとき(例えば○○○が創価学会を潰そうとしたとき)盾にしよう。』と勤行しながら思ってとても元気が出た。

 でも家に帰ってきて4日後に迫った参院選のために高校時代の友人の○○に電話して『創価学会に戻った。大学一年までやってた創価学会に7年ぶりに戻った。』と言ったとき○○から軽く話題を変えられた。そうして結局、選挙のことを頼むこともせずただ世間話だけして電話を切ってしまった。

 その電話のあと、僕は御本尊様の前に行って深く詫びた。そして風呂に入りながら(※途中、散失)


※1----創価学会でない日蓮正宗の信徒組織。今は日蓮正宗の總本山から破門されている。


 一ヶ月前と比べて、僕はとても元気になっていた、と木村君たちがとても嬉しそうに言っていた。このまえの本部幹部会の後、勤行会のときそう言っていた。でも僕はまた誰をも裏切って去ってゆくのだろうか。4ヶ月ほど頑張ってきたこの創価学会から、僕はふたたび、







                         (7月20日 朝)

 4ヶ月前に7年半ぶりに創価学会のところに行って、2週間ほど前から勤行もちゃんとするようになっていたけど、そうして活動もちゃんとするようになっていたけど、そうして2週間前からとても元気になっていたけど、僕は燃え尽きて、疲れ果てて、何が真実かという煩悶に疲れ果てて、


 僕の本棚から創価学会の本がみんな消えて、今はもう、

 でも選挙だけには行こう。そうして公明党に投票しよう。せめてもの義理だから。もし投票しなかったら僕は人間でなくなるから。湯沢君や木村君の真心を踏みにじることになるから。


 真理は何処にあるのだろう。日蓮正宗以外は、創価学会以外は、すべて邪宗で、僕は7年間そのいろいろな宗教をさまよってきた。僕は理屈で何でも考えて、宗教







                         (7月21日  AM 8:15)

 昨日も信仰をやめようと決意した。今日も信仰をやめようと決意していた。でも僕はこの信仰をやめると人間的にダメになってしまう。僕は純粋に、ひたすら純粋にやってゆくしかないと思う。誰も相手にしてくれず、いくら頑張っても今まで誰一人としてFも取れてないけれど、この信仰をすることを誰も反対するけど、でも僕は人間形成のために、ひたすら信じきっていくしかないと思う。そして僕をそそのかす福岡のあの人はやっぱり獅子身中の虫なのだと思う。僕は灰になっても、平野や湯沢君や木村君などを裏切らないために、『創価学会の五船』『創価学会の五船』と陰口で言われても、信心のために苦しんで苦しみ抜くことになったとしても、人間として同志を裏切らないために、








                          (H1,7、23)

 もう見えない。ずっと前、中学生の頃、この浜辺から僕らの住んでた日見が見えてたけど、もう見えない。僕らの心は濁ってし�ワったのかもしれない。でも、僕らの心はまだ以前のまま美しいと思う。僕は信仰を捨ててしまった。戻ろう、戻ろう、と思いながらも戻らないでいる。きっと今日の天気が悪いんだ、と思う。煙に煙って見えないだけなんだと思う。


 全てが広宣流布のためです。僕が少しなまけているように見えるのも。でも全て広宣流布のためを思ってこうしています。全て全て広宣流布のために。


 辛かったけど楽しかった…不思議と楽しかった…毎日一人っきりだったのに不思議と楽しかった…僕には御本尊様があったし、『人間革命』などの本があったし、中二の頃の思い出が懐かしく思い出されてくる。本当に楽しかった。

 広宣流布への夢。週一回の部員会や唱題会。楽しかった。

 一日5時間しか眠ってなかった。信仰と勉強と運動を一生懸命していた。題目も一日二時間近くあげてたし、毎日完全燃焼の日々だった。僕はあの頃、すでにノドの病気にかかっていたけど、僕はクラスのみんなから慕われていたし






                          (7月25日)

 辛いけど、正義のためには命を投げ出さなくてはならない。辛いけど、僕を思ってくれる木村君や平野や湯沢君を裏切ってはいけないし、でも楽しいし、充実している。辛いけど。


 めんめばあちゃん。おばばちゃん。遠い過去のいろんな人たちのことが思い出されてくる。昭和40年の頃、みんな必死になって折伏・弘教していた。

 僕が信心を始めたのは中一の頃からだとして昭和48年ごろのことになる。もうその頃は


 誰をも幸せにしてゆける自分になりたい。自分が居たら周囲がとても明るくなって、みんなが僕に居て貰いたいと思われるような、自分になりたい。







                           (7月26日)

 美しい女の人とクルマに乗って海へ行きたい。僕はもう4年も海で泳いでない。一緒に海まで行く友達もいなかったし、勉強に追われてそれどころではなかった。女の人と一緒にいても僕は緊張してしまって、顔はこわばるし、そして嫌われていた。でも僕は孤独な日々はもうこのへんで終わりにしたい。僕は明るくなりたい。幸せになりたい。みんなから好かれる自分になりたい。でもこの対人緊張症が全てを駄目にしてしまっている。高三の終わり頃から僕に巣喰っているこの病気はもう9年も続いている。僕は淋しいし、どうにかやってこの病気を治したい。でも9年間ぼくはずっと苦しみ続けて、もう駄目なような気もする。でも僕はもう創価学会の信心に命を賭けて、この病気を克服していこうと思っている。ひたすら創価学会の信仰を信じきって、僕はこの病気と、戦ってゆこう。血みどろの戦いになるのかもしれない。僕は破れ去るのかもしれない。でももうひたすらにこの信心を信じ切っていこうと思っている。中学や高校時代の元気だった僕を思い出させてくれるこの信心を、僕は再び命を賭けてやり抜こうと思っている。







                            (7月27日)

 僕は今日から薬をやめると誓ったけど、ああ、夜空を眺めていると星が流れて、僕は本当に10年ぶりぐらいに流れ星を見た。以前見たのは中学のときだったと思う。僕の心がとても清らかで、少しも疑わずに御本尊様を信じていた頃だったと思う。創価学会を、池田先生を。少しも疑わずに信じていた中学の頃だったと思う。

 現実は厳しくて、僕は今日何度も薬をやめるのはよそう、薬を飲もう、と思った。苦しかった。それに緊張してしまって頭に入らなかった。僕は大学の図書館から部長の下宿までバイクに乗ってゆきそして一時間題目をあげた。題目を終わったあとまた大学の図書館で勉強した。

 悪魔の誘惑なのか、それとも諸天善神の加護なのか解らなかった。でも僕が人間的に成長するためには、決して創価学会をやめないで、そして池田先生を信じ切ってゆくしかないと思った。また創価学会をやめたら、やめた時点で再び僕の人格の堕落が始まるのだと思った。だから少なくとも僕にはこの信心が必要なのだと思った。創価学会をやめたらやめた時点で僕の人格の堕落が始まる。このまま盲になって創価学会と池田先生を信じ切っていけば、そうしたら僕は人間的に成長できて、どうにか人並に生きてゆけるんだ、と思った。

 創価学会以外で、檀徒会などで僕の人格を磨けるだろうか、と思った。池田先生を絶対と信じ切って創価学会のなかで戦い切ってゆくしか自分の人格を磨ける道はないんだ、と思った。自分の限界まで挑戦していって、発狂する寸前ぐらいまで挑戦していって、そうして僕は始めて人間的に成長できるんだ、と思った。人格を磨けるんだ、と思った。







               (星子さんのことを胸に秘めて     7月28日)  

 嵐がやってきた。ものすごい風で今、壁に何かが当たった。本当に何年ぶりかに、たしか中学の頃によくこんなひどい台風がやって来ていたように思うけど、こんな凄い台風がやってきた。

 僕が創価学会に戻って(でも今でも『やめようか、どうしようか。』と考えているけど)本当にしみじみと中学や高校の頃を懐かしく思い出せるようになって、僕のその思いに引き寄せられるようにこの台風は今僕の家を襲っている。

 日見のなかでも僕の家に一番ひどく風が当たっているようだ。僕が生まれ変わろうとしているから、その陣痛のように十秒に一度くらい激しく僕の家を(とくに僕の部屋を)襲ってきている。

 僕はこの頃、一生懸命にやっていた中学・高校時代を思い出して信心に励み始めた。ひたすら純粋に信じていたあの頃を思い出してその頃のようにまた信じ抜こう、と思っている。


 嵐の中をクルマはゆく。ゾウのように通り過ぎてゆく。なんて丈夫なんだろう。

 でも僕は家の中で、ときどき襲ってくる地鳴りのような風や、屋根が吹き飛ばされて雨漏りがするのを悲しみながら、なぜ屋根が飛んでしまったのだろう、それもなぜ僕の部屋の上の屋根が飛んでしまったのだろう、と訝しみながら、僕は悲しく外を眺めていた。







                        (7月30日 日曜 晴れ)

 今日、蛍茶屋のところをバイクで通るとき周囲の何もかもが新鮮に見えた。何もかもが輝いて見えた。今日は朝、母と一緒に勤行をした。勤行が終わって十分ぐらいして家を出た。

 僕は創価学会をやめてただの日蓮正宗の信徒になろうか、それとももう日蓮正宗の信仰からもやめてしまおうか、と何日も前からずっと考えつづけていた。おとといの台風では僕の部屋の屋根が飛ばされた。池田先生を否定しようかどうしようか迷いながらおととい母と一緒に勤行をしていたときか、勤行をし終わったときに屋根が飛んだのだった。池田先生を否定しようと思いながら勤行をした罰かなあ、と思った。でもよく考えてみるとこの頃勤行を欠かさずやり始めたために難というか魔が競い起こってきて僕の信心を破ろうとしているんだなあ、と思った。

 朝9時に屋根が飛び、それから雨がやんだ夕暮れまで僕の部屋は水びたしになった。十コぐらいコップや洗面器などの水入れを置いた。電灯にまで水が来て机上灯でその夜は過ごした。本当は地獄のはずだった。でも心のなかで題目を唱えるとこんな苦しいこともとても楽しく思えた。

 一週間ぐらい前、選挙の活動をして夜遅くバイクに乗って帰って来るときもとても楽しかった。楽しくてしようがなくて右手でガッツポーズを取っていた。この信心は苦しいことも楽しいことに変えるんだなあ、と思った。


 今朝、蛍茶屋の前を通るとき、周囲の景色がなんて新鮮に見えたことだろう。今朝、母と一緒に勤行をした。勤行が終わって10分程して家を出た。

 僕は今朝、勤行をしようかするまいか迷っていた。昨日から、もうこの信心はやめよう、少なくとも創価学会はやめよう、と考えて煩悶していた。

 

 二週間前の木曜日の本部幹部会へ出かけてゆくときの楽しさ。朝から家でずっと勉強などしていて夕方になるともう頭がポーッ、となっていた。二部に拠点に僕のクルマに乗せていこうと思って6時ちょうどに電話したけど誰もいなかった。僕は3時半に夕方の勤行をした。5時半ごろから行こうか行くまいか迷っていて6時にやっぱり行こうと思って二部の拠点に電話したのだった。

 誰も居らず、このまま一人で行ってもあまり価値がないなあと思って(二部の人たちのバス代なんかがタダになると思ったのに)僕はやっぱり今日行くのはよそうかなと思った。

 一度着たネクタイを巻いたボタンダウンのシャツもスラックスも脱いだ。一人で行こうかな、とも思った。ジーパンとスラックスのときの格好を鏡で見てみたりしていた。やっぱり僕はスリムのジーパンが似合うな、と思った。

 6時半ごろ僕はやっと家を出た。6時15分ごろ、クルマで行こうと思った。しかし自分一人クルマに乗って行っても無意味な感じがした。それにやっぱり勉強すべきかな、とも思った。

 6時半だったからもうクルマでは間に合わないと思ってバイクで出掛けた。バイクの上でとても楽しかった。思えば7年半ぶりに僕は学会の会合に出掛けていた。







                           (7月31日)

 前よりもずっと減りました。もう死のうなんてことを僕は、あまり考えなくなりました。勤行を始めてから僕は、今でもときどきさぼるけど、もう死のう、なんてことをあまり考えないようになりました。僕から死神がほとんど出ていったみたいです。

 暗かった僕は今みんなから、明るくなった明るくなった、と言われています。あまり落ち込むことが少なくなりました。希望が見つかったし、御本尊様さえ保ってゆけば、今からどんな苦しいことに巡り会ったって、負けたり弱気になったりすることはない自信がつきました。苦しくなったり、いざというときは御本尊様に向かって題目を唱えれば一遍で不安なんて吹き飛んでしまうから、元気になれるから、とても元気になれるから。







                           (7月31日 夜)

 ずいぶん明るくなったね、と僕は薄暗い廊下でクラスメートの○○から言われた。僕は本当に明るくなった。死を夢見ていた僕は、今は本当に明るくなった。







                            (8月1日)

 いつかこんなときがあった。美しい女の子と手を繋いで歩いた浜辺があったことを、僕はかすかに憶えている。もう遠く霞に煙って見えないようだけれども。

 いつのことだろう。もう遠い昔のことのような気がする。遠い昔に僕はこんな浜辺を、美しい少女と一緒に歩いた思い出がある。

 そのときは水平線の向こうに白い雲が見えて、夏だったと思う。白い浜辺を、真夏の夕暮れの太陽に照らされながら、ゆっくりと歩いた思い出がある。









                             (8月6日)  

 もう夏も過ぎ去ろうとしているような気がする。明日ぐらい姉が山口県の萩から来るだろう。もう一歳になった子供を連れて、僕は今日高校時代の親友の永松から電話がかかってきて浜の町なんかをブラついた。僕は今日少ししか勉強していない。�lはこの頃勉強のことよりもビデオやカメラやパソコンのことに凝ってしまっていて、明日29型のテレビとビクターのハイファイビデオが来る。もう貯金も70万を切ってしまって、でも僕はまだ他にも買いたいものがたくさんあって


 もう愛子は結婚してしまっているんだなあと思う。愛子の転居先へ行った手紙も返送されてきて、僕が浪人の頃、○○さんへ宛てた手紙のように郵便局の人に開封されて、そうして僕の手元に戻ってきた。愛子はベスト電気をやめたのかなあ。きっともう結婚して、そうして子供もできているんじゃないのかなあ。僕は寂しいけど愛子のことは忘れて、十月中旬から始まる卒業試験へ向けて一生懸命勉強しよう。愛子は愛子の道を、僕は僕の道を、ひたすら一生懸命進んでゆこう。誰にも迷惑をかけないように、世のため人のため尽くすように頑張ってゆこう。僕はそうして日蓮正宗を広めるよう頑張ろう。そのためにも社会的に力のある人間になろう。


 幼稚園の頃、雨の中を泣きながら幼稚園の校舎に向かって歩いた思い出。半分も行かなかったけれど、そして友達もほとんどいなかったけれど、よく先生に叱られてばかりいたけれど。

 ある日、雨の日、滑り台を滑って、半ズボンを濡らした僕に、ほかの半ズボンを出してくれた隣りのクラスの若い女の先生。あの頃はもう20年も前になるからあの先生はもう40歳になっていると思う。僕はいつもは滑り台を滑れないから----他の人たちが滑り台で遊んでいたから。僕は滑りたかったけれどいつも滑れなかった。だからあの日、雨の日、誰も滑ってなかったから僕は始めて滑ったのだけれど。







                            (8月8日)

 僕のために祈ってくれている姉や同志の方がいる。だから僕はこの信心をやめられない。ひたすら信じ切ってゆくしかない。


 僕は大学入試が終わったあとすぐに福岡へ行った。IIIIと仏法対話をしようと思っていたし、ボンさんもいた。

 昼頃、僕は三幸荘に着いた。


 中学時代のクラスメートのIIの下宿にも行った。彼は経済的に行き詰まっていた。しかし僕はIIに創価学会の話を少ししかできなかった。IIは「ハブ、なにしに来たと?」と訝しがっていた。IIは全く宗教に関心がなかった。

 IIと同じ西南学院へ行っているとん平のところへも行った。とん平の下宿で、とん平よりもとん平と同じ下宿の友達に話をした。彼はテレビを見ていて東大や医学部の入学についてのニュースがあってたとき『東大とか医学部へ行くのはエゴイストだ。』と言っていた。僕は彼に創価学会の信心の話をした。僕は彼のひがんだ心をこの信心で正しい方向に持ってゆけるようにと話をした。彼は僕が話をすると苦笑いをした。聞いていたとん平も苦笑いを浮かべていた。


 誰も信じてくれなかった。誰も宗教を迷信だと言って相手にしてくれなかった。一週間経って僕は長崎へ帰った。でも長崎に2日居たあと、僕は今度は熊本へ行った。


 僕は君のことを中学三年の秋のころから思い続けてきた。暗いタクシーのなかで君と一緒に座っていることは夢のようなことだった。でも現実の僕の心のなかは地獄だった。でも君は決して僕を傷つけるようなことは言わなかった。君は僕を可哀想に思ってそうしてくれていたのかもしれない。ただ若い女の子がいつもそうするように僕のように僕のようにおかしくないまともな格好のいい男の方になびいていっただけだった。

 吃りで喋り方のおかしい僕を君は哀れに思いながらも、君は別の男の方になびいていった。君は僕を哀れに思っていてくれたから僕を傷つけるようなことは言わなかった。僕が君をしつこく追い回しても。

 その夜、僕はあまり眠れなかった。そして僕はその夜、生まれて始めて自殺を考えた。カミソリで手首を切って死のうかな、と思った。

 今までこんなに眠れなかった夜はなかった。中学の頃から好きだった君と始めてまともに喋り、そうして隣りの席に座った。






                            (八月十日)

 今日、Sから電話がかかってきた。Sは淋しそうだった。電話では元気にしていたけど、淋しくて僕に電話をしたのだと思う。Sは大学を卒業してから入社した医薬品会社をやめて、今は電気工事の仕事をしているという。毎晩8時や9時にならないと帰って来ないけど、今日はたまたま早く帰ってきて僕の所に電話したと言っていた。僕もSに会って酒を飲んだりもしたいけれど、そうしてSを日蓮正宗に入信させてやりたいけれど、そうしてSも幸せになってもらいたいけれど、Sはどうせ聞く耳は持たないと思うし、僕には勉強があるし(十月中旬から始まる卒業試験があるから)、僕は勉強が忙しいと言って断ってしまった。少し罪悪感があるけれど、僕は勉強に没頭しなければならないから(広宣流布のために勉強に没頭しなければならないから)Sに少し寂しい想いをさせるけど。






                            (8月14日)

 もうお盆なのに、明日、八月十五日なのに、僕は明日も家か図書館で勉強して、中場には行くまいと思っている。

 今、花火の音がしていて、僕も中学の頃はお盆のときは中場や加津佐へ行って、花火なんかをしていたけど、もう今の僕にはそんな心の余裕はないし、勉強に追われているし、


 僕は

 酒飲みになって

 酒飲みになって

 ダメになっていくのかもしれない。

 僕は酒飲みになって、

 僕は酒飲みになって、







                           (H1・8・16)

 ずっと昔、幸せなときもあったような気がする。小学生や中学生のとき少し幸せなときがあったような気がする。僕が喉の病気に罹る前、僕が小学五年、六年、中一の頃。

 僕はもうすぐ28歳になろうとしている。2年間余り続いた自殺を夢見ていた苦しい地獄のような日々から、僕はこの頃ようやく抜け出した。元気になれる信心を始めたから。とても元気になれる信心を始めたから。

 僕は落ち込む前の学一や学一留年のときに戻ったような気がする。僕が落ち込み始めたのは、精神科に患者として通い始めた学二の12月から2ヶ月経った頃のことだった。2月中旬のことだった。

 それから2年余りとても苦しんだ。その2年間の間にも少し楽しいことも幾つかあった。でもそれは僕の焦りから来ている楽しさだった。F1レースがとても面白かったし、精神科の○○病院でのアルバイトもとても楽でそれにためになったし、恋はしなかったけど、もう人間的に堕落していた僕には女の子は寄って来なかったけれど、でも楽しいときもあった。本当に楽しいときもあった。


 長く汽車に揺られて、長崎に着いたのは、10時ごろだったと思う。僕はそれから一人でタクシーに乗って日見まで帰ったと思う。同級生はいなかったし、同じ日見に住んでいる一つ年上の人が2人居たけど、もう途中で解らなくなってしまったから、僕は首をずっと曲げたまま、タクシーのなかでもずっと俯いたまま、夜の闇の中をひた走るタクシーの窓から、悲しく悲しく外の景色を眺めながら、心の中で題目を唱えたり、、明日、必ず大学病院へ行って喉を診て貰おうと思ったりしながら、タクシーは流れるように日見へ向かっていった。20分ぐらいしか懸からなかったと思う。

 家に帰ったのは10時半ぐらいだったと思う。僕は家の人に『できなかった。』と言った。僕はそしてすぐ仏壇の前に行って題目をあげた。そして勤行もしたと思う。勤行をしているうちに曲がっていた首も元に戻ってきたと思う。そうして明日の朝早く、大学病院へ喉の病気を診て貰いに行こう、と思った。勤行をして、少し元気になって、僕は今度は明るく『できなかった。』と家の人に言った。『来年もっといい大学を受けようと思っている。』とも言ったと思う。たしか京医か東大理三か言ったと思う。家の人は落胆しながらも


 大学病院は受付がたしか8時半か8時45分かまでなのを憶えてたので次の日、朝6時ぐらいに起きたと思う。3月5日だった。昨日、夜遅く福岡から帰ってきて勤行を済ませて寝たのがたしか12時半頃だったので朝起きるときとても辛かった。いつもは5時間あまりしか寝なくてもそんなにきつくないのになぜこんなにきついのかな、と不思議に思った。

 大学入試にたぶん落ちたことよりも、喉の病気の方が僕にとって大事なことのように思えた。僕は起床して急いで顔を洗ったり歯を磨いたりしたあと、勤行をしてたしか7時15分ごろ家を出たと思う。

 ときどきスクールバスの代わりに乗っていた水族館前に7時22分ぐらいに来る遠距離の本原行きのバスに乗ったと思う。いつもそのバスは座られて、それに窓側の席にも座られた。僕はいつものように英語かなにかの本をバックから出して勉強したと思う。でもあんまり気合いは入らなくて、喉の病気が治るかどうかを考えていたと思う。

 3月9日、10日に産業医科大のテストがあるので、そのために勉強していた。でも喉の病気のことがとても気懸りであんまり勉強に身が入らなかったと思う。僕はバスを茂里町で降りた。以前、ずっと前、母の祖母の見舞いのために来たとき、たしか茂里町付近が大学病院に近いと思っていたから。

 でも大学病院はもっと先にあった。僕は走って銭座町から折れる道へ入って大学病院目指して走った。厚い黄色のオーバーは暑くて、脱いで走っていったと思う。

 大学病院に着いたのは8時45分ぐらいだったと思う。僕は急いで初診者のシートに名前などを書いて受付に出して、4階の耳鼻科の外来に行ったと思う。そしてそこでもシケ単なんかを出して勉強していたと思う。

 僕が呼ばれたのは9時45分ぐらいだったと思う。若い卒業したばかりのような先生から診て貰った。両手を左右や前後に動かされたりしたけど、カルテに結局『喉頭異常感』と日本語で僕に見えるように書かれた。僕がどんなに『4年ぐらい前から、いえ、5年ぐらい前からこうなのです。』と必死に訴えてもその若い医者は取り扱ってくれなかった。


 苦しいとき、辛いとき、『自分は池田先生の弟子なんだ』と思ったときに湧いてくるファイトと根性、これは暗示だけでは説明できない。自分はいろんな宗教を巡ってきたからそれが暗示でないことはよく解る。

 ----そのことを言ったとき、精神科の医者は僕を分裂病と断定したかもしれない。でも自分には悔いはない。







                             (8月18日)

 ずっと前、僕が中一の冬に、平野と蛍茶屋の前のバス停で、コンコンと白い雪が降っている夜、バスを待ち続けた思い出がある。あの頃から僕は喉の病気になって、ものすごくものすごく中学や高校、大学の始めの頃まで苦しんできたのだけれど、この信仰を真面目にやり始めてこの喉の病気になったのだけれど、だから僕は大学に入って半年して退転(この信心をやめること、創価学会をやめること)したのかもしれない。

 7年半もこの喉の病気にしたこの信仰を僕は恨んできたけれど、、でも僕は7年半もほかの信仰をいろいろとしてきて、やっぱり創価学会の信心が一番だと、日連大聖人様の言われたことが本当なんだと解ったから、僕は7年半も退転していたけれど、僕はまたこの信心を始めた。

 一ヶ月前、平野と会合(創価学会の会合で。平野は創価大学へ行って、今は中学校の先生になっていた。僕は平野と高校のとき以来、8年ぶりぐらいに会った。)で会って、そうしてその夜、平野の実家で一緒に酒飲んで、そうして平野の家に泊まって、そうして朝別れるとき『勤行をしろよ。』と平野は言った。それ以来一ヶ月ぐらい、僕は何度か勤行をしなかった。何度か、やっぱり創価学会に戻るのはよそう、この信仰をまた始めるのはよそう、と思って何回か勤行をしなかった。でもその度に平野に対してすまないような思いにとらわれたし、やっぱりこの信心こそ不幸に打ちしおれた人、悲しみに打ちしおれた人を立ち上がらせてくれる信心だからこの信心を広めることが正義なのだと思っていつも勤行は一回さぼったきりで勤行を続けてきた。本当に元気になれるから。落ち込んだとき本当に元気になれるから。とても不思議だけど元気になれるから。







                            (8月18日)

 もしかしたら今夜、早ければ今夜、姉が子供と夫と一緒に山口県から来るけれど、僕はそのことを思って、今日も夕方創価学会をやめよう、そうして○○○○○か○○○かしよう、と思ったけれど、僕は元気になって父や母を喜ばせたいから、創価学会の信心をしなかったら僕は落ち込んだままで自殺までしてしまうかもしれないと思ったから(そうしたら父と母が姉が今日か明日来ることをずっと前からとても楽しみにしていたことを思って、やっぱり死んだらいけないな、と僕は思って)、僕はやっぱり思い直して御本尊様の前へ行って10分ぐらい唱題をした。夜の8時ぐらいだった。今日は一日じゅう家にいてもう夜の勤行はすませていたし(今日はエアコンの取り付けのためずっと家にいたから)、父と母が店から帰ってきて暗い表情を見せたくなかったから、僕は思いきって御本尊様の前へ行って題目をあげた。明るく元気な顔を見せて父や母を安心させてあげたかったし、やっぱりこの信心を広めることが正義なのだと思ったから。


 暗い夜の向こうから僕は帰ってきたみたいだ。

 僕は何年かぶりに心から笑ったみたいだ。

 それに僕は何年かぶりに(十年ぶりぐらいに)本当の友だちを持ったみたいだ。


 遠い闇の中から僕は生き返ってきたみたいだ。

 僕は何度も死のうとしたし

 何十回も死のうと思ったし、







                     8月19日(土) 晴れのち雨

 今日、7年8ヶ月ぶりに座談会に出た。当てられて喋らされたとき僕は吃ってなかなか言葉が出て来なかった。7年間退転していたこと…いろんな宗教を遍歴してきたこと…この信心は元気になること… 僕はこれだけしか言えなかった。自分が情けなかった。恥づかしかった。

 家に帰って勤行したとき情けない自分


 魔に負けないで自分は信心をしよう。

 これからは魔に負けないで信心をしよう。

 ただひたすらに御本尊様を信じきって

 創価学会を信じきって

 池田先生を信じきって

 僕はこれからひたすら信心をしてゆこう。


 一時は○○○○○○か、とも思いました。

 ○○○○○○が人類を救えるのかとも思いました。

 でもサタンでした。

 ○○○○はサタンでした。


 日連大聖人さまの仏法しか人類を救えない、と思いました。

 落ち込んだとき、もう自殺するしかないと思ったとき、僕を救ってくれたのはこの仏法でした。

 不幸な人を救えるのはこの仏法しかないと僕は確信しました。


 母も…父も…この仏法で救われました。

 僕も自殺直前まで思い込んだとき、

 今から自殺しに行こうと思い込んだとき

 僕をこの仏法は救ってくれました。


 ひたすらに信じきることだということを僕は知った。

 ひたすらに信じきったとき

 そして限界に挑戦していったとき

 人間的にも成長できる


 ひたすら信じきる人の心は綺麗だし

 題目を唱えてゆけば生命から清められる

 そして心の底から人の幸せを祈れるようになれる。


 自分を犠牲にして人の幸せのために尽くそうとしても

 この信心以外では心の底からそう思えない。

 この信心には人の心をそうさせるものすごい力がある。


 すべてを犠牲にして広宣流布のために生きることはとても苦しいようにも思えるけれど、

 その分ものすごい歓喜がある。

 大学一年の秋にこの信心をやめるまでものすごく苦しかったけれど、

 とても楽しかった。

 不思議と楽しかった。







                         (8月21日)

 僕はもしも福岡の英数学館に居たとき、女の子の友達ができていたならば…恋人ができていたならば…僕は2ヶ月で長崎に帰ってくるようなことはしないで、そうして九医を受けていて、もしかしたら2浪していたかもしれないけれど…それにその女の子の行く大学の近くの大学に僕も行っていたと思うけど…きっと今と大きく違った人生を歩んでいたと思う。そうして今よりもずっとずっと幸せな青春時代を送っていたと思う。

 対人緊張症やノドの病気はそのままだったかもしれない。でも僕は長医でなくて九医に行ってたら小説家になりたいという野望なんて抱かずに留年もすることなくもうとっくに卒業していたと思う。そうしてもうとっくに結婚して子供も居たと思う。

 福岡に居るとき女の子と知り合いになる機会は何度もあった。それに天神の『フタタ』にときどき僕は食料品を買いに行ったとき何気なく立ち寄って、派手な服を(そのときは派手に見えたけど…でも19歳や18歳のボクにはちょうど似合っていたと思う。)買おうかな、とも思ったけど結局ボクは一つも買わず、家から送られてくるおじさんが着るようなものばかり着続けた。そうして僕は衣服に目覚めなかった。もしあの頃、衣服に僕が目覚めていたならば浪人のときに彼女ができて、そうして僕は長医とは違う大学へ行ってて、僕の人生は大きく変わっていたと思う。あの鮮彩色に包まれた地下や一階の『FUTATA』の衣服をもしも僕が一つでも買っていたならば。








                          (8月26日 夜)

 僕が8年前、信心をやめたとき、『ホッ』とした。でもそのときが僕の人格の崩壊というか、僕の人間性の堕落の始まりだった。

 信心をやめて本当に楽になった。テレビも見れるようになった。友だちともよく遊べるようになった。でも僕は自分の人格が崩壊していって、友だちがうわべだけの友情しか僕に示さないようになってきていたのに気づいていたような気もする。以前は友だちと接する機会も少なかったけれど、僕は真心を込めて友だちと接していた。広宣流布のため、創価学会を認識させるために僕は友だちに真心を込めて接していた。本当にあの頃の僕の心は純粋で、清らかだった。先輩たちもそんな僕を可愛がってくれていた。






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 菊池さんへ


 何度か大学病院で菊池さんを見ました。もしも僕が浪人していた頃、菊池さんに出した手紙をまだ持っていたら返してもらいたく思って手紙を書きました。持ってなかったら結構です。


              〒851-01

長崎市界町9の2

                    五船飛雄馬

                    39-4557







 石川さんは言った。大学2年のときだったと思う。僕が信心をやめて半年余りが経っていた夏のことだったと思う。

 僕はその日、網場道のバス停でバスを待っていると、いつもの『新免』の箱型の軽トラックに乗った石川さんが通りかかって僕を乗せた。信心をしていない、やめた、と言った。表情の冴えない僕を見て石川さんは言った。

『やめるなら五船君がやめると思っていたよ。五船君は誰よりも熱心に信心をやってきた。でもやめるなら君がやめると思っていたよ。』

----僕は○○君や○○君たちは信心を続けているのか聞いた。

『ああ、続けているよ。』


(僕は信心をしていなかったら、楽な人生を歩んでいたのかもしれない。楽しい青春時代を送っていたのかもしれない。こんなに苦しみに満ちた人生を歩んでこなかったのかもしれない。でも僕は後悔なんてしていない。僕はただ7年半退転してきたことを後悔している。信心を続けていたら苦しくても楽しかった7年半だったにちがいない。学生部員としてとても充実した青春を送っていたに違いない。


 7年半退転してきて本当に地獄でした。僕は自殺の一歩手前までいっていました。睡眠薬を一度に何ヵ月分も飲んだり、タバコを飲んだりして自殺を図ったこともありました。冷たい冬の日に柔道の帯をジャンバーの中に隠し持って首を吊る木を求めて歩いた日も何回もありました。

 でも僕は去年の11月ぐらいから少しづつ、少しづつ、信心に目覚めかけてきました。少しづつでした。一日したら一週間やっぱり創価学会の信心はしないと心に決めていたりするのを繰り返していました。

 僕がこの信心をやっぱりやろうと心に決めたのは今年の4月5月ごろからでした。12月、1月、2月、3月と、僕は創価学会に戻ろうと思っている日よりも他の信心をしようと思っている日の方が多かったです。でも4月、5月、6月とどんどんと僕の創価学会に戻る決意は強くなってきました。そして10月になってからは他の宗教の所へ行かなくなりました。5月に○○○○と○○○のところに一回づつ行ったきりでもう行かなくなりました。そして勤行をほとんど欠かさなくなってから2ヶ月近くが経っています。

 最初の一週間、(勤行を始めた一週間)劇的なぐらいに一日一日と二年もの間僕に巣喰ってきた希死念慮が消えていくのを知って驚きました。その頃僕は勤行は形式だ、と言って唱題だけしていました。唱題だけ一日に平均して30分ぐらいしていたと思います。唱題すると本当に元気になりました。でも希死念慮は去っていってくれませんでした。そして僕は勤行は決して形式ではないことを知りました。

 7月になって選挙がありました。僕はここでも退転しかけました。創価学会をやめてただの日蓮正宗の信徒になろうと思いました。でも拠点で一時間題目をあげたあと友だちや知人のところに選挙を頼む電話をするときの楽しさは不思議でした。そしてそのあと家に帰るときのバイクの上での楽しさもものすごくて不思議でした。

 思えば6月の中旬だったと思います。その日一日じゅう家に居てその日夕方ある本部幹部会に行こうか行くまいか迷って結局6時20分ぐらいにやっぱり行こうと決意してクルマではもう間に合わないと思ってバイクに乗って出掛けたときの楽しさ…ものすごく嬉しくて楽しくて不思議でした。


 幸せだったかもしれない。

 信心しなくてもノドの病気に罹っていなければ。

 それにそうしたらこの一番悩んでいる高三のときに罹った対人緊張症にも罹っていなかったのかもしれない。

 でもよく考えてみると、もしも僕が信心してなかったら僕の人生は暗黒だったかもしれない。本当によく考えてみると、大学一年の頃まで謗法を犯したりしたり信心が惰性に流されたりしてきたことがあったけれど、僕のこの対人緊張症はあの上小島の霊能者のところに喉の病気を治して貰いに行ってからこうなったのだと思うけど、そうして僕は現役で九大の医学部に合格できてたのに結局一浪して長崎の医学部へ来てそうしてもう3年も留年してしまったのだけれど。そうしてまた留年するのかもしれないけれど。


 木村君は言った。『この信心をしていけば必ず良い方向に向かっていきます。一時的に悪くなったように思えても、必ずいい方向に進んでいきます。』

 僕も、高校三年の2月13日に、上小島の霊能者のところへ喉の病気を治して貰いに行きさえしなかったらこんな病気に罹らずに現役で九大医学部に合格できてた。謗法を決してしないで純粋にこの信心をしてゆけば、必ずいい方向に進んでゆくんだということを僕は知っていた。

 そしてものすごく元気になることを。一日、2、3時間題目をあげていた浪人の頃、あまり対人緊張は強くなかった。たしかに成績は落ちたけど、一日2、3時間題目をあげていたので対人緊張は強くなかった。







 (9月2日、明日、8年ぶりに九州学生部幹部会へ行くのを前にして)

 8年前も夏の日だった。一台がオーバーヒートして、パイプから蒸気が吹き出した。そうして二部の人が修理してくれた。冷却水が不足していたのだったのか、ファンのベルトが切れていたのかだった。でもそれからは何もなく無事だった。

 たしか六台で行ったと思う。でも8年後の今は、大型のバスで50人ぐらいで行くという。8年前のあの頃、長崎の学生部は沈滞していたのだろうと思う。僕だけ必死に頑張っていたような、そんな気もする。あの頃、僕だけ必死に頑張っていて、僕だけ苦しんでいて、みんな付いてきてくれてなかった。


 ずっと前、僕が大学一年の夏の日に、僕らは福岡の西南大学の近くの九州池田平和記念会館目指して6台ほどのクルマで長崎を旅立った。ずっと前、暑い暑い夏の日だった。一台が佐賀でオーバーヒートして止まったぐらい暑い日だった。もうあれから八年経とうとしている。八年前、僕が元気だった頃、八年前、僕が元気いっぱいだった頃から。


 僕を明日の九州学生部幹部会へ参加させる決意をさせたのは僕が夜の勤行をしていて読経を終わって唱題に入ったとき、部屋に入ってきて、僕の後ろで一緒に題目を唱え始めた寺尾君だった。僕は普通なら10分間で題目は終わるはずだった。でも寺尾君も一緒にするようになって気合いが入って、(中等部の頃、僕が中心になってしていた田平さん宅での勤行会を思い出したようになって)一時間題目をあげた。寺尾君が一緒に題目を唱えるようになった途端、不思議に声がかすれてあまり出なくなったけど、僕はあまり出ない声をふり絞りふり絞りしながら一時間題目をあげてそうして明日福岡での九州学生部幹部会へ出る決意を固めたのだった。それまでは明日のその会合には出ないで勉強しているつもりだった。


 8年前の元気だった自分が戻って来ているみたいだ。苦しくてきつくてたまらなかたけれど、とても元気で明るかった僕が戻って来ているみたいだ。


----土曜日毎に自転車で東望の田平さん宅へ行っていた勤行会。中等部の頃、よく僕が中心になってやっていたあの勤行会を僕は久しぶりに思い出したようだ。そして月一回日曜日にあってた部員会も。


 もう遠い昔のことだけど、元気だった僕が題目の声とともに戻ってきているみたいだ。もう遠い昔の僕が。







      (9月3日。九州学生部幹部会に出席した夜。)

 僕は迷いました。この信心は元気にはなる。でも幸せになれるのか、かえって生活への過重な負担のため貧乏になるのではないのかと。

 でも確かに劇的に元気になれる。どんな不幸にも耐えてゆける力が不思議に沸き上がってくる。そして人の幸せを願う大きな心も。

 瞑想法をやっても自律神経訓練法をやっても僕の病気は治らなかった。僕は落ち込むばかりだった。

 死を何度思ったことだろう。去年だけでも何十回にもなるかもしれない。

 何度か自殺を図った。みんな失敗した。そしてもし僕の家に御本尊様がなかったら僕は本気で自殺をしていて今頃は本当に死んでいた気がしてならない。


『いや、僕はここに来たことがある。たしか学生部の始めの頃だった。そして前の家が創価学会嫌いで有名なことを先輩から面白く聞いた。その家もまだあった。大きな古いその家が。

 僕は二回福岡へ学生部のころ来たことになるのだろう。汽車に乗って学生部のみんなと来た記憶はなかった。クルマで来たことしか記憶にない。たしかあの日も日曜日で僕ら長崎の学生部は朝8時前にはもう長崎をクルマ5台ぐらいで旅立ったと思う。そうして4時間半ぐらいかかって福岡へ着いて…ああたしかそれからそのとき出来たばかりの西南学院の近くの池田平和記念会館には記念品展があっていてそれを見に行ったのだった。そしてそこで昼ごはんを食べて2時ぐらいからの九州学生部幹部会へ参加したのだった。

 九州池田平和記念会館にはいろんな記念品があったけど僕らはそれを30分もかからないで見てしまって昼ごはんを食べた。近くに海があったし、僕らの6台ぐらいのクルマも悠々と置かれたし、僕らはそこで『ほかほか弁当』をとって食べたと思う。そうして食べてから南区の会館へ来たのだと思う。----二度も学生部の会合で福岡にみんなで行ったことはなかったと思う。一度きりだったと思う。真夏のある日に僕らが福岡目指してクルマで走ったのはたしか一度きりだったと思う。


 僕は退転しなければ良かった。八年前、退転しなければ良かった。そして今の僕の姿は何だろう。七年間退転してきて、この一年間信心に戻ろうか戻るまいか迷い続けてきた僕だった。


 ボンさんを連れて三幸荘へ行ったことがある。そのとき誰もいなくてたしかそのとき九州学生部副書記長だった歯学部の6年生の大分から来た人の部屋でステレオを聞いた。

 30分も…一時間も待ったけど誰も帰ってこなかった。

 そうして僕とボンさんは再びバスに揺られて帰った。バス停へ行く途中、高校時代、ボンさんが好きだった○さんとすれ違ったけれど。僕らは再び別府橋のボンさんの下宿へと帰った。







                         (9月5日 夜)

 8年前の、大学に入学したばかりの僕に戻れたら。もしもあの頃の僕に戻れたら。

 明るかった。とても明るかった。明るすぎて葬式のときにも(僕が大学一年の5月始めに祖父が(僕が一番慕っていた加津佐のじいちゃんが)死んだし、母方の祖父が死んだのは、あれは僕が小学5年生か6年生の10月か11月頃だったと思う。)僕は微笑んでいた。たしか僕が微笑んでしまったのは母方の祖父の3回忌のときだったと思う。僕が高校2年の秋の頃のことだったと思う。

 僕は元気だった。とても元気だった。大学一年の6月半ばに折伏のためにと思って長大の裏門の近くの森下宿に下宿した。でもその下宿は3週間ほどでやめた。そして森下宿を引き払う途中、バイクで20Km以上オーバーで始めて警察に捕まった。今まで、交通違反で罰金を払ったのはそのとき一回きりなのに。

 いろんな現象が、第六天の魔王とともに僕に降り懸かってきていた。僕を信仰の世界に戻らせないようにする第六天の魔王の力は強力だった。このまえの中場のばあちゃんのお通夜に行った帰りの居眠り運転のことも、そうして僕が創価学会に戻ろうと思って折伏に行ったときに起こったバイクの故障も。


 今日、学校帰りに、十年ぐらい前、高総体のときに出会った女の子を捜し求めて、……

 明日は土曜日だったし、そうして学校へは行っても行かなくても良かったし、

 十年ぶりに僕はあのコのことを本気で思い出して(クスリが切れかけていたし、もう卒業試験が間近に迫っていたし、それに久しぶりに晴れていたし)僕はバイクの代車の上で今度から行く内科の病院を捜しながら物思いに耽っていた。

 ----あの十年前の日、


 昨日、雨の中、県立図書館からの帰り、卸団地に入っていって、薬品の倉庫の卸の横で方向転換した。方向転換するとき、誰もいない薬の問屋の敷地の中を通った。建物の横にクスリの空き箱とプラスチックの容器が(もちろんもう要らなくなったのだろうけれど)あったためそれを取ろうかな、と思ってそこで方向転換したのだった。

 日曜日だったのでその問屋は反対側のずっと向こうの受付のような所しか開いてなかったようだった。でもそこには何人か居た。

 家に帰ってものすごく心配になった。警察でクルマのナンバーを調べて家に来るのではないかな、と思った。もういっそ、死んでしまおう、とも思った。

 もうクスリがあまり効かなくなっていてかなり大量に飲まないと人の居る処では勉強できないようになっていた。


 僕は今からまたワープロを使い始めた。2、3年前によく使っていたその頃のローンで18万円近くした通信販売で買ったキャノワード360をまた使い始めた。僕はこのために文学に凝りすぎて学3から学4に進むときの試験に落ちたのだけど。もしその頃あんまり文学に凝ってなくて真面目に勉強してたら留年はうまく行ったら2年で終わっていたのに。もう留年は5年目を迎えている。教養のとき、学一のときの留年だけで済んで、もうとっくに医者になっていた可能性がとても高いけれど、でもそのために僕の文学が確立されたと思うと(親への強い罪悪感や自分の自殺直前の苦しみがあるけれど)却って感謝しなければいけないのかもしれないと思う。





                完

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1989・夏 @mmm82889

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