1989・春
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1989・春
1989・春
カメ太郎
人のためになってゆこう。自分を犠牲にしてゆこう。自分の人間形成のために、自分を犠牲にしてゆこう。
創価学会をやめ何も信じれられなくなった僕は、そして人間形成のための方法を失った。何を自分の人格形成のためにすべきかとても迷っている。
他人のための行いを実行してゆくことだろうか。それともやっぱり創価学会に戻るべきなのだろうか。
創価学会を信じきれると僕は人間的にも立派になれるし、人生の目標がきちんと決まる。でも僕は、疑い深い僕は創価学会をやめた。何が真実か僕には解らない。吃音者のために、また痙攣性発声障害の人たちのために命を賭けてゆくのが正義のような気もする。
疲れ切りました。僕は26歳になって春の海の中に溶けてゆくんですね。青いまだ冷たい三月の海の中に。
(S63・3・18)
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春がやって来る。僕を明るくさせてくれる春がやってくる。僕を元気にさせてくれる春が。暖かい潮風や波の音とともに。
春の日差しは僕を、遠い過去へと連れてゆく。楽しかったあの頃。元気だったあの頃。
あの頃、僕の傍にはいつもゴロがいて(ポインターと土佐犬の合いの子だった)学校から帰ってくるとよく浜辺まで走って散歩に連れていっていた。ゴロは飛び跳ねるように僕にじゃれついてきていたし僕もあの頃元気だった。
あれは中二の頃だからもう13年も前のことになるだろう。僕らは春の日差しに照らされて浜辺まで一生懸命に走っていた。
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(3月25日)
友だちは、僕が憂欝だと言うと、彼女でもつくって明るくなったら、と言うけれど、僕は革命家だから、僕はそんなことでは満足しない。
僕が満足するのは、命を賭けられるものを見つけたときだろう。つまり不幸な人をたくさん救ってゆける道を見い出したときだろう。
医学では少しの人しか救えない。その人の病気を癒してあげても心までも癒してあげることはできない。
もしも僕が命を賭けられるものを見い出したら、僕は昼も夜もそのことに没頭するだろう。なりふり構わずに一生懸命にそのことに没頭するだろう。
でも、僕には力が、以前のようなファイトはなくなってしまっている。体は重く、気分も沈んでばかりいる。
----僕は久しぶりに母の実家に来ていた。もう老い先長くない祖母の看病をしたい母とみっちゃんをクルマに乗せてここへ来ていた。僕はずっとクルマの中で勉強していた。でも勉強に疲れて僕は久しぶりに…何年ぶりに…この岸辺へやって来ていた。----
遠い昔に僕はこの岸辺から遥か遠くの日見の町を眺め遣ったことがある。あのときはゴロも一緒だった。そうして僕は元気だった。たしかあれは僕が中二の頃だった。僕は希望にいっぱいだったし、
遠い昔…遠い昔に僕は元気いっぱいにこの岸辺へやってきたことがある。あの頃は信仰に燃えていたし…
奇跡的に立ち直るにはもう文学を棄てて勉強と信仰のみに生きるべきなんだろうか。
遠い昔に僕はこの浜辺にやって来た。
波の音は僕を…遠い昔へと連れてゆく。中学の頃…十四の頃のあの頃に。元気いっぱいだったあの頃に。
厳しい日々だったけれど楽しかった…あの中二ごろの日々は。一日五時間ぐらいしか寝てなかった。信心と勉強とクラブを両立させることに懸命だった。勤行・唱題に一日二時間40分ぐらい使っていた。そうして仏壇の掃除や教学にも一日40分ぐらい使っていた。勤行などにいつも12時近くまでかかっていて12時近くから勉強していた。だから寝るのはいつも2時を過ぎていた。そして7時ぐらいにいつも起きていたと思う。あの頃は完全燃焼していた。きつかったけど楽しかったし、僕はとても元気だった。
もしも僕が幼い頃、信心をしなかったら、僕は中一の冬に喉の病気に罹らなくて、僕は大空を、○○さんやゴロと一緒に飛べたのかもしれない。僕はもう27になって、僕はまだ一人ぼっちで、そして淋しくて、再び僕を喉の病気にした信仰へ戻ろうとしている。淋しいから、淋しくてたまらないから、僕はもう一度少年の頃の信仰に還ろうとしている。
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(3月26日)
僕は重い宿命を持って生まれてきた。いつも宿命に泣いてきた。でももう負けない。これからは決して負けない。
辛くてへこたらがちだけど、辛いことばかりが多いけれど、僕よりも辛い人は世の中にいっぱいいることを思うと、僕はまだ恵まれている方だと思うと、僕はめそめそとしてばかりはいられない。僕は今日からは、少なくとも明日からは、しっかりとした自分になって父や母を安心させてやりたいし他の人にも迷惑をかけてばかりはいられない。僕は生まれ変わって、僕は太陽のような自分になるんだ。
(3月27日)
もう春になってきた。クルマの中もポカポカと暖かくなってきた。僕の自殺念慮 も春の陽炎とともに消えて、もうこれからは夏になることに、もう寒さに震えなくていいようになることに、まるで僕の人生のようだった冬が終わろうとしていることに、僕はとても喜びを感じている。
空を見上げれば青い空が眩しく輝いている。何ヵ月ぶりに…いや何年ぶりに見る空だろう。2年続いた憂欝の季節は過ぎ去り、死神が僕から離れていっている。2年間も僕を悩ませていた死神が去っていっている。
僕はその死神さんに手を振っている。後ろ姿を見せて逃げるように走っていっている死神さんに。死神さんは僕を殺すことはできなくて、僕はちゃんと元気になっている。
(3月27日 真夜中)
熱い炎が降ってきて僕の体を焼き焦がすとき、僕は少年の頃の楽しい思い出を思い出しながら死んでゆくだろう。体が燃えてとても熱くても、僕の心の中は幸せでいっぱいになっているだろう。…きっとこれから○○さんやゴロと再会できるから。
(3月28日)
寂しさに耐えられなくなったとき、僕はソッと外を見る。親への申し訳なさと自分の情けなさ・罪悪感。もう春になって外は眩しいのに僕の胸の中はまっ暗で、もう信仰を始めるしかないような気がする。
小さい頃から大学一年までやってきた創価学会に戻るしかないような気がする。元気にならなければいけない。元気になって親を安心させてやりたい。
それに社会的正義感のためにも創価学会に戻るべきだと思う。苦悩に沈む人、絶望の思いにとらわれている人を元気づけ勇気づけてくれる不思議な力を持った創価学会だから僕は再び立ち上がろう。7年余り僕は創価学会から離れて他の信仰をしたり瞑想法をしたりしてきた。でも僕の病気は治らなかった。中二の頃、創価学会のお祈りのし過ぎで罹ってしまった喉の病気は創価学会をやめてからも全然良くならなかった。僕はこの喉の病気のため中二の頃からものすごく苦しんできたし恋もできなかった。僕はずっと喉の病気を恨んできた。またこの喉の病気にした創価学会の信心を7年余りずっと恨みつづけてきた。
でも僕は今、不幸な人たちを救えるのはこの信心しかないと思うからもう自分の喉の病気のことなんてどうでもいい、この信心に再び立ち上がろう、自分のことなんてどうでもいい、喉の病気のためにめちゃくちゃにされた僕の青春かもしれないけれど、母のため父のため、姉やほかの人たちのため僕は再び一生懸命にこの信仰をしよう。もうどうなったっていい。喉の病気が一生治らなくたっていい。喉の病気になったことを却って感謝してゆこう。喉の病気は功徳なんだと思っていこう、と思っている。
『自分だけ…自分だけのことしか考えることのできない自分から脱皮したい。だから僕はこの信心をするんだ。幸せにもなりたい。でも幸せよりも僕は他人のことを考えてやることのできる自分になりたい。
でも僕には確信がない。この信心が本物かどうか僕には確信がない。』
『もしこの信心が嘘だったらこの世は闇だ。そのときは僕は死を選ぶかもしれないし』
『この世は闇だ。希望も何もない。ただ堪えて…苦しみにも堪えぬいてゆくしかないんだ。もうそれしかないんだ。』
『僕は人生に絶望ばかりしてきた。自分の運命を呪ってばかりきた。でもこの信心には暗い人生を切り開いてゆける力があるんだ。もう僕らは運命に泣かなくてもいいんだ。
僕らは重い宿命を持って生まれてきた。僕らは幼い頃から自分たちの運命に泣いてきた。でももう僕らは泣かなくってもいいんだ。』
僕はこれから再び革命家になって、そして今度こそは失敗や退転したりしないで、そうして不幸な人たちを今度こそは次々と救ってゆくつもりだ。そうして今まで両親や姉や他のいろんな人たちに迷惑ばかりかけてきたけど僕は今からは太陽のような存在になるんだ。僕はこれからはきっと変わるつもりだ。僕は大きく大きく変わるんだ。
(敏郎さん 頑張って 敏郎さん 頑_」ってね)
----星子さんはそう言いながら再び赤い炎の揺らめく地の底へと落ちていっていた。星子さんはいつまでもいつまでも見えなくなるまで僕に手を振りつづけていた。
(夢での会話 4月1日 朝明け)
目を閉じると青い海とコバルトブルーの空が見えてくるだろう。白い砂浜と砂浜を駆けてくるゴロの姿が見えてくるだろう。もう十何年も前のことなのかなあ。青い海やコバルトブルーの空は僕らの少年少女時代の頃を思い出させるね。遠く過ぎ去ったもう十何年も前の思い出だけど(そして星子さんやゴロはもう十何年も前に僕一人残して死んでしまったけれど)僕は今でもちゃんと思い出せる。懐かしい懐かしい純粋だったあの頃の思い出は孤独な僕を…今にも孤独のあまり発狂しそうな気もしてくる僕を慰めてくれる。
不安で打ち震えるとき、僕はソッと家を出て夜のこの浜辺へやって来るけど、この何年間ずっと一人きりの僕の心は目を閉じることによってあの頃のゴロや星子さんの姿をありありと思い浮かべることができる。
遠く過ぎ去ったはかない思い出は僕を、大学入試のときのような勉強に再び追い込まれ始めた僕の心を慰めてくれる。恋人もいなく友人も少なくて、僕はこの頃ふたたび創価学会に戻ろうかどうしようかと迷っている僕だけど。
もうこの浜辺も寒くありません。夜明け前の浜辺で雲仙岳や天草や遠く阿蘇の山々が白々と煙って見えてきます。僕の心も今、夜明け前を迎えようとしているのかもしれない。僕は立ち上がりかけているのかもしれない。7年間僕は落ち込んできた。でも再生の時が今訪れようとしているような気がする。
やがてこの海原も暑い海原となって、炎のような赤い色に染まる日が近づいているのかもしれない。星子さんが言っていたノストラダムスの予言の日はどんどん近づいていっています。星子さんが言っていたノストラダムスの予言の日々はどんどん近づいていっています。星子さんやゴロは幸せな時代に逝かれて幸せだったのかもしれない。そして一人取り残されている僕はとても淋しい哀れな存在なのかもしれない。
僕は自分の幸せは捨てよう。僕は不幸な人たちのためだけに自分の命を捧げてゆこう。僕は自分がどんなに苦しんだっていいから、困っている人のため、犠牲になってゆこう。どんなに辛くってもいいから、僕はこれから人の幸せだけを願って生きてゆこう。
(4月3日 p.m.6:00)
僕は輝く存在になるんだ。僕はこれからは泣かないし、僕はこれからはきっと誰にも迷惑をかけない。
広布に走ろう。世界広布を目指してまっしぐらに走ろう。
(7年間 4月4日)
僕はこの宗教をやったために喉の病気になったのだと思ってきた。僕はこの宗教を呪い、無神論者になったり、瞑想法をやったり、自分のことしか考えない自分になっていった。
僕の心はだんだんすさんでいった。親戚や家族や友人たちは暗く陰鬱になっていった僕のことに気付いていただろう。7年間僕はこの信心から離れていた。僕は自閉的になり、友達ととも親しくせず、親戚の所へも行かず、親戚の人が遊びに来ても自分の部屋に閉じ込もりっきりで下へ降りてもゆかなかった。
その間、僕は三度も留年を繰り返した。自殺も考えていた。何度も自殺直前まで行った。僕はものすごい対人恐怖症になっていた。人と同じ部屋に居ると緊張してしまってどうしようもなくなっていた。僕は誰をも避けるようになっていた。7年間はあっ、という間に過ぎた。一人っきりの7年間だった。
8年前、僕は苦しく、見た目こそは悪かったけれども、僕の魂は美しかった。そんな僕を従妹弟たちはとても慕ってくれていた。僕はあの頃、本当に見た目は悪かった。格好を全然構ってなかった。事故を飾ることは悪いことだ、と思っていた。信仰をやめてから僕は自己を飾ることに耽った。僕は外見こそは良くなった。でもそれは虚飾だった。僕の魂は落ちる処まで落ちていっていた。
淋しい7年間だった。僕は馬鹿なままでこの信心を疑わずに続けてきていればよかった。僕はこの7年間この信仰をする奴は馬鹿だと思い続けてきた。でも馬鹿の方が良かったし、馬鹿の方が正しかった。信仰とは馬鹿になってやるものだ、と僕はやっと気付いた。
(4月7日)
淋しかった。僕は淋しかっただから。
孤独に耐えきれなかった。それに元気になって母や父を安心させてやりたかった。もう春なのに僕の心のなかは冷たい風がまだ吹き荒れていた。でも自殺だけは不思議にも考えきれなくなっていた。もう死神が僕から去っていったらしかった。またそれだからこのまえまで僕が創価学会に戻ろうと決意するたびに起こっていた不思議な現象(災難)も起こらなくなっていた。
僕は元気になって母や父を喜ばせてやりたいし、僕は広宣流布に役立っていって不幸に沈んでいる人たちを救ってゆきたい。そして僕にはもうその決意が強く固まっている。
死神はもう去ってゆき、僕はもう立ち直りかけている。まだ少し…まだ少し迷っているけれど。
桜の花はもう散りかけている。僕の心も疲れ果てているけれど…そして頭がとても重たいけど…僕は僕より不幸な人たちを救ってゆくために今から戦ってゆくんだ。僕は今から革命家に(7年前のように)戻って戦うんだ。広宣流布のため不幸に沈んでいる人たちを救ってゆくために戦ってゆくんだ。自分は炎になって、七年前のように炎になって、再び戦ってゆくんだ。
(4月7日 夜)
もしもこの信心が正法でなければ、この世は闇だろう。そして僕の人生も闇だろう。
かつてキリスト教の伝道師たちは地位も財産も命も棄てて伝道をした。僕らはあまり何も棄てないで伝道しようとしている。僕はそれなのにためらっている。卑怯なのかもしれない。
でももしも僕にこの信心に絶対の確信が持てたなら、僕もかつてのキリスト教の宣教師のように命も何も棄てて伝道をするだろう。
この世は闇で僕らは修業をするために(苦しむために)この世に生を受けたのだとある霊能者は言っていた。それが本当なのかもしれない。しかしこの信心をすると元気になれるから、いい事が起こるとか何もかもうまく行くとかそういうことはないようだけどとにかく元気になれるから、いじけないから、くじけないから、そのためだけでも僕はこの信心をしていこう。
(4月9日)
僕の心はすさんでいた。僕は本当に自分のことしか考えない人間になっていた。友達も次々と僕から離れていったし恋人なんて全く縁がなかった。僕は誰よりも孤独を楽しむ人間になっていた。
今朝も自殺を考えた。でも以前のように本気になれないのは何故だろう。僕はこれから創価学会を心の支えにして生きるだろう。大学一年の頃までの情熱の日々を僕はふたたび思い出そうとしている。孤独だけども眩しいこの日曜日に。
僕はもう孤独は感じないだろう。もう僕のには革命のために命を賭けて戦う友がたくさんいる。僕はもう昨日までの孤独な自分ではないだろう。僕はもう決してへこたれないし、いじけないし、自分のことしか考えない自分ではなくなっているだろう。
(4月12日)
僕は2日間離れていた。僕は2日間、瞑想法にしようかキリスト教に入ろうか迷っていた。3日前は仏壇の前で瞑想を一時間あまりした。すると体がスーッ、と浮き上がったようになって恍惚状態になった。気分がそうしてとてもすがすがしくなった。でもそれ以上とても怖れ多くてできなかった。僕のしている事はとても謗法になるのじゃないかと思って怖かった。
僕は創価学会が信じきれない。でもたしかに元気になれる。元気すぎるほど元気になれる。
僕はおととい『愛、調和、感謝、希望、治癒』と書いた紙を貼ってその前で瞑想をした。今もその紙は僕が作った新しい瞑想法(宗教)として僕の部屋に貼ってあるだろう。僕はとても迷っている。僕はいったい何が真実なのか全然解らない。
『真実とは何か、ということを、人は考えないでいいと言う。人間は何のために生きているのか、人間は何故生まれてきたのか、考えなくていいと人は言う。でも僕は考えてしまう。僕は今日も不幸に沈んだ人を見てきたし、絶望に打ちひしがれて人を見てきた。僕にもし真実が解れば、僕は苦しんでいる人たちを救ってゆくことができる。真実が何かということが解れば僕は人を救ってゆくことができる。
(4月13日)
僕は、死んだっていい。僕は死んだっていいけど、残された母や父のことを考えると死ねない。僕は、今にも森の中に入って行って死んでしまいたい。いろいろなプレッシャーや淋しさ、苦しいことばかりで楽しいことがほとんどなくて。でも僕の母もそうだったじゃないか。僕のためにものすごく辛い日々ばかりだったのだろうけど必死に働いて今まで育ててくれてきたじゃないか。それに世の中のたくさんの人たちは苦しんで苦しんで生きている。
死んで苦しみから逃れることができるものなら死にたい。もう母や父のことはどうでもいいから死んで苦しみから逃れることができるのなら死にたい。
恵まれた人たちは恵まれた人たちで楽しく幸せにやっていけばいいだろう。でも僕ら苦しみに打ちひしがれている人間はもう宗教に頼るしかない。幸せな人には宗教は必要ないだろう。でも僕のように苦しみ淋しさに打ちひしがれている者には宗教がなければ生きてゆけない。
でも僕には宗教が何が真実なのか解らない。僕は解らない。
駐車場の傍の道を元気な中学生たちがはしゃぎながら歩いていっている。僕もかつては元気だった。あの頃は幸せだった。でも僕は今夜にも死んでいこうとしている。楽に死ねるクスリを僕はちゃんと手に入れている。
(4月16日)
愛子へ。(もう僕のことなんかほとんど忘れてしまっていると思うけど、お酒を飲んだら急に愛子のことが慕わしくなってきてこの手紙を書き始めました。もう愛子は結婚しているかもしれないけれど…)
僕もうまく行けば来年には卒業して医師免許を取れるようになりました。留年していた去年は僕はとてもいじけていて、今にも自殺の一歩手前の僕でした。でも僕は立ち直りつつあります。愛子と出会った頃はもうやめてたけど、僕は小さい頃から大学一年の11月まで一生懸命に創価学会の信心をしてきました。僕は革命だと信じて命がけで一生懸命やってきました。でも疲れ果ててやめてから一年半ほどして僕は愛子と出会いました。まだあの頃の僕は元気でした。そして文通していた頃の僕もまだ元気でした。
僕は今、7年半ぶりに創価学会に戻ろうとしています。僕はものすごく悩みました。煩悶し過ぎて自殺直前まで何度も行きました。このままでの自分では駄目だ、駄目だ、とは思うもののどうしようもありませんでした。でも自殺を決意したとき心の中で南無妙法蓮華経と題目を唱えると不思議に力が湧いてきて希死念慮が消え去ってしまう現象を十何回も経験しました。
僕は生まれながらの革命家というか、小さい頃から不幸を背負ってきたため人の不幸を見過ごすことのできない人間です。僕は創価学会に戻ろうと思っています。そして悩んでいる人、不幸に打ちひしがれている人たちのために命を賭けて戦おうと思っています。酔ってしまって筆が乱れているけどすみません。愛子、元気で頑張って下さい。いつまでも元気な愛子でいて下さい。
4月17日 夜 ゴメンネ、
(4月18日 真夜)
疲れ果てた僕の耳に聞こえてくるのは懐かしい愛子の声だろうか。長い長いもう8年を過ぎた大学生活の中でただ一つの恋だった。福岡に行って音信も不通になった愛子の声だろうか。僕は共産党に入ったと手紙に書いたけど、共産党はすぐやめて創価学会に戻った。僕は馬鹿じゃない。唯物論を信じる馬鹿じゃない。愛子も創価学会を信じてくれたらと思うけど、不幸な人のためにも創価学会を信じてくれたらと思うけど、不思議なほど力の湧いてくる創価学会を信じてくれて、くじけている人、不幸に沈んでいる人を救っていってもらいたいけど、愛子はとても人柄が良くてみんなに好かれるから、僕はそう思うけど。
(4月21日)
僕は裏切り者になるよりも不幸の方を選ぼう
たとえこの信心が間違っていても、これだけ元気になれる信心だから、僕は小児マヒなど不幸に沈んでいる人たちのためにこの信心を教えてゆこう。たとえこの信心が間違っていても、これだけ生きる力を与えてくれる信心だから、僕も信じぬいてゆくし、他の人にも勧めてゆこう。特に不幸に沈んでいる人にこの信心を勧めてゆこう。
瞑想法は危険だし観念論に過ぎないし、僕はたとえ馬鹿だっていいから、この信心を貫いてゆこう。どんなに辛いことが起こっても、たとえ僕が広宣流布のある意味での犠牲者になったとしても、元気になれるから、明るくなれるから、僕はこの信心を貫いてゆこう。みんなから馬鹿だと言われても、みんなからいじめられても、災難が次々と降りかかってきても、僕は馬鹿になって、不幸に沈む人に力を与えてくれる信心だから、僕は馬鹿になって、信じてゆこう。たとえ死んでも信じてゆこう。拷問に会ったって、僕は信じてゆこう。
(4月22日)
僕は酒を飲んでフラフラと浜辺へと出て、この頃また信心を(創価学会の信心を)するようになってとても元気になってしまった僕は、この土曜日、明日魚釣りに行こうかな、どうしようかな、と何年ぶりに考えています。
酒の量はこの頃たいへん増えて一日日本酒2〜3合になってしまったけど、(やっぱり元気になったから遠慮しなくて飲むのかなあ、と思っています)僕には不幸な人たちを救ってゆく使命があるんだから魚釣りに行くなんて魔の誘惑だと思ってはねつけていこうと思っています。それよりも小説や詩を書いたり、英文の医学書を読んだりする方がずっとマシだ、と思っています。
七年間の暗かった闇を吹き払って僕は、胸の中に明るい光が輝き始めたのを覚えている。小さい頃から大学一年の頃まで輝いていたその光は、小さい頃から大学一年の頃まで僕をそっと支えてくれてたけど、七年間離れていてその光は薄れ出し、この2年間はもう光らなくなっていて、僕は自殺直前まで行っていた。何度も自殺しようと思った。でもいつも直前でやめていた。今もまだときどきその誘惑が湧いてくるけど、僕は胸の中の光をもっと輝かせるようにして、もっともっと元気になって、僕は自殺だけはしてはいけないし、明るく元気になって、父や母を喜ばせてやりたいし、今まで苦労し�トきた父や母を幸福にしてあげなければならない。決して死んではならないし、今から思いっきり親孝行をしていかなければならない。
(4月24日)
僕は、人間としては立派になりたい。気違いと言われたっていい。アホだと言われたっていい。僕は愚鈍なほどに創価学会を信じてゆこう。アホだと言われたって、愚鈍だと言われたって、
(4月24日)
生きることに、強い不安を感じながらも、死ねない。今日も歯を喰いしばって生きてゆこう。
全てを捨てて、全てを投げ出して、森の中に入ってゆきたい。たくさんの睡眠薬を手に持って。
眠り続けたい。いつまでも。こんこんといつまでも。いつまでも。とても気持ちよく。
いつまでも眠りたい。学校へ行きたくない。もうこのまま永遠に、静かに安らかに眠りつづけたい。
僕は小学4年のときにすでにガンノイローゼになりました。小学生の頃、夏休みや春休み、冬休みには父の実家の加津佐に帰っていましたが、祖父に連れられて畑に行くとヘビが恐くてたまりませんでした。幼稚園は半分も行っていません。幼稚園の頃は麻疹に懸かって一カ月以上休んだり、おたふくカゼに懸かって一ヶ月以上休んだり、いろいろな病気ばかりしていました。普通の人よりもとても治るのが遅く、それにそんな病気にばかり懸かっていました。
それに幼稚園の頃までは、毎日夕方には泣いていました。泣き始めるといつも一時間以上は泣いていました。店の階段で夕方ずっと泣いていたこともよくあったことも憶えています。
幼稚園の頃まで僕はいつも姉と姉の友達と遊んでいました。近所の一つ年下のヒロ坊なんかとも遊んでもいました。自分から友達を作ることができませんでした。
幼稚園で、僕は図工とか全然できなくて先生に怒られて泣きながら一人だけ最後までやっていたこともありました。それに幼稚園のバスの停留所から家までたった50mぐらいしかないのに僕は家まで帰れないでいつも原っぱのバス停で泣いていました。そしていつも父や母が叱りながら僕を連れに来てくれていました。
でも僕は小学校にあがると急に泣かなくなりました。始めこそ姉に連れられて小学校まで行ってましたが、そのうちに一人で走りながら学校に行って走りながら帰ってくるようになりました。母の祈りが通じたのかもしれません。母は親戚のおばさんを呼んだりしたりとても僕のことを心配していました。こんな僕が小学校でやっていけるのかとても心配していたのです。
小学生になって僕は変わりました。勉強もとてもよくできるようになって算数や理科は5でした。クラスのみんなと一緒にワイワイと遊べるようになりました。
でも僕はやっぱり内向的な友達と気が合って、その大人しい友達と2人で下校することが多かった。泣かなくなったとは言ってもやっぱり僕は内向的な性格のままでした。
(4月27日 朝)
何度も死のうとしました。その度に題目を唱えてきました。心の中だけで題目を唱えていたときもありました。何度も創価学会だけには戻るまいと思っていたときもありました。でも苦しくて苦しくてたまらなくなると題目を唱えると不思議と楽になることを知りました。不思議なものすごい力が題目にあることを知りました。
僕は今、創価学会に戻りつつあります。完全に戻るか…以前のように炎になってひたむきに純粋に信仰と活動に励むか迷っています。僕には他に別の道が…広宣流布のための別の使命があるような気もします。
ひたむきに活動するよりも別の道が…僕にはあるのだと思います。
泣きながら帰った道があった。中学や高校の頃よくあった。大学になってからはでも泣かなかった。僕はもう泣き疲れていたし、泣くことが起こるような授業にはもう出ていなかった。
(夢の中で… 4月30日)
僕がどんなに苦しんだか君は知らないだろう。でも僕は苦しんできた。小さい頃から高校時代までとても苦しんできた。いや、高校時代までじゃない。僕は27歳の今までとても苦しんできた。
(僕はお見合いをした○子さんを前にして博多の岸壁の傍でそう言っていた。もう5月になろうというのに冷たい北風が吹きつけていた。
すべてを捨てて信仰の道に走るか。でも僕が走らなければ後から誰かが使命を自覚して立ち上がってくれる。僕は僕の使命の道を走るべきだ。たとえ広布のために役に立たずとも挫折することになったとしても
僕は負けてばかりいた。そしていじけてばかりいた。でもこれからは負けない。もうこれからは負けない。
僕は自分の幸せは捨てた。いや、いつ頃から自分は自分の幸せを考えられなくなっただろう。僕の心は追いつめられて…迫り来る留年の恐怖に追いつめられつつある。(そして親への罪悪感と)もう自分の一時の悦楽をも考えきれないようになっていた。
いつからだろう。いや今も続いている。僕は自分の幸せというものを考えきれない。自分はもう幸せは要らない。欲しくない。と僕は思っている。
中等部の頃、高等部の頃、僕はもっと指導が欲しかった。でも誰も僕の家には来てくれなかった。
中等部の頃、石川さんという人が僕の家に来た。とても誠意のある人だった。僕はその人の指導を受けて信仰に立ち上がった。それまで家で一人だけ熱心に信心をしていた僕だったけど、誰も指導してくれる人がいなかった。僕は黙々と一人で信心をやっていたし、時折、少年部の部員会に参加する程度だった。
(石川さんは今どこにどうしているのだろう。聖教新聞の長崎欄を見てもどこにも載ってないし、部の拠点に行っても石川さんの電話番号は書かれていない。誰も石川さんを知っている人はいない。石川さんはどこに行ったのだろう。今どこで何をしているのだろう。
僕は石川さんを尊敬して信仰に立ち上がったのだし、またそのためにノドの病気にかかって中二の頃から二十七の今まで苦しんできた。でも僕は七年間信仰から遠去かっていたとき一時は石川さんを恨みこそしたけれど僕はやっぱり石川さんを尊敬してきた。またそうだったから僕は再び信仰の道に戻れたのだと思う。)
僕は今でも絶望感にとらわれます。いっそ死んでしまった方がマシだ、とよく思ってしまいます。でも僕は石川さんの誠意あふれる姿を思い出して僕は親のためにも負けるまい、くじけるまい、と思っているし、
(1989・5・3)
再び信仰の道に戻ることを、僕はとてもためらいを感じている。純粋にやっていた中学・高校時代。僕の心は美しかった。僕は信心から遠去かって、人のことを構ってやれない自分へと堕落していた。でも信仰の道に再び戻って8年前のような厳しい本当に毎日が厳しすぎるほどの日々が続くことを思うと、僕は卑怯にもためらってしまう。僕は卑怯なんだ。ためらっている僕は卑怯なんだ。
今日も自殺を何度も考えた。部長の部屋で勉強しながら“首を吊ること…手首を切ること…”を何度も考えた。僕は今日一時間半題目をあげた。目の前はものすごくすっきりしているけれど、魔が僕を信仰の道に戻ることを妨げているようだ。僕が自殺することを願っている魔が。
部長の部屋のあの天井の梁が、もし帯を通せるように空いてたら僕は今ごろ死んでいたかもしれない。でも首を架ける隙間は空いてなかった。手首を切るのも部長の部屋に血をにじますのが悪くって僕は切れなかった。布団や畳もめちゃくちゃにするのが悪くって、僕はできなかった。
孤独に耐えきれなくなった僕は、再び中学や高校の頃熱心にやっていた宗教をやり始めたけど、僕はもう一つ打ち込めないでいる。僕はもう純粋だった中学や高校の頃の自分ではなくなっている。
卑怯な僕は、炎になって再び信心に打ち込むことにためらっている。その道がどんなに厳しいか、と知っている僕は、ためらっている。
もしも僕が炎になれたら、中学や高校の頃のように、炎になれたら。
星
1973・6・18
(ゴロとペロポネソスの浜辺にて。)
ほら、カシオペアの7つの並んだあの星の、あの中の一つに僕らは今度生まれて来るんだね。ゴロ_B星子さんの顔が見えるだろ。ちょうどカシオペアのあの辺に。
(星子さん、今も僕には苦しい日々が続いています。でも僕はお題目を唱えながら必死に苦しい日々と戦っています。毎日毎日が僕にとっては真剣勝負です。他のみんなはノホホン、と過ごしているみたいだけど僕には心の中で題目を唱えながらでなければ生ききれない毎日です。
本当に辛いです。僕も星子さんのように死んでしまいたいと今日もそしてたしか昨日もそう思いました。でも死にきれないと言うか…僕には。
僕にはまだ希望があるから。僕には使命があるし御本尊様がある。厳しい血を吐くような毎日が続いています。でも僕は懸命に勉強してきっと医者になるんだ。僕は死ねないんだ。
僕は、カシオペアのあの辺の、小さな輝く星になろう。
小さくても…どんなに小さくてもいいから
僕は星になろう。
小さな輝く星になろう。
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(5・4)
僕は死のうと思ってきた。でもそれは幼い甘ったれた考えなのだと気付いた。僕は親のためには絶対に死ねない。親のために僕はどんなに苦しいこと厭なことがあっても死ねない。高校の頃までのようにひたすら題目を唱えぬいて、耐えていくしかない。
今も信心が足りなくて何度も自殺しようとかバイクで事故して死んだ方が楽だとか思ってしまう。でも僕はこれからは中学や高校の頃のように真剣に信心をして立ち直ってゆくんだ。自分は変わってゆくんだ。
苦しかった頃の僕は元気だった。どんなに苦しいことにも耐え抜いていた。でも今の僕は力を喪くして、何度も何度も“死”を考えてしまう。自殺や事故や病気になることを考えてしまう。
苦しかった頃の僕は元気だった。例えばどんなにスポーツで苦しいときにも耐え抜いていた。あの頃には希望があった。僕の未来は光り輝いているように見えていた。
でも今は未来はどんよりと曇っているようにしか見えない。暗い未来しか待っていないような気がしてしまう。生きていたってムダなんだと…楽しいことがなくって苦しいことばかりだからと…僕はつい自殺を思ってしまう。それとも事故して死なないかと。
僕は生きる意味が分からなくなってきていた。
今も思うことがある。遠い昔のはかない恋のことを。僕ゆえに自殺させた若い少女がいたことを。灰になりつつある僕の頭はかすかにかすかに憶えている。遠い昔に僕にも恋人がいたことを。僕も恋をしたことがあることを。
今も思ってしまう。森の中に入っていって、そうしてもう永遠にそこから出て来られなくなることを。苦しいことばかりが続く毎日に僕は疲れ、僕は今もそう思ってしまう。
何が真実で何が間違っているのだろう。僕はその思いに疲れ果て、柔道の帯を手に持って、森の中へ森の中へと歩いてゆく自分の姿を思い描いてしまう。かすかに微笑みを浮かべながら歩いてゆく自分の姿を。
遠い昔、もう十何年も昔に僕はよく夜遅くまで文通していた女の子に宛てて手紙を書いていたことを思い出す。遠い昔、本当に遠い昔だけど。
遠い昔、遠い昔にそういう女の子がいたことを。遠い…本当に遠い昔だけど、僕は思い出してしまう。
元気だったあの頃、学校は本当に辛かったけど元気いっぱいだったあの頃。
あの頃に比べると今はずっと楽なのに。本当に楽なのに。
かすかに微笑みを浮かべながら、柔道の帯を手に持って、森の中を歩いてゆく自分の姿を思い描いてしまう。そのはかない自分の姿は、もう春なのに、小鳥がたくさん囀っているのに、人生に希望を持てなくなった自分が思い描いてしまっている。
窓を開ければ小鳥がたくさん飛び回っているのに、とても元気に元気に飛び回っているのに。
憶えても憶えてもすぐ忘れる。…僕は頭を抱え込む。
僕は何を信じて、何を目標に生きてゆけばいいのか分からない。何も信じれない。何が真実なのか、真理は何なのか、それに生きてゆくのが辛い。
自分が生きて何になるのだろう。誰の幸せになるのだろう。僕はみんなに迷惑をかけて、ただ父や母のためだけに生きている。
(これが書かれたのはもう10年以上も前のことであり、彼は結局大学をやめ、今どこにいるにか分からない。死んでいるのか生きているのかも分からない。彼は“吃り”に負け、大学をやめて)
もう僕は石川さんと何年会ってないだろう。学一で留年している時だったろう、浦上天主堂前のスーパーの前で石川さんを見た。石川さんは僕に気付いたようだった。でも僕は俯いて無視して通り過ぎた。石川さんも僕なのかどうか迷っていたのだと思う。僕はその頃、学会を憎んでいた。それで僕は石川さんの視線を冷たく無視して通り過ぎた。
そしてあれは何年前のことだっただろう。そのときより前のことだったかもしれない。でもあのときはたしかクルマを買ってクルマで学校帰りに時津の『サンアイ』へ買い物に行ったと思うから学二の頃だったと思う。僕は時津の『サンアイ』でレジーのところで客の呼び込みをしている石川さんを見た。
石川さんの勤めていた『新苑』は潰れたのだろうか。それとも店の関係上、『サンアイ』へ手伝いに来ていたのだろうか。
それっきり僕は石川さんと会ってない。それを学2の頃だとするともう3年会ってないことになる。
僕は石川さんを恨んできた。僕のノドの病気は僕が中等部の市の大会の司会者になりさえしなかったら(石川さんが僕をその大会の運営のための会合に行かせなかったら)罹りはしなかったと思えて僕は石川さんを恨んできた。
…でも僕は今はとても石川さんを懐かしく思っている。創価学会に戻る決意を固めつつある今…ようやく勤行をするようになった今…僕は中学や高校の頃の日々を石川さんの誠意のある毅然とした姿とともに懐かしく思い出しつつある。
主にノドの病気とそして吃りなどの言語障害で苦しんできた僕の中学・高校時代。そしてもしかするとノドの病気に罹りさえしなかったら罹らなかったのかもしれない高三の終わり頃からの対人緊張症。
本当にもしかすると信心したためにノドの病気にも対人緊張症にも罹ったのかもしれない。また信心しなかったら僕はもっと暗い青春時代を…孤独なもしかしたら発狂していたかもしれない青春時代を送ったのかもしれない。
でも僕は今はひたすら、信心をしていこう、池田先生を信じ抜いていこう、創価学会に付き従っていこう、と思っている。
(5・5 PM 7:55)
僕は小学一年の三学期から鼻を悪くしてひどい蓄膿症になりそれから中一の三学期頃までそのことでものすごく苦しんだ。そして鼻の病気の代わりにその頃からノドの病気で苦しみ抜くようになった。言語障害(発音がハッキリしなかったり、吃ったりすること)は小さい頃からあって、よく注意されていたけれど、僕はあまりそのことを苦にしていなかった。それよりも鼻の病気でものすごく苦しんできた。
僕は言語障害はあまり気にしていなかった。中二の始めから鼻の病気に代わって今度はノドの病気でとても苦しむようになった。友だちと騒げなかったり、静かな所以外では男以外の友達とはとても恥ずかしくて喋れないことが中学生の僕にはとても辛かった。
僕が始めて吃りで苦しむようになったのは高一の九月ごろからだった。その頃の現国の先生は“一文読み”という変わった方法をしていた。そのとき、僕は自分がとても吃ってしまって読みきれないようになることを自覚した。
人生に行き詰まってしまった。もう僕は生きてゆくのが辛いし、睡眠薬を飲んでコンコンと眠りたい。三日ぐらい、できれば十日ぐらい、できれば永遠に。
死ぬ訳にも行かないし、僕は宗教の道に走るしかない。真理かもしれない宗教の道に。親のため僕は死ねない。
何度か死のうとしました。でもその度に信仰を思い出して死ねませんでした。
僕は何時間眠ったか分からない。�烽、午後の一時16分を時計は指している。昨夜僕はレスタスを140mg飲んで寝た。死ぬかもしれなかった。信仰も信じきれなくなった今、僕にできることは自殺しかないようだったから。
頭は今もボヤーッ、としていて足もとがおぼつかない。対人緊張症までが信仰のゆえにできあがったのだと思っていた。
でも電話ボックスの前の吐いた瓶の中に入っているのは何だろう。僕は全く記憶がない。
やはり信仰の道に血道をあげて頑張るしか自分が再起する道はないようにも思える。
僕は石川さんを尊敬してきたし、それだから中学・高校時代とノドの病気で苦しんできても決して御本尊様を疑ったりしてきなかったし、ずっと朝晩の勤行はもちろん、一日二時間の題目を唱えてきた。本当に血のにじむような厳しい毎日だった。
でも石川さんの中一・中二の励ましが、途中何度も学生部の人や男子部の人が来て座談会に連れていったりしていたけど(結局それはマイナスにしかならなかったようだけど)僕の胸には中一や中二の頃の石川さんの真摯な姿が交錯していて僕はただひたすら勤行と唱題と学会指導の習読にあてた。家にいる間はずっとそのことばっかりしていた。
中一の終わり頃から中二の頃まで、僕は勤行は欠かさなかったし、毎日一時間40分題目をあげていた。そして『人間革命』の本も繰り返し繰り返し読んだ。
その頃、僕は一人だったけれども妙に楽しかった。仏界が湧元しているのかなとも思った。楽しくて楽しくて…僕はノドの病気で言語障害だったけれども…しょうがなかった。
僕の対人緊張症も信心してなかったら小学校・中学校のときに始まっていたのかもしれない。僕はそれほど悪業の深い者だった。
敏郎さん。敏郎さんは本当に厳しい試練に打ち勝ってこられました。
----星子さんの声はもう海の中から聞こえているようでした。アブクの音とともにその言葉は僕の耳に届きました。----
敏郎さん。敏郎さんが高校三年の終わり頃のピンチを切り抜けられた頃、私がとてもピンチになりました。敏郎さんは本当に根性のある人だったんだなあ、ととても感心しています。星子は力弱くてすぐ死の道を選んでゆくというか、安楽な道を選んでしまいがちです。自殺したら地獄だと本には書いてあるけど死んだ方がずっとマシみたいで私本当に死んでしまいたい。
あの頃ボクには同志がいた。だから全然淋しくなかった。
人間的正義感と
生きるとは… 苦しんで苦しんで生きるとは…
真理が解らない…
(5月5日 PM:8:24)
信心に賭けるしか、創価学会に賭けるしか、僕の生き残された道はない。ひたすら信心をしてゆくしか、僕は駄目になってしまう。
今も信仰をやめたくなるときがあります。御本尊様をもったいなくも疑ってしまうときがあります。でも元気になれるから、心の底から明るくなれるから、人のことを思ってやれる自分になれるから、僕はとても疑い深くて、いつも理屈ばかりを言って、勤行は形式だと言って勤行をしてないけど、僕は心の美しい…馬鹿でもいい人間になりたいから、僕は創価学会を信じてゆこう。馬鹿になって…ひたすら馬鹿になって、ひたすら心の美しい人間になって、同志をもう決して裏切らないよう、僕は頑張ってゆこう。小説家も目指しているからちょっと変則的な信心をしてしまうだろうけど、僕はひたすら御本尊様と池田先生を信じ抜いてゆこう。
僕は馬鹿になって、同志を裏切らないために信心を貫いてゆこう。僕は馬鹿になって、苦しんでいる人のため困っている人のためにこの信心を教えてゆこう。決して自分のためでなくって広宣流布のために、御本尊様と池田先生のために。
僕はなぜ、明るく生きて、元気に振る舞って行かなければならないのだろう。もう“春”になった青い空を“ふっ”と仰ぎ見ながらついそう思ってしまう。
僕はなぜ、元気に振る舞って、明るく生きていかなければいけないのだろう。もう“春”になった青い空を“ふっ”と仰ぎ見る。
(----5月13日 土曜日----)
生きる煩悶がすっぽりと僕を覆っていた。僕は何のために生きているのだろう。道行く人たちはみんな元気そうに生きているけれど僕の心は今にも雨が降り出しそうな今日の天気のようだった。生きるって何なのだろう。僕は疲れ果てていたし人生に対して希望を失いかけていた。自分にも自身を喪くしかけていた。
生きるって…僕らは何故こんなに懸命になって生きているのだろう。僕はみんなの元気さが不思議だったし、一人でいないと緊張してしまいあがってしまって何もできない自分が情けなかったし希望が持てないでいた。両親にこれ以上迷惑をかけないよう早く死んでしまおう、という意識が2年以上も前から僕の頭にへばり付いていた。
3年目の留年がすべていけなかった。それまでは僕には自信があったし希望もあった。でも3年目の留年で僕は途端に寂しくなり友達も次々と卒業していった。
だから僕は創価学会に7年ぶりに戻った。寂しかった。寂しさに耐えきれなかったし親兄弟に対する罪悪感がものすごく僕の心をとらえていた。
でも僕は信仰に対してもう一つふんぎりが付かないでいた。もう小さい頃から大学一年の頃までのように炎のように一生懸命やることがどうしてでもできないでいた。
久しぶりに創価学会の学生部の拠点へ行った。久しぶりに青春の頃過ごした文教のキャンパスに僕は行った。
自分がとても若返ったようにも思えたし周囲もとても眩しかった。
八年前のちょうど今頃だった。僕は文化祭のために駆け回っていた。創価学会でやるその文化祭の企画ため僕は一生懸命になって走り回っていた。
『遠い遠い海ね、敏郎さん。私たちが育った海はもう遠く遠くなってしまったわね。』
『ああ、星子さん、僕もこのごろあの浜辺には行かなくなったよ。その代わりに僕は創価学会の拠点に行っている。そこには僕より…僕らより苦しんでいる人も大勢いるし、それにみんな他人のために一生懸命頑張っている。みんな他人のために祈っているし僕はもうあの浜辺へ行くよりもその拠点に行っている。みんなみんないい人ばかりで…たしかにノドの病気は僕がこの信心をしたために罹ったのだろうし、またそのためにもしかすると星子さんを死なせたのかもしれない。でも僕がノドの病気でなかったら星子さんは僕のおかしい喋り方を知ってきっと僕をふっていたと思う。
何度も同志の真心に泣いた。何回も何回もやめようと思っていた僕の心を翻したのは僕以上に苦しんでいる同志の励ましだった。
だから僕は創価学会を守っていかなければならないし、もう決して退転して裏切っていってはいけない。僕は命を賭けて命を賭けて創価学会を守り抜こう。
(5月17日)
雨の音で目が醒めた。まだ2時間半しか眠ってなかった。やっぱり今日自殺しようかと思った。この日が一番いいような気がした。
もう行き詰まり果てているようだった。僕にはもう“死”しか残されてはいないようだった。死ねば楽だなあ、と思っていた。でもやはり後に残された母や父のことを思うと死ぬ訳にもいかないようだった。宗教に(幼い頃から20才の頃まで熱心にやっていた創価学会に)賭けるしかないようだった。でも今の僕にはもうその気力も情熱も湧いて来なかった。
以前のように熱心にやることができなかった。勤行することが苦痛でたまらなかった。勤行は形式だと僕は幹部の人に言ってしていなかった。選挙運動もあまり納得がいかないからしない、と言っていた。
大事なのは広宣流布への情熱と御本尊様への信仰と池田先生への忠誠心なのだと思っていた。題目は苦しいときに一日5分間ぐらいしていた。学校なんかや夜寝るときよく心のなかで題目を唱えていた。するとスッ、と楽になるのを覚えていた。
楽しいことが何もなかった。勉強ばかりに追われていた。遊ぶ暇は全くなかったし遊ぶ心の余裕もなかった。それにこのままいけばまた留年することは目に見えていた。
希望が見あたらないようになっていた。何をやっても楽しくなかった。テレビを見る余裕もなかったし友達と談笑する心の余裕もなかった。
昨日も学校帰りに創価学会の学生部の拠点に行った。誰もいなかった。一時間ぐらい勉強したあと題目を三遍あげて帰った。勉強しても頭に入らなかった。
学校では怒られてばかりいた。緊張して頭が回らなかったし、憶えきれなかった。もう死ぬときだなあという気ばかりがしていた。たとえ一生懸命勉強して卒業試験に通ったとしても僕は精神病者として留年させられるようだった。そしてまた親を落胆させることを思うととても耐えきれなかった。
教授たちからはもうどうしようもない学生だと思われているらしかった。だからもう死ぬしか僕には残されていないようだった。
でも雨の日にどうやって死のうと思っていた。どこに帯をかければいいのだろうと思った。夜になって中学校の渡り廊下で死のうか、と思った。でもそれまで時間があるしそれに今日は寒かった。
生きていたかった。親のため僕は立派にならなければならなかった。早く良いお嫁さんを捜さなければならなかった。でもやっぱり自殺のことしか今の僕には思い当たらないようになっていた。
二ヶ月ほど前からもう耐えきれなくなって創価学会の所に通うようになっていた。みんな暖かく迎えてくれた。以前のように燃えようとも何度も思った。でも僕の頭には自殺することばかりが侵みついていてどうしてでも離れなかった。
孤独に耐えきれなくなって僕は再び創価学会の所に通うようになっていた。でも家ではほとんど勤行はしていなかった。勤行は形式だと思ってやる気がしなかった。
対人緊張さえ治れば僕は卒業できるようだった。でも治りそうになかった_Bまたもう一年留年しなければ僕は卒業できないようだった。
今日大学病院の11階の窓から飛び降りようかと思った。
僕は何を目標に、何を生きがいに、生きているのだろう。
もう春になって窓からは眩しい海が見えているのに、僕の心の中の曇りは晴れない。いつまでたっても、いつまでたっても。僕の胸の中の曇りは晴れない。
(5月19日)
もう死ぬしかないと、いつ頃から思い始めただろう。○○○など見えない力から圧迫され、何も信じられず、僕はいつ頃から死ぬしかないと思い始めただろう。
僕は中学校のグラウンドに行こう。そこで首を吊って死のう。もう駄目なようだから、○○○などから圧迫されているから。
死んだら僕は何処へ行くのだろう。題目を唱えながら、死んでもまだ創価学会と池田先生を信じ抜きながら、自殺した罪と戦ってゆくのだろう。
失意の僕は、誰からも手を差し伸ばされず、一人淋しく死んでゆくのだろう。夕暮れの中学校のグラウンドで、白い帯で首を吊って。
悲しい現実は僕を、中学や高校の頃の日々に連れてゆく。元気だったあの頃の僕と、明るく希望に満ちていたあの頃の僕と。
題目を熱心にあげていて、とても元気だったあの頃の僕。もうすでに喉の病気に罹っていて大きな声が出なくなって苦しんでいたけれど、とても元気だったあの頃の僕。未来への希望に溢れていたあの頃の僕。
一人淋しく死んでゆく僕は、この何年間か本当に孤独だった。テレビとビデオが友達だったけれど、そして不安と焦燥感が友達だったけれど。
僕は夜だったら砂場の前の鉄棒に紐を括りつけて、夕方だったら渡り廊下で死ぬだろう。もう僕は決めている。僕は○○○から追いつめられた。
文学を棄て、宗教に立ち上がるしかない。----僕は昨夜激しく煩悶した。本当に死のうと思っていた。一日絶食したあと35°の焼酎を一升飲めば死ねるだろうと思った。
もう創価学会に再び走り回るしかない----僕が生き残れる道は----立ち上がれる道は----
苦しかったけど輝いていた時代があった。もうずっと昔のことだけれど、夜空の星のような遠い昔のことだけれど。
苦しみの季節は過ぎ去り、僕にも明るい幸せなときがやってくるだろう。真理は何なのか…真実の宗教は…と、昨日も今日も考えつづけていた僕だったけれど。
夢の中で僕は正義の自殺もあるんだと聞いた。
生きることは無駄なことだ
人は何のために生きているのだろう
あくせくと苦労してまで生きているのだろう
生きることは無駄なことだ
灰色い空みたいな毎日を
僕は何のために生きているのだろう
三年目の留年のとき(去年のことでした)失意のどん底にあった僕にたった一つの楽しみがありました。それはF1グランプリでした。僕はその年、毎日精神病院へアルバイトに行っていました。バイトと文学・そして勉強を両立させるためにはほとんどテレビを見る暇もありませんでした。でも僕の部屋のサラウンドアンプとHIFIビデオはただF1レースだけを録画していました。
夜、いつも一時ごろからF1グランプリの放送はあっていました。僕の住む長崎は実際のレースが行われて一週間後か二週間後でなければF1の放送はあっていませんでした。それでときどき行く学校でも、そして職場である病院の中でも、僕は決して結果は知るまいと、頑なに耳を閉ざしていました。(そしてそのためもあって僕はますます一人ぼっちになってしまっていました)
一人ぼっちの去年、僕の心に残っているのは、孤独な精神病者との出会いと、あの生命を揺さぶるようなF1レースの轟音だけでした。ただそれだけが去年一年間であったようでした。
去年の僕にはF1だけが友達でした。でも今年になって長崎ではF1レースが放送されなくなり、最終学年にも進んだ僕には勉強するしか何もすることはなくなりました。去年、自殺の一歩手前だった僕の生命をあの轟音で揺さぶったF1のレースももう長崎では今年は聞かれなくなりました。
(※どうか特派員としてF1のレースに派遣してください。)
長崎市界町9の2
三船敏郎
一度退転してしまった僕は、もう立ち上がれない。
死神の雨だ。僕を拠点へ連れて行かせないための、死神の雨だ。
(5月22日)
人は何のために生きるのだろう。青い空と群青色の海が僕の部屋の窓から見えているけれど、人は何のために生きるのだろう。
僕は真実が解らなくて、今日も自殺を思った。本当に自殺してしまおうと思った。僕の心は絶望感に覆われていて、もう生きる道がないように思われたから。
生きる道が解らない。真理が何なのか解らない。
僕は何を目的に…何を生きがいにして生きてゆけばよいのだろう。もう真理が解らなくなった今は。
生きがいとは…。
落ち込み果てていた去年、本当にF1だけが僕の友達だった。僕には友達はもちろんいなかった。友達もほとんど卒業していっていた。三度目の留年のときだった。
僕は毎日精神病院へアルバイトに行っていた。そこでも僕はほとんど一人で部屋に閉じ篭りっきりで誰とも喋らずひたすらパソコンで心理検査の資料統計なんかをやっていた。
学校にもときどき行かなければいけなかった。そして試験もあった。小説の完成にも没頭していた。そんな僕にテレビを見る余裕はほとんどなかった。でも僕はF1だけは見ていた。ビデオに録画して後の日に見ることもあった。そんなときはレースの結果を知りたくないためにまします誰とも喋らないようにしていた。
F1のレーサーになりたいとも思った。神経質すぎて対人恐怖症となり留年ばかりしていた僕はもしかしたらF1のレーサーに向いているのかもしれないと思った。阿蘇でまたは鈴鹿でクルマのテストドライバーを募集している求人広告を見たとき大学を休学して応募しようか、と思った。また僕はこれ以上、親に経済的負担をかけることをとても心苦しく思っていた。
モナコ�Oランプリの特派員を募集している記事を見たとき、僕は募集しようか、と思った。でもその頃の僕は無我夢中で勉強に没頭していなければならなかった。もうこれ以上留年して親を悲しませることが僕には耐えられなかった。
どうかもしよろしかったら僕をF1のレースの特派員にして下さい。
(5月23日 AM 8:15)
雨だれの音が聞こえる。昨夜遅く男子部の部長のところに電話した。『平野』というから僕が中等部の頃、一緒に信仰してきた同級生の平野だろうと思っていた。でも市場でてんぷら屋をしていた平野君の兄のことだった。
さっき、池田平和会館での会合から帰ってきたところだと言われていた。もう11時近かった。僕は淋しさに耐えきれず中等部の頃の石川さんの電話番号を調べたりしていたが載ってなく、学生部の2部の拠点に電話して『平野部長』『平野男子部長』の電話番号を聞いた。
2時間前にはキシロカインを打って死のうと思っていた。そして小説の最後の仕上げをしたりしていた。その小説をワープロで打ち終わった直後のことだった。
『あー。三船クンね。今どうしとると。大学院ね。長大ね。勉強たいへんやろ。頑張ってね。近いうち来るけん。』
僕はウンとうなづいていた。3度も留年してまだ卒業もしていないことを言いきれなかった。本当に卒業していて大学院生になっていたらどんなにいいだろうと思った。電話は切れた。切れたあと、明日、母が、僕が留年していてまだ卒業していないことを平野さんに言うことの辛さを思うともう一度電話を掛け直そうか、と思ったがもう夜も遅かったしやめた。
平野さんは市場のてんぷら屋を手伝っているという。僕はその現実に一瞬信心を疑った。それに東望の平野さんはタクシーの運転手をしていたが死んだという。その厳しい現実に僕の方がまだずっと幸せなような気もした。でも同志という暖かさ、8年ぶりの、小さい頃からの同志との再会が僕は涙が出るほど嬉しかった。
石川さんはいま、諌早に住んでいるという。まだ『新苑』に勤めているという。多良見町や諌早の欄を調べたら良かったんだなあと思った。
(5月23日)
真実は…この黒い川の何処かにあるんだ。でも僕はそれが何処にあるか信じられない。しだれ柳の川縁を歩きながら、僕は真実を求めて歩いている。何が真実なのか、何を真実として命を賭けてゆけばいいのか、僕には解らなくて、黒い川の水を見つめながら真理を求めてさまよっている。真理はきっと…
(5月25日)
昨日、久しぶりに部長と友だちの所に折伏にいった。思えば僕は7年半ぶりに学会活動をした。でも友だちは聞く耳を持たなかった。そして僕は5分もその友だちの所に居ずに帰った。
狭い下宿の中は散らかっていて座る所もなく、友だちも洗濯物を干していた。
そして帰って僕に失望感みたいなものが襲った。やはり学会活動をするよりもこうして文筆の道で学会正義を訴えてゆく方がいいような気がした。
でも一夜明けた今のこの歓喜は本当に久しぶりのような気がする。でも今朝もやっぱり創価学会に戻るのはやめようと思った。勤行するのが厭だったから。
でも僕は勤行はしなくても学会には付いていこうと思っている。昨日のようにときどきは活動したり会合に出たりしていこう。活動家として通していこう。池田先生の弟子として毎日を一生懸命戦っていこう、と思っている。
5月30日
悲しみの川は
今も僕を憂欝にする。
孤独と罪悪感に押し潰された僕の心は
もう頼れるものが何もなくなって
自殺を決意しかけている。
でも父や母のことを思うと
今まで父や母のことを思って死なないできたけれど
もう限界が近づいたように思う。
もう僕の人生は河口まで達してしまったように思う。
池田先生の写真を額縁に置くとき何回もためらった。でも置いたあと信仰を棄てた寂しさとここ数ヶ月一緒に活動したりしてきた部長への後ろめたさにいたたまれなかった。それよりもこの信仰を捨てることの罪悪感がものすごくあった。
もうすぐ父と母が帰ってくる。淋しい薄靄の中に父と母を迎えるようでとてもすまなく思えて悲しみに暮れた。
僕はふたたび忘恩の徒になり果てて、僕はふたたび
夕暮れの薄暗がりの中で僕は信仰を棄てたことへの激しい罪悪感に茫然としたまま立っていた。
何も信じられず、僕は横たわった。もう何も僕には信じられなかった。そう僕が決意したのは夜の七時ごろだった。
9時ごろ僕は眠った。池田先生の額縁をうつ伏せにしてきたことがとても気にかかっていた。でも僕はもう創価学会をやめる決心をつけていた。
不思議と心が落ちついていることに僕は『ああ、やめてよかったんだなあ。』と思っていた。そして僕は瞑想法のつもりで額に思念を集中し始めた。死をもやっぱり僕は思っていた。明日また生きなければいけないのかなあ、と思い、明日という日がもう来なければいいのに、と思っていた。明日、自分が静かに死んでいればいいのに、と思っていた。いや、この頃、毎晩そう思いながら眠りについていた。次の日もまた生きなければいけないことが辛くて僕はこの頃毎晩眠るときそう思いながら眠っていた。
今朝、母の母が亡くなった。朝七時に電話があった。
すべては終わったと思い、手を組んで安らかに暗闇の中に横たわったあと、僕はいろんな夢を見た。今まで解らなかった出来事のいろんなことが解った。あのときあの人が何故ああ言ったのか、あのとき何故あんなことになったのか、いろんな謎がいろいろ解った。
僕は眠られず、12時ごろ目を開けた。周囲は静かな闇だった。やっぱり創価学会に戻ろう、と思った。信仰を棄てて僕は緊張感がほぐれていたけど、怖しいようなけだるさがあった。やっぱり創価学会に戻ろう、と思った。燃え立つようなあの日々がまた戻ってくるのだろうと、僕は暗闇の中で思っていた。そしてこの日の朝、母の母が死んでいた。朝、電話がひっきりなしにかかってきたりかけたりしているのに不審がって下へ降りてゆくと今朝七時に中場から祖母が亡くなっている、と電話があったと父から聞いた。朝七時半だった。
僕は暗い表情でそう聞いた。昨夜12時過ぎに眠れずに起き上がって窓辺から外の景色を見ながら創価学会に戻ろう、と決意したけど、それからも何度も目を醒まし眠りきれずうとうとと4時間ぐらい眠っただけだった。そしてその決意もほとんどもう崩れかけていた。
僕は親戚の人たちに合わせる顔がなかった。もし去年留年していなかったら僕は今ごろもう医者になっていた。中場にはお通夜にも葬式にも行くまい、と思っていた。
僕は聖教新聞を持ってきて読み始めた。やっぱり創価学会の信心しかないのかなあ、と思っていた。かえって悪いことが起こったりするけど、明るく元気になるためには、人間的に立派になるには、やっぱりこれしかないようだった。人のことを本気で思ってやれる人間になるためにはこれしかないようだった。またこの信心をしないと自分はエゴイストで暗い人間のままであるようだった。
僕は昨夜、この信心をすると却って悪いことが起きると思い、それよりも勤行もしなくていい他の宗教(たとえば瞑想法なんかを)をやる方がいいと思って夜の9時ごろ床についた。もし創価学会の信心を棄てる決意をしなかったら12時ごろまで起きて勉強していたと思うけど、勉強する気合いも亡くして僕は9時ごろもう寝てしまった。瞑想法をしようと思ったから。
9時から12時過ぎまで僕は不思議と眠れないことに気づいて驚いていた。このごろは9時ごろ床に入ってもすぐに眠れていた。不眠症が再発したのかな、と思った。それだから僕は12時過ぎごろ、起き上がって窓辺から外の景色を眺めながらふと『創価学会の信心をやっぱりしよう』と思ったのだろうと思った。
昨夜は不思議な夜だった。そのあと床に就いたあと今度はすぐに眠れたのだけど3時4時5時6時と何度も目が醒めた。そして目が醒めるたびに自分の心のなかがすっきりと洗われたようになっていることに気づいて驚いていた。
たしか中場の祖父(母の父)が死んだときも僕は予知のような体験をした。あれは僕が小学6年のときだったと思う。耳鼻科に行こう、と自転車に乗りかけたのだけど不思議と行く気力を喪くし2階へ上がって夜の勤行を始めたときに中場から祖父が亡くなったという電話を貰ったのだった。
僕はあのとき自転車のビニールのシーツを取って乗りかけたとき、(たしか5時半ぐらいだったと思う。)今までこんなことは一度もなかったのに急に行く気がしなくなった。山の上のカラスがいつもとはちがうように思えたし、夕暮れの空の紅さもいつもとちがって僕の矢上の耳鼻科まで行こうという気持ちを押しとどめたのだと思う。
勤行をしながらいつもとちがってとても気合いが入った。いつもなら35分から40分ぐらいでやめてしまう題目もなぜか45分もあげていた。そのとき中場から祖父が死んだと電話がかかってきたのだった。
もう夜になろうとしていて仏壇の蝋燭の灯りが周囲を美しく彩っていた。
完
1989・春 @mmm82889
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