星子

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星子

星子

                 (星子とカメ太郎の悲しい恋の物語)

   

カメ太郎







 僕らは天国への階段を手を携えて登りつつあった。

『カメ太郎さん。天国はまだなの。遠いわ。星子、もう足が疲れたわ』

 僕は座り込もうとした星子さんを背負って再び階段を登り始めた。僕の背中に星子さんの柔らかい躰と体温が伝わってきていて僕は幸福だった。

『でも、僕ら早過ぎたのかもしれないね。お父さんやお母さんが悲しんでいるよ。天国へ旅立って行った僕らをとても悲しんでいるよ。僕ら、あんまり早過ぎたのじゃないのかな?』

『カメ太郎さん、何処なの、天国の門は何処なの、見えないわ、ずっとずっと階段が続いているだけで天国の門なんて見えないわ?』

(僕も星子さんを背負いながらいつまで経っても見えて来ない天国の門に疑いの心を持ち始めていました。僕が今巡っているのは本当に天国への階段なのだろうかという疑いがありました)

 ……もう僕はどれ程この階段を登ったことでしょう。もう千段も、少なくとも数百段は登ったようでした。僕の目の前の光景はだんだんと薄暗くなりつつありました。

 僕は足が疲れているだけでどうでも良かったけど、星子さんは僕の背中ですすり泣いていました。天国だと思った処がどうも天国ではないようでした。それで星子さんは泣いていました。僕は歯を食い縛りながら一歩一歩と登り続けました。

『カメ太郎さん、何処なの。天国は何処なの?』

(僕も星子さんを背負っていて疲れ切っていました。もう星子さんを降ろそうかな、とも思いました。そうして一人で走っていって天国へ辿り付こうかな、とも思いました)


 遠く遠く星が見えるだろ    

 あれが天国への門なんだ

 遠くて遠くてあまりにも遠いだろ

 引き返そうよ、星子さん

 もう届きはしないよ

 僕ら、あんな遠い処へは行けないよ



 





 海の中で星子さんの苦しさと僕の苦しさが溶け合って、黒い水の中に僕らは沈んでいっていた。星空がそんな僕の目にぼんやりと映っていた。

 何度も海面へ浮かび上がり助けを求めた。僕の意識は喪われてきていた。そしてもう一息もう一息と僕は水を飲んでいたようだった。

 誰かが僕の首根っこを掴んだ。とても力の強い人だった。僕はそうして気を喪ったらしかった。





       (ある者の証言)

『ズボンッ』

 と桟橋から海に何か大きいのが落ちる音が聞こえました。それは何か人魚か何かが月夜に浮かれ出て桟橋に上がり月見をしていたら人が来たのでやっぱり海の中に戻ったのだと私には思われました。何かが落ちたのではなく何かが海の中に戻ったのだと私には思われました。

 春の夜の幻聴のようにも思われました。私は再び縁側からテレビのある部屋へと戻りました。テレビでは“プロゴルファー猿”があっていました。

 やがて寝転がってテレビを見ていた私の耳に今度は微かに再び桟橋あたりから『ボスッ』と海の中に飛び込む音が聞こえました。私は何気なく立ち上がり再び襖を開けて遥かに桟橋あたりの海を眺め始めました。海面を何か河童のようなのが泳いでいるようでした。私は再び夢見心地のような気分になりふらふらとしながら襖を跨ぎテレビの部屋に戻りました。そして再びゴロッと横になりテレビを見始めました。





(夢の中で)

 青い海辺に僕らは腰かけている。星子さんはさっきから『幸せは何処なの。幸せは何処にあるの』と聞いている。僕は黙って海を見つめている。ゴロも僕の横でさっきから黙って海を見つめている。でも星子さんだけは、さっきから、幸せは何処にあるのと尋ね続けている。僕は答える方法もなく、海を見続けている。でも星子さんはさっきから泣きながらそう尋ね続けている。でも僕には答えることはできなかった。




 僕がこれを書いて5年経って星子さんが死んだ。その頃、僕らはまだ文通を始める前だった。僕らはそのときすぐ近くに住んでいた。夕暮れどき、いつも見渡す僕の家の窓辺から星子さんの家がすぐ近くに見えていた。

 僕はすぐ近くに住んでいる星子さんの家の窓を毎日よく見続けていた。僕が市場の2階にまだ住んでいた頃のことだった。

 狭い六畳2間の市場の2階に僕たち一家は住んでいた。1階で果物店と衣料品店を僕の家はしていた。僕が小学4年の頃までは経営はとても苦しかった。そのためもあって父と母は毎日喧嘩していた。

 小学六年の頃だから僕の家にも光が差し始めたばかりの頃だった。僕は小学5年の1月頃から再び勤行唱題をするようになっていた。だからそれから三ヶ月ぐらい経った頃、書いたものだと思う。

 ときどき僕らは道ですれ違っていたし、窓辺から星子さんが車椅子で星子さんの家の傍のちょっと坂になった道を登っていっているのを見ていた。僕はよく夕暮れどき窓辺に腰かけて星子さんがその坂道を登ってゆくのを哀しげに見つめていた。



 今思えば哀しい思い出かもしれない。でも今の僕の胸の中には光って見える。遠い過去の思い出として悲しいけど美しく映っている。







 暗くて良く解らなかったけれど、星子さんがいた。車椅子の上で何かを囁いていた星子さん。星子さん、あのとき何を言っていたのだろう。夜の6時の闇が僕らを覆い尽くそうとしていた。(僕が小学6年のとき、“タコ太郎の店”の前で) 

 今も解らない。あのとき、星子さんは何を言おうとしていたのだろう。でも死んでしまった今では、もう解らない。



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(僕が小学6年の終わり頃のことだ)

 僕は吃り吃り喋った。そして悲しい視線が桃子さんたちから帰ってきた。

 それ以来、桃子さんたちは僕を振り向こうともしなくなった。それまでいつも廊下ですれ違うたびごとに僕に好意の視線を送っていたのに。

 でも星子さんだけは、車椅子の可哀想な星子さんだけは、廊下ですれ違うたびごとに僕を見つめていた。でも、その視線はあれ以来哀しげな視線に変わったように僕には思えるのだけど。








       カメ太郎 出さなかった手紙

      (僕には星子さんしか似合わないんだ。足の悪い星子さんしか)

          こういう走り書きが便箋の裏にあった。

 星子さんへ

 星子さん、あのときはごめんね。ありがとうの言葉もろくに言えなくて。

 僕は言語障害なのです。以前僕に桃子さんたちが喋りかけてきたとき僕はひどく吃り吃り喋って桃子さんたちは笑いながら走り去っていったことを。もう一年以上も前のことになると思います。

 僕は喋るのが怖かったから、だからこのまえ星子さんの花束を奪うようにして持っていったけどすみませんでした。でも僕はとても嬉しかったです。あんなに一杯胸に抱え込んでいて大丈夫でしたか。真っ白い薔薇でとても綺麗でした。僕は今まであんなに綺麗な花を(その花束の向こうに星子さんの顔が見えて僕は今でも瞼の裏にあのときの光景を想い浮べることができます。

 白いたくさんの薔薇の向こうに恥ずかしげに俯く星子さんの顔がありました。

 でも、あの白い薔薇、刺がたくさんあってそのとき星子さんの着ていたセーターに傷が付いたような気がして後でとても悩みました。僕はそのこと後で発見しました。誰もいない体育館の裏で。星子さんから貰った大きな一抱えほどもある白い薔薇に星子さんの着ていたセーターの毛が付いていました。僕はそれを指でつかんで、ふっ、と吹いてしまおうかな、と思いました。僕は薔薇の刺に付いていた赤い毛糸の切れ端を指で取ってふっと風に乗せました。するとどんどん上に浮かんでいってだんだんと中学校の方に見えなくなってゆきました。

 僕は星子さんから『ありがとう』と呟くように言って奪うように取ってきたのだけど。

 赤い毛は僕と星子さんを繋いでいる幸福の赤い糸のようにも見えました。星子さんの着ていた赤いセーターの毛玉、僕と星子さんの恋を乗せてゆくようにゆっくりと動いてゆきました。

 そう言えば僕、このまえ変な夢を見ました。僕と星子さんが結婚式を挙げた後、新婚旅行に出かけるときの光景でしょう。木製の船に乗って僕らが何処かに旅立つ光景が浮かんで来ました。星子さんはまっ白なウェディングドレスを着ています。僕は髭をモジャモジャとはやしていて何処かの王子か何かなのかなあ。

 星子さんからのあの花束、名前何と言うのだったんですか?

 白い花で、僕は裏庭で星子さんに喋りきれなかった悔しさに苦しみながら、僕、ふっと息を吹きかけました。すると白い花びら、雪のように風に舞い始めました。ちょうどそのとき吹いてきたつむじ風に花びらはまるで僕と星子さんがダンスを踊るように舞いました。とても不思議でした。つむじ風のなかで踊る僕たちは白い花びら。白い小さな王子とお姫さまのようでした。

 僕たち不思議な花びらで、誰もいない裏庭で誰にも気づかれないように踊る恋人どうし。白い白い恋人どうし。                    






 その日、僕は学校から帰ってくるとじりじりと照らす西陽を階段の上の小さな窓から見つめていると青春の衝動というのだろうか、何かに胸を突き上げられるようになってランニングするときの服に着替えて家から駆け出し始めた。不思議な抑えようもない熱感が僕にはあった。

 また一日の苦しみに満ちた学校が終わった解放感が僕にはあった。

 網場の海のあの浜辺まで1kmぐらいだろうか。その1kmは短かった。僕はいつものように小さな獣道を駆け降りていつも星子さんが海を見ている浜辺のうしろの林の中に倒れ込んだ。

 僕の目の前には激しい僕の息で揺れる青い雑草。そして吹き荒ぶ砂のような土。そして僕の躰の下には草と土の塊。僕はいつも苦しい息の下、そうして倒れ伏しながら車椅子の星子さんの姿と歌声なのだろうか、それとも何かに(妖精か何かに)喋りかけているのだろうか、星子さんの声を聞き取ろうと耳を澄ませた。

 あっ、歌っている。星子さん、何を歌っているんだろう。

……

『カメ太郎さん、出ていらっしゃい。カメ太郎さん、星子、解っているのよ』

 星子は何度もこう言おうと思いました。星子には解っていました。後ろの蜜柑の木などが植わっている林のなかにカメ太郎さんが隠れているのを。

 夕暮れで周りは少しづつ薄暗くなっていっていました。波の音と小さな小鳥たちの声が星子とカメ太郎さんを包んでいました。

 星子は恐る恐る車椅子を動かし始めました。とっても恥かしくて心臓がとても激しく打っていました。

 星子、静かに車椅子を動かしていました。なんだか頬がほてってきて星子、わざとこうしているのがカメ太郎さんに解りそうでとても恥ずかしかったわ。

 車輪が暗い穴のなかに『ちゃりん』という音をたてて落ち込みました。

『カメ太郎さん、助けて! カメ太郎さん、助けて!』

 星子は必死に心のなかでそう叫びました。恥かしくて顔をまっ赤に染めて俯いていたと思います。

 1分ぐらい経った頃でしょうか。星子、泣きかけていました。カメ太郎さん、なかなか来なかったから。カメ太郎さんの意気地なし、カメ太郎さんの意気地なし、と星子、心のなかでそう言いながら泣いていました。

 でも星子が本当に泣き始めようとしているときでした。カメ太郎さんの隠れている林の方に音がしたと思ったらカメ太郎さんが林のなかから起き上がって星子の処に走ってきてくれていました。星子、嬉しくて嬉しくて頬をまっ赤にして泣いていたと思います。星子、それからその後のこと、あまり憶えてないのです。カメ太郎さん、駆けてきていたわ。わざと車輪を穴に落とした星子のために走ってきてくれていたわ。星子、恥ずかしくて恥ずかしくて、もう目の前が涙で見えなくなってカメ太郎さんの走ってきている姿ももう見えなくなりました。ごめんなさい、カメ太郎さん。

 やがてカメ太郎さん、星子の処まで来てくれました。星子の車椅子の把手を持って、そしてカメ太郎さん、力強いのね。持ち上げて舗装された道の方へと運んでくれました。カメ太郎さん、ごめんなさい。カメ太郎さん、ごめんなさい。星子、とっても重たいのにこんなこと星子わざとカメ太郎さんにさせてしまって。ごめんなさい。カメ太郎さん、ごめんなさい。

 涙で曇ってよく見えなかったけど、もう少しで星子が楽に進めるコンクリートの道でした。カメ太郎さん、ごめんなさい。こんな大変な思いをさせちゃって。ごめんなさい。

 やがて星子、コンクリートの道の上に静かに降ろされました。星子、じっとしていました。コンクリートの白い道の上に降ろされたまま星子、じっとしていました。星子、どうして良いのか解らなかったのです。星子、目にいっぱい涙を溜めて、じっと俯いていました。

 ごめんなさい、カメ太郎さん。ごめんなさい。

 星子、5分くらい経った頃でしょうか。わんわん泣いていました。振り向くとカメ太郎さん、もう消えていました。なんだか林の奥を駆けてゆくカメ太郎さんの後ろ姿がゴロ君と一緒に見えたような気もするけど。

 ごめんなさい、カメ太郎さん。ごめんなさい。

 星子、そうして駆けてゆくカメ太郎さんの後ろ姿を涙に曇りながら見送っていました。ごめんなさい、カメ太郎さん。ごめんなさい。

 カメ太郎さん、幻のように消えていって、後にはカメ太郎さんが駆けていった林が木の葉の音を微かにたてていました。カメ太郎さん、幻の王子さまのように現れて、やっぱり幻の王子さまのように消えていったわ。そして星子、王女さまだったの。海辺で泣いていた王女さまだったの。






           (僕は唖の旅人)

 星子さん、このまえ浜辺で星子さんを救った人を知ってるかい? 彼は唖の旅人でその日、風に乗って東望辺りからやってきたんだ。仙人のように風に吹かれて漂ってきたんだ。

 僕は以前から星子さんを好きだった仙人で、学校から帰るとすぐ家を飛び出して来たんだ。

 ごめんね。友達になるチャンスだったのに。僕も後でものすごく後悔しました。ごめんね。

 でもこうやって文通できるようになったから僕は幸せです。この頃、一日のうち半分は星子さんのこと考えていて、これが初恋なんだなあ、と思っています。胸がわくわくしてきて、授業中もにやにやと笑ってしまいます。でも僕は仙人のように誰にもこのこと話していません。僕は今日も一日中にやにや笑いながら授業を受けてきました。ななめ前の女の子がそんな僕を見て『プッ』と笑いました。








                      (中一・12月)

 もう12月になって寒い日々が続いています。星子さん、風邪なんか引いてませんか? 僕は11月の半ば頃からずっと風邪をひいていて1ヶ月ぐらいずっと熱が出ています。それにものすごく痰が出て、授業中なんか困って休み時間になるとトイレへ走って行ってたくさんたくさん溜まった痰を吐いています。




(これらは出されずに本棚の片隅にずっと置かれていた手紙の束である。寂しげに何年間も打ち棄てられていた。そしてこれを見つけたのは大学に入って5年も経った日のことであった。自殺を考えて朝から家で悶々としていた日のことであった)


 (なお、これには、それに含まれないものも含まれている)




 カメ太郎さん、吃るから電話しちゃ駄目だって言うけど、星子もたまにはカメ太郎さんとお話してみたい。カメ太郎さん、どんなに吃たって良いから電話してみたい。





 小さい頃、ずる休みばっかりしていた僕。僕は卑怯だった。でも僕はそれほど毎日の学校が苦しかった。僕が仮病を使ってずる休みをするのも当然だった。

 卑怯な僕。小学校一年二年のときのようにまたずる休みするようになった僕。中学生になってまたずる休みするようになった僕。





 もう夏になりかけているこの頃です。星子さん、お変わりありませんか。僕はこの日曜日、朝起きてからずっと勉強していました。そして窓辺から外の景色を眺めたら、星子さんの顔をした入道雲が出ていて僕はとてもおかしくなりました。

 何故、その雲は星子さんによく似ているのかなあ、と不思議に思いました。

 ゴロが散歩に連れていってくれるように窓辺から顔を出して外の光景を見ていた僕を見て吠えていました。

 白いヨットが海の上に浮かんでいます。幾つ浮かんでいるのかなあ。その白いヨットはスイスイと気持ちよく海の上を動いています。

                         (中二・6月)







 僕とゴロは泣きながら帰っていた。星子さんを見た悲しさと、悲しそうだった星子さんの姿と、寂しげな夕暮れの景色と、僕は悲しかった。

 僕とゴロはてんてんと家へ向かって走りながら泣いていた。道を行き過ぎる恵まれた人たち、何も悩みのないようなクラスメート、幸せなクラスメート、苦しむ僕や星子さん、僕は悲しかった。





 星子さんの涙と僕の涙が溶けていき、そうしてこの雨になっているのだろう。星子さんの涙と僕の涙が一つになって、この寂しげな雨になっているのだろう。窓から星子さんの家を眺めながら僕はそう思っている。






 僕は一日の睡眠時間がもう5時間を切っていた。毎日12時まで題目を上げていた。7時半にクラブから帰ってきて、それからゴロの散歩にいって、8時くらいに帰ってきて、それからお風呂に入ったりご飯を食べたりして、それから勤行して唱題を一日五千遍(一時間四十分、朝のと合わせて)上げている。それから教学(創価学会の勉強)を二、三十分すると、もう12時になっている。そから中国語の勉強や学校の勉強を2時半ぐらいまでして寝て、朝は7時頃、起きて急いで朝の勤行と唱題をして3分ぐらいでご飯を食べて学校へ走っていっていつもギリギリで(いつも遅刻になる鐘が鳴ってるときに、いつもその鐘の音が鳴り終わる寸前に、いつもそのチャイムの最後の鐘の音がの余韻が響いているときに、いつも今にもその最後の鐘の音の余韻が消えようとしているときに、いつもタコ太郎(僕の友達)と一緒にギリギリで教室に入っていっている。(タコ太郎はでも僕とちがって、そのチャイムの最後の音の余韻が消えた寸前に教室に入っていて、先生から半分冗談に怒られているけれど)、でも僕は四回か五回に一回しか最後の鐘の音に遅れません。




 もう秋になってしまった。暑い夏の季節も終わってしまった。そうして寒い北風が吹いてきて、小鳥たちも居なくさせた。浜辺には何も見えなくて、ただ、ときどき打ち寄せる白波しか見えない。



(夢の中で)

 幸せは、幸せはどこにあるの? 

 幸せは、雲仙岳が見えるだろ、天草の島々が見えるだろ、その向こうに阿蘇岳だと思うけど見えるだろ。あの阿蘇の山々の向こうに在ると思う。

 幸せの国々が。みんなが幸せに仲良く暮らしている国々が。人を憎んだり、陥しめたり、いじめたりすることなんて全然ない国々がそこに在る、と僕は思う。









         (もしも星子に足があったなら)


 もしも星子に足があったなら、

 そうしたら星子、カメ太郎さんと海辺を歩いてみたいわ。

 手をとり合って歩いていて私たち夕陽で赫くなった水平線を見つめながら話をするの。

 私たち、夕方5時にその浜辺で会うことに約束をしているの。

 カメ太郎さん、学校が終わるとすぐにランニング姿でやってくるの。

 星子、薄くお化粧して自慢の白いドレスを着てくるの。

 星子、いつも約束の5分ぐらい前までには約束の場所に来るのに、

 カメ太郎さん、いつも5分ぐらい遅れて来るの。

 そしていつも走ってきて肩で息をしているの。

 風がピューッと海から吹いて来るの。

 カメ太郎さんの髪も星子の髪もその風になびくの。

 髪が目に掛かって星子たち髪を手で払って、

 再び、さっきの話を始めるの。

 「遠くに三味線島が見えるだろ、

  俺、そこまでこのまえ泳いで行こうとしたんだ。

  友だちの水泳部のタコ太郎という奴と。

  でもみんなが止めろ止めろと言うし、

  僕らもなんだかやる気がなくなってきて止めたけど、

  もしそれを実行してたら今日こうやって二人でここを散歩することなんてできなかったかもしれない。

  実行しないで良かったのかな」

 私たち、そして抱き合うの。

 カメ太郎さんの躰、いつも熱いの。

 そしてとっても力が強くて星子、身じろぎもできないの。

 カメ太郎さんの胸、汗でちょっと濡れていて、星子の頬、その胸に思いっきり押しつけられるの。息ができないくらい。

 でも私たち倒れ伏すの。私たち世間の荒波に揉まれて倒れ伏すの。私たち、足がなくっても倒れ伏す運命だったの、私たち。








 星子はくるくると空中を飛んでました。母の悲鳴が聞えてきます。空が青くてとても綺麗だわ。小鳥が星子と同じ高さの処を飛んでいるわ。それに車や家の屋根が見下ろせるわ。星子、鳥になったのかしら。

 星子、鳥になったんだわ。躰がふーっと空中を飛んでいるもん。気持良いわ。とっても気持が良い。星子、天使になったみたい。羽が生えて星子、飛んでいるのかな。星子、鳥みたい。躰が軽くなってふわふわと飛んでいるんだわ。

 さっき腰の処が急に痛くなって、そして『どすんっ』ともの凄い音がしたと思ったらこうなっちゃった。星子、どうしたのかな。星子、どうしたのかしら。

 星子、道の向こうで立ち話をしている母の処へよちよちと走りだしたの。すると急に目の前が真っ暗になって星子は空中に飛んでたの。真っ青な空と大きな白い雲がすぐ近くに見えたわ。

 星子、何処に行くのかしら? 星子、天国に行くのかしら。

 とっても気持ちが良くて星子、神さまの手の平に乗って空を飛んでたみたい。小鳥が星子さんを不思議そうに見つめていたわ。

 やがて星子はふわりと落ちてゆき始めました。星子の羽、何処に行ったのかしら? 星子、落ちてゆこうとしているわ。

『ばきゅんっ』、星子の頭と手足は叩きつけられて波のように跳ねました。星子は意識が遠くなって目の前がとてもまっ暗になり何も見えなくなりました。







(星子さんへ)

 るるる、と朝早く電話のベルが鳴ったから誰からだろう?と耳を澄ましていたら担任のゴリラ先生からでした。父が出て、熱が39℃も出ていることを話していました。僕はそっとベッドに戻り再び『熱よ上がれ、熱よ上がれ』と念じ始めました。


 僕が死ぬと天国へ行くのか地獄へ行くのか解んないな。たぶん両方の中間ぐらいの処に行くと思うよ。窓から見える網場の海の上空と海の中間辺りに漂うようになるんじゃないかな?


 僕はこういう日(こういう悲しい日)ふと星子さんの胸に抱かれることを思います。星子さんの胸の中、温かいだろうなあ、そうして心配でこの浜辺にゴロと震えながら佇む僕の心をきっと癒してくれるだろうな、と思ってしまいます。

 星子さんは今頃、学校なんだろうな、と思います。純心のポプラの木の向こうで、明るく楽しそうに授業を受けてるんだろうなと思うと、そんなに楽しい授業なんて受けたことのない僕には、(苦しい苦しい授業ばかりを受けてきた僕には)ちょっと妬ましいほどです。

                        

 本当は僕はこの浜辺に悲しげに佇まなくてはいけないのだけど、夏の残り火と言うか、夏の青い輝く海面が僕の目を幻惑し出し、僕はいつか幸せな心地に浸っていました。ゴロも辺りを呑気そうに歩き回っています。とても幸せそうです。

 この浜辺は、本当は悲しみの浜辺のはずなのに、僕の心は、何故か慰められて、磯の香りかな、それとも細波の音かな、それとも星子さんが車椅子にぽつんと座って寂しげに背中を見せて海を見つめている幻影が浮かんでくるからかな、僕はいつか元気になっていて、僕の心は晴れ晴れとしてきます。まるでこの青空や海のように。

『死なないで、カメ太郎さん』

 十日ほど、熱に呻されていた。その間、ずっと心の中で題目をあげ続けていた。調子が良いときには仏壇の前へ行って唱題したり勤行したりしていた。

 厳しい冬の十日間はそうして過ぎていった。僕の布団の下は熱でカビだらけになっていた。十日後、僕はまっ白な顔で学校へ出て行った。


 美しい湖の底に僕らは抱き合いながら沈んでいって、そうしてそこは白い砂に覆われていて、そこで僕らは始めてキスをするのだろう。僕らは森の中のその湖で始めて抱き合い、そして始めて会話を交わすのだろう。

 僕らはそこでいつまでも抱き合いつづけるだろう。

 白い砂に埋まってしまうまで、

 僕らはいつまでもいつまでも抱き合いつづけるだろう。

(幸せなそんな日が僕らにも来たら良いのだけど、きっと来ないだろう。僕らはずっと孤独で、きっとそんな幸せな日は来ないだろう)


 窓辺を見ていると悲しげな星が一つ、また一つ、と流れていっていた。僕や星子さんの涙のようだった。愛し合っているけれど会えない僕らの悲しみの涙のようだった。


 窓辺から星子さんの家が見えるけど、悲しい。僕の頬には涙が溢れてきそうだ。ずっと学校を休みつづけている僕。喉の病気のため大きな声が出なくて文化祭の劇の先生役をできないから。

 僕は悲しく窓の外を眺めつづけている。熱が自然に39℃まで出て、家の人に学校を休む理由ができているけど、夕方にはこの熱も平熱になるし、このまえ病院に行ったときも平熱になっていました。

 星子さん、お元気ですか。僕はこのように学校を休みつづけていますけど、星子さんは元気でしょう。僕は苦しんでいます。病気は熱が出るだけで全然苦しくもなんともありませんけど。

 星子さん、本当にお元気ですか。僕は午前中、いつも熱が39℃まで出ています。母が心配して店を父に任せて昼には水枕やタオルなどを替えたり、リンゴを擦ったのを食べさせたりしていますけど。








 燃える 燃える 地球が燃える そして僕の心も灰になる


 星子さんの家を眺める風景は前面が海 そして後面が立ち並ぶ家並み その家並みの間に潜むある苦悩の魂


 僕が始めて星子さんを見たのは夕暮れ、2階の窓辺に腰かけて口を開けボンヤリと涼んでいるときだった。(つまり僕たち一家が現在の家に引っ越す前の借家でのことだ) 

 目の前を車椅子に乗った女の子が通りかかった。乗っているのはちっちゃな女の子で、その女の子が両手で必死に車輪を回していた。

 車輪が回るとグルグルとどっちの方向に回っているのか解らなくなる。まるで車椅子の上の女の子は魔法使い。回る車輪を見つめる僕はキラキラと輝く車輪に窓辺から落っこちそうになったほどだった。まるで星子さんは魔法使い、テレビで見る西洋のサーカスに出てくる女の人のようだ。

 でも魔法を使うのは小さな五歳ぐらいの女の子。必死に車椅子の車輪を回す女の子。

 車椅子の上で必死に車輪を回す女の子は西洋人のような容貌をしているんだなあと思った。

 道は僅かながらも上り坂だったためか女の子の表情は真剣だった。

 夜、僕は考えた。昼間見たその女の子のことが気になって眠れなかった。必死に車椅子を漕いでいたあのコ。異国人めいてとても美しかった。目がとても大きくて色が白くて。

 あの女の子は何処の女の子なんだろう。

 そう思って僕は星子さんを始めて見てから数日して偶然、道で擦れ違った後、彼女のあとをつけていった。

 その女の子はこのまえと同じように僕の家の裏側から見える少し登りになった道を車椅子を動かして登って行き始めた。

 やがてその女の子はその道を登り終えると大きな道を右に曲がってそのすぐの処にある家へ入っていった。表札は『野口』と書いてあった。






 僕が星子さんを愛し始めたのはいつの頃からだろうか。あれは赤い夕陽が沈もうとしている夕暮れのときだった。たしかにあの頃の夕暮れのことだった。

 あれは僕が中一の春、僕が魚釣りから帰りながら浜辺をゴロ(僕の家の犬)と歩いていると浜辺に佇む車椅子の少女が海を見つめていた。僕はゴロと大きな瞳のその少女の僕らを意識したような横顔を見つめた。

(星子さん。あのとき僕らを意識していたのだろう。僕とゴロを横顔で。僕ちゃんと解ったんだ。とても意識して微笑みかけているその横顔を)

 僕、ちゃんと解っていたんだ。僕に話し掛けたがっているその様子を。でもごめんね。僕そのまま通り過ぎて。いつものように下を向いて足早にすごすごと通り過ぎて。ごめんね。

 赤い夕陽が僕らを照らしていた。僕の足元からサクッサクッと砂を踏んでいる音がしていて僕のうしろからゴロの息が聞こえていた。そして黙って俯いて星子さんのうしろを通り過ぎてゆく僕らをまあるい背中で見送る星子さん。ごめんね、星子さん。

 僕とゴロはあの日、夕陽を浴びて微笑みながら帰った。もう陽は沈もうとしていて、さっき見た車椅子の女の子の美しい横顔が僕とゴロの瞳にまだありありと映っていた。僕らは幸せ一杯に歩いていた。家まで幸せ一杯に帰っていった。

 赤い赤い夕陽だった。僕らを結びつけていたその夕陽は。今までに見たこともないような大きな赤い夕陽だった。そうしてユラユラと揺れながら沈んでいっていた。僕らに手を振って別れを告げるように。







 寂しい流れ星が、風邪でずっと寝込んでいる僕の目に誰かの涙のように見えました。母の涙なのかなあ、誰の涙なのかなあ、と思います。もう九日も寝込んでいる僕の目に始めて見た流れ星は何かを僕に告げるように見えました。

(僕はこの流れ星を見た翌々日から熱も下がり学校へ行き始めた。クラスのみんなは色がまっ白になり痩せた僕をとても不思議そうに見て、でも喜んでくれてました。先生は『ハブ、色の白うなって良か男になったな』と言っていました)







 朝、僕はいつも後悔の念と自分の長い長い風邪に疲れ果てたようにして床を出ます。外は寒く、小雪が舞っています。もう4ヶ月にもなる僕の風邪はこの頃は咳が止まらなくて食べていたものを咳とともに吐いてしまうほどになっています。

 でも具合いは何処も悪くなく、熱が7℃台と喉がとても蒸せていることぐらいで学校にはちゃんと行けます。でも授業の後半になると痰がたくさん喉の奥にたまって早くトイレに行って吐きたくて苦しくなります。

 こんなのが3ヶ月近く続いています。僕は幼稚園の頃は病弱でハシカとか三日バシカとかいろんな病気に次々と罹って半分も幼稚園に行きませんでした。でも小学生になると途端に元気になってほとんど病気はしなくなりました。(でもよく風邪をひいたらすぐに休んでましたけど)

 幼稚園の頃、僕は呪われていて、(それに僕の家も本河地から日見に引っ越してきて今までサラリーマンだったのに店を開いて、そうして経済的にとても苦しく、家の中も貧乏なため父と母の喧嘩が絶えず、僕は病気にばかりなるしそれにとても泣き虫で毎日一回1時間くらい泣いていました)

 あの頃は地獄のような毎日でした。今も苦しいけどあの頃の苦しさに比べると今は天国のようなくらいです。

 窓を開けると冷たい外の空気が僕を哀しげに包み込みます。星子さんの家を見ようとしてもあまり長く窓を開けていると部屋が寒くなるからほんの少しの間しか開けていられません。今日も学校を休んでしまった罪悪感と母や家族の人に心配かけている罪悪感に僕は落ち込んでしまいます。

 僕の喉の病気は気管支炎なのだと思います。「家庭の医学」という本を読んでいてそう気づきました。

 この頃はゴロの散歩は姉や父が行っています。星子さんも冬なので寒いから浜辺に出ていることはないと思っていたけど、土曜や日曜には出ていると書いてあったのでびっくりしました。寒くないですか。僕はずっと風邪をひいてるし、当分の間あの浜辺に行くこともないと思います。






 僕は一度、星子さんの家に電話したことがある。中学2年の10月頃のことだった。その日、僕は学校を休んでいた。学校で文化祭があるのだが僕は劇で先生役になっていた。僕はみんなに人気があったからどうしてもそんな役をするようになってしまったのだった。

 ふとメロディーが止み、一瞬打ち震えるような沈黙が訪れた。星子さんが受話器を取ったのだろう。そしてやっぱり星子さんの声が聞こえてきた。

『はい。変わりました』

 その声はあまりにも事務的だった。少しの色気も感じさせないものだった。でも電話の向こうで実は僕以上に打ち震えている様子がいじらしいほどに感じられた。

 僕も受話器を強く握り締めたまま顔をこわばらせて震えていた。僕は熱に浮かれたように、偽りの熱に浮かれたように、して電話をかけたのだったが、星子さんの声が現実に聞こえてきて、あまりにも容易く僕が苦しんで苦しんで求めていたものが出てきているという不思議さとともに倒れました。こんなはずはあってはいけないことだとさえ思いました。あまりにも容易すぎる。僕がよく日暮れどき見渡している星子さんの家への光景のあの神秘に満ちた神聖さはここにはなかった。失望みたいなものが僕を襲った。








 星子さんへ

 僕はさっき不思議な夢を見ました。巨大な蟹のお化けのようなのが僕の部屋に入ってきて寝ている僕を心配げに見つめて、そしてやっぱり横の方向に歩いて壁の中へとすっと消えてゆきました。肩幅のとても大きい、人間と蟹を合わせたようなお化けでした。そして何故か顔が僕にそっくりでした。そう言えば僕も肩幅がとても大きいけど。

 あれは僕だったのかなあ、と思います。僕の家に住んでいる何かの霊だったのかなあ、と思います。でもちょっと寂しげな表情をして心配そうに風邪をひいて寝込んでいる僕を見下ろして壁の中へ消えてゆきました。

(中二・12月)






 星子さんへ

 今、国語の授業中です。でも僕には今朝(夢の中で)見た顔が僕にそっくりのそしてものすごく肩幅の広かったお化けの僕を心配げに見下ろしていた姿とその表情が今も忘れられないでいます。

 蟹のようだった、と書きましたけど、手はやはり人間の手で、蟹のようにはさみではありませんでした。そして腕はものすごく長かったです。

 でもとても可哀相な幽霊のようでした。歳は僕と同じくらいで、そして格好というか姿がとても醜くて。

 でも相撲を取らせたら肩幅がものすごく広くて強そうだったな、あいつ、と思って僕はちょっと微笑んでます。お相撲さんになったら大関ぐらいになるんじゃないかな、と思って。








          ----私はスフィンクス----


 私はスフィンクス

 胴体と顔だけ人間で下半身はライオンのスフィンクス

 私は近代化されたスフィンクス。実はスフィンクスも車椅子に乗っていたんです。あるとき夢の中で見ました。自分も実は車椅子に乗っていたんですって。王子で身分の高い人だったんです。とってもハンサムな。カメ太郎さんとどっちがハンサムかわからないくらい

 あるとき彼は手術されそうになったんですって。当時エジプトで流行っていた移植手術を親から(つまり王様から)強制的に受けさせられそうになったんですって。下半身をライオンにするっていう

 それで何百頭ものライオンが殺されて王子に合うライオンの下半身が捜されました。そしてやっと王子に合う若いライオンの下半身が見つかりました。でも王子は山のように積み重ねられた若いライオンの死体の山を目にして涙ぐみました

 王子は手術を受ける決意を為されました。自分のために死んだたくさんの若いライオンの魂を慰めるために

 やがて王子は死にました。手術後、敗血症を起こして間もなく亡くなったのです。そして王子の死ぬ前の姿、下半身がライオンで上半身が人間という像ができあがったのです

 やがて王子は天国で王子のために供されたたくさんのライオンの魂と会いました。悪いのは王子の親、そして当時権勢を振るっていた外科医たちです

 王子は一つ一つのライオンの魂に詫びを言ってゆきました。とぼとぼと歩いて王子を恨めしそうに見ている若いライオンの魂の前を歩いてゆかれました。何百と続くライオンの魂の群れの中を

 そして今、私はスフュンクス。鋼鉄のスフィンクス。誰もが仰ぎ見る砂漠のスフィンクス

                    (中二・12月)





(夢の中で 1)

 星子さんがスフィンクスのようにペロポネソスの浜辺に立っていた。車椅子に乗ってスフィンクスのように立っていた。星子さんが浜辺に車椅子のまま出ていた。


(夢の中で 2)

星子さんは赤い太陽に向かって飛んでいた。お星さまでなくて、赤い太陽に向かって、何故か星子さんは飛んでいっていた。








         もしも私に肢があったなら

              (パート2)


 もしも私に肢があったなら、

 そうしたらカメ太郎さんと春の野山を思い切って駆けてみたいわ。

 綺麗な黄色い花などが咲いていて、

 太陽が一杯で、

 虫さんたちも盛んに歌を歌っていて、

 私たち、その中を手を繋いでお弁当持って思い切って駆けているの。

 野いちごがあって、湧き水があって、

 カメ太郎さん、食いしん坊だから私が持ってきたお弁当だけでは足りなくて、

 (たった10分間でカメ太郎さんすべて食べちゃったのよ。

  私が朝早く起きて2時間かけて一生懸命つくったお弁当を、

  私に優しそうな声もかけてくれず、一人でぱくぱくと食べちゃったのよ)

 カメ太郎さん、まっ赤な野いちごを次から次に見つけ出しては口に入れているの。

 私もカメ太郎さんの真似して野いちごを食べてゆくの。

 私、カメ太郎さんが面白い話をしてくれないかなと期待してたくさんお弁当つくってきたつもりだったのに。

 カメ太郎さん、暗いのね。頬を頬張らせて景色を眺めながら食べつづけるだけなの。

 カメ太郎さん、私の心が解ってないのね。

 でも私、そんなカメ太郎さんが大好き。

 素朴で暢気なカメ太郎さんが大好き。

 夕方になって足がくたくたになって山を降りてたら、

 突然、カメ太郎さんが抱きついてきたの。

 カメ太郎さん、痩せてるのに力がとっても強くて、

 私、少しも抵抗できずに、

 野原の上に押し倒されちゃった。

 そして私たち、キスしたの。

 熱い熱い草の上で私たち燃えるようなキスをしたの。






(カメ太郎、書きかけの手紙)

 星子さんへ

 もう2月も半ばを過ぎて冬も早く終われば良いのにまだとっても寒いですね。夕方、ゴロの散歩に行くのにも根性が要るくらいです。今日なんか心のなかで“南無妙法蓮華経”と題目を唱えながら玄関を出たくらいです。

 真冬で寒いから寒がりやの星子さんはやっぱり浜辺には出てきていませんね。それともまだ学校から帰ってきてないのかな。僕は今日もゴロと二人っきりであの浜辺を散歩しました。北風が東望から吹いてきていてとても寒かったです。

 帰り際、星子さんの家の前を通りました。するとテレビの声が聞えていました。今日は金曜日だから星子さんはまだ学校なのではないのかな、と思いながらも、もしかしたら星子さん、もう帰ってきているかな、それとも星子さんのお母さんがテレビを付けっ放しにして夕食の準備をしているかな、と考えました。

 星子さんはいつも何時頃、帰ってきているのですか? それにいつもお父さんと帰ってきている訳でもなさそうだし。僕はなんだか従兄のお兄さんのことを考えると少し心配になってきてしまいます。僕は星子さんにとって夢の中の存在だけど、従兄のお兄さんは現実の存在だから。僕は儚い儚い夢の中だけの王子さまで(そして本当は言語障害で喉の病気で大きな声が出ないのに)僕はそのことを考えると胸の張り裂けるような思いにとらわれてしまいます。

 僕は冬の夜空に輝く儚い儚い存在で、もう一年半も文通だけを僕らは続けているけれど、僕はとても残念というか、もし僕が喉の病気でさえなかったら寒いけどあの浜辺で土曜日や日曜日にでもデートできるのにと思うと悔しくて悔しくてたまりません。

 僕は冬の夜空に星子さんの家の上に輝く寂しがりやのお星さまで、きっと喋ったら星子さんから幻滅されて嫌われる悲しい悲しい存在なのです。







(下書きの手紙)

 返事がまだなのにまた書いてごめんね。この頃、ずっと風邪ひいて学校を休んでいるので暇だからまた書きます。父は今日一人で魚釣りに行きました。岩崎電器の人と釣り船で行くそうです。そして僕もゴロも家で日曜日なのにボケーッとしています。もちろん僕は一週間近く(5日)学校を休んでいる訳だから魚釣りには行けないけれど。

 ゴロは久しぶりにポカポカとした暖かい日なので小屋の外で日なたぼっこをしています。僕はときどき窓から顔を出して外の景色を眺めています。もう冬は終わって春がすぐそこまで来ているのかもしれません。春になると11月からずっと続いている僕の風邪も治るのかもしれません。そして喉の病気もそのときには治っていて僕は星子さんと喋れるようになっているのかもしれないなあと想像しています。






(中二の2月)

 僕はこの頃、土曜日にはいつも夜2時頃、までテレビの映画を見ている。星子さんの家も土曜日にはいつも遅くまで灯がついている。星子さんも映画を見ているのだろうか。いや灯りがついているのは居間だし、たぶん星子さんのお父さんが見ているのだろう。 

 冬の真夜中の凍てつくような闇の下に僕は星子さんの家の灯を眺めながらこの頃、よくボンヤリと時を過ごしている。部屋を出て階段の上の小さな窓から凍てつく寒気など忘れて橙色に照っている星子さんの家の灯りだけを見ている僕の心の中はいろんな空想で一杯だ。

 でも外は凍えるような寒さなのである。まるで拷問のような、明治の初期、浦上のキリシタンたちが今の長野県に連れていかれ、5歳くらいの子供まで雪の降る戸外に裸で置かれたという話がまた浮かんでくる。

 その子が星子さんであったり、星子さんはそのために足が不自由になったのだと思ったり、そしてそのことの周りに浮遊する浮かばれない霊たちが僕と星子さんの間に立ってそうして僕たちを苦しめているのだと思ったりする。

 でもたしかに僕らの間に何かの霊が居て僕らを引っつけようとしたり、引っつけるまいとしているように僕には思える。そして僕の思念もその霊は筒抜けに読み取っているようにも思える。

 明治の初期、信州(今の長野県)で小さな子供がクリスチャン故に今のような寒い戸外で真裸でさらされている、という話がまた浮かんでくる。僕はどうもそれが星子さんの前世の姿ではないのかと思って仕方がない。苦しむ星子さんの姿がそれに似ているようだ。また僕の喋り方や喉の病気もその呪いの故なのだと思えたりする。

 僕は黙然としてまるで僧のように、凍てつく夜に祈る僧のように、雪の降る戸外を見つめるのであった。 






(外は猛烈な吹雪だった。ストーブが赫々と照っていた。僕はおもむろに起き上がって便箋と万年筆とインク瓶を取り出して吹雪の向こうに埋もれようとしている星子さんに手紙を書き始めた)

 僕はよくうたた寝をしながら『生きること』を考え耽っています。

 外は猛烈な吹雪です。窓を開けたら吹雪で星子さんの家の灯りが見えません。いつもは見えるのに。

 なんだか星子さんの家、吹雪に埋もれて海の中に沈んでしまうのではないかなあ、と心配です。

 そして僕はそっと窓を閉めました。そして赫々と輝くストーブを背にこの手紙を書き始めた訳です。                              

                           (中二・2月)







『明るく朗らかに、みんなの犠牲になって生きよ』

 みんなが厭がることを自分から進んで引き受け、そして自分だけ苦しみ、それでも微笑み続けて、みんなが楽をしていても、自分だけ苦しみの中に居て、それでも心のなかは朗らかで、自分の心のなかには太陽があって、どんな寒さや苦しさにも耐えて、人のために喜んで苦しみ続け、何の代償も求めないで、


 僕はハッと目を覚ました。朝だった。もうスズメやツバメたちが僕の家の桜の木にやって来て鳴いていた。僕は急いで布団から出た。


 星子さんの足の上に、神さまは鉄杭を打ち下ろしになって、そして星子さんは足が不自由になった。僕も中一の冬に喉が悪くなった。


 僕はこの頃よく日見峠を自転車に乗ったり、歩いたりして通っている。もちろんあそこからは日見も網場もみんな見えて、星子さんの家の屋根もちっぽけだけどよく見える。

 日見峠から星子さんの家は夢の島のように浮かんで見える。いつも日見峠から網場や日見の方を見るときは夕暮れどきだけど、いつも夕陽に映えて海の中に浮かんでいるように見える。

 悲しげに家の中に居る星子さんの姿も。廊下に転がしてある車椅子も。


 いつも塀に足を乗せて僕が帰って来るのを待っているゴロ。僕が夜の散歩に連れて行くのをいつも心待ちにしているゴロ。とても走るのが速いゴロ。


 いつも散歩は15分ぐらいだ。散歩の終わり頃になるともっと散歩を続けたいのか僕に噛みついてきたりして困らせるゴロ。一日じゅう桜の木につながれたきりで(2mぐらいの長さのロープに)そして夜まで小便を耐えているゴロ。散歩に連れて行ってくれないととても悲しい声を挙げて泣くゴロ。僕が疲れきって散歩に行きたくないとき









(星子、書きかけの手紙)

 お盆の海に大きなゴカイみたいなのが中場の港にいたってカメ太郎さん言ってましたけど、星子もこのまえ見ました。桟橋の近くから親戚の人たちと海を眺めていて、星子の従弟が見つけました。本当に大きな大きなゴカイのような不思議な魚でした。星子の従弟はそれを採ろうと家まで網を取りに行きましたが従弟が帰って来たときにはもういませんでした。

 長さが10cmぐらいで幅が3cmぐらいなのにとてもとても太ったゴカイでした。


 バスケットをしているカメ太郎さん。テニスをしていたカメ太郎さん。とっても頭が良くて二枚目だからとてもモテると思うのに。とっても素敵なカメ太郎さんなのに。

 夏の体育館はとても暑いのでしょう。純心の体育館もとても暑いみたいです。そしてみんな汗一杯になって練習しています。星子もそんなに汗一杯になってスポーツしたいなあ、って思ったりしますけど。     


 夜になると唸されます。何故、星子の足がこんなになったのかって。そしてそのためにカメ太郎さんと同じ日見中学に通うことができないことができなくて。

 そんな思いばかりをしているからだと思います。この頃、毎日のように悪い夢に唸されるようになったの。

 でも目を覚ますと波の音が聞えてきて星子を慰めてくれます。悪い夢に悩まされた星子の心を波の音が慰めてくれます。

                 8月7日 p.m.11:27 









 星子さんへ

 僕は今日、タコ太郎と牧島で魚釣りをしていて遥かに水平線の上に星子さんの家の屋根が眺め渡されました。青い水平線の上にポッカリと浮かんでいる星子さんの家の橙色の屋根、とっても綺麗でした。青い水平線ととてもよくマッチしていて。

 タコ太郎は相変わらず三味線島の岩の上から魚釣りをしていましたが、僕は釣れないため三味線島の根元の岩のごろごろした処に寝そべって蟹と戯れていました、と言うのはウソで紫色のアメフラシを突っついたりして遊んでいました。今年はアメフラシが異常繁殖していて一つの水たまりに十匹もいたり、大きな水たまりには五十匹ほどもいるのじゃないかな、食べられないのかなあ、それともこれを餌に使ったらでっかい石鯛というかサンバソウが釣れないかなあ、と僕は考えました。

 大きな水たまりには10cmぐらいのちっちゃなサンバソウがいました。それでも釣れたら良いのですが今釣れているのは8cmぐらいのハグロばかりです。だから僕は面白くなくて魚釣りするのをやめて泳ごうかなと三味線島の根っこの方にやって来ていました。

 紫色のアメフラシの肌ってとっても柔かくて星子さんの頬もこんなのかな、と思っていました。

       (カメ太郎・中三・8月)







 星子さんが眠っている。浜辺に眠っている。幸せそうに眠っている。でも僕は苦し紛れに今日もこのペロポネソスの浜辺に走ってきた。辛い学校生活のやるせなさと、自分の宿命への苦しみと、人間の生き方と、僕はとても迷っている。これではいけないんだ、と思いつつ、僕はどうすることもできないでいる。僕の呪いは強くて、星子さんも、誰も、僕の呪いを解いてはくれない。毎日毎日、朝と夜に二時間ぐらいお題目を上げたりしているけれど、僕の苦しみは、立山の青い空の中に、虚しく、とても虚しく消えてゆく。絶望の思いとともに消えてゆく。


 僕は必死に題目をあげ続けた。星子さんの幸せのため、自分の幸せのため、僕は必死になって題目を上げた。一時間、二時間、と続いた。僕の声は嗄れ、虫のようなか細い声しかもう出なくなっていた。

『御本尊さま、一日も早く、早く星子さんと僕をお救い下さい』と願いつつ僕の声はもうほとんど出ないようになっていた。僕は線香の立ち込める部屋で題目をあげ続けた。



 寂しさが込み上げてきても、僕はゴロを連れて海へ行けば良いから、あの懐かしいペロポネソスの浜辺へと行けば良いから。


                    (ゴロと、夕方)

 ずっと昔、星子さんが生まれる以前から、江戸時代の頃から、この桟橋はあったそうなのだけど、そしてその頃は、木でできていた桟橋だったんだそうだけど、そして今よりもちっちゃな桟橋だったそうなんだけど。


                 

 青い海の向こうに、星子さんの顔が透けて見えるようで、僕はこの春の日、ゴロと思い出のペロポネソスの浜辺へやって来て、ノホホン、ノホホンと日曜日を過ごしています。今日は県立図書館は休みだし、市民会館に行くのも億劫だし。

 青い輝く空の向こうに、きっと幸せな生活が待っているんだと星子さんは手紙に書いてくる。遠い輝く空の向こうにきっと幸せな世界があるのだと。



(夢の中で) 

 きっと何処かに幸せな世界があるのだと

 星子さんは僕に呟いたような気がする。


                

『カメ太郎さん。カメ太郎さん』

----海の上から呼んだって無理だ。僕はもう以前の僕ではなくなっている。(僕はそうして浜辺に寝転んでいた。ゴロが辺りを忙しそうに駆け回っていた。いつもの夕暮れの光景だった。寝そべる僕と、蟹や小石と戯れるゴロと)


 星子さんはとても速く走っている。僕がいくら追っても捕まえきれないくらいに、とても速く走っている。信じられないくらいに、春の野山を駆け回っている。

 星子さんは『エイトマン』のように速く走っている。捕まえきれないでいる僕を笑いながら、星子さんはずっとずっと走り続けている。


 海面を見渡しても、星子さんの笑顔は見えない。星子さんは、今、暗い顔をしていると思う。


 以前、見えていた星子さんの笑顔も、今、見えない。遥か向こうに雲仙岳と天草が、ぼんやりと見えている。


 遠く海の向こうに星子さんが煙って見えた幸せな世界は何処に行ったのだろう。遠い遠い海の向こうで僕に微笑みかけていた星子さんの美しい笑顔は、今はいったい何処に行ってしまったのだろう。





(夢の中で)

 夜空に、ゴロと星子さんが、古代ローマのときのような船に乗って浮かんでいた。そうして夜走っている僕を見降ろしていた。ゴロと星子さんは船縁から顔だけ出して僕を見ていた。

 ゆっくりと雲のように動いてゆく船。必死にマラソンしている僕。僕は息をハアハアとしながら必死に走っていた。船の上から星子さんとゴロが僕に手を振ったようにも思った。



『星子さん、きついだろ』

----僕はそう言って天国への長い長い階段を登っていていた女の子に肩を貸しました。『いえ、良いのよ。星子、一人で行かなくてはいけないの。ありがとう。でも星子、一人で登って行かなくてはいけないの』

----遠い遠い霞に煙って見えない空の上に天国はあるらしかった。でも少女のか細い足ではそこまで登っていくのはとても無理なようだった。白い白い階段だけれど、女の子一人で登っていくのはとても無理なようだった。途中で落ちて海の中へ落ちてしまうようだった。



『あれが射手座、あれがカシオペア座、あれがオリオン座』

『そうだよ。星子さん。よく憶えたね。僕の記憶はぼんやりとしかけているこの頃だけど、僕はまだ星子さんに教えた星座のことだけは憶えている。たったそれだけ。すっかり忘れてしまったけど、僕はまだ星座のことだけは憶えている。



 ペロポネソスの浜辺に潜ったよ。でも、何もなかったよ。サザエもアワビもほとんどなかった。ただ藻だけがうっそうと生い茂っていただけだった。



 幸せになりたければあの星へ向かって走ってゆけば良いんだ。階段も何もないけれど、思いきって走ってゆけばきっと橋ができて、僕らはその星に渡れると思う。



 もう夕暮れは暮れてゆこうとしていた。すると立石の方からゴロが駆けてきて、その後ろに恥ずかしそうに星子さんが車椅子をゆっくりと押しながら来ていた。星子さんの頬は赤くなっていた。ゴロは元気いっぱいだった。恥ずかしがる僕と星子さんは二人とも頬はまっ赤だった。



 ゴロ、耳を澄ましてごらん。この浜辺の、たしか何処かに、星子さんがいるだろう。微かな星子さんの声が、聞こえてくるだろう。


 

『何が燃えてるの。あの光、何なの。もしかするとカメ太郎さんの魂なの。カメ太郎さんの心なの』

『あれは不知火海の火だ。僕の心ではない。僕の魂でもない。あれは不知火海の火だ。夏になると現れてくる幻の火だ。僕の心でも魂でもない』




 カメ太郎さんは今まで苦悩に満ちた人生を歩んで来られました。カメ太郎さん、エドガー・ケーシーでなくって他の人の生まれ変わりだったのだと思います。カメ太郎さん、声が涸れているからエドガー・ケーシーの生まれ変わりかもしれないと言ってましたけど、きっと他の別の人の生まれ変わりなのだと思います。




 砂の中に星子さんが居てゴロが居てそして僕も居て、そして僕らは何を話し合うのだろう。ペロポネソスの砂の中のまっ暗な処で、僕らは何を話し合うのだろう。

 将来のこと、未来のこと、生きること、人生のこと、

 やがて湧き水が湧いてきて、僕らは岩場に流される。ゴツゴツとした岩場で、僕らは語り合うだろう。


 砂の中から星子さんが現れ出ても星子さんは変わっていて






 僕は中国語を勉強しています。英語が苦手だし、英語の他にも外国語を勉強しよう、と思って、毎晩夜12時から2時か3時まで中国語の勉強をしています。このまえ『聖教新聞』で中国語のコーナーを見て手紙を出した。すると日中友好のバッジと手紙が来た。そうして一生懸命、中国語を勉強しています。将来、中国と日本の架け橋の役目を果たそうと、必死になって中国語を勉強しています。眠たい目をこすりこすり毎晩勉強しています。






 真夏の太陽が照っていた。僕は草の上に倒れていた。ゴロが僕の周りを周っていた。遠くに波の音が聞こえる。大きな草っぱには僕とゴロだけで誰もいない。

 過ぎてゆく夏への悔しさにいたたまれなくなってゴロと家を飛び出してきた。自分には青春がないような、もう僕には楽しい日々は訪れないような気がした。この喉の病気のために僕は今からもずっと苦しまされていくのかと思うとたまらなかった。

                      (カメ太郎・中三・夏)





 僕らは悲しい恋人どうし

 海を見つめる恋人どうし

 やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて

 無言の僕らを慰めてくれる





 ときどき僕もふと思う。

 ゴロと一緒に夕暮れ海を見つめながらふと思う。

 僕らの存在って何なのか?って。

 そして木や岩や草の存在って何なのか?って。

 すると風がビュンビュン吹いてくる。

 僕らの髪をなびかせてビュンビュン吹いてくる。

 ゴロの黄土色の毛も波打っている。

 まるでモンゴル地方の草原のように。

 僕がそっと手で触ると、ゴロは不意に僕を見返る。何事が起こったのか訝しむように。

(ペロポネソスの丘の夕暮れはそうして暮れていっていた。ペロポネソスの丘は赤く夕陽に染まっていて、僕とゴロはそこに寝転んでいた)

                                          s51.10,3 







 僕はこのまえ友人と東望の海岸の新しく出来上がったばかりの道を自転車で行っていた。すると対岸の星子さんのいつもいる浜辺に星子さんの車椅子に乗っている姿が見えた。僕は友人に『俺、やっぱり帰る』と言って急にスピードを上げて星子さんの居る浜辺へと向かった。どうせいつものように裏のみかん畑からこっそりと眺めるだけなんだけど。

 僕は友人と別れて寂しくその浜辺へ自転車を走らせていた。頬に打ち寄せてくる風が涙のようで友人と急に別れてきた悲しさがあった。そしてどうせ口もきかず隠れて黙って星子さんの後ろ姿を見つめているだけである虚しさと悲しみと。


 もう浜辺も、足を入れると冷たくて、もう秋になったことを、もう冬になろうとしていることを、僕に感じさせてくれます。でも星子さんはこの頃、風邪をひいていてもうずっと浜辺に出ていませんね。僕とゴロはだからとても寂しいです。







(カメ太郎、中三の12月11日)

 カメ太郎さんが泣いていたわ。今日パパと帰り掛けにちょっとパパの友だちの家に寄る用事があって日見中学校の前を通っていたら星子、まさかと思ったけど、ちょうどカメ太郎さんが中学校の入り口の坂を降りてきてたわ。あっ、カメ太郎さん! 星子、とっても嬉しくてとっても幸せな気持ちになりました。でもカメ太郎さん、泣いていました。目をまっ赤にして何故か泣いていたみたい。

 カメ太郎さん、どうしたの?。どうしてカメ太郎さん、泣いてるの。

 星子はパパに『ちょっと止まって』と言って俯いて広い肩を震わせながら歩いてゆくカメ太郎さんを見つめました。『どうしたの? カメ太郎さん』星子は車の窓越しにそう呟いていました。12月なのに春のような暖かい日でした。そして周りには何人か帰っている人と十人ほど箒を手にした掃除中の人たちがいました。

 何故、泣いてるの?カメ太郎さん? あっ、カメ太郎さんはいま級長で、そして喉の病気で大きな声が出なくて。あっ、きっとそうだわ。そのために泣いているんだわ。

 大きな声が出なかったの? でも星子はもっとひどい障害があるのよ。泣くなんてカメ太郎さんらしくないわ。

 泣かないで、カメ太郎さん。カメ太郎さんが泣くなら星子はどうなるの? 星子の苦しみとカメ太郎さんの苦しみは全く種類が違うけど。


 僕はあの日、大きな声が出なかったんだ。6時間目の授業が終わって掃除が始まったとき突然、先生から呼び出されて職員室へ行くと先生が伝言をくれた。今頃になって、今頃になって何故、伝言くれるんだい、先生。僕はそう言いたかった。椅子に大きく腰かけて呑気そうにそう言う先生に向かって。

 僕は教室へ戻った。そして僕は力一杯伝言を伝えようとした。

 でも僕の声、教室のみんなの喧騒に虚しく消されていった。僕の声、誰にも聞かれなかった。僕はただ口に両手を当てて、もぐもぐと教室の前で口を動かしているだけだった。みんな、クラスのみんな、楽しそうに放課後わいわい騒いでいるだけだった。僕はそうして伝言を伝えきれないまま哀しく一人で教室を出ていったんだ。

 校門を出るとき学校の裏の山に夕陽が懸かっていた。星子さんには夢中だったため全く気づかなかった。でも視界の端に見覚えのある車が停まっていてその中にいたいけな生命がガラスの向こうで必死にもがいているらしく感じたような気もする。

                  





 僕は浜辺で海に向かって発声練習をしていた。

 でも大きな声は出なかった。

 いくら大声を出そうとしても僕の声は波の音そして風の音に消されていっていた。

 どんなに力いっぱい声を出そうとしても、大きな声は出なかった。

 ただ声が枯れ、ガラガラとした声になっただけだった。

 絶望感が僕を覆っただけだった。


 そして僕はゴロと家路に就いた。

 絶望の闇が僕を覆っただけだった。

 そして冷たい北風が走る僕に吹きつけていた。


 僕は学級委員になって、大きな声が出ないことでとても苦しんでいた。

 冬で波は荒く、僕はペロポネソスの浜辺の先の立石の岩場で発声練習をした。大声を張り上げようとする僕を訝しげに見るゴロ。冷たい北風。口に手を当てて海に向かって叫ぶ僕。でも僕の声はとても小さくて、僕がどんなに大声で叫んだって普通の人の話し声ぐらいの声しか出ない。僕は落胆し打ちひしがれ、痛くなった喉を我慢しながら家路に着いていた。

 立石から僕の家までの道は長かった。でも僕の躰は燃えていた。僕はあまり寒くなかった。北風も僕には何でもなかった。授業の始めと終わりの号令をもしかするとまた友達に頼まなくてはいけないかもしれない悲しみが僕を襲っていた。それは大きな大きな苦しみだった。

                  (中三・1月)







 星子、もう一ヶ月以上も前のことになるかな、学校をお昼頃、抜け出してすぐ近くの産婦人科の病院に行ったことがあるの。車椅子の星子がそんな処に来たものだから病院の看護婦さんたちも目を白黒させていたわ。でも星子、必死だったから。後で校長先生たちからどんなに叱られるか覚悟して来たんだから。

 星子、カメ太郎さんと結婚できるのかどうか悩んでいました。星子、子供を産めないなら、もうどうしてもカメ太郎さんと結婚できそうにありませんものね。両肢が悪くて、それに子供を産めない星子さんなんかと、誰が結婚してくれるでしょうね。          

『先生、星子、子供産めるんですか。産めないんですか。はっきり言って下さい』

 星子、怖かった。先生の返事を聞くのが怖かった。たぶん『産めない』って言われると思えてたから星子、耳を抑えて頭を下げて蹲りました。   

                    (星子、中二 4月)









 カメ太郎さんへ

 草陰に不思議な花がありました。コスモスの花みたいで、でも秋に咲くコスモスの花が何故、今こんな処に咲いているの。

 星子、体育の時間になるといつも一人で運動場の隅っこをうろちょろするんですけど、このまえ(おととい)とても不思議な花を見つけました。花壇のブロックのすぐ外に咲いていてちょうどみんなから一人離れ離れになって体育の時間を過ごしている星子みたいでした。みんなが咲いている花壇の中に咲いてなくて、何故、こんな処に咲いているの。どうしてなの。寂しいでしょう。寂しくないの。可哀想。星子とっても不思議でした。

 でも綺麗。とっても綺麗。

 その花は花びらが紫色をしていて普通のコスモスの花とは違っていたのよ。コスモスの花は黄色い花びらをしているのよ。それにいつも秋に咲くものなのよ。

 星子、とっても不思議で茎を手に取って折り取りました。やっぱりコスモスの花みたいでした。形はやっぱりコスモスの花で、でも不思議な色。

 星子、その花を先生に見つからないようにそっと胸の中に隠しました。まるでこの花、星子みたい。星子、胸がジンッときちゃって、この花を家に持って帰って花瓶に生えよう、と思いました。

 でもその花、星子の胸のなかで星子とカメ太郎さんの間に生れた赤ちゃんみたいに動いたわ。星子、子供産めないからこの花を子供にしようかな、て思ったほど。

 辺りの花壇には一面にチューリップやヒヤシンスの花が赤や青や紫色に咲いていてとても綺麗。目がクラクラとするみたいなほど。でも星子、胸のなかに隠したこの花の方がもっと好き。まるで星子みたいだもん。それにもしかしたら星子とカメ太郎さんの間にできる赤ちゃんみたいだもん。

 星子、でも小学校の頃もよくこんなことしていました。星子、なんだか小学校の頃を思い出してきてちょっぴり感傷的になって涙が出てきました。

 この花を胸に抱えて目を潰ると星子の悲しい小学校時代のことが夢の中のことのように思い返されてきます。

 それはとっても悲しい思い出で星子この頃、2年近く忘れていたことなのに。星子、小学校の頃も体育の時間にはいつも運動場の隅っこで見学していたんです。

 星子、その頃もよく運動場の片隅の花壇の傍で時間を潰していました。誰も話相手がいなくて何もすることがないからいつもそこへ行ってたのです。

 そうして星子、運動場の隅っこでヒマワリの花やヒヤシンスの花やコスモスの花などと戯れていました。

 星子、目に涙を浮かべながら、嗚咽を漏らすのを必死に堪えながら、みんなと戯れていました。

 みんな、星子の友だちで、星子、笑いながら、みんなと戯れていました。とっても綺麗。みんな、とっても綺麗。黄色や青色や紫色が織り交ざっていて、とっても綺麗。みんなみんな、とっても綺麗。一生懸命に咲いていて、とっても綺麗。 





 星子さんが僕に言い寄って来たって、僕には星子さんを無視することしかできない。僕には哀しい喉の病気があるのだから。だから僕は星子さんとは喋られない。

 僕の周りには重い鉛の扉があって僕と外界とを分け隔てている。とくに女の子とは分け隔てている。










         (浜辺での夜の会話)


 細波の音が僕らを包んでいる。それに星子さんの家の方からか電線に止まった雀の鳴き声が聞こえてくる。そして白いカモメが飛行機のように黒い大気の中を海面目がけて垂直に降ちて来ようとしている。

『カメ太郎さん。黒い大きい不安ってなあに。黒い大きい不安って』

『それは僕を包み込もうとする巨大な津波のようなもので僕は毎日の学校生活の苦しさについ負けそうになったときそう思ってしまうんだ。教室の中や学校からの帰り道のときなんかによく。

 でも僕はそれを跳ねのけて生きなければいけない。どんなに辛くたって明るい振りをして頑張って毎日を送らなくっちゃいけない。

 僕らは、本当に僕らはとても辛い境遇にあるけれど決して負けたり挫けたりしないで生きてゆかなくっちゃいけない。僕らは決して負けないで』

(カモメはやがて魚を銜えて海面を飛び立ったようだった。赤い窖に小さな可哀想な魚を銜えて)







 星子さんへ

 今、ポツポツと雨が降っています。まるで僕の心のようです。明日もまた学校か、と思うと。

 早く日曜日が来ないかなあ、って思います。

 日曜日になるとそれに魚釣りに行けるから。またこのまえのような大きなチヌを釣りたいなあ、と考えています。









 3日前、僕は星子さんとすれ違った。クルマの中から身を乗り出して僕を見つめた星子さんと、バス停でぼんやりと立ち尽くしていた僕と。

 星子さんは全然変わってなかった。僕も全然変わってなかっただろう。僕は中三の頃から全然身長も伸びてないし(でも体重は中三の冬の受験期間中に57Kから62Kへ5K太ったけど。もう痩せていることをあまり気にしなくて良いようになったのだけど。遊べなくて、アッという間に5K太ったけれど。でも僕は

 星子さんの目は寂しげだった。クルマから身を乗り出した星子さんの目はやっぱり他の誰のよりも大きくて美しくて、もしも星子さんが両足が不自由でなかったら、僕は恋焦がれて、きっと今のようにお互い手紙を一週間に一度ずつ出しあうようなことはしなかったと思う。僕はきっと星子さんと会っていたと思う。でも星子さんが見た僕は現実には、クラスのある女の子を好きになったり、中学の頃のあるクラスメートのことを思い出して感傷的になったりしている僕だ。でも僕は星子さんを幸せにしたくて、一生懸命、中学の頃の僕のままであり続けるつもりで星子さんに手紙を書いているけど、星子さんも薄々気づいているだろう。僕の手紙が短くなっていることを。星子さんは僕が高校へ入ってからクラブや勉強で忙しくて中学の頃のようにあんまり手紙を書くのに費やす時間がなくなったのでしょう、と星子さんから書いてきたけれど、実は本当はそうではないんだ。僕の心は星子さんから少しづつ離れていってるようなんだ。少しづつ、でも確かに星子さんへの情熱が薄れつつあるのを自覚している。でも星子さんを悲しませたくないから、僕は今も一生懸命、週に二回ぐらい夜を費やして手紙を書いているけど、本当は僕の心は星子さんから少しづつ離れていっている。何故か情熱が湧いて来なくて、僕はこの前のような薄っぺらな手紙を書いてしまう。本当にもう夜、手紙を書いていても以前のような情熱が湧いて来なくて、僕は星子さんが可哀想なため、ただそれだけのために、僕は星子さんに手紙を書いているように思う。星子さんが美しくて、いつも僕を愛してくれてるなんて、それは僕の心のわだかまり。星子さんは

                      (高一・6月)









(星子、出されなかった手紙)

 今、津波が襲ってきて星子やカメ太郎さんを呑み込んでゆく夢を見ました。カメ太郎さんの家、小学校の近くだからとてもカメ太郎さんの家まで津波はやって来ないと思いますけど、夢の中で星子もカメ太郎さんも大きな波の中に居ました。

 今、救急車のサイレンの音がしています。何台も何台も走っているみたい。星子、きっとその音で目を覚ましたのだと思います。今、夜の1時45分です。今日は疲れていて9時半頃、寝ました。よく考えるともう四時間寝ています。星子、この手紙をベットの上で書いています。この頃、よく夢を見るから。不思議な不思議な夢ばっかり。でもいつもすぐ忘れてしまうから。だから日記に書いておこうとして枕元にボールペンと日記帳を置いてたんですけど寂しいから、だから星子、手紙を書き始めました。









(結局、出されなかった手紙。星子さんが中二の6月頃に書いたものと思う)

 今日はずっと雨が降っていました。僕は授業中、教室の窓から、純心中学校で授業を受けている星子さんのことをずっと考えていました。

 何故、人には幸不幸の別があるのだろうと考えていました。外はどしゃ降りの雨でした。

 人は不公平になるように生まれてきているのだろうかとも思いました。幸せな人は幸せなことが続いて、不幸な人には不幸なことが続くという。

 これではいけない、こんなことであってはいけない、と雨を見ながら僕は思っていました。

 どうすればみんなが公平で、幸せな社会が出来るのかな、と考えていました。不公平のない世の中は、と考えていました。

 例え物質や金銭的に平等になったって、僕や星子さんのような病気や身体障害を持った人はどうなるんだ、と思っていました。

 例え、お金がみんな平等になったって、その人の持って生まれた宿命(カルマ)が良くなる訳ではないのに、と思っていました。








     (たしかその手紙を書いた夜の3日後の夜に書いたと思う)

 星子さん

 僕はあの日、一人で学校から帰りながらつくづくと考えました。僕ら、恵まれない運命を持って生まれてきた者は一生不幸なんじゃないかって。そう思って僕はとても悲しかった。何故、世の中はこんなに不公平があるんだろう、と思って。

 僕ら、運命に流され弄ばされてきた僕らは、経済的に平等になったって、どうしたら良いんだろう。僕らは、お金よりももっと、健康な体が欲しい。お金よりも病気を治したい。                           

 夜、僕は起き上がると星子さんへ手紙を書き始めた。夜の12時だった。今日は7月1日で外は雨上がりの夜景だった。悲しみの涙の雨が辺り一杯に滲んで濡れているようだった。そして明日の学校への不安と一緒に。

 窓辺から雨に濡れた夜空を眺めながら、僕の心のなかは不安で一杯だった。夏になりかけているのに僕の心の中は寂しかった。1月の氷の日のような夜景に僕の目には映った。




 海を見ていると

 自然と微笑みが湧いて来る

 7月になった真夏の海が

 僕らを微笑ませてくれる




 星子さんの悲しさと僕の悲しさとどっちが悲しいだろうかと僕は思う。きっと僕の方が、毎日の学校がとても辛いから、僕の方が悲しいと思う。





 ゴロが泳いでいる。 

 ペロポネソスの浜辺で、

 ゴロが気持ち良さそうに泳いでいる。

(ゴロはまるで首を潜水艦のポセイドンのようにして楽しそうに泳いでいた)







(カメ太郎・高一・8月)

 冬の間、あれだけ悲しかったこの浜辺も、もう夏になると悲しみをあまり感じさせないのは何故なんだろう、と思います。

 冬の間、あれだけ悲しかったこの浜辺も、もう夏になると悲しみをあまり感じさせないような、そんな浜辺に変わっています。以前と全然変わらないのに。



 真夏の赤い陽炎が

 僕の心を楽しくしてくれているのかもしれない

 吹いてくる風は熱く

 僕を夢見心地にさせてくれる





(カメ太郎・高一・8月)

 僕はずっと来ていなかった。ずっと夏休みの補習や柔道の練習なんかで、ずっと、もう何ヵ月も来ていなかった。

 でも全然変わっていない。ただ風が熱くなって、砂が熱くなって、それだけが冬の頃の浜辺と変わっているけれど。




(高一・8月)

 窓を開けて海を見回しても、もう誰もいない。

 真夏の海が輝いていて、駆けてくるゴロの姿と、微笑んでいる星子さんの姿が、哀しく思い描かれるだけだ。

 とても哀しく、とても寂しそうに。






 寂しいとき、寂しくて堪らないとき、僕はよく海を見ます。すると青い海が僕を慰めてくれます。真夏の8月の眩しい海が。


 真夏の青い海ってとても綺麗。でも星子さんはいつも一人でしか眺められないの。ベットの上からや、車椅子の上からしか眺められないの。


 僕も一人だ。僕も一人でしか眺められない。ゴロが居るけれど。ゴロがちょっぴり僕の孤独を慰めてくれるけれど。


 星子は一人なの。星子には誰もいないの。パパやママがいるだけなの。いつもカメ太郎さんの家を涙で曇らせて見るの。いつも少しカメ太郎さんを恨みながら。喋ってくれないカメ太郎さんを恨みながら。

 高台にあるカメ太郎さんの家をいつも見るの。いつも夕方、悲しくて寂しくてたまらなくなりながら見るの。

 星子、夕方になると悲しくなるの。昼間は元気なのに、パパと夕方、クルマに乗って帰りながら、星子、必死に悲しみを堪えているの。助手席で涙がこぼれてくるのを必死で耐えてるの。

 星子、悲しいの。自然と涙がこぼれてくるの。クラスのみんなは幸せなのに、何故、星子だけ不幸なの。星子も幸せになりたいの。



 僕も同じだ。僕も一人だ。僕も毎日一人で立山の坂を降りながら、泣きたくなってくる。寂しさと惨めさと、僕の喋り方や病気のことで。

もう夏も終わろうとしているのに、僕は一度もこの浜辺に来ていなかった。もう夏も終わろうとしているのに。

(カメ太郎・高一・8月・夏の浜辺にて)





 星子さんの微笑みは、僕に哀しい思いしか起こさせなかった。星子さんの微笑みは、赤い薔薇のようだった。哀しい哀しい薔薇のようだった。


 赤い気球に星子さんとゴロが乗って、盛んに僕に手を振っている。

 僕は浜辺で星子さんたちを見上げている。

 星子さんたちは気球の上で、でも寂しそうで、その寂しげな雰囲気が僕には解る。

 熱い熱い太陽の光が僕らを照らしているけれど、僕らは笑っているけれど、

 心の中はとても寂しい。


 カメ太郎さん、虹が見えるわ。星子たちの未来のようなの。七色のように綺麗に輝いてはいないけど、でも星子たちの未来のような虹なの。美しい虹なの。


 海の上を星子さんが歩んでいる、星子さんが動いている。いつも一人ぼっちの星子さんが、海の上を漂っている。まるで幽霊船のように、夕暮れの海の上を漂っている。

 立ち上がった僕の目にはもう、星子さんが天国を僕へ手を振りながら駆けてゆく姿が見えていた。そして何故かゴロが、一年後ゴロが死んでいくことを予知するかのように、星子さんの傍についていた。

 孤独な僕の目に映った錯覚に違いなかった。もう夏も終わろうとしているのに僕の心は孤独だった。


 僕が夢見ていた浜辺はこんなものではなかった。僕が夢見ていた浜辺は、僕が星子さんの車椅子を押して、ゴロが傍に付き添っていて、星子さんがいつまでもいつまでも喋っていて、僕はときどきただ『うん』と頷くだけで、星子さんが一人でずっと喋っていて。

 僕は深い悲しみに沈みながらこの浜辺に佇んでいる。もしも星子さんがいてくれたら、もしも僕がちゃんと喋れたら、と思いつつ。

 そうしたら僕は明るくこの浜辺に佇むことができるのに。

 恥ずかしがる星子さんと、息をひそめる僕と、どちらが苦しいだろう。星子さんはどうしても僕の前には現れたがらなくて、僕は息をこらえながら海面へ海面へと何回往復しただろう。

 星子さんの方が苦しいのかもしれない。夏の終わりの夕方の海はもう、少し薄暗くなっていて僕を少し不安にさせたし、星子さんをも心細くさせていたと思う。

 潜っていてとても寒かった。30分も潜っていたら寒くて寒くて堪らないようになってきた。もう秋になってきた。寂しい秋になってきた。

 大きな海のなかに溶けていって、何も考えなくて良いようになって、のんびりと毎日を、全然時間を気にせずに過ごせたら、どんなに幸せだろう。





 カメ太郎さん。元気にしていますか。もう夏も終わりに近づいています。もう8月も20日を過ぎてしまって、後一週間余りでまた学校が始まるのかと思うと少し憂欝になります。カメ太郎さんたちはもう補習が始まっているのでしょう。それにカメ太郎さん、毎日柔道の練習があっているのでしょう。

 もしも星子が元気な躰をしていたら、カメ太郎さんたちの柔道部のマネージャーをして上げるのにね、と思っています。

 星子、この夏も海へ行きませんでした。良いえ、毎日のように夕方頃、浜辺に出ていました。カメ太郎さんがゴロを連れて来ないかな、とも思いました。でもカメ太郎さん、この夏一回も来ませんでしたね。やっぱり中学の頃と違ってそんな暇ないのでしょうね。去年まではよくカメ太郎さんの姿を浜辺でときどき(いつも遠くからでしたけど。それにいつもカメ太郎さん、すぐ走って去っていってしまわれていましたけど)見ていられたのに。

 この夏も何事もなかったように過ぎてゆきます。お盆も終わって、このまえ台風が来て、そして夏も終わりに近づいてきました。夜もあんまり暑くなくなりました。

(星子・中二・夏)









          

         星子の日記


 星子だけのピノキオ いつも不安そうに俯いている可愛いピノキオ

 寂しげなピノキオ でも笑顔はとても楽しげなピノキオ


 星子のピノキオは

 実はとっても力の強いピノキオでした

 外見はとっても痩せているように見えるけど

 裸になると筋肉と骨だけ


 やがて星子はピノキオから抱かれる時が来るのです

 嵐の夜にたなびく黒い老いた腕で

 息ができないほど強く強く抱きしめられるのです

 強く強く


 カメ太郎さんの不思議に光る白い裸体。星子の裸体も白くてやがてそのうち星子たち重なり合うんです。そして溶けてゆくの。波の音を聞きながら。

 星子たち蝋人形なのです。小さな可愛い綺麗なとっても綺麗な。でも燃えてゆくんです。星子たち。

 炎の中で星子たち始めて一緒になれるんです。もだえながら、焼かれてもだえながら、星子たちやっと一緒になれるのです。叫びながら。断末魔の喚きをあげながら。

『苦しい? カメ太郎さん? 熱い?』










        (星子さんへの手紙の下書きだろう)

 青い、青い海だけが見える。もう夏も終わりに近づいた9月の海が見える。

 もうあまり暑くなくなってきてやっと夏も終わった感じです。ゴロもこの頃はあまり暑くなくて過ごしやすそうです。それより暑がりやの僕や父は暑くなくなってとても嬉しいです。

 星子さん、お変わりありませんか。僕たちは二学期が始まったけど、もうずっと前から補習があっていたしクラブがあってたので以前と全然変わりません。中学の頃は本当に42日間ずっと休みだったのに、そうして友だちと自転車で大村へ行ったり大村湾一周をしたりしていたのに、本当にあの頃は暇があったのに。今は英語や古文の予習なんかをしなければならないし、いろいろ宿題があるし大変です。

                      (高一・9月8日)






 少し肌寒くなってきたこの頃、カメ太郎さんいかがお過ごしですか。

                    (星子・中二・9月)





 僕は苦しみ始めた。今までこんなことはなかった。高校に入ったばかりの頃、スク—ルバスの中で友達に話し掛けようとしたとき言葉が出て来ず不思議に思ったことがあった。でも今まで(一学期のとき)現国の時間、一文読みで言葉が出てこないで苦しい思いをしたことがあっただろうか。一学期のとき、たしかに何回か最初の言葉を2、3回言ったりして吃ったことがあったようにも思う。でもこんなに苦しんだことはなかった。

                      (カメ太郎・高一・9月)





(星子さんへの手紙の下書きだろう)

 今日の3時間目、現国の時間、自習になって僕は現国の本を読んでいました。みんなはトランプをしたりワイワイ喋ったり騒いでいました。でも三分の一ほどの真面目で大人しいのは宿題をしたりしていました。

 現国の本に面白いのがありました。授業のとき飛ばしたものですが『紀州のジプシー』というものです。畑正憲っていうムツゴロウで有名な人が書いている報告記のようなものでした。

 海の上に小さな船で一人で出て何日も何日も一本釣りの手釣りで魚を釣るのです。僕は魚釣りが大好きだし、それに小さな船に一人で生活するのだから喋らなくて良いし、僕は高校やめてそれになりたいなあと、ずっと思っています。すると僕の苦しみや悩みはすべてなくなります。僕の大好きな魚釣りを毎日してゆけます。

 弟子入りしようかな、と思ったりしています。                                                       (高一・9月)





 僕はこの頃、学校をやめて加津佐の父の実家へ戻ってそこで農業しようかとも考えてきました。後を継いでいる父の弟夫婦は僕の父と母のように町へ出たいと言っているそうです。だから僕が後を継ごう。そして花を栽培したり外国の果物を作ったり新しい品種を作ったりしよう、と考えたりしています。でも農業をやっていくにしてもやはり近所の人とは喋らなければいけないし、それがちょっと嫌な気がします。いろんな寄合いなんかに出なければいけないようだし。

 でもミカンや米なんか喋らなくても肥料や農薬をちゃんとやっていたらできるだろう。

                  (高一・9月27日)








          ----僕は悲しい運転手----


 僕は悲しいトラック運転手。無線で喋れない悲しいトラック運転手。まっ暗な闇の中をトラックを猛スピードで走らせている。怒りを込めて。

 僕は無言の運転手。一人ぼっちの運転手。怒りが僕を支配していて路傍の雑草が僕のトラックのたてる風に揺れている。

 僕は無口な運転手。無線にはいろいろな処からトラックの運転手の話し声が入ってくる。みんなとっても元気で中にはヤクザっぽい人もいる。

 僕は唖の運転手。高校中退の言語障害の運転手。

 僕は涙のトラック運転手。僕の涙とともに降り出した雨の中を走る運転手。

 長崎から遠く離れて東京へと高速道路を行く運転手。僕は哀しい運転手。

 トラックのタイヤは僕の足で僕の怒りを表わしたものだ。ヘッドライトはもちろん目でその光も僕の怒りだ。

 僕は涙を堪えてひたすらに走り続ける。ふとハンドルを右に切って中央分離帯を越え向かってくる大型トラックと正面衝突したいという誘惑に駆られるけど僕にはやはり父や母がいる。僕は死ねない、懸命に生きてゆくしかないのであった。そして父や母の前ではさも楽しそうに振る舞わなければならないのであった。生きるのや仕事がとても楽しいといったふうに。

 僕は涙を流しながら運転する。生きてゆくのが辛い。早く死にたい。早く何かの死病に取りつかれるかして。

 でも僕の病気は死病ではなく人から笑われるだけの人から軽蔑されるだけの病気であった。

 雨がシトシト降っている。僕は悲しいトラック運転手。

 真夜中、星子さんが立っていた。雨がシトシト降っている国道のまん中に。

 僕は急ブレーキをかけた。(キュルキュルキュッ)

 星子さんが消えた。でも星子さんらしい人影は何処にもない。

 夢だろう。重なる疲労の果てに見た夢だろう。

 夢だったんだ。そうだ。夢だったんだ。星子さんは立って歩けないんじゃないか。それにこんな真夜中に。また長崎から遠く離れた処に。

 この雨は星子さんの涙なのだろうか。それとも僕の涙か。僕の両親の涙か。

(ギッ、ギッ、と鳴るワイパーの音。雨の音とともに際限もなく鳴り続けている)








 星子さん。僕は今日、魚釣りしながらつくづく思った。明日からの一週間の学校のことを心配したりしながら僕はつくづく思った。もう暮れゆく太陽。もう日曜日も終わりに来ている。一日の休憩ももう終わり明日からまた6日間の辛い日々が始まることの悲しさ。

 また続く6日間の苦しい日々。他の人には楽しい日々かもしれない。朝、僕の心は軽やかだった。でも夕暮れが近づくにつれて憂欝になってくる。

 楽しい一日ももう終わり、苦しい6日間が明日から続く。夕暮れは僕の心を悲しみで満たす。午前中は楽しかった。 

 夜、家に帰ると僕は風呂に入るまえにゴロの散歩に行く。魚釣りで疲れているけど、いつもクラブで疲れているから。

 悲しい夜の闇が僕とゴロを包んで僕とゴロはその闇の中を必死で走る。僕の心は明日からの学校のことへの不安で一杯でそれで一生懸命、駆けているのにゴロは何故そんなに駆けているのだろう。僕は不安ではち切れそうな胸の中を癒そうと必死に走っているけどゴロは何故そんなに走っているのだろう。

 僕は一度星子さんの家の前で立ち止まった。不安ではち切れそうな胸。でも星子さんはいない。僕がこうして星子さんの家の前で立ち尽くしているのも知らないで星子さんも寂しくテレビを見ているか宿題をしているかしているだろう。

 僕もこんなに不安と寂しさで胸を一杯にして立ち尽くしているのに僕のこの心は星子さんに伝わらず星子さんも寂しさで胸を一杯にしていると思う。






 僕は飛んでいました。長崎港を見下ろしながら鳥になっていました。高校に入ってからよく願い続けたことが遂に現実になったのでした。

 僕は高校に入って以来、グラウンドから空を見上げては飛行機のように飛び回るトンビを見てよく不思議なもの思いに囚われていました。ああ、自由そうだな、何にも縛られてなくて自由そうだな、と。

 高校の始めの頃、その頃、僕は幸せだったから単なる憧れを覚えただけだった。でも七月八月と経ち、喉の病気のことで僕の憂愁は深まり、九月になり吃りがひどくなってから僕は大空を飛行機のように飛び回るトンビを憧れというのか解らない気持ちで見つめるようになりました。

 僕は現国の授業に帰りたくなかった。このまま現国の授業が終わるまで大空を飛び回り続けたかった。僕には帰れる処がなかった。僕はさっき現国の授業のとき一文読みの順番が回ってきたときに突然窓際へ走っていって窓から大空へ飛び立ったのでした。みんなびっくりしていたようでした。

 それで僕は教室に帰れないのでした。

 僕は飛んでいました。眩しい眩しい青空でした。

 トンビがいます。みんな黒い色をしていて、みんな遠く離れてジェット機のように飛んでいます。みんな僕に知らんふりして悠々と一人一人飛び回っています。

 処々薄く雲が懸かっていて何処までも大きい空でした。小さな教室の中と違って目の眩むような大きな空です。あっ、あそこに浮かんでいるのはUFOかな。僕はゆっくりと旋回して近づいてゆきました。UFOの母船なのかな。ゆったりと動かないで葉巻みたいな形をしていて、まるで空のクジラのようだな。空のシロナガスクジラのようだな。

 僕はキューンとその母船から離れて、ますます高く高く上空へと舞い上がっていきました。

 やがて僕は純心中学と高校の木立ちの中に舞い降りました。僕はウルトラマンの格好をしたまま辺りを見回しました。

 もう長く見ていない星子さんでした。僕は中庭を身を屈めながら星子さんの教室を捜し始めました。星子さんの教室は1階の窓から池の見える教室と手紙に書いてあったことを想い出していました。

 僕には久しぶりの星子さんの姿でした。やっぱり可愛いな、と思いました。車椅子の少女だといってもこんなに可愛いなら他にも星子さんを好きなのがいるかもしれないと思って心配になりました。

 星子さんは同じ教室のどの女の子よりも可愛く思えました。

 僕は帰らなければいけないと思うようになってきました。僕は飛び立とうと空を見上げました。

 僕は泣いていました。再び飛び立ちながら泣いていました。何故こんなに涙が溢れてくるのか解りませんでした。

 僕は星子さんが車椅子の少女であることが悲しいのだろうと思いました。何故、星子さんが車椅子の少女でなければいけないのだろう、と思って悲しくて僕は泣いているのだろう、と思っていました。

 僕は空を飛び始めました。早く学校に帰らなければいけないと思ったからでした。僕は飛んでいました。飛びながら僕はさっき見た星子さんのことを思い出していました。でも星子さんも泣いていました。星子さんも僕と同じように悲しくて泣いていました。僕も空を飛びながら悲しくてたまりませんでした。

 それは3分間の夢だった。周囲のみんなは言葉が出て来ず、もじもじしている僕に振り向くことなく、じっと背中を見せていた。それは哀れみの背中だった。打ち震える僕。








 もう夏が終わり、秋が来ようとしています。僕は今日、昼、授業が終わってから一人でずっと市民会館の七階で勉強しています。昨日の夜はもの凄い雨が降っていましたけど、いつものように雨がたくさん降った日は僕の心は何故か爽やかです。今週の日曜日体育祭です。だから今日はこんなに早く学校が終わりました。でも僕は何もすることもなく一人この市民図書館では知っている人が居たらヤバいなあ、と思って。

 ずっと黒い雲が朝から立ち込めています。僕がこの市民会館へ来るときもそうでしたが、ときどき雨が降って来ています。ときどき悲しくなったり寂しくなったりする、僕らの心のようです。

 この雨が止むと秋になるんだなあと思います。悲しい秋がやって来るような気がしてなりません。いつも秋は辛く悲しかったから。

                    (カメ太郎 高一 10月)





星子さんへ

もう秋になり、寒くなくなってきました。朝なんか起きるのが辛くなってきました。特に僕は学会員だから朝の勤行をしなければいけないので。だいたい30分は掛かります。7時20分のスクールバスに間に合うためには6時半には起きなければいけません。でも中学の頃なんか、ずっと冬の間、風邪をひいていたのに、毎朝一時間、勤行唱題をして学校へ行っていたのだから。

 寒さが身に応えてくるようになると、中学の頃の厳しい日々や星子さんと出会った頃のこと、貧乏だった小学4年の頃までの辛かった日々、病気ばっかりして半分も行かなかった幼稚園時代、小学校にあがるまで毎日一回は必ず泣いていたこと、幼稚園のスクールバスから降ろされて家までの僅か50mぐらいの距離を歩けなくていつも泣いていたこと、小学校低学年の頃までは貧乏だったため毎日のように父と母が喧嘩していたこと、小学校の頃、春休みや夏休み、冬休みには必ず加津佐に行ってそうして休み一杯、加津佐に居てとても楽しかったこと、中一の冬に喉の病気になって大きな声が出なくなって今までずっと悩んでいること。





(星子さんと夜の浜辺で語り合いながら。空想。日記より)

 僕らを取り巻く周囲はとても暗いけど、夜の空はこんなに明るい。

 あれがカシオペア、あれがオリオン座。 星が僕らに語りかけてくるようだ。

 冬の夜の星たちが、僕とゴロと星子さんを、暖かく包んでくれているようだ。

 僕らを取り巻く周囲はとても厳しいけど、でも僕らは負けない。

      


『カメ太郎さん。幸せは何処。幸せは何処にあるの』

『幸せは、幸せは遠い星の向こうか、目の前の僕たちのペロポネソスの海の中にあるのだと思う』

 僕には、そうとしか言えなかった。



 波の音が聞こえてくる。

 星子さんの哀しげな歌声とともに、波の音が僕の耳に聞こえてきている。

 哀しげな星子さんの歌声が聞こえてくる。

 一人ぼっちの僕の処に星子さんの歌声が不思議に聞こえてくる。

 16歳になった孤独な僕の耳に哀しげに聞こえてくる。

(カメ太郎・高一・11月)



 夜、家に帰って来たとき、僕の心は寂しさで一杯になっています。それに明日の学校への不安と。

 だから僕は毎晩、2時間ぐらい創価学会のお祈りをしています。勉強は寝る前に30分と、4時頃、起きたとき30分ぐらいするだけです。4時頃、目が醒めて30分ぐらい勉強してまた寝ています。

 幸せになりたいなあ、みんなのように何の不安もなく学校生活を送りたいなあ、という気持ちで一杯です。幸せは何処にあるんだろう。僕にとって幸せとは何なのだろう。そして世の中の不公平のことなんかを考えると。僕だけでなくって不幸な人は僕の身近にもたくさんいるから。

 星子さんの家の前の青い海、細波の音、潮の香り、僕らが出会ったペロポネソスの浜辺。

                 (カメ太郎・高一・12月)






(星子・日記・中二・12月)

 星子、カメ太郎さんと1年2ヶ月も会ってないわ。2年前の10月、カメ太郎さんが泣きながら帰っているのを見たきりで、それから全然会ってないわ。そうだわ。星子、今日、カメ太郎さんの学校帰りを待ち伏せしてやるわ。

 今日は星子たちの学校の創立記念日なのです。それで星子、朝からそんなこと考えていました。

 カーテンを開けて空を見たらとっても綺麗な青空で冬とは信じられないくらい。きっと神さま、星子が今日、カメ太郎さんと会いに出かけて行くのを見透して冬なのにこんな不思議な青空を拡がらせてくれたのね。

 星子、10時に起きましたけど、それから『何を着ていこうかな?お化粧はどうしようかな?』と考えてもう大変でした。3時に出ても充分間に合うはずなのに星子、テレビも見なかったわ。

『お母さん、星子ちょっと散歩に行ってくる。心配しないで良いからね。6時頃、になったら帰ってくるわ』

 ママは星子がいつもになく化粧して家を飛び出したのでびっくりしたでしょうね。星子、カメ太郎さんに会うつもりだった。このまま文通だけしていたって駄目だもん。やっぱりデートなんかをしたいもん。カメ太郎さんに車椅子を押してもらってあちこち散歩したいもん。

 星子の家から水族館前のバス停まで45分も掛かりました。12月なのに空はまっ青でちょっと暑くて汗をかきました。せっかくのお化粧も汗の跡が付いたみたいでコンパクトを取り出してお化粧をし直してしまいました。

 カメ太郎さんはたぶん4時にいつも練習終わるから5時まえにはここを通るはずね。まだ一時間もあるわ。でも良いの。

 星子、日見公園のなかに入っていって、そこで日なたぼっこをし始めました。ときには陽に照らされないとビタミン不足になってしまうって先生が言ってたから日なたぼっこしちゃおう。ちょっと色が黒くなるかもしれないけどちょっとぐらい黒くなったって良いわ。

 でも星子やっぱり駄目なのかな。星子のような身体障害者とカメ太郎さん一緒に歩いているところを人に見られたくないのかな。星子、やっぱり駄目なのかな。

 僕は土曜日、部活で疲れた躰をゆらゆらと網場道の長い階段で揺らしていた。夕暮れが僕の足元や灰色の階段を包み込もうとしていた。

 この冬は暖冬で十二月なのに春のような毎日だった。僕は鞄を持つ手も大変なほどでバスの中で立ちながら、僕はいつも入り口の人一人だけが立てるくらいの空間に立つのだったが、鞄を手から落としてしまいたいほど疲れていた。土曜日なのでいつもより練習時間が長くてこんなに疲れていた。

 網場道の長い階段を下っているとき前方の日見公園の前の辺りに僕は不思議なものを見た。

 なんだろう。あの正六面体のものは。頭の処が赤々と炎を上げて燃え盛っているようで不思議だった。なんだろう、あの奇妙な物体は。

 最近、勉強をし始めてきたため急に目が悪くなりかけた僕には始めそれが何なのか解らなかった。でも階段をもっともっと進んでいくうちにそれは車椅子で、そしてその上に乗っているのは華やかに化粧した若い女の子だということが解った。とてつもなく大きな目と艶やかな服が白銀の車椅子の上に赤い炎のように揺れている。

 それは正六面体の鮮彩色に彩られたtexture。白銀が夕陽に煌めく不思議なtexture。その上にまんまるいとても大きな瞳をした少女を乗せている不思議なtexture。

 僕は階段の途中でやっと気づいた。

 ああ、星子さんだ。やっぱり星子さんだ。

 僕の魂は一気に崩壊したようになり僕の足は突然“frozen gait”という言葉が浮かんで来るとともに歩くのがやっとになった。

 だんだん近付くにつれ僕の目にはっきりと映ってきた星子さんの姿はライオンに乗った女騎士のようにも思えた。僕にとって一年半ぶりの星子さんの姿だった。艶やかな化粧とよそ行きの服が夕暮れの日見公園横の風景によく映えていた。

 星子さん何を眺めているのだろう。さっきから公園を取り巻く桜の木のてっぺん辺りをずっと眺めている。

 雀がそこに十羽ほど留っているけど、その囀る姿に熱心に見入っているようだった。幸せそうに頬を輝かせて車椅子に背をもたれ掛けながら熱心に見入っている。

 星子さん、何見ているんだい。僕は目でそう星子さんに話しかけた。星子さん、何見ているんだい。

 だんだんと近づいていった僕の姿に星子さん、まだ気づかないのだろう。僕は急いで大きな道路を渡り始めた。星子さんが向こうを向いている隙に。そうして僕は星子さんから大きく遠ざかった。

 すると星子さん、もしかすると僕に気づいていたのかもしれない。僕に恨めしげな悲しげな視線を振り向いて送った。星子さん気づいていて、わざと桜の木の上を見続けていたのかな。いや、きっとそうだろう。本当は僕が網場道の階段を下りている頃から気づいていて、そのときから僕に気づかない振りして黙って桜の木の上を見続けてたんだろう。

 でも僕には星子さんを無視するしかなかったんだ。僕は幽霊で誰にも見えない幽霊で、星子さんが見たのは僕の幽霊で、背中しか見えなかった幽霊で、逃げるように立ち去っていった幽霊で。

 僕の後ろ姿は陽炎のように揺れていた。僕の後ろ姿は蜃気楼のように朧ろげに黒いアスファルトの上を歩んでいた。実は僕は苦しんでいたのです。星子さんを無視する苦しさが僕の後ろ姿を陽炎のようにも蜃気楼のようにもしていたのです。

 僕は揺れる陽炎  苦しむ蜃気楼

 僕は揺れる陽炎  苦しむ蜃気楼

 そして僕、早足で星子さんに背を向けて橋の方へと歩き去ってゆきました。星子さんに気づかれないようにと必死でした。

 僕の背中は苦しむ背中。まっ黒い苦しむ背中。星子さんを置き去りにする黒い背中。

 僕の背中は非情な背中。星子さんを無視する非情な背中。

 僕は背中から星子さんに手を振っていました。僕のまっ黒い背中に僕の手の平があって星子さんに『さよなら』と手を振っていました。『さようなら、星子さん』僕は静かに手を振っていました。『さようなら、星子さん』

 僕はまっ黒い手を静かに、でも力強く振っていました。『さよなら、星子さん。さようなら』








 僕は昨日、白い船が空を飛んでいる夢を見た。空と言っても天国みたいな処の空で、白い船には星子さんとゴロが乗っていて、何故か僕は乗ってなくて僕は地上から手を振っていました。そして星子さんやゴロも白い船の上から僕に手を振っていました。

              

 生きることの意味が掴めたら、僕は白い鳩になって、星子さんの家へ飛んでゆこう。そうして星子さんの部屋の窓辺に泊まって、星子さんに告げよう。僕らの生きる意味を。


 浜辺へ行こう。浜辺へ行ったらきっと僕を慰めてくれるものがあるだろう。もう十二月になって寒いけど、学校の授業で傷ついた僕は、ゴロを連れて浜辺へ行こう。久しぶりにあの浜辺へ、寒くて星子さんは出ていないだろうけど。

 僕は4時半頃、家に帰って来るとゴロを連れて僕と星子さんのペロポネソスの浜辺へと走った。もう辺りは薄暗くなりかけていた。通り過ぎる誰も彼もコートやジャンバーに首まで身を包んで足早に歩いていた。僕は涙が流れてくるのを必死に耐えながらゴロと走っていた。ゴロは蒸気機関車のように白い息をたくさん出していた。

 僕は薄暗くなった戸外を必死に駆けた。早くペロポネソスの浜辺に暗くなるまで着いて、そして海へ向かって石を投げたりしたかった。風がとても冷たかった。冷たくて悲しくなるほどだった。学校で苦しんで、そして今もこうして風の冷たさにとても辛い思いをしなければいけないのかと思うと、とても悔しくなって泣きたいほどになっていた。

 十分ぐらい走っただろう。僕らはペロポネソスの浜辺へ来た。もう辺りはすっかり暗くなり始めていて後二十分もしたらまっ暗になりそうだった。僕は足元を用心しながらまだ駆けていた。

 やがて僕は砂浜に辿り着き、立ち尽くすと『バカヤロウ!』と大声で叫んだ。

 僕はそうしてゴロと夜になってゆく浜辺で抱き合うようにして過ごした。僕は涙を浮かべていた。そうしてやっぱり医者になるんだ、自分のこの病気のために自分のような病気で苦しんでいる人たちを救っていくために耳鼻科の医者になるんだ、と決意した。そうしてやっぱり柔道を辞めよう。明日にでも松添先生の処へ行って『柔道を辞めさせて下さい』と言いに行こう、と思った。         

             (高一・12月)







 ときどき湧いて来る。もしも僕が創価学会の信心をしていなかったら、この喉の病気に罹らなくて、僕は星子さんと友達になれて、毎日のようにあの浜辺で(ペロポネソスの浜辺で)ゴロと一緒に、いろんな話を楽しくできたのにと。

 でも僕は毎晩、そして毎朝祈っている。星子さんの幸せを、一日一時間ぐらい、懸命になって祈っている。他の人のも合わせると一日二時間ぐらい祈っている。

 星子さんは幸せだ。僕にはそうとしか思えない。この頃、国語の本も読めなくなった僕には。

          (ペロポネソスの浜辺にて。 高一・1月)







(……夢の中で……)

 波の音が聞こえている。そして歩いてくる星子さんの姿が見える。もう辺りは夜の帳が降りようとしていた。

 ゴロがそうして走っている。星子さんのずっと後ろをゴロは浜辺をもの凄いスピードで走り回っている。

 ゴロは波が打ち寄せる処と浜辺の奥の林の中を行ったり来たりしている。

 生きるのが辛いときよく眺めていたこの海も、以前と同じようにエメラルド石のように輝いている。まだエメラルド石のように輝いている。



 もう裏山にも雪がコンコンと降り積もっています。僕はもう四日続けて学校を休んでいます。現国の授業が厭だし、クラブも厭だから。

 僕は雪の中を、白い鳩になって星子さんの部屋の窓辺まで飛んで行きたい。

 もう辛い日々はこの辺で終わりにしたい。僕も幸せになりたい。アマゾンか何処か喋らないでも良い処へ行って生活したい。

 僕は船に乗ってアマゾンへ旅立つだろう。遠い遠いブラジル行きの船に乗って、僕は秘かに旅立つだろう。雪の降る夜、誰にも見送られずに、僕は一人で旅立つだろう。

自分がこんな病気になったこと……



 星子さんが泣いている。外はとても寒く小雪が舞っている それなのに僕は窓を開け星子さんの家の方を見た。見えない。雪の向こうに微かに星子さんの家の橙色のカーテンが光っているのが見えるけど、それだけだ。そのカーテンの向こうで星子さんが泣いているのだろうけど、僕には何もできない。手紙を書くことも、電話をかけることも、もう今の僕にはできない。

 勉強しなければいけないのに手紙なんて書けない。電話だったら少しも勉強の妨げにならないけれど、僕は喋れない。雪の向こうに微かに見える星子さんの家まで走っていけば良いのだけど、僕は風邪で学校を休んでいる。本当は風邪でも何でもないのだけど、現国の授業が辛いから、だからずっと僕は休み続けている。

 手紙を書くと今夜勉強できないし



 星子さん。青い海です。僕は昨夜、悪夢に唸されつつ、何度もこの海を心に描きました。僕を力付けてくれる青い海。僕に勇気を与えてくれるこの青い海。

 海は輝いています。とても僕に元気をつけてくれるように。

 でも僕は……

『カメ太郎さん。黒い大きい不安って何?』

『それは僕らを包み込もうとしている黒い大きな悪魔のようなもので、僕らは』

『星子さん、寒くないかい?』

 僕はブルブルツ、と震えながら星子さんにそう囁いた。

『ええ、寒いわよ。でも、今、とっても夕陽が綺麗』

 耳を澄ますと聞こえてくる波の音は、星子さんが僕の誕生日にくれたオルゴールの鐘の音のようだ。寂しくて心配で圧し潰されそうになっている僕の胸を慰めてくれるオルゴールの音のようだ。



 カメ太郎さん、星子、久しぶりです。

 星子、こんな美しい夕焼けを見るの。

 ずっとずっと一人ぼっちだったから、

 四年間も一人ぼっちだったから、

 星子、久しぶりに夕焼けを見ています。



 星子たち、悲しむマンボウ。

 星子たち、寂しいマンボウ。

 星子たち、涙を溜めたマンボウ。

 でも星子たち、決して泣かないの。




 12月の暮れに重いみかん箱を肩に担いで冷たい風に吹かれながら夜、遠く芒塚や朝日ヶ峰の坂や階段を登りながら借金のために配達していた母の姿。僕はそういう母の姿を見て育ってきたからだからこんな強迫的な性格になったのだと思います。

 だから僕は必死に創価学会の信仰をしました。中二の頃、もうすでに睡眠時間は5時間を切っていました。毎晩11時か12時まで題目を上げていました。

 寒い夜、僕の母は重いみかん箱を肩に担いで朝日ヶ峰や芒塚の坂を登っていった。僕や姉に食べさせるため、一家のため、母は凍えるような風に吹かれながらも題目を唱えながら、芒塚や朝日ヶ峰の坂を登っていった。


 でも僕たちの人生はいつも冷たかったじゃないか。暖かい日は一日もなかったじゃないか。少なくとも僕にはなかった。辛い毎日ばかりだった。だから僕は小学3年生のときに自分から信仰を始めたんだし。


 冷たい夜ね。ああ、でも僕らはいつもこんな夜に耐えてきたろ。明日の学校のことが心配で、とても心配で。


 星子さんがゆっくりと歩いてゆく。北風の吹く道のない処を、星子さんの髪は風に吹かれ、僕はただ涙を溜めて見送ることしかできない。星子さんの愛を感じながらも、現実に負けてしまった僕には、ただ明るそうに振舞うことだけしか、星子さんになるべく心配をかけないようにしか僕にはできない。

(僕はこのころ、学校へ行かなくなって、とても自分を卑下していた)

 僕は医者になって、僕は僕と同じような病気で苦しんでいる人たちを救っていくんだ。

遠い海の向こうに星子さんが居る。青い海の向こうに星子さんが居て、僕を見つめている。一人ぼっちの僕を、寂しい僕を。

 カメ太郎さん、虹が見えるわ。星子さんたちの未来のようなの。七色のように綺麗に輝いてはいないけど、でも星子さんたちの未来のような虹なの。美しい虹なの。


『カメ太郎さん、何処へ行くの。そこは森の中よ。カメ太郎さん、何処へ行くの』

 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼

『カメ太郎さん、その森の中、危ないわよ、谷間に落ちるわよ、足元に気をつけて。カメ太郎さん、その森の中、本当に危ないのよ』

 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼

『カメ太郎さん、カメ太郎さん』

 僕はハッ、と目を覚ました。また夢だった。この頃、毎夜見る夢だった。


 僕は揺れる陽炎 迷える蜃気楼 僕は揺れる陽炎 迷える蜃気楼

 僕は揺れる陽炎 迷える蜃気楼

『カメ太郎さん。負けないようにしなくては。カメ太郎さん。負けないようにしなくては』

 僕は森の中を吹かれゆく。僕は森の中を吹かれ歩く。

『カメ太郎さん、負けないで。カメ太郎さん、負けないで』

 僕は森の中を吹かれ歩く。冷たい冷たい北風に吹かれ歩く。

『カメ太郎さん』

僕は夢の陽炎 迷える蜃気楼

僕は夢の陽炎 迷える蜃気楼





 不思議な鳥や魚たちがたくさんいるあの島は僕らのすぐ目の前にあるけれど、僕らには遠くて、僕らは眺めているだけしかできない。もしも僕らがあの島に船で渡って行けたら、岸辺には鳥たちがたくさんいて、水たまりには大きな30cmぐらいの魚もいて、アメフラシやイソギンチャクもたくさんいて、そして僕らは、一緒に手を繋いでその浜辺を、楽しくお喋りしながら(僕は吃って喋れるか解らないけれど)ゴロと3人(いや、2人と一匹かな?)で楽しく歩き回ると思う。朝から夕方まで僕らは2人と一匹(いや、3人かな?)で、その浜辺でとても楽しい時を過ごすと思う。





 小鳥が、僕が以前飼っていた手乗り文鳥が、窓辺から外の光景を見つめていた僕の処に、何年かぶりに飛んできたようでした。窓辺の桜の木の枝に何年かぶりに、たしか中学2年以来だなあ、と思いました。

 2年ぶりかなあ、と思いました。窓辺の傍に座り込んで物思いに耽っていた僕のもとに、まるで天国から僕を迎えに来たように僕には思えました。

 頬の処の黒い模様も、そして目の下の斑点も、その目も、僕の家で飼ってたあの人なつっこい、でも窓の隙間から2年前、ああ、あれは星子さんと文通し始める、ちょうど何週間か、たしか3週間ぐらい前のことだったなあ、と僕は思い出していました。そしてもうあれから3年近く経とうとしているんだなあ、と思いました。

 青い空に消えていった僕が小さい頃から大事に育ててきたあの文鳥が、戻ってきてくれたんだな、と思いました。




 星子さん。僕、このまえいつもの非常階段から立山公園の森を眺めているとき、カサカサッと揺れた梅の木の葉の音にとても不安になった。

 それは例えようもない不安だった。一人ぼっちのコンクリートの非常階段の上で僕はとても不安になった。

 冬の木枯らしが吹いていた。早退した僕を歓迎するように一月の風になびいて吹いていた。

 少女の思い描いていた僕に対する美しい幻影は僕が喋り始めると途端に崩れ去ってしまう。それは中世の湖畔に聳える美しいお城が崩れ去るのを想像するときっと良いと思う。

 そよ風が吹いて立山公園の森の杪が唸った。僕は静かに立ち上がり誰もいないコンクリートの非常階段の上に立ち尽くしていた。

 昼休みだった。僕はいつものようにみんなのいる騒しい教室や廊下などを離れ一人運動場に面するコンクリートの非常階段に来ていた。埃を被ったほとんど誰も来ない忘れ去られたような校舎の一角だった。ここは僕しか来ない処だろう。もしかすると2年前この校舎が立てられて以来、誰も来たことがない処かもしれない。このまえ付けた僕の手の跡が今もまだ鮮やかに埃の中に浮かび上がっていた。

 僕は冬の木枯らしの中を揺れ歩く。木の葉のように揺れ歩く。

 あまり寒くはないけど嵐のような風の強い日だった。生暖かい風が冬なのに何故か南の方から吹いてきていた。

 僕の耳に不思議にあの海辺の細波の音が聞こえていました。誰もいない冬の真昼の展望台の上で僕はぼんやりとそんなことを考えていました。




 僕らは悲しい恋人どうし。

 海を見つめる恋人どうし。

 やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて、

 無言の僕らを慰めてくれる。

『嵐のような海ね、カメ太郎さん』

『ああ、僕らの幼い頃からの人生もこのようだったね、星子さん。僕も小さい頃からたまらなく辛い日々の連続だった。小学校時代は家は貧乏のどん底でいつも夜逃げを考えるほど厳しかったそうだ。

 それに、学校でも辛かった。家でも辛かったけど学校の方がもっと辛かった。僕は八方塞がりだった。でも僕には信仰があった。いつも御本尊さまの前で苦しみ・悲しみに耐えてきた。

(今は嵐のように世の厳しさを受けている。『でも負けない。でも負けない。自分より苦しんでいる人たちだって居るんだ』と自分に言い聞かせながら。

 冬なのに真夏のような太陽が照っていた。見渡すかぎり青い空だ。そして今日は2月の日曜日だった。

 雀が僕の目の前を唸りを上げて飛んでいるよう、に思った。細く黒い電線が見える。そして彼方には小さい頃から見慣れた山が見える。

 いつも後悔ばかりしてきた僕だった。いつも運が悪くて、苦しんで、損ばかりして、そうして親に迷惑をかけてばかりいた僕だった。

 カメ太郎さん、負けちゃだめよ。きっと立派な医者になってね。今、とても苦しいかもしれませんけど(星子さんにはカメ太郎さんの苦しみがあまり良く解りませんけど)頑張って負けないで高校を辞めるなんて思わないで下さい。

 本当にカメ太郎さん、頑張って下さい。




 僕は窓からの風景のなかの青い海が急に盛り上がって巨大な波となって僕をも呑み込もうとしているように錯覚されました。

 生きるのに辛くてたまらなくなったとき僕らはよく浜辺から海を見るけど、僕らが見るのはいつも寂しげな夕暮れの浜辺ばっかりで、僕らは

 僕はこの手紙を家で書いています。家で僕の小さなストーブにあたりながらノホホンと何も考えないようにしようと思いながら書いています。

 頭がとても重いです。何故なのだろうかな、と思います。もう8時半です。今日もまた学校を休みました。

                       (高一・2月)









(夢の中で)

 寒い丘の上に少女が身を震わせながら立っていた。星子さんだった。

『星子さん。寒いのに……寒いのに何故、そんな処にいるんだい?』

 僕は夏に見た星子さんのあの哀しげな姿しか見てなかったので僕は久しぶりに星子さんを見た。

 寒い丘の上で星子さんは風に吹かれて寒さに震えていた。

『カメ太郎さん。カメ太郎さん』

 星子さんの言葉はあきらめにも悲しみにも似ていた。


 僕は泣き声一つたてないで、苦しみに耐えている星子さんのことを思って涙ぐんだ。可哀そうな星子さん。苦しくて辛くて寂しくて堪らないのだろうに泣き声一つたてずに堪えている星子さん。







 星子さんへ

 僕らのあの思い出の浜辺も僕はもうあんまり行かなくなりました。星子さんの家や微かに見える浜辺を僕の部屋からときどき眺めるだけです。もしも僕が白い鳩になってあの浜辺に久しぶりに飛んでゆけたらどんなに良いだろうな、と思ってしまいます。

 もうウニ採りも終わったし、中学生たちがかつての僕らのようにサザエ取りなどに励む季節に近づこうとしています。

 もう僕には一生懸命、勉強しなければいけない季節になってきました。








              (苦悩の少年)


 苦しい少年時代を送ってまいりました。毎日毎日地獄の苦しみに耐えてきました。人知れず苦しんできました。自分ほど不幸な少年はいないと信じていました。

 毎日の学校が苦痛でたまりませんでした。学校さえなかったらといつも思っておりました。毎朝毎朝、学校へ行きたくないので寝坊ばっかりしていました。怠け者だから寝坊するのではありません。苦しいから寝坊するのでした。

 まだ小さかった頃は、学校行きたくなくて、ダダをこねるのでした。大きくなった頃、学校行きたくなくて、朝、寝床の中で、布団を噛んで声をたてずに泣いたこともありました。

    (☆途中、逸損☆)

 幼な心にも、地獄を感じておりました。人生の非情さを感得しておりました。しかし、人の心だけは信じてきました。僕は盲目的なほど、人の心を信じてきました。僕の周囲の人たちは、みんな良い人ばかりでした。

                       (未完)

                        二月二十三日記





 小さい頃、苦しんでいた時、僕には宗教しかなかった。だから僕は自分から勤行をするようになった。僕が小学3年のときだった。

 通信簿の全体の成績が(その頃は1から5までの5段階評価だった)いっぺんに5あがった。2が3に、3が4に、4が5にというふうに7科目か8科目あったうち5つ上がった。

 僕は学校で鼻の病気のことでとても苦しんでいたし、家でもその頃、貧乏で夫婦喧嘩が絶えなく苦しんでいた。僕に心休まる暇はなかった。






(星子の夢)

 海が燃えているみたい。カメ太郎さん、海が燃えているみたい。

 車椅子の星子はそうしてカメ太郎さんを見上げました。強い浜風がカメ太郎さんの髪をなびかせていました。星子の髪も強い浜風になびいていました。もう寒くなくなってきて少し熱気を帯びた浜風に変わっていました。

『カメ太郎さん、何故、星子たち、生きてるの。何故、星子たち、こうして生きてるの。カメ太郎さん、星子たち、こんなに苦しんでまで』

 昨夜のことを星子は再びカメ太郎さんに尋ねていました。カメ太郎さん、ちょっと困ったような表情をして星子を見下ろしていました。そうしてカメ太郎さんの目、とっても悲しそうでした。今までの苦しかったカメ太郎さんの一日一日がその瞳の中に刻まれているようで、とってもとっても悲しそうな目でした。

 潮風がますます強く吹いて星子とカメ太郎さんの髪を炎のようになびかせていました。そして海は沖の方に白い波が立ってまるで海が燃えているようでした。星子とカメ太郎さんの今までの苦しかった悲しい過去を忘れさせるように海が今、燃え上がっているようでした。悲しく、悲しく、燃え上がっているようでした。





『カメ太郎さん、頑張ってね。勉強、本当に頑張ってね』

高校を辞めることを思っていた僕の耳にはその言葉も虚しくしか聞こえなかった。しかしこんなにまで僕のことを思ってくれている星子さんのことを思うとやはり僕は頑張るしか他に方法はないようだった。

 もう高校を辞めよう、と思っていた僕の耳に、その声は悲しく、そしてあまりにも辛く届いた。

『カメ太郎さん、病気で苦しんでいる人たちのために生きて。カメ太郎さん、病気で苦しんでいる人たちのために生きて』

『ああ、僕も今日そう思っている。僕と同じような病気で苦しんでいる人たちのために自分を犠牲にして生き抜くべきだと、僕はこの頃、毎日毎日、高校を辞めることを考えている。そんな僕だけど、僕と同じような病気の人はたくさんいるのだから、自分の苦しさに負けずに生き抜くべきだと、自分は自分と同じような病気で苦しんでいる不幸な人たちのために、傲慢な思いかもしれないけれど、僕は今そう思っている。その人たちのため、ただそれだけに自分は生き抜くべきだと、そう思っている』






『あ、星子さん』 

 寒い寒い県立図書館の片隅で星子さんが勉強していた。僕の座っている向こうの方の壁の前の席に星子さんは座っていた。もう7時過ぎで外はまっ暗だった。そして今日は雪が今にも降り出しそうに寒かった。

 星子さん、寒そうだった。僕も寒かった。図書館の中にはあまり人は居なくて、そうしてイチョウの木の向こうに白いぼたん雪を見たようにも思った。    

 厚い靴下を履いてくれば良かったのだけど、朝、急いでいて持ってきてなかった。寒かったけど僕は一生懸命、勉強していたし、星子さんも僕の帰るまで勉強するようだった。

(僕はこの日、学校を休んで図書館で勉強していた)

白いぼたん雪は星子さんの涙のようだった。

いつも閉館まで勉強している僕だから閉館まで星子さんは僕を待っていてくれるようだった。

 寒い寒い図書館の中で、星子さんは赤いマフラーにくるまって寒さに震えながら僕を待ってくれているようだった。

『カメ太郎さん、勉強頑張ってね。星子さん、図書館が閉まるまで待ってるから、星子さんもそれまで勉強しているから、カメ太郎さん勉強頑張ってね』

 僕が立ち上がったとき星子さんも立ち上がった。でも僕はそそくさと本やノートを鞄に入れて立ち去っていった。星子さんを置いて雪の降る戸外へと走るように出ていった。

 僕は逃げるように走っていった。星子さんが後を追って来るのじゃないかと雪の降る中をバス停まで逃げるように走っていった。

 僕は走った。星子さんと喋るのが恐かった。星子さんとまだ喋ったことはなかった。僕は幻滅されることが何よりも恐かった。

 雪の中を僕は走った。星子さんが僕と喋って幻滅することが、そして笑われることが、僕はとても恐かった。

『寂しかった、寂しかったからなのよ。だから星子さん、現れ出てきたのよ。寂しかったのよ。カメ太郎さん。

 寂しかったからなの。寂し過ぎたからなの。カメ太郎さんの勉強の邪魔になると思ったけど星子さん、寂しかったからなの。

 寂しかったから星子さん、カメ太郎さんの前に現れてきたの。早く行かないとバスに遅れてしまうでしょ。星子さん、歩けるから、駆けることもできるから、カメ太郎さん立ち止まらないで。早くバス停へ向かって』

 僕は県立図書館の閉館の7時50分まで一生懸命、勉強して今、諏訪神社前のバス停へと向かっていた。粉雪が舞っていた。粉雪がまっ黒い夜空から舞い降りてきていた。とても不思議な光景だった。

 冷たい夜の闇に星子さんが立って僕を見守ってくれていた。寒くて寒くて雪が舞っているのに、星子さんはバス停へと駆ける僕を見守ってくれていた。






『幸せになりたいの。カメ太郎さん。星子、幸せになりたいの』

 海の底から星子さんが囁いた。冷たい冷たい冬の海の底から星子さんがそう囁いた。

『そのためには題目を唱えなくっちゃ。題目を唱えなくっちゃ。“南無妙法蓮華経”と題目を唱えなくっちゃ』

 僕は冬の海に寒さに震える星子さんにそう言った。でも寒さは厳しくて、星子さんが題目を唱え始めても寒さはだんだんと強くなるばかりだった。


 図書館に居ても波の音が聞こえてくる。悲しいゴロの駆けてくる姿と、車椅子の上で僕を見つめている星子さんの姿が、波の音と一緒に思い出されてくる。


 もう僕の頭は疲れきっている。でも星子さんの頭もゴロの頭も全然疲れきってない。ただ僕の頭だけがものすごくものすごく疲れきっている。


 あっ、海辺で星子さんが歌っている。

 僕はさっと窓を開けた。外は凍てつくような寒さだった。でもたしかに聞こえた。星子さんの歌声が僕の耳元まで遠いペロポネソスの浜辺から聞こえてきていたようだった。

 闇が辺りを支配していて、夜の12時だった。星子さんが海辺に出て歌を歌っていることなんて、(こんな寒い、とても寒い夜なのに)ある訳がないのに。

 でも耳を澄ませば、凍てつく夜気を突くようにして浜辺の波音が僕の耳に届いていた。海辺から300mも離れているのに波のせせらぎの音が僕の耳に聞こえてくるはずはなかった。でも僕は聞いた。久しく行ってないあの浜辺の波の音が一人ぼっちの孤独と勉強に疲れきった僕の耳に聞こえてきていた。

 でも何故、星子さんが今頃。それにゴロと一緒に僕を呼んでいるなんて僕はとても訝しかった。 


 浜辺の裏の森の杪も昔と少しも変わっていない。今、僕が見た幻も、そして僕も、僕らが始めてペロポネソスの浜辺で出会ったときとちっとも変わっていない。僕らはちっとも変わっていない。

 明日の朝、もう星子さんは居ないかもしれないわ。もう死んでしまっているのかもしれないわ。布団の上で星子さん、安らかに息を止めてしまっているのかもしれないわ。

 二ヶ月も返事を出してなかった僕に、今日、星子さんはクルマの中から手を出して僕の名を呼んだ。でも僕は喋りきれないから、喋ると幻滅されてしまうのが怖かったから、僕は星子さんを無視して、諏訪神社の坂道を、星子さんに気づかなかったようにして歩いていった。


 あの諏訪神社の横のあの急なアスファルトの坂道で星子さんはお父さんと待っていた。星子さんのお父さんは神社の方向を見ていた。坂道を降りてきた僕にすぐ気づいた星子さんは悲しげに僕を見つめてその小さなか弱い手を振った。僕は気づかない振りして友人と喋りながらそうしてそのまま星子さんのお父さんのクルマの横を通り過ぎて行った。


『カメ太郎さん、生きてね。これからは明るく生きてね。早く可愛い女の子を見つけて、そして幸せになってね。カメ太郎さん、これからはきっと幸せになってね』

『カメ太郎さん、きっと幸せになってね。カメ太郎さんのお父さんやお母さんのためにも幸せになってね。明るくなってね』


(ペロポネソスの浜辺にて、ゴロと)

 遠くに小さな星が見えるだろ。小さな小さな星が見えるだろ。天草か阿蘇の方に見えるだろ。僕が生まれた加津佐のてっぺんの方に。僕が3つまで育った加津佐のてっぺんの方に。小さな小さな星が見えるだろ。とても哀しげな星が見えるだろ。


『カメ太郎さん、帰ってきて。星子の処へ帰ってきて。お願い』 

 僕はハッとして顔を上げた。夜の2時だった。僕はつい1ヶ月余りも星子さんに手紙を出していないことを思い出した。勉強が忙しくて手紙を書いてる暇が、いつも一晩中かけて書いている手紙だけど、惜しかったから。だから手紙を書かないでいたけど、ごめんね、でも。




 カメ太郎さんへ

 雨がポツリポツリと降っています。こういう日曜日、星子は一日じゅう家に閉じ込められているわけね。テレビを見たり、カメ太郎さんへのマフラーを編んだり。

 星子たち、自殺したら木になるんですって。そしてその木が枯れるまでその木にいるんですって。お寺にある大きな木なんか一万年も生きてるでしょ。そしてよく濡れてるでしょ。あれ涙なのね。星子、ようやく解ったわ。何故、濡れているのかようやく解ったわ。


 海の底から聞こえてくるの。星子たちを呼んでいるの。星子たち苦しんでいるから『早く来なさい』って、呼んでいるの。


 月夜に星子さんが立っていた。勉強に疲れ、フラフラと歩いていた僕の道の前に立っていた。両手を広げて通せんぼしていた。

『星子さん、僕は疲れているんだ。星子さんにかまってなんかいられないんだ。僕は疲れているんだ。星子さん、通してくれ』

 僕は心の中でそう呟いた。星子さんは言った。

『カメ太郎さん、星子、ゴロさんから聞きました。カメ太郎さんのこと、全て聞きました。天国に来たゴロさんから聞きました。(ゴロは泊まりに来ていた祖母に2度も噛み付き、保健所に送られた)』

 そう言って泣き崩れる星子さん。僕は手を貸そうにも貸せないで困っていた。僕は疲れていた。


 星子、何処に向かって歩いているんでしょう。星子、何処へ向かって歩いてるんでしょう。

 星子、以前よく行っていた浜辺へも行かないで桟橋の方へ来ました。これからカメ太郎さんの家の近くへ行こうかな。そしてカメ太郎さんを驚かせようかな。でもカメ太郎さんの家、坂の上にあるし。

 星子、坂の下でカメ太郎さんの家を見上げて泣いてました。なあに、小鳥さん、星子の車椅子に泊りに来るなんて。星子、怖くない。小鳥さん、星子、怖くない。

 孤独の風がスーッと吹いてきたわ。4月なのに2月みたいな風だわ。

 僕はその日、県立図書館も休みで一日じゅう家にいた。お昼過ぎ、昼ごはんを(いつもの目玉焼き3コと白御飯だったけど)食べた後、僕は何気なく自分の部屋の窓から海の見える景色を見渡した。あっ、すると坂の下に銀色に輝く車椅子があって乗っているのは星子さんだ。そしてこっちを見ている!

 僕はとっさに身を隠し、カーテンの隙間からわずかに目だけを出して星子さんの方を覗いた。幸運にも気づかれなかったようだ。スズメの囀りと4月の太陽が粲々とこんな僕を照らしていたっけ。

 僕は海を見ようと思って窓を開けた。するとそこには海でなくて星子さんがいた。銀色に輝く車椅子に乗って星子さんが海の精のように電信柱の横にいた。そして車椅子を楽しそうに前後に揺すって動いていた。

 あっ、あれは銀色の戦車に乗ったポセイドン。僕の魂を縛りつけるポセイドン。海の方からやって来たポセイドン。

 僕の家にまで来るなんて。僕、出られないじゃないか。僕、土曜日なのに何処にも出られないじゃないか。

 僕には僕の家の前の坂の下に待っている星子さんが楽しそうに、幸せそうに、明るくなんとなく微笑んだように、頬を春のそよ風に気持ちよく吹かれながら佇んでいる光景を何処かで見たような気がした。もうずっと行っていない星子さんの家の近くの星子さんがよく夕暮れどきに行っていたあの浜辺でのシーンだな、と僕は気づいた。

 僕の家の前の坂の下に待っているあどけない星子さんの姿は喉の病気や言語障害を忘れさせて何もかも打ち捨てて星子さんのもとへ走ってゆきたい気持ちに僕を成らせた。僕、何もかも打ち捨てて星子さんのもとへ走って行こうかな! とても天気の良い土曜日だから。








   (星子、お化粧ばかりしています)


 星子は悲しいカメ太郎さんの愛人です

 小さなマンションに囲われているカメ太郎さんの愛人です

 カメ太郎さん、週に一回か二回星子の処にやってきます

 そして星子を抱いて帰っていきます


 星子、お化粧ばかりしています

 カメ太郎さんの奥さん、とてもグラマーで美人なの

 とっても色っぽくてカメ太郎さんそこに惹かれたのね

 星子には色気はないけれど

 誰からも美人って言われる顔だけがあるわ

 だから星子、お化粧ばかりしています

 いつも鏡に向かいながらカメ太郎さんに抱かれることを想像しているの


 でもお化粧してたら涙がポツンと落ちてきて

 お化粧しても駄目な処に気がつくの

 星子には両肢とも膝から下がなくて

 それ、お化粧しても駄目なのね


 星子、お化粧ばかりしています

 朝から晩までお化粧ばかりしています

 ときどき涙が落ちてきて

 そしてお化粧を最初からやり直すの

 星子、お化粧ばかりしています







(青い便箋に書いてある星子さんの机の引き出しから出てきた手紙)

 星子は今日学校を休んでて、そしてきっと今日、カメ太郎さんと会うんだ、3週間も手紙をくれないカメ太郎さんにどうしたのか聞くんだ。(カメ太郎さん、他に女の人ができたのね。きっとそうよ。カメ太郎さん、他に女の人ができたのに違いないわ)そう思って3時過ぎ頃、家を出て、カメ太郎さんがいつもバスに乗っている水族館前のバス停まで出かけて行きました。カメ太郎さん、5時頃になったらバスから降りてくるから。いま学年末テストがあってて、今日で終わりだから。

 カメ太郎さん、この頃、手紙の量も以前よりずっと少なくなったし(以前は便箋にびっしり5枚くらい書いてきてたのに)今は一枚か二枚だし。

 星子、風邪のふりして休んだのにママが出かけている隙に家を出ました。後でママからどんなに叱られるかわからないけど星子、もうどうなっても良いわ、それにカメ太郎さんが手紙くれないからよ。星子、泣きそうな顔して家を出ました。

(カメ太郎さんのバカバカ。カメ太郎さんのバカバカバカ)

 星子もいつかこういうふうになるときが来ることを予感していたようです。カメ太郎さんからふられる日が来ることを。でも本当にそんな日が来たみたい。

 星子、今日カメ太郎さんと会って、そしてカメ太郎さんの気持ちを確かめて、カメ太郎さんの気持ちが星子の心配していた通りだったら、星子、帰り際に桟橋に寄って海に落ち込んで死んでしまうの。  

 星子、渦に巻き込まれながら死んでしまうの。そして星子くるくると渦に巻かれながら『カメ太郎さぁ〜ん』と叫ぶの。星子のその声、カメ太郎さんを今苦しめている病気をますます強くするの。そしてカメ太郎さん、星子の死んだ後、前以上に苦しむことになるの。

 星子、途中でママに会わないかな、会ったらどうしようかな、とびくびくしながら車輪を回しました。ママと会ったらどうしよう。泣きかぶって許して貰おうかな。

 星子、2ヶ月ほどまえ創立記念日のとき同じように3時頃、家を出て水族館前のバス停まで行って、そこでカメ太郎さんを少しだけだったけど見たことを思い出してなんとなく心がうきうきしてきました。おかしいわね。このまえと違って今日は悲しいはずなのに。おかしいわね。

 でもやっぱり半分も来ないうちに悲しくなってきたわ。手が痺れてきて。何故こんなに苦しまなくてはいけないの。手がとてもきつくて怠いわ。

  カメ太郎さん、あんまりよ。

  カメ太郎さん、あんまりよ。

 星子は空に向かってそう呟いたわ。青い空がそんな星子を見て笑ってたみたい。

 カメ太郎さんのバカ。カメ太郎さんのバカ。

 すると涙がでてきました。青い空が海のように揺れたわ。涙が星子の耳の後ろに落ちたみたい。

 星子、泣きながら道を進んでたら、道端に紫色をした小さな可愛い花があるのに目がつきました。岩や雑草の間に一人ぼっちで咲いていて、まるで星子みたい。でも可愛い。

 それは小さな菫の花のようでした。星子、近寄って屈み込んでそれを手に取りました。鼻につけるととても良い香りがしました。

 星子、カメ太郎さんと手を取り合って野原を走ってました。カメ太郎さん、王子さまのように素敵で、ちっちゃな星子、とっても幸せ。 

 (この日、星子はカメ太郎と会えなかったのである。カメ太郎はこの日、夜8時まで県立図書館で勉強していたのであった。星子は2時間も待って6時頃、家路に就いた。この日、星子はもう少しで網場の桟橋から身投げをする処であった。家路に就く星子の目には涙が滲んでいた)










 星子さんへ

 僕らのあの思い出の浜辺も僕はもうあんまり行かなくなりました。星子さんの家や微かに見える浜辺を僕の部屋からときどき眺めるだけです。もしも僕が白い鳩になってあの浜辺に久しぶりに飛んでゆけたらどんなに良いだろうな、と思ってしまいます。

 ペロポネソスの浜辺はもうウニ採りも終わったし、中学生たちがかつての僕らのようにサザエ取りなどに励む季節に近づこうとしています。

 もう一生懸命、勉強しなければいけない季節になってきました。



 星子さんの真心は、僕には伝わらなかった。僕は練習に疲れ果て、星子さんに手紙を書くゆとりがなかった。

 自分は何も知らなかった。星子さんのことも、世の中のことも、僕はあの頃、何も知らなかった。



 星子さんなのでしょうか。中学生ぐらいの色の白い女の子がさっきから川原で盛んに石を積み上げては倒し、そして泣きながら再び積み上げては倒していました。星子さんなのでしょう。いや絶対に星子さんだ。

 川原の石を積み上げては倒し、積み上げては倒し、を繰り返していました。もう何年そうしているのでしょう。僕には何十年にも、いや何百年にも思えます。

 星子さん、いつまでそういうことを続けているつもりなんだろう。

 僕には後何十年も、いや何百年もそういうことを続けてゆくように思えて哀しくて涙ぐんでしまいました。


(カメ太郎の日記帳より抜粋、手紙の下書きだろう)

 星子さん、憶えてますか? 僕らが文通を始めるきっかけとなったあの浜辺のこと。星子さん、この頃、全然そこに出ていませんね。でも僕、昨日そこまで走ってきました。そこで僕、緑色の不思議な石を見つけました。ちょうど星子さんの車輪が嵌り込んで動けなくなった処でです。それ、とっても不思議な石で

 もう遠い過去のことのように思う。波の音も変わってしまったように思う。星子さんが車椅子で海を見つめている幻影を僕はゴロと一緒に見つめているみたいだ。もう遠くなってしまった過去のことのような気がする。

 僕には遠い道が続いている。夕暮れの浜辺から僕の家までよりもずっとずっと長い道が(年月が)続いている。僕はそれを一人ぼっちで耐えながら歩いていかなければならないのだと思う。僕は一人ぼっちで誰も友達もなくてその道を少なくとも大学を卒業するまで歩かなければいけないのだと思う。ものすごく寂しくて、ただゴロしかいなくて、そしてときどきとても不安になって、叫び出したくなるようになる。

 寂しく昨夜と同じように窓辺から夜空を眺めたとき、カシオペアとオリオン座が輝いているのが僕の目に止まった。もう夜の9時半だった。勤行を終わって勉強をし始めているときだった。とても悲しくなって僕は思わず窓を開けて海を見た。

 いつ頃からだろう。僕がカシオペアや北極星を見なくなったのは。あれはたしか勉強が忙しくなった高一の終わりぐらいだったと思う。オリオン座も見なくなったし、僕は毎晩8時まで県立図書館で勉強し始めていた。毎晩8時まで県立図書館で勉強していたけれど僕の心にはもう夜空を見る余裕はなかった。焦りと悔しさだけしか僕にはなかった。でも帰りのバス停で南の空のオリオン座を何度も何度も見た。寂しく一人、バスを待ちながら、僕は北極星やカシオペアは見えなかったけど、南の方にあるオリオン座だけは見ていた。夜の8時頃、バスを諏訪神社のバス停で待ちながら、僕は唇を噛みしめながら見ていた。

 もう春になろうとしている夜空を僕は自分の部屋から眺めている。カシオペアがあって、あれが北極星で、そうしてあれがオリオン座で。僕は久しぶりに夜空を眺めた。窓辺に座りながら僕はとても懐かしかった。

 小学校や中学時代、僕はよく夜空を見ていた。でも高校に入って、僕はほとんど夜空を見なくなった。南十字星はどれなのかなと捜していた。あの頃の僕はとても素直だった。あの中学時代の純粋だった僕は、今はもう勉強に追いたてられて星を見る間もない。僕の胸の中は焦りと悔しさで一杯だ。僕の胸は今にも爆発しそうだ(喉の病気のことなどで)。


 今日は学校でもないのに朝早くから小学校まで来ました。ブランコが早朝の小雨に濡れて光って微かに揺れていました。スズメはもう元気に起き出して餌をついばんでいました。

 今朝は眠れなくて3時間半ぐらいしか眠っていません。春休みで生活の時間帯がずっと遅れがちになってしまったし、明後日から補習だから早起きに慣れようと思って、いつもなら(昨日までなら)昼近くまで寝ていたのに今日は思い切って飛び起きてきました。

 今、ブランコの上でこれを書いています。家を出るときは微かに降っていた雨も今は止んでいます。今朝は悪い夢を見て気分は沈みがちです。

 バッグに勉強道具を入れてきてさっきまで少し勉強してましたけど、昨夜よく眠れなかったこともあって頭がボーッ、としてこれを書いています。桜は満開ですけど、僕の心は重く沈みがちです。

 星子さんの顔はこの白い桜の花びらのようで、そんな星子さんと喋れない自分の病気のことが腹立たしくてたまりません。

 きっと僕は立派な医者になって、僕らをこんなに苦しめた病気のことで苦しんでいる人たちのためになるんだ、と思っています。





 星子さんへ

 勉強に疲れきったとき、僕は西の方の空を見上げます。そして楽しかった文通のことを思い出して泣き出してしまいそうになります。

 僕らが育った日見は本当に自然がいっぱいで、山があったし海があったし公園もたくさんありました。僕が小学生の頃は空き地がいっぱいででも今はもうほとんど空き地がないくらい家が建ってしまいました。僕の小さい頃は僕よりも背の高い草が空き地を覆っていて、僕はよくその間の近道を通って学校へ行ったり家に帰ったりしていたものでした。

 僕らの懐かしい思い出はただ僕らの記憶の中だけに蔵い込まれているんですね。





 海の底から聞こえてくるの。星子たちを呼んでいるの。星子たち苦しんでいるから、だから『早く来なさい。早く来なさい』って、星子を呼んでいるの。カメ太郎さんを呼ばなくって、星子を呼んでいるの。

 海の精が呼んでいるわ。『早く来なさい。早く来なさい』って、海の精が呼んでいるわ。

 パパの愛、ママの愛。星子、それを思うと泣けてくるの。今まで苦労して育ててくれたパパとママと。

 涙が流れてくるの。自然と流れてくるの。もう駄目だわ。星子、もう駄目だわ。




 僕らを覆っていた魔の勢力は強くて、僕も挫けがちになったことが幾度もあった。でも僕は信仰の力でその危機を幾度も乗り越えてきた。夜の1時2時まで祈っていた時が何度あっただろう。僕はそのために喉の病気になったのかもしれない。でも僕は少しも後悔していない。こうなったのは僕の宿業の故だと思うし、この喉の病気になったために星子さんとの純粋な恋を続けてこられたのだし少しも後悔していない。

 僕は中学の頃は星子さんの幸せを毎日一生懸命、御本尊さまに祈ってきた。でも僕は高校に入ってからはクラブも勉強も忙しくて星子さんのことをあまり祈らないようになってきた。そして高一の12月頃から『僕のような病気で苦しんでいる人たちのために医者になるんだ』と思ってそれからひたすらに勉強するようになっていた。星子さんとの文通が煩わしく思えていたほどだった。

 僕は星子さんのことを御本尊さまの前であまり祈らないように変わっている。僕は星子さんのことよりも自分の成績が上昇することばかりを祈るようになっている。

 僕はクラブも辞めたし2年生になって一年の頃とても僕を苦しめた現国の先生から習わないようになったし理系の大人しい静かなクラスになって僕にひとときの幸福な季節が訪れている。

 

 青い海の底に、コバルトブルーの海の底に、綺麗な楽園があって、きっとゴロと星子さんはそこで遊んでいるんだろう。でも僕は生きていてまだ苦しんでいる。この高二から高三になる春休み、僕は毎日、図書館に勉強に通いながら僕は思っている。楽しい世界は、一年後に僕の前に開かれるのだろうか。幸せって何だろう。自由って何だろう。

 僕は県立図書館へ向かう緩やかな坂道を登りながら自分の生きている存在感や価値、そうしてもう春になろうとしているのに寒い日々。恵まれている者は恵まれているままで、そうして不幸な人たちは不幸なままで、その矛盾に僕は憤りを覚えながらも人の運命というもの、宿命というものを深く深く帰りのバスの中で考えた。

 人間って何のために生きているのだろう。それにゴロなんかの動物や昆虫など。生きるって何なのだろう。そうして苦しむことって。僕らが努力したり苦労したりすることがいったい何になるのだろうかって、僕は悩みました。

 

 僕も幸せになりたい。でも僕には使命がある。僕と同じ病気で苦しんでいる人たちを救わなければならないし、僕もこの世で幸せな家庭を築きたい。僕はもっと生きて、少なくとも50歳までは生きて、幸せになりたい、小さい頃の不幸せを埋めていきたい。長く生きて、幸せを僕は取り戻したい。

 海の底の綺麗な魚たちが僕を呼んでいるけど、僕はこの世で限界まで長く生きて、そうしてこの世の勝利者にならなければならない。この世の勝利者になって、幸せになって、大きな家や幸せな家庭を築き上げるまで、僕は死なない。僕が死ぬときは、後35年はかかるだろう。僕はきっと幸せになって、竜宮城へ行こう。後何十年先になるか、僕には少しも解らないけど。



(夢の中で)

(ゴロと。ペロポネソスの浜辺にて)

 星子さんの苦しさを僕は解らない。星子さんも僕の苦しさがあまりよく解らないとよく手紙に書いてきている。僕らはお互いに苦しみがよく解らないでいる。今でも星子さんよりも僕の方がずっと苦しんでいるものとばかり思っている。

 星子さんは僕に4年間、希望と喜びを与えてきてくれている。僕も必死になって星子さんに希望と喜びを与えてきたつもりだ。でも僕の心の緊張が緩んだ頃、星子さんの心も悪魔に支配されてきていた。馬鹿な僕は勉強に没頭し、星子さんに手紙を書くのも止めていた。


 

 とても強いカメ太郎さんでした。でも星子はこうして宿命に負けて死んでゆきます。星子にもカメ太郎さんのような芯の強さがあれば良いのですけど、星子にはそんなカメ太郎さんのような強さがありませんでした。

 ごめんなさい、カメ太郎さん。カメ太郎さんを裏切るように死んでゆくことお許し下さい。星子、もう耐えきれませんでした。星子、カメ太郎さんのような芯の強さがなかったのです。



 僕は決して星子さんの言うように強くはなかった。でも僕には御本尊さまがあった。僕はだからどのような苦しみにも耐えきれたのだと思う。信仰が僕の心の支えになっていた。



 星子さんは悲しみの中で白い鳩になって旅立っていった。僕にさよならを言いながら、僕らの思い出のペロポネソスの浜辺から、白い鳩になって悲しく悲しく旅立っていった。



 ペロポネソスの浜辺に、来るときに道端で取ってきた白い野菊を一輪植え付けた。その花は星子さんのように白くて、とても美しかった。少しも汚れてなくて純粋な星子さんの心のようだった。星子さんの心のように汚れのない白い白い花だった。



(夢の中で)

 寒い丘の上に少女が身を震わせながら立っていた。星子さんだった。

『星子さん。寒いのに…寒いのに何故そんな処にいるんだい?』

 僕は夏に見た星子さんのあの哀しげな姿しか見てなかったので僕は久しぶりに星子さんを見た。

 寒い丘の上で星子さんは風に吹かれて寒さに震えていた。

『カメ太郎さん。カメ太郎さん』

 星子さんの言葉はあきらめにも悲しみにも似ていた。


 僕は泣き声一つたてないで、苦しみに耐えている星子さんのことを思って涙ぐんだ。可哀そうな星子さん。苦しくて辛くて寂しくて堪らないのだろうに泣き声一つたてずに堪えている星子さん。







 遠い海の向こうに消えていこうとしている僕らの思い出は、雲仙岳を望む遠い景色とともに春の訪れとともに消えてゆこうとしているような気がする。そして僕はこれから大学入試へ向けて一生懸命に勉強に頑張らなければいけないような気がする。浜辺に打ち寄せる波も、以前と全然違わないけど、

 僕らが文通を始めた中一の夏、そして中二、中三、高一と続いた僕らの文通。あの頃は楽しかった。苦しいこともたくさんたくさんあって僕はだから一生懸命、お題目を上げてきたけれど、あの頃は楽しかった。星子さんも僕は星子さんのためを思って毎日祈ってきた。一日、三十分ぐらい、星子さんのためだけを思って。もっともっと祈ってきたようにも思う。

 僕らは誰からも愛されなくなったとき死ぬのだと思う。でも星子さんはたくさんの人から愛されてきたじゃないか。みんなから大切にされて大事にされているじゃないか。




        (夢の中で)

       (星子  天国より)

 カメ太郎さん、頑張っていますか。星子、今、海の中に居ます。勉強、頑張って下さい。そうしてきっときっと医学部に入って下さい。そうしてたくさんたくさん、カメ太郎さんや星子のように病気で苦しんでいる人たちを救っていって下さい。カメ太郎さんならきっとすばらしいお医者さんになると思います。とっても思い遣りがあって、とっても優しいカメ太郎さんだからきっときっとたくさんの人たちを救っていってくださると思います。

 星子、もう手紙でカメ太郎さんを励ましてやることもできなくなりました。でもカメ太郎さんはきっと大丈夫でしょ。カメ太郎さん、本当に頑張ってね。勉強に本当に頑張ってね。


               



 カメ太郎さんへ

 カメ太郎さん。これが星子の最後の手紙になるのかもしれません。カメ太郎さんが人生のピンチを切り抜けられた後、今度は星子が人生の岐路に立たされたみたい。カメ太郎さんは中二の頃にもそういうことがあってそれも切り抜けられてきた強い強い人でしたけど星子は、星子は弱い人間なのでしょうね。それとも星子は苦しんだり悩んだりしているふりをしていながら実際は少しもカメ太郎さんのように苦しんでいなかったのかもしれません。

 カメ太郎さん。星子は本当は弱い人間だったのですね。それとも女の子だから、女の子だから弱いのかな?

                      (四月二十六日)

         




 星子さんも苦しんできたのかもしれない。でも僕ももっと、たぶん星子さんよりももっと苦しんできた。星子さんはみんなから同情されて、いつも星子さんの家の近くの同級生の女の子たちと楽しそうに帰っていた。でも僕は一人だった。僕の苦しさを誰も分かってくれなかった。

 僕は泣きたくなったとき、いつも仏壇の前で一時間も二時間も勤行唱題をした。不思議と力が沸き上がってきて元気が出てきていた。僕は星子さんにもっと創価学会の信心を勧めるべきなのかもしれない。星子さんは神はいないと言っているし、そのくせ、ときどき日曜日には教会へ行っている。星子さんは親の勧めるままにキリスト教を信じようとしているのかもしれない。

 僕はただ、大学入試に向けて一生懸命、勉強することしか、僕には毎日学校帰りに県立図書館で閉館まで勉強することしかできない。また一生懸命、勉強することが僕の心の安らぎになっている。

 僕は星子さんのことをうるさく思ってきていたのかもしれない。また僕の心から星子さんの姿は消えつつあった。星子さんの姿は僕に罪の意識と、そして良心の呵責と、海辺の星子さんの悲しげな表情が僕の瞼に焼き付いていて離れなかった。僕は星子さんを捨て去ることはとてもできなかった。でも僕には星子さんは僕を肉欲へと走らせることを妨げていた。星子さんは僕に禁欲的な生活を強いてきた。

 星子さんは僕には邪魔になりかけていた。僕は変わりつつあった。僕は以前の純粋な僕ではなくなりつつあった。僕もまた他の男と同じような男だった。僕は自分の胸の奥から湧いてくる欲望にどうしても耐えることができないようになりかけていた。

 僕も普通の人間だったし、僕も欲望に負けてしまう弱い人間だった。僕は聖人にはなれなかった。


 星子さんからの悲しい決別の手紙を僕は土曜日、夕暮れの寂しげな夕陽に照らされながら読んだ。僕はこれで勉強に熱中できる、とも思った。また、きっと僕が医学部に上がってから手紙を書こう、とも思っていた。もうこれですべてを勉強に賭けられる、と思った。また、少し寂しくて、涙が溢れてきそうにもなった。

『僕は今まで星子さんのことだけを考えて幼い頃から生きてきたし、これから何年間か文通を中断することになるけれど、きっと僕が大学に入ったときには、文通を再び始めて、そうして少し経ってから、会おう。僕が大学に入ってからは、もう文通だけでなくってちゃんと会って話をしよう。大学に入ったら僕は喉の病気や言語障害の研究に身を捧げて、そうして星子さんとも喋れるようになるんだ。きっとそうなるんだ。

(僕は星子さんに一ヶ月以上も手紙を書いてなかった。こんなことは始めてのことだった。僕は一週間に一度は夜2時ぐらいまで懸かって星子さんに手紙を書いていた。だから僕の出す手紙はいつも厚いものになっていた。でも僕は医者になろうと決めて勉強に熱中するようになってから、星子さんへの手紙を書くのがとても時間が勿体ないように思えてきていた。また僕はそれほど勉強に焦っていた)

 僕は僕と同じような病気で苦しんでいる人たちのため医者になろうと思って星子さんに手紙を書く時間も惜しんで勉強に打ち込み始めてきた。僕は一生懸命だった。もう星子さんと文通するのを止めようとさえ思っていた。僕が医学部に合格するまでは星子さんと文通するのを中止しよう、と思っていた。

 僕は星子さんが思っている以上に学校で吃りなどのために苦しんでいた。一ヶ月以上も手紙を出さなかったのはそのためなんだ。短い手紙でも書けば良かった。便箋にたった一枚でも良いから手紙を書けば良かった。

 本当に医学部に合格するまで文通をやめておこう、と考えていた僕はバカだった。それにせめてその理由を書いた手紙を出すべきだったんだ。


 悲しい訐別の手紙は4月の終わりのある日、僕が6時頃、図書館での勉強に疲れて帰ってきたときポストの中に入っていた。いつもはぶ厚い星子さんの手紙が今回はとても薄っぺらかった。そして僕は一ヶ月以上もまだ返事を出していないのに気づいてハッ、とした。僕はその夜、次のような詩を書いた。


 悲しい手紙は僕を、遠い昔へと連れて行った

 僕らが文通を始めるきっかけとなった4年前のペロポネソスの浜辺の光景がそのときのままで思い出された

 悲しい出会いだったのかもしれないけれど

 でも僕らはそれから色とりどりの便箋や封筒の中に

 僕らだけの幸せを築いていった


 僕は星子さんから別れの手紙を貰った次の日、朝いつものようにごはんを頬にふくらませながらバス停へと走っていながら漠然とした言いようのない不安に襲われた。

 僕の今からの人生はどうなるのだろう。僕の今からの人生はどう変わってゆくのだろう、と。僕は高校2年になったばかりだったし。


 僕は休みの日、寝ていて『世の中が変わっていく、どんどんどんどん変わっていっている。小さい頃から僕の心を支配してきた星子さんの幻影が闇の中をクルクルクルクルと舞いながら何処か奥の知れない暗い処に吸い込まれていっている』と気づいて僕はハッとして飛び起きた。5月5日の子供の日のことだった。僕はいつもよりちょっと遅く7時半頃、目が醒めたけど、それから12時近くまで布団の中で物思いに耽ったりウツラウツラしていた。そしてさっき星子さんの悲しげな姿が見えたのだった。でも飛び起きた僕にはとても哀しい不安があった。

 以前は窓を開けると、オレンジ色の屋根をした星子さんの家が見えていた。でも今は見えない。途中にビルが建って、星子さんの家は隠れてしまって、もう見えない。

 以前は見えていたのに、そうして寂しくなりがちな僕を慰めてくれていたのに。

 もう僕も一人きりなんだなあ、という気持ちが悲しく湧いてくる。僕は一人で、今からは一人で生きてゆかなければならないのかと思うと、寂しくて、夜空を見上げながら涙が、僕の頬を伝わっていこうとしている。

 今からは僕は一人で生きてゆかなければならないのだろう。誰にも頼らず、ただ自分一人で、僕は自分一人で。

 もしもまだ僕が星子さんと文通を続けていたならば、そしてゴロと一緒に星子さんの車椅子を押して上げて、僕らは今頃とても楽しい夕暮れを迎えることができただろう。でも今僕の目に映るのは、寂しい、もう暮れかかった夕暮れの海だ。僕の周りには誰も居ないし。

 星子さんに手紙を出さなかった3月、4月のときに(……ああ、これは3月14日に書いたことになっている)僕は星子さんに手紙を書いた。でも僕は出さなかった。手紙が短かったし。

 “3月14日 PM11:35”と最後に書かれたこの手紙はたった3枚の手紙だけれども僕のあの頃の苦しい心境を書き綴っていて、とても星子さんに見せるのもはばかられるほどだった。

 僕はすぐに医者に診せて、喉の病気を治していたら、そうしたら僕も星子さんと楽しい少年少女時代を送れていたと思う。

 星子さんとこの浜辺を歩いてゆく後ろ姿が見えている。辺りはうす暗くて、僕と星子さんしかいなくて、僕も星子さんも全然口をきかないでいる。

 僕は星子さんに手紙を書かずに遊んでいたのではなかったのか。たしかに一生懸命、勉強もしていたけど魚釣りに行ったりタコ太郎と遊びに行ったりして遊んでいた。星子さんに手紙を書く暇は充分あったはずだった。

 僕からの手紙の来ない間、星子さんは寂しかったのかもしれない。でも僕も寂しかった。勉強に追われ、心に何の余裕も持てなかった。その頃、僕の胸の中は、勉強とその疲れによる寂しさだけしかなかった。

 僕は星子さんのことをほとんど忘れ去っていたようだった。たしか一度、手紙を書いたけど、出さずに机にしまい込んでいた。星子さんのことを忘れよう、という衝動が僕の胸の中で働いていたのかもしれない。

 星子さんの方が良いと僕はずっと言ってきた。苦しさを理解してもらえる星子さんの方がずっと良いと僕は言ってきた。でもそれは僕の一人よがりだったんだと今ようやく気づいた。

星子さんが『カメ太郎さんがきっと医学部に受かりますように』と書いた七夕の紙が僕の机の中にある。星子さんが綺麗な紙に習字で書いてくれたその紙を僕はいつまでも持っているつもりだ。この言葉を心の支えにして僕は勉強してゆくつもりだ。




 もう眩しい朝日が照りつけているのに、もうこれからの日々は星子さんの居ない今までとちがう日々になるのか、と思って僕は泣けてきていた。

 今日の朝日は今までとちがう朝日のようで、僕の胸にポッカリと空洞が空いたようで、僕はとても寂しくてたまらなかった。

 



(高2の5月のこと)

(星子から訣別の手紙の来た一週間後の日のことである)

 その日僕は学校が終わるといつも行く県立図書館へも行かずまっすぐ家へ帰ってきた。土曜日だった。星子さんから訣別の手紙が来てからちょうど一週間が経っていた。いつも学校帰りに県立図書館へ行っていたので5月の青空の眩しさに青春を思わせるものがあったけれど、失恋、初めて味わった失恋に、失恋とはこんなものかとため息をつき続けていた。

 白痴のようになった僕の心はそれでも星子さんの住む網場の光景へと名残り惜しそうに飛んでいた。そんなに悲しくはなく甘美な思い出への哀感があるだけだった。

 僕は家へ帰ると目玉焼きをつくって昼食を食べた後、夏目漱石の「心」を読み始めた。2時間ぐらい読んだだろう。いつの間にか眠ってしまった。

 電話が鳴っていた。でも完全に暗くなっていてそしてまだ父と母が帰ってきていなかった。電話のベルは僕の耳には虚しく消えるように『ああ鳴ってるな』という一個の無機的心象を起こしただけだった。

 再び電話が鳴った。さっきから30秒ほどしか経ってなかった。そのとき僕は何故か立ち上がった。いつもなら寝たままのはずだった。そして僕は立ち上がっても夢遊状態に近かった。

 これは根性ではなかった。不思議な力が僕に働いているようだった。僕は階段を急いで下りた。足元がおぼつかなくて踏みはずすにちがいないと思ったのにちゃんと降りた。そして受話器を取った。

『あっ、カメ太郎さん、カメ太郎さんですか、星子です、このまえは手紙でごめんなさい、ごめんなさい、あれはウソです、星子はカメ太郎さんのためにならないと思ってワザとウソを書いたのです、許してください、ほんとうは星子、カメ太郎さんのこと好きなんです、でも怖かったし』

 僕は何と言って良いか解らなかった。また喋らない方が良いと思った。喋って変に思われるよりも喋らない方が良いということを僕は日頃身にしみて感じていたから。僕からは空白だった。

『カメ太郎さん。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください』

 星子さんの声は始めは明るかったが次第に泣きそうな声になっていた。

『ウウッ(星子さんの泣き声が聞えてきた) 

 カメ太郎さん、いま桟橋の前から電話しているの。ごめんなさい。許して下さい』

 僕は何か言うべきであろうかと迷った。また、言おうと思うが言葉が出てこなかった。僕は激しく緊張していた。震えていたほどだった。口を開けても言葉が出てこなかった。

『カメ太郎さん、駄目ですか、星子、家からは電話しにくかったからここまで出てきたんですけれど。カメ太郎さん』

『ウッ、ウッ』

 僕はやっと声を発したがやはり言葉は出てこなかった。冷や汗が出ていた。あまりにも出てこないので僕は喋るのをあきらめかけていた。こんなにも言葉が出てこないのは始めてだった。

『カメ太郎さん。星子さん、死にたい。もう耐えきれません。何故、星子さんだけがこんなに苦しむまなくっちゃいけないの』

 星子さんの声はもうほとんど叫び声に変わっていた。

 電話がバタンと切れた。僕はすぐに駆け出した。いや、星子さんの最後の叫びが発しられているときにすでに僕は星子さんの処に走っていくことに決めていた。電話では僕は喋れない。それに星子さんの最後の叫びが発しられている途中で星子さんの死の決意を僕ははっきりと感じとっていた。

 電話の切れる前に僕はもう走る姿勢に移っていた。僕の躰は一気に走る弾丸のようになっていた。もの凄いダッシュだった。

 僕の耳にはこの世のものとは思えない極限の苦しみのようだった星子さんの最後の言葉がまだ鼓玉していた。


『バカだ。星子さんは。バカだ』

 僕は走っていました。風のように。風になっていました。僕の情熱が風に変化していました。すっかり暗くなって闇になった道を運動会での100m競争のように力一杯走っていました。いつか小学校の頃、学級対抗リレーで走っていた僕を車椅子から手を叩いて喜んで応援してくれていたまだあどけなかった星子さんの姿が思い出されてきます。あの頃からすでに5年近く経っているんだね。あの不思議なほどに明るかった星子さんがこうして自殺しようとしているなんておかしいな。何かの間違いじゃないのかな。と必死に走りながら僕は思うのでした。


 僕は風になっていました。星子さんへ、星子さんのいる網場の桟橋へと僕は風になり僕はまっ暗な夜道を風として素早く移動していました。誰も見えない闇の中を僕は風になって星子さんを救うため、可哀想な星子さんを救うため、僕のためにこんなになってしまった星子さんを救うため、風になっていました。


 大きな大きなどろどろとした鈍黒色の津波が走る僕を押し止めようとしているようでした。それは港の方から押し寄せてくる僕を星子さんの元へ来らせまいとする怒涛のような魔力でした。


 星子さん、死んじゃいけないんだ。死ぬことだけはやめなくっちゃ。死ぬことだけは。網場の桟橋までは1kmほどあるでしょうか。僕は7時半の暗くなったばかりの闇の中を必死で駆け続けていました。髪を振り乱しながら。


 走りながら僕に星子さんとのずっと以前の思い出が今鮮やかに描き出されてきていました。ほとんど忘れてしまっていたことなのに何故、今こうやって鮮やかに蘇み返ってきたのだろうかと僕は訝しんだ。

 僕が小学4年のときだった。ある夕方、僕と星子さんが松尾商店の前の道ですれ違ったことがあった。そのとき星子さんが僕に呟いたのだった。何を呟いたのかはっきりと聞き取れなかったけどあれはこういうことだった。

『カメ太郎さん、三船カメ太郎さんというのでしょう』

 僕はそのときよく聞き取れず少し無視して歩いた後、やっぱり気になってふっと星子さんの方を振り向いたがそのとき星子さんの車椅子は動いてなくて星子さんの背中が心無しか震えていたのが感じられた。震えていなかったのかもしれなかったけど僕はなんとなくそう思えた。

 それから僕は俯いて歩いていった。その頃はまだ喉の病気にも罹ってなかったし喋ろうと思えば喋れたのだけど喋り方がおかしいと自分でもうすうす自覚し始めていた僕はそのまま無視して通り過ぎた。車椅子の上に乗っている譬ようもなく光り輝いている美しい女の子だったけど。

 そして小学5年のときだった。僕が海岸べりの道でタコ太郎とキャッチボールをしているときちょうど星子さんが通りかかった。頬を赤らめて俯いて通り過ぎようとしている星子さんを見てタコ太郎は一瞬……


 ああ、僕はやっぱり小さい頃から星子さんを一番好きだったし今もそうだ。だから今こうやって星子さんを救おうと必死に走っているんだ。これは責任感じゃないんだ。星子さんを好きだから、星子さんを愛しているからこうして走っているんだ。

 星子さんは馬鹿だ。僕も苦しんできたのに君が先に死のうとするなんて星子さんは馬鹿だ。星子さん。星子さん。

 僕は懸命に走っていました。星子さんを僕より先に死なせてたまるもんか。星子さんを僕より先に死なせてたまるもんか。

 僕は風になっていました。風となり、星子さんの元へ早く着こう、早く着こう、と思って。馬鹿だ。星子さんは。


 走りながら僕は考えた。あれは一昨日のことだった。僕は図書館へ行かず久しぶり早く帰ってきて、ゴロと散歩に行った。目指すのはもちろん星子さんの家だった。手紙を永いこと書いてないで4日前、星子さんから絶交の手紙を貰ったばかりだった。この4日間、僕は学校へ行くのがやっとだった。家に居るときは悶々とした心も学校へ行けば何故か晴れていた。

 そして一昨日、僕は学校帰りに交通事故を目撃した。一緒に帰っていたタコ太郎が『カメ太郎。可愛かとの歩いて来よる』と指差して何秒か経ったときのことだった。その女の子が横断歩道でクルマから跳ねられた。そして10mぐらいも飛んでいった。

 その女の子は星子さんにそっくりだった。僕は人がその女の子の方へと群がるなか、僕にはそれが何かを暗示しているように思えてとても不気味だった。

 そのとき小さな金属性のものが僕の方に転がって来た。もうタコ太郎は女の子が飛ばされた処へと走って行っていた。少し弧を描いてそれはちょうど僕の足元まで転がって来た。丸いワッペンのようだった。手に取ってみるとそれはカスタネットの片方だった。赤いカスタネットだった。

 丸い金属性の紋章の入ったワッペンが転がって来ていると思ったのは僕の間違いだった。でも転がって来るときアスファルトの道の上でたしかに金属性の音をたてていたみたいだった。

 僕は訝しげに僕がワッペンだと見誤ったカスタネットの千切れた一つを拾い上げた。

 救急車の音と10mも先へ飛ばされた女の子の周りに集まる人々の喧騒が片手に千切れたカスタネットを持った僕を包んでいた。


 走りながら僕は水の中に潜む星子さんの死の前の悲しい僕の名を呼ぶ声が聞えてきたように思った。喋れなかった僕。遂に一言も出て来なかった吃りの僕。僕はその悔しさを走り続ける根性へと変えていた。今にも倒れ込みそうで道端の青い草群にどっと身を投げ出したい衝動を何度も感じた。

 でも僕は走り続けた。闇が走り続ける僕を覆い尽くそうとしている。僕は何度も立ち止まろうとした。でも僕は空を見上げながら走り続けた。すると黒い夜空に流れ星が星子さんの涙みたいに流れたのを見た。ああ、星子さん死んだのかな。


 その星は星子さんの涙のようで天空を桟橋の方へと落ちていった。星子さん。星子さん。僕は何度も躰じゅうに力を込めて躰の中からそう叫んだ。星子さん。星子さん。

 僕の躰は熱気になり一気に星子さんの待つ桟橋へと飛んでゆけたら、と思った。


 僕は走りながら星子さんとの電話を思い出していた。

『カメ太郎さん、星子をからかっていたのですか? カメ太郎さん?』

 僕は星子さんのその言葉に一瞬自分の心を疑った。もしかしたら僕は星子さんをからかっていたのかもしれなかった。いや、少なくとも僕は星子さんを自分の慰みものにしていたような気がして僕は暗然とした心持ちになった。

『カメ太郎さん。本当のことを言って。カメ太郎さん、本当は星子をもて遊んでいらしただけなのね? 星子、ちゃんと解っているわ!』

 悪魔が星子さんの心に忍び込んでそう思わせているんだ、と僕は思った。

『カメ太郎さん、何故、何故なの? 何故、星子だけがこんなに苦しまなくっちゃならないの?』

 僕は何も答えられなかった。受話器から聞こえてくるその声に僕は絶句したままだった。僕は毎日、星子さんの幸せを祈ってきた。少なくとも星子さんはこの4年間は幸せだったはずだった。却ってこっちの方が励まされていたくらいだった。魔が星子さんの心に忍び寄り、星子さんの魂まで黒く塗り潰され始めてきていたようだった。


 星子さん、死んでだけはいけないんだ。死んでだけは。僕たちは何のためにこうして今まで励まし合ってきたんだ。星子さん、死んでだけはいけないんだ。生きなくっちゃ。僕らはお互い辛い障害を持って幼ない頃から生きてきたけど、僕らはその分他の人たちよりも一生懸命になって元気に生きなくっちゃいけないんだ。僕らは本当に生きるのが辛くて毎日毎日死んだ方が良い、と思ったりしてきたけど、でも僕らは辛いからこそ負けないで歯を食い縛って生きてゆかなければいけない。それに僕らは今まで何のために生きてきたんだい。それにこれまで育ててきてくれた両親に対してどうするんだい。

 僕は泣いていました。僕はこの頃、自分のことしかあまり考えないようになって(それに勉強が忙しくもあったので)星子さんのことを放ったらかしにしていたことをとても悔んでいました。

 僕は自分のことだけを考える人間にいつか堕落してしまっていたのです。


 闇の中をひた走りながら星子さんとの4年間の楽しかった文通のことを思い出していた。僕たちは手紙でだけ結ばれていたけれど……


 石に跌づいて転んだ僕はやがて肘から血を流しながら立ち上がった。まっ暗な闇の中に星子さんが待っている網場の桟橋の光景が僕の目には見えていた。きっと星子さんは僕が来るのを待っていて海の中に飛び込むのをためらっているのだろう、と思った。僕が走ってくるのを、僕が走ってくるのをきっと僕が来る方を眺めながら見つめているのだろう、と思った。

 僕のジーパンは膝の処が赤黒く染まり、そこに泥が付いていた。肘にも泥と砂が付いていた。僕は星子さんがきっとまだ海のなかに飛び込んでなくて、僕が走って来る方を眺めていると信じていた。

 きっと星子さんは僕を待っているから、だから僕は転んで血が出てとても痛くても走らなければならなかった。星子さんは悲しそうな表情で僕が来るのを待っているようだった。僕が来ないかもしれないと悲しみながらも。

 桟橋の停留所の薄暗い街灯の下で、僕が走ってくる方を寂しげに眺めている星子さんの姿を思って僕は泣きそうだった。だから僕は懸命に走った。悲しげに僕の方を見つめている星子さんのことを思うと僕は痛みや苦しさに負けずに走らなければならなかった。

 星子さん。僕はこれじゃ駄目だ、これじゃ駄目だ、といつも思ってきた。でも、どうしようもなかったんだ。どう努力しようにも、どうしようもなかったんだ。

 僕は最後の努力を星子さんを救うために必死に桟橋へ向かって走り続けていました。僕の今の苦しさは僕が小さい頃から受けてきた地獄のような日々の苦しさを凝縮したかのような苦しさでした。僕は僕の腹綿が飛び出る程の苦しみを味わっていました。

 死んじゃいけないんだ、星子さん、死んでだけはいけないんだ。僕も今までどれだけ吃りなどのため苦しんできただろう。でも僕は死ななかったし、へこたれなかった。少なくとも親には元気なような顔をして見せてきた。死ぬことだけは、死ぬことだけは負けなんだ。自分の人生に、自分に、負けることなんだ。そして僕らが苦しみを背負って生れてきた価値が全く無くなるじゃないか。

 僕らは苦しい宿命を持って生まれてきたからこそ、他の人たちよりも明るく逞しく生きなくっちゃいけないんだ。またそのことが他の普通の人たちの励しにもなるんだ。

 僕は夜の闇を、太古の世の中からの闇を破るような勢いで走っていました。僕はものすごく速くそして一生懸命に走っていました。僕や星子さんを小さい頃から、もの心がついた頃から、覆ってきた暗い不幸な運命を吹き払うように僕は走っていました。

 僕の頭に『僕らは何のために、僕や星子さんのような不幸せな人は何故、生まれてきたんだ?』という激しい疑問が湧いてきていました。『僕らは何故、生まれてきたんだ? 人は何故、生まれてくるんだ? この世は何なんだ? 生きるって何なんだ?』

 僕の葛藤は激しく、今にも走りながら気が狂いそうになっていました。

 僕らは暗い宿命を持って生れてきた。でも僕らはそのために二人だけの、二人だけのだったけど幸せな恋を育むことができた。もしも僕らが五体満足な体だったなら、僕らは欲情だけの、欲情だけの虚しい恋しかできなかったに違いない。

 星子さん、身を投げちゃ駄目だ。

 僕には今にも桟橋の欄干から身を投げようとしている星子さんの姿を苦しい息の中に垣間見ることができていました。桟橋はまっ暗で静かに波が打ち寄せているだけです。

『星子さんを死なせてなるものか。星子さんを死なせたら僕は……』

 僕はいつもいく垂水床屋の前を通り過ぎていました。僕は懸命に走っていました。でも胸元から込み上げてくる何かを僕は感じ取りました。そのとき僕にはそれが何か解りませんでした。

 僕と星子さんは手紙の中で青春を作ってきた。迫りくる暗闇。夜光灯が無くて足元がよく見えない道を僕は懸命になって走っていた。川に架かっている橋。神社の岡。僕はただ闇の中をやみくもに走っていた。足元に注意する余裕なんてなかった。

 早く桟橋へ着かなければ星子さんが死んでしまうと思って僕はもう息ができないようになりながらも走った。喉の奥に何かが詰まっていてこう息ができないのだろうと思ってきていた。

 星子さんのもとへと走りながら僕の胸には『星子さんよりも僕の方が苦しかったのに、それなのに星子さんは死んでゆこうとしている』という思いが拭い切れないでいた。



 もう死んで水の上に横たわっている星子さん

 星子さんのもとへと走りながら苦しみ抜いている僕

 まるで僕らの今までの人生の縮図のような気がした



 星子さんは真面目すぎた。真面目すぎたから自分というものをあまりにも見つめ過ぎて死んでいったのだと思う。星子さんは真面目すぎた。だからだと思う。

 走りながら僕は、星子さんの苦しみと僕の苦しみとを比べてみていた。星子さんの方が僕よりもずっと苦しくて辛かったことを僕は走りながらこのとき始めて知った。星子さんの苦しみは僕の苦しみと全然違っていて、僕は星子さんの苦しみを理解して上げることができなかった。そして僕の方がとても苦しんでいるのだ、と僕は思ってきた。

 いつも一人っきりで海を見つめていた星子さん。いつも寂しそうだった星子さん。いつも寂しげにこの浜辺を車椅子で通っていた星子さん。水溜りの道や貝殻や砂利の道を苦労しながら通っていた星子さん。僕は女の子と喋るといつも傷付いてきた。だから僕は星子さんと喋っても笑われるばかりで傷付けられると思ってきた。馬鹿な僕だった。

 僕らは何回同じようにして生まれ、そして死んでゆこうとしているのだろう。いつの世でも僕らは不幸せだった。でも僕らは僅かな幸せを、他の人たちは快楽と呼んでいるのかもしれない、でも僕らには快楽はあまりなかった、僕らにあったのは苦しみの間の僅かな憩いのひとときだけだった、拷問のような時間の間のほんのひとときの安楽の時があっただけだった、そしてそれで幸せだった。

 僕らはでも幸せだった。最後の4年間だけだったのかもしれない。でも僕らはこの4年間、たしかにお互い苦しかったけれど幸せだった。手紙でお互い慰め合ってきたし、僕らは学校で本当に苦しかったけど頑張り抜いてきた。

 悪魔はこうして僕の心にも星子さんの心にも巣喰い始めていたらしい。いや星子さんよりも僕の方に悪魔は巣喰っていたらしい。走りながら僕ははっきりとそう感じた。

 僕らは前世、ムー大陸で恋人どうしだったんだ。でも僕らは神さまをあざ笑ったり神さまの悪口を大声で言ったりしたため、こうなったんだ。僕らはそして前世の罪の償いを今世でこうして受けているけど僕らはこうして死んでいくんだ。罪の償いをする前にこうして僕らは死んでゆくんだ。

 僕らを取り巻く闇は魔の闇で、僕らは毎日震えおののいているけど、僕は今まで負けてこなかったし、星子さんも明るく強かった。星子さんはときどき泣いて手紙を書いてたけど、でも次の日には明るく学校へ行っていた。星子さんは明るく強かった。

 中学の頃、僕は挫けそうになる心を励まして、星子さんの幸せのために毎晩12時ぐらいまで題目を上げていた。しかし、僕はもう、星子さんのことをほとんど思わないようになっていた。

 僕もやっと大人になったのかもしれない。また性欲に目覚めてしまったのかもしれない。でも僕は毎日のお祈りの中で星子さんの幸せを祈ることはやめてはいなかった。たしかに以前より星子さんのことをあまり祈らないようにはなっていたけれど。

 僕は毎日のお祈りの中で自分の醜い心と葛藤していた。星子さんのことを祈るべきだったけど。

 僕は信仰を心の支えにして生きてきたし、星子さんにも僕の信仰をするように勧めてきた。でも僕の真心が足りなかったのか、もっと強く星子さんに勧めなかったのが悪かったのか、今こうして星子さんは死んでゆこうとしている。僕の真心が足りなかったのだ。僕の真心が足りなくて星子さんはこうしてむざむざと死んでゆこうとしているのだ。僕の真心が足りなかったんだ。

 僕は血を道端へと吐きながら走っていた。僕の白いシャツにはまっ赤な血が僕と星子さんを覆ってきた悪魔の呪いのようにべったりと付いていた。僕はもう気が遠くなりかけてきていた。もう倒れてしまいそうにも思えた。でも僕は依然として走り続けていた。

 僕の祈りが足りなかったのだと思う。僕はこの頃あまり星子さんのことを御本尊さまに祈ってなかった。自分の成績の上昇のことを主に祈るようになっていた。自分の病気のことも、それに星子さんのこともあまり祈らないようになってきていた。

 でも僕が医者になることは僕と同じような病気で苦しんでいるたくさんの人たちを救うことにもなるし、それに星子さんと同じような病気で苦しんでいるたくさんの人たちも救うことになるんだった。だから僕は一生懸命、勉強していたし、毎日学校がとても辛くても休まずに真面目に行っていた。辛くて堪らないとき僕はいつも御本尊さまの前に座って祈っていた。夜の一時や二時まで祈っていたこともあった。

 でも僕はたしかに中学の頃や高校1年の頃のように星子さんの幸せを願って夜遅くまで題目を上げることをしなくなっていた。3分の2は自分の成績の上昇を願っていた。そして3分の1の中で自分の病気や星子さんの病気のこと、僕の家の幸せのことなどを祈ってきた。

 僕には御本尊さまがあった。でも、星子さんには頼るべきものが何もなかった。僕は苦しくて堪らないときにはいつも御本尊さまの前に座ってお祈りをしていた。学校がとても辛くて堪らないときには。でも星子さんにはなかった。星子さんには僕と文通していることだけが星子さんにとってただ一つの心の支えだったのかもしれない。それなのに勉強に忙しくて手紙を書くのが億劫になっていた僕は愚かだった。苦しんでいる星子さんのことを忘れて。そして僕は自分のために、自分の将来のためだけに勉強していたのかもしれない。

 星子さんが疲れていたとき、僕はノホホンと毎日を送っていた。僕は星子さんがそんなに苦しんでいるとは知らなかった。それにもう星子さんの心は僕から離れていったんだ、と思っていた。

 カメ太郎さん、星子、生まれ変わりたいの。健康な足をもって生まれ変わりたいの。

 海の中に星子さんが沈んでいく姿が見えていた。でも僕は一生懸命、走っていた。胸の痛さに何度も倒れた。でも星子さんのことを思って僕は何度も起き上がって駈け始めた。僕は5度も6度も倒れたと思う。血を吐いて僕は倒れていた。でも星子さんのため僕は桟橋までどうしてでも辿り着かなければならなかった。星子さんのため、僕は胸からたくさん血を吐いても桟橋まで辿り着かなければならなかった。

 すべて星子さんのためだった。星子さんのため僕は草叢の中に横たわることは、眠ることはできなかった。例えもう間に合わないと解っていても僕は走らない訳にはいかなかった。

 星子さんは素直すぎた。春の風のように素直すぎた。あんまり自分を見つめ過ぎて、そうして木の葉のように死んでいこうとしている。

 網場の桟橋まであと400mと近づいた頃でしょうか。僕は遂に胸の辺りの痛みに耐えかねて立ち止まりそうになりました。

 でもやはり僕は駆け続けました。次々と湧いてくる小さい頃から今までの星子さんとの出来事が僕を肉体的苦痛から解放したようでした。僕はもう魂だけで走っているようでした。

 僕は魂だけになっているようでした。駆けている足が自分のものでないような気もしていました。星子さんの桃色の顔が闇にぽっかりと浮かび微笑んでいます。その笑顔は譬ようもなく美しくて。

『カメ太郎さん、星子、幸せになりたかったの。でもなれなかったわ。それになれそうもないの……』

 星子さんは桟橋の上で夜空を見つめてそう呟やいていた。僕は闇のなかを一生懸命、走ってきていた。星子さんが海に飛び込むまでに桟橋に着かなくてはいけない、と一生懸命、一生懸命、走ってきていた。

『カメ太郎さん。星子、幸せになりたかったわ。カメ太郎さんと文通だけでなくって電話でも喋りたかったわ。星子、寂しかったの。でもカメ太郎さん、吃りだし喋るのが苦手だから電話は絶対かけちゃいけない、っていつもいつも手紙の中に書いてあるから、星子、電話しなかったの。星子、手紙よりも電話の方がずっとずっと良かったの。カメ太郎さんの声を聞きたかったの。カメ太郎さんがどんなに吃ったって、どんなに喋り方がおかしくったって良いから星子、カメ太郎さんと喋りたかったの。でも電話をしたらもう文通もしないってカメ太郎さん言うから、星子、電話もしないで来たの……』

『カメ太郎さん。星子、カメ太郎さんと喋りたかったわ。どんなに吃ったって良いから、どんなに喋り方がおかしくったって良いから星子、カメ太郎さんと喋りたかったわ……』

 星子さんは涙を一滴一滴落としながら夜空に向かってそう呟やいていた。僕は走りながらも桟橋の方向に大きな一滴の流れ星が流れたのを見た。本当に星子さんの涙のようだった。僕は緩くなりかけていた疾走をまた力の限りの疾走に変えた。しかし胸の中から何か温かいものが込み上げて来るのを感じた。

 それは血だった。電灯の光りに照らしてみるとまっ赤な血が僕の手の平にたくさんたくさん溜っていた。

 僕は思わず近くの草叢に倒れた。胸が掻きむしられるほど痛くなったからだった。

 でも僕は熱い血の塊を両手に抱いたまま立ち上がらなければいけなかった。僕は星子さんの居る桟橋まで走っていかなければならなかった。胸の痛みや血に汚れている自分の躰のことなんてどうでも良かった。

 僕は走らなければならなかった。星子さんの居る桟橋まで例え気を喪ってまでも僕は走らなければならなかった。

 僕は走らなければならなかった。どんなにしてでも走らなければならなかった。

 僕の足は再びよろけ出し、膝から激しく倒れた。口から出てきたのはやはり血だった。僕はもう駄目だと思った。走れないし、それにもう走っていったって星子さんが海に飛び込むのに間に合わない。

 哀しい哀しい浜辺の光景が星子さんの姿とともに見えてきていた。可哀想な星子さん。ごめんね。傷付けてそうして自殺にまで追い遣ったのは僕だし、それに星子さんの病気だった。ごめんね、星子さん、ごめんね。

 悲しい海辺の光景しか見えなかった。何故、星子さんはそんなに悲しそうなんだろうと思った。星子さんの表情はとても哀しく僕に涙を出させた。

 悲しい海辺の光景は僕がこのまま草叢のなかで死んでゆくことのようにも思えた。口から溢れてくる血はもの凄い量になっていた。咳とともに僕の胸は痛み、そして口一杯に熱い血が溜った。

 星子さんの髪は潮風に吹かれて僕の方に揺れていた。悲しげな星子さん。僕は人は何のために生きるのかと思い横たわりながら身じろぎしていた。

 春のタンポポだろう。倒れ伏してもがいていた僕の目の前にタンポポが月夜に照らされていた。僕は意識を喪いかけていた。夢を見た。星子さんと春の野原で手を繋いで駆けてゆく夢だった。黄色いタンポポやレンゲの花が咲き乱れていた。

 美しい儚い夢だった。一分か二分ぐらい見ていただろう。僕は起き上がった。そして胸に溜まっていた血を吐くと再び走り始めた。僕はもう泣いていた。胸の痛みに僕は耐えかねていた。

 僕も辛かった。でも僕はその度に仏壇の前に座った。そして一時間も二時間も題目を上げた。明日の学校での苦しみのことを考えると僕はとても辛くなっていた。でも僕は耐え続けた。

 僕は再び倒れた。

 野原に倒れ伏しながら僕は泣いていた。エゴイストになっていた自分。もう星子さんと文通するのを止めようとさえ思っていた自分。自分の幸せだけを追い求めようとしていた自分。手紙を書くのが煩わしくて手紙を書いてなかった自分。星子さんの悲しみを考えなくなっていた自分。

 草の原に倒れ伏していた僕の目に、星子さんが空へ舞い上がってゆく夢を見た。

『苦しかったの。カメ太郎さん。星子、苦しかったの。だから先に天国へ行きますけど許して下さい。もっともっとカメ太郎さんと文通して、そして落ち込みがちなカメ太郎さんを励ましてやりたかったけど、星子、苦しかったの。もうこんな惨めさや苦しさに耐えきれなかったの……』

 僕は涙を溜めて天へと登ってゆく星子さんの姿を見送っていた。

 僕は眠り込んでしまおうと思った。快い眠りの中に僕は浸り込んでしまおうかと思った。また起きて走り続けたら今度こそたくさん血を吐いて死んでしまいそうだった。

 自分を取るか、正義を取るか、エゴイズムに浸るか、人のために不幸な人のために苦しさに立ち向かって行くか。とても厳しい道かもしれない。死ぬ可能性はかなり高い。自分のために生きるべきか。親のために生きるべきか。それとも今死のうとしている不幸な星子さんのために立ち上がって走り続けるべきか、僕は迷った。

 僕は立ち上がった。でも気力も体力も僕は喪っていた。しかし星子さんへの“恋”の力があった。星子さんへの“恋”のため僕はそのまま倒れ伏してしまうのを立ち上がったのかもしれない。

 星子さんは僕に生きる力を与えていた。挫けがちになる僕に、星子さんの手紙は、僕に生きる勇気を与えていた。もう明日からは学校へ行くまい、と何度思ったことだろう。でも星子さんの手紙を読んで、僕は学校へ行った。そして学校というものが本当は楽しいことを、星子さんは僕に教えてくれていた。

 僕はまた駆け始めていた。自分は自分の虚栄心のためか、それとも本当の自分の正義感のために走っているのか解らなかった。星子さんを救おう、可哀想な星子さんを救おうという虚栄心なのかもしれない。

 虚栄心のために走る僕。星子さんのためでなくって、自分の虚栄心を満足させるために走る僕。醜い僕。自分のために走る僕。醜い僕。

 星子さんは僕が走って星子さんのもとへ来ているのを朧げな意識の中で感じ取っていたのかもしれない。でも星子さんはそのときにはもう安らかな眠りに入っていて僕の駆けて来る足音も苦しい呼吸の音も聞えなかったに違いない。

 僕は道端に再び激しく倒れた。

『星子さん……』

 横たわった僕に、星子さんの涙のように、悲しみの涙が流れた。流れ星が流れていた。僕の哀しみの涙のようだった。

『星子さん……』

 でも僕は寝ている訳にはいかなかった。僕のために死んでゆこうとしている女の子、とてもとても純粋な女の子の心を裏切らないためにも、どうせ間に合わないような気がしていたけれど、僕は起き上がって走らなければならなかった。

 僕は草の間に立ち上がった。走り始めなければならなかった。胸の中がとても痛くて去年の冬に罹った風邪のためだろう、と思った。

 僕は走らなければならなかった。しかし再び胸の痛みに耐えかねて座り込んでしまった。

『星子さん。僕の青春の全てみたいだったような星子さん……』

 僕は哀しみと苦しみに打ちひしがれながらも再び立ち上がろうとしていた。

 星子さんが海に飛び込んだ『ざぶんっ……』という音が倒れ伏してもがいていた僕の耳に聞こえてきた。でも僕は胸が痛くて苦しくて野原の中で転げ回っていた。春の野草の上で僕は途方もない苦しみと、僕は星子さんをもて遊んできたのではないのだろうかという思いと、そして僕は少なくとも星子さんを自分の慰みものにしてきたのではないかという懺忌の思いと、戦っていた。僕は星子さんを苦しめただけではないのかという思いと、そして『僕が、僕が今星子さんを殺そうとしているんだ……』という思いと戦っていた。

 僕は星子さんに何をして来たんだろう。僕は4年間、星子さんと文通してきて、そうして今星子さんを死に至らしめようとしている。

 僕は星子さんを苦しめただけなのではないだろうか。4年間も文通してきて僕は、星子さんを心配させ続け、星子さんに迷惑をかけ続け、そうして星子さんは今僕のために死のうとしている。僕が星子さんに2ヶ月近くも手紙を出さなかったため、星子さんは今死のうとしている。

 でも僕は電話をできたら、僕は星子さんを喜ばせることができた。もしも僕が電話で話すことができたなら、こんなに星子さんを苦しませ悲しませることなんてなかったはずだった。僕はもしかすると、星子さんを苦しめてきただけだったんだ。星子さんを慰みものにして、僕は星子さんをもて遊んできただけだったんだ。

 星子さんと僕は桟橋の上で劇的な再会をして、僕らは抱きあって、今までの辛く寂しかった日々のことを温めよう。五月のまっ暗な桟橋の上で、僕らは5年ぶりに出会って。

 走りながら僕は思っていた。僕は本当に星子さんを好きだったのだろうか、と。可哀想な星子さん、車椅子の星子さん、僕の思いは単なる同情だったのではないだろうか、と。僕は星子さんには恋ではない、単なる性的なものではない、友情と同情の入り混じった、思いしか抱いていなっかったのではないか。いや、きっとそうだ。そうして僕は星子さんを疎ましく思い始めていたのだ。もう僕は中学の頃のあの優しかった、一生懸命、一生懸命、創価学会の信心をしていたあの頃の自分ではもはやなくなっていた。きっと、そうだ。僕は堕落しかけていたんだ。エゴイストの僕。中二の頃の純粋だった僕はいったい何処に行ってしまったんだ。純粋だった僕、心の清らかだった僕は。

 僕はそうして走り疲れ、また激しい後悔の念によって道の脇のコンクリートの溝に足をとられそうになりました。でも僕は依然として一生懸命に走り続けました。

 純粋だった僕。あの頃の僕。そしてまだ幼かったゴロと星子さん。潮風に吹かれた風が頬に懸かり美しかったあの横顔。

『僕は中学生の頃から一生懸命に星子さんの幸せを祈ってきたつもりだった。でも僕は最近真実が何なのか解らなくなりかけてきていた。勤行も怠りがちになってきていた。僕はこの世の何もかもが馬鹿らしくも思えてきていたし、僕は心が狭い人間になりつつあった……』

 僕は迷っていた。僕は星子さんなんかと、足の悪い星子さんなんかと付き合ってられるかと思いつつあった。僕の心はそれほど荒み始めていた。

 僕は心の狭くなりつつあった自分、自分のことしか考えることのできなくなりつつあった自分を、叱咤するように走り続けた。僕は罪を走ることの苦しさで償おうとしていた。ひたすら走り抜くことで償おうとしていた。

 僕は本当に何が真実なのか解らなくなりかけていた。自分を犠牲にすべき人生が正しいのか、それとも他の人のように生きてゆくのが正しいのか。自分は一度は自分の幸せは全て棄て去る決心をした人間だった。でも環境が楽になるにつれて僕はその決意をいつか忘れ始めていた。僕は心の狭い人間になりつつあった。

 星子さんの今にも桟橋から海の中へ音を立てて落ちてゆく様子が暗い闇の中に見えていた。僕の一人よがりのエゴイズムのために僕は星子さんを傷付け、むざむざと死に至らせつつあるのだった。

 僕の後悔の念は激しい身の苦痛と戦うことによってどうにか消されつつあった。

(僕は解った。人間は走るために生きているんだ。人間は走るために生きているんだ。走り抜くために生きているんだ……)

『カメ太郎さん、苦しい。苦しい……』

 僕には波に揉まれて今にも暗い海の底に沈んでゆこうとしている星子さんの苦しげな姿がありありと見えてました。

『星子さん。負けちゃ駄目だ。星子さん、負けちゃ駄目だ。死んじゃいけないんだ。僕が来るまで、僕が来るまで負けちゃ駄目だ。死んじゃ駄目だ……』

 僕は更に必死になって夜の闇の中を走り続けました。桟橋までもう少しの処でした。僕はあまりの苦しさにへこたれそうになりました。二年前から患っていた胸の病気が痛くて痛くて血が滲み出ているようでした。そして今にもその血が吹き出してきてしまいそうでした。僕は座り込もうとしました。

(星子さんが海に飛び込んだ時、たくさんの海の精が泣き哀しんだような気がした。日が暮れて夜になった海の中で海の精は、死を選んだ星子さんをとてもとても嘆き哀しんだと思う……)

(星子さんは卑怯な僕を愛してくれていた。喋れなくて星子さんを避けてばかりいる僕を、星子さんはそれでも愛してくれていた……)

 僕は走りながら堕落しかけていた自分を反省していた。僕はもう昔の自分ではなくなりかけていた。あの中二の頃のような、とても信仰篤かった僕では今はもう違う。僕は堕落し、自分のことで精一杯の自分になっていた。

『ごめんね、星子さん……』

 僕は走りながら、人格的に堕落し果て、自分のことしか考えきれない自分になっていたことを思って、頭をポコポコと拳骨で叩きながら走った。

 中三の頃から僕は次第に堕落しかけていた。僕はもう中二の頃の聖人のようだった僕ではない。僕はエゴイストになっていたんだ。少しづつ少しづつ僕はエゴイストになっていた。

 僕の後悔の念は、数年に渡る信仰心の惰性と、それによる自らの人格の堕落と、そして星子さんを幸せにできなかった、自分のエゴイズム故に星子さんを避けてきた自分を、激しく叱咤しながら走っていた。

 僕は星子さんと喋ることを極力避けてきた。それが僕のエゴイストの為の故だなんて僕は今やっと気が付いた。僕はエゴイストだった。そしてこんなエゴイストと何年も文通してくれた星子さんへの感謝の念と。

 僕の涙は……


 僕は星子さんの苦しみよりも僕の苦しみの方がずっとずっと苦しいんだと思ってきた。星子さんの苦しみは人に理解して貰えるけれど、僕の病気は人に理解して貰えなくて、だから僕の方が星子さんよりもずっとずっと苦しいんだと思ってきた。

 星子さんの方が僕よりも苦しかったなんて僕は今、桟橋へ向かって走りながら始めて気づいている。星子さんも手紙で苦しい苦しいと訴えてきたけれど、星子さんの苦しさなんて僕のに比べたら何ともないと思ってきた馬鹿な僕だった。だから二ヶ月近くも星子さんに手紙を出さなかったんだ、と思う。

 星子さんは、そんなに苦しんでいることを、僕に告げなかったじゃないか。星子さんの手紙はいつも夢に満ちていて、とても楽しそうだった。

 星子さんの手紙はいつも夢に満ちていて。僕にロマンと希望を与えてくれていた。そんな星子さんが死ぬなんて、自ら命を絶って死ぬなんて、僕には少しも想像できなかった。


 ----カメ太郎・走りながら----

 僕も生きることに疑問を感じてきていた。でも僕は死ななかった。星子さんはでも今死のうとしている。星子さんはあんまり深く考え過ぎたのだと思う。幸せも他の処にあるということを星子さんは忘れていたのだと思う。


『カメ太郎さん、もう走るの止めて。死んでしまうわ。カメ太郎さん、もう走るの止めて……』

 朦朧とした意識で走っていた僕の耳に、何処からともなく星子さんの声が聞えてきていた。目の前に、桟橋が見えていた。でもまだ遥か先だった。この大きな道を真っすぐに一直線に走ってゆけば桟橋だった。でも距離はまだ500m以上もあるようだった。

『カメ太郎さん。死んじゃうわよ。もうこれ以上走らないで。お願い……』

 再び聞えてきたその声は何なのだろう。星子さんがもう死んでしまって、その亡くなったという知らせなのだろうか。僕は朦朧としてきて倒れそうになりながらその声を聞いた。

 星子さんが白い蝶々になって、天国へと登ってゆく春の野山の景色が見えていた。このまえ遠足で行った唐八景みたいだった。星子さんが唐八景の花の咲き乱れた春の野原を舞い登っていっているように思えた。僕は『ああ、もう星子さん、死んでしまったんだ。僕は遅かったんだ……』と思って力が抜けるようになって膝から激しく倒れ込んだ。



  倒れるとき僕は見た

  星子さんが蝶々となって美しく舞い上がっていく様子を

  星子さんはとてもいじらしく舞い上がっていっていた

  また倒れようとしている僕の姿を見て泣きながら

  星子さんは誰かに手を引かれながら

  空へと舞い上がっていっていた

  五月の……まっ暗い夜の空のなかへ


 僕は夢を見た。僕が星子さんの処まで走っていこうとすると星子さんは逃げるのだった。僕が必死になってここまで走ってきたのに星子さんは僕が近づくと僕をからかうように笑いながら逃げるのだった。もし僕がこんなに疲れていなかったら掴まえられるのに、星子さんは、疲れきってもうあまり走れず今にも倒れようとしながら走ってくる僕から笑いながら安々と逃げていた。

『カメ太郎さん、ここよ。星子、ここよ……』

 星の瞬きにも似た星子さんのその声は黒い夜空に響き渡っていた。僕はどうしても星子さんを掴まえきれないでいた。

 岡の上に、そして今度は神社の祠の前に、星子さんは現われては消えていた。そうして僕はもう力尽きて立ち止まり、もう走るのを止めていた。

 立ち止まった僕は、星子さんの幻想を見ていた。美しく波間に漂う星子さん。まるで人魚のように岩から岩へと泳ぐ星子さん。星子さんは海の中で始めて自由を得て、人魚のように泳いでいる。星子さんの動かないはずの両足が尾びれとなって星子さんは人魚となっている。美しい星子さん。まるで海の中に咲いた一輪の大きな花のようになった星子さん。

 夢だった。気が付くと僕はまだ空地のなかの草の上に倒れていた。胸が息をする度毎に焼けるように痛かった。でも桟橋はもう見えていた。あと少しだった。僕はそうして再び走り始めた。

 小さい頃、僕らが出会ったときのことが思い出されていた。

 それらは走馬燈のように湧いては消えていっていた。幼かった頃、本当に可愛かった星子さん。車椅子の上の天使さまのようだった星子さん。

 僕は走り続けていたけれど、今にも倒れそうだった。よろよろとゆっくりとしか走れなかった。

 桟橋の手前の生鮮料理の旅館の前で僕は吐きそうになってまた倒れてしまった。僕はそして旅館の裏庭で星を見ながら横たわってしまった。

 熱い液体が何処からともなく僕の口の中を満たし口の端から流れ落ちた。胸から出てきた血だとはっきり解った。もう僕はこのまま死んでしまうのかもしれないな、と思った。僕はまた夢を見た。

 誰も知らない夜の道を僕は歩いているようだった。『何処なのだろう、ここは?』

 僕には訝しかった。前に星子さんが歩いている。星子さん、足が悪くて歩けなくて、だからいつも車椅子に乗っているのに、何故、星子さん歩けるのだろう。僕は不思議だった。

 それにここは何処なのだろう。僕はたしか旅館の中に入っていって倒れたはずだった。誰も居ない中庭に僕は倒れ込んだはずだった。おかしいなあ、と思っていた。それに星子さん、何処へ行こうとしているんだろう。でも星子さんは今海の中に居るはずではないのだろうか。それとも星子さんは飛び込むのを止めて近くの神社の森の中に。いや、そんなはずはない。

 赫い夕陽が静かに西の方の空に流れて行っている。星子さんはその雲に乗って何処へ行くのだろうか。さっき見た、星子さんが歩いてゆく幻影は、星子さんが雲に乗って空へと消えてゆく姿だった。星子さんはもう死んで、天国へともう旅立ったらしかった。もう星子さんは死んだ、という僕への知らせのように思えた。

 

 僕は夢から覚め気がつくと旅館の塀の木の壁にもたれるようにして立ち上がった。一分も寝ていないはずだった。夢は半覚醒状態のまま走馬燈のように僕の頭に浮かんでは消え、また浮かんでは消えていた。

 胸の痛みはそのままだったし、息もまだ切れていた。僕は歩いた。もう歩くしかなかった。桟橋まではもう後100mほどだった。僕は少し駆けた。でも胸が痛み、すぐに立ち止まった。そしてまた歩き始めた。やはり歩くしかなかった。

 空を見上げれば星が瞬いていた。僕はこんなに遅れてしまってもう星子さんは完全に桟橋から身を投げているだろうな、と思い悲しかった。でも僕はこれ以上、速く歩くことができなかった。僕は悲しくて星を見上げながら泣いていた。


 僕は悲しく目を潰った。ごめんね、星子さん。

 僕の意識は薄れ出し道端の草の匂いを嗅ぎながら眠りにつこうとしていた。でもこのとき僕の胸の中から何か不思議な力が湧いてきた。僕がちょうど中一の頃、ゴロと星子さんと出会ったあのペロポネソスの浜辺の裏の林の中で横になって星子さんの後ろ姿を見遣っていた光景が僕の目に不思議に湧いてきた。僕はいつの間にか立ち上がっていた。四年ほども前になるそのときの光景が暗い夜道を目の前にして蘇み返ってきていた。僕は再び駆け始めていた。やっぱり走るしかなかった。胸の痛みに耐えて走るより他に方法はなかった。

 ごめんね、星子さん。僕は暗い闇の中を再び泣きながら走っていた。ごめんね、星子さん。もうとても間に合わないようだった。激しい罪悪感が僕を襲っていた。


 星子、駄目ね。星子、駄目なのね。

 カメ太郎さん、喋ってくれなかった。カメ太郎さん、電話の向こうで迷惑そうにしてたみたい。星子、やっぱり駄目ね。

 星子はそうして桟橋へと近づいていっていました。松尾商店の前の電話ボックスから桟橋まで緩やかな下り坂です。『星子、駄目ね。やっぱり駄目なのね』

 星子、泣いていました。カメ太郎さん喋ってくれなかったわ。カメ太郎さん喋ってくれなかったわ。どうして、どうしてなの、カメ太郎さん。

 カメ太郎さんの意地悪。

 星子、悲しくって桟橋に乗ったまま、まっ黒く佇んでいる海面を見つめていました。カメ太郎さんの意地悪。カメ太郎さんの意地悪。

 星子は“チャッポンッ”と黒い海さんの口に飛び込みました。冷たい。冷たい。とても冷たいわ。

 カメ太郎さん。カメ太郎さぁ〜ん。

 星子、水の中でもがきました。カメ太郎さぁ〜ん。カメ太郎さぁ〜ん。

 星子、死にたくないわ。カメ太郎さぁ〜ん。カメ太郎さぁ〜ん。

 星子、必死でカメ太郎さんが助けに来てくれるのを祈っていたようでした。そしてなるべく水を飲まないようにと一生懸命、耐えました。

 なんだか、カメ太郎さんのタッタッタッと駆けてくる音が聞えてくるみたい。カメ太郎さん、星子を助けに今来てるのかな。でも本当にカメ太郎さんの足音が聞えてくるわ。カメ太郎さん、やっぱり星子を助けようとしているのね。カメ太郎さん、すぐ近くに来ているみたいだわ。

 カメ太郎さんの駆けてくる激しい息づかいが聞えてくるわ。カメ太郎さん、とても苦しそう。カメ太郎さんの駆けてくる姿が見えてくるわ。カメ太郎さん、必死に走っている。

 星子、チャプン、チャプンと水の面でもがきました。星子、生きてなくっちゃ。カメ太郎さんの来るまで生きてなくっちゃ。

 星子、水面を両手で叩いてたのよ。チャプン、チャプンと水飛沫が上がっていたのよ。

 星子、カメ太郎さんが来るまで生きていて、そうして星子を助けるために海に飛び込んできたカメ太郎さんに思いきって抱きついちゃうんだから。星子、生きてなくっちゃ。



      (星子 水の中より)

 カメ太郎さん、来て、早く来て。

 星子の口に海の水が一口、二口と入ってきています。

 カメ太郎さん早く、早く来て。

 星子、死んじゃう。

 カメ太郎さん、早く。

 星子、依然として水の中でチャップンチャップンともがき続けました。星子、狂ったように水面でもがき続けていました。カメ太郎さん早く来て、早く。

 カメ太郎さんのタタタッと走る音が聞えてきます。でもその足音は遠くてもう間に合わないみたい。

 カメ太郎さん、とても激しい息づかいで走ってきているけれど、

 カメ太郎さん、死にそうなほど一生懸命に走ってきているけれど、

 星子、早く水の中に入りすぎたみたい。

 星子、もう駄目みたい。

 カメ太郎さん、さようなら。

 今まで楽しい思い出たくさんありがとうございました。

 星子、幸せに天国に旅立ってゆけます。たくさんたくさん思い出ありがとうございました。

 小さい頃からのいろいろな思い出ありがとうございます。

 水がまた一滴一滴、星子の鼻や口から入ってきています。

 苦しくって星子、自然と泣いてきちゃった。

 カメ太郎さん、さようなら。

 星子の涙が一滴、一滴、海のなかに溶けていっちゃってるみたい。

 星子、あんまり苦しくって、本当はワンワン泣いてるの。

 でも水の中だから誰にも聞えずに大丈夫なの。

 すると天使さまが現われて、

 光る手の平を星子の前に差し出して、

 星子をそっと水面から救って下さいました。

 天使さま、ありがとう。

 天使さまはとても優しそうな微笑みを浮かべられて、

 星子の手を取って下さいました。

 でも、でも、天使さま。星子、カメ太郎さんが好きなの。カメ太郎さんに抱かれて死にたいの。

 カメ太郎さんの走るタッタッタッという音がもうすぐそこに聞えてきています。

 天使さま、ごめんなさい。星子、カメ太郎さんに抱かれて死にたいの。


 星子、再びチャプンと水面に落とされて、ワンワンと泣きながらカメ太郎さんの来るのを待っちゃった。天使さま、ごめんなさい。星子、地獄行っても良いのです。でも最後にカメ太郎さんに抱かれたいから、天使さま、ごめんなさい。

 星子、ワンワンと水の中で泣き続けました。



 星子さんは幸せに死んでいこうとしているようだ。僕は一人残され、これからは夕方になるとゴロともう星子さんの出ていることもない浜辺を散歩することになるのだろう。

 星子さんは恵まれていたと思う。星子さんは幸せだったと思う。

 浜辺に来ると落ち着かなくなるゴロ。僕の心もこの星子さんと始めて会話をしたこの浜辺に来て揺れ動くのだろう。僕は中二の頃、星子さんが幸せでありますようにと、毎日、朝晩祈っていた。声がかすれて出なくなるまで僕はそう祈っていた。でも僕は高校に入ってからはあまり祈らなくなった。星子さんが遠くの存在のように思えてきたし、僕は忙しくてあまり祈る時間も心の余裕もなかった。僕は高校に入ってからはほとんど自分のことを祈っていたと思う。僕は高校に入ってからは自分の幸せのことで精一杯だった。


『カメ太郎さん、星子、もう駄目。カメ太郎さん、星子、もう駄目……』

 星子さんは薄れゆく意識の中でそう叫び続けました。星子さんの体はだんだんとまっ暗い海の底へと沈んでゆきつつありました。

 星子さん、死んじゃ駄目だ。星子さん、死んでだけは。

 僕も薄れゆく意識のなか必死に歩き続けながらそう叫び続けていました。もう桟橋は見えていました。でも僕の足はすでに鉛のように重たくなりつつありました。僕は一歩進むのももう大変な努力が要るようになっていました。僕はもう疲れ果て力尽きていました。そして倒れました。

『カメ太郎さん。カメ太郎さん……』

 僕には薄れゆく意識のなか必死に僕に助けを呼ぶ星子さんの声をはっきりと聞き取っていました。僕は立ち上がると再び走り始めました。いや、よろけるように歩き始めただけでした。

 ずっと前、星子さんの方が元気な時があったのに。それなのに星子さんが今から死んでいくなんて信じられないな。僕には信じられないな。

 星子さんはいつも元気だった。僕には信じられないほど星子さんはいつもとても元気だった。


 星子さんは海の中で叫んだ。『カメ太郎さん、助けて。カメ太郎さん、助けて……』

 ……僕が血を吐きながら必死に走っているとき、星子さんは青い藻に包まれて身動きができないでいた。星子さんの口からはあぶくが立っていたと思う。星子さんは両手を必死に動かして浮かび上がろうとしていたらしい。でも星子さんの意識はだんだんと薄れていってなくなっていっていた。僕は血を吐きながら走っていた。星子さんの居る桟橋へ桟橋へと僕は必死になって走っていた。血を吐きながら僕は、藻にからまれて海へと上がれない星子さんの姿を思って涙にくれていた。


 僕だけの、僕だけの身なら良かった。でも僕は苦労して働いている父や母の姿を思い浮かべて立ち止まった。もう家まで戻ろうか、とも思った。僕は一瞬、家への歩みを始めた。でも僕は思い留まって再び桟橋の方へと歩み始めた。

 ……家までゆっくりと歩いて帰って、ノホホンと父や母のために過ごそう、とも思った。でも僕の胸には星子さんへの愛が焼き付いていた。僕は再び桟橋の方へと走り始めた。でももう走ることが出来なかった。倒れるように歩くことで精一杯だった。



『星子さん……』

 今にも倒れそうに歩いていた僕の傍に星子さんがいて、星子さんが僕に手を差し伸べているようにも思えました。でも現実は先ほど絶望の声を上げて電話を切った星子さんでした。15年近く生きてきて死んでいくのは駄目だよ、星子さん。生きなくちゃ。今まで生きてきたじゃないか。僕も今まで生きてきたんだ。一年の三学期、結局、僕はほとんど学校行かなかったけど(読まされるのが辛くて。現国の時間、読まされるのが辛くて)でも、今、僕は生きているだろ。現実に、僕はちゃんと生きているだろ。

 僕は進もうとしない自分の足を(僕の足はもう氷ついて前へ一歩も二歩も出られないでいました)恨めしく思いながらも、僕はやっと一歩、また一歩、と歩き始めていました。

 僕は正義のために歩いているのでした。星子さんのためでも何でもありませんでした。僕は正義のため、歯を食い縛って歩いていました。もう星子さんのためでもありませんでした。僕は正義のため、ただ正義のために力の限界を振り絞って歩いているのでした。

 今にも倒れそうでした。でも僕は正義のため歩き続けました。しかし僕は再び倒れました。

 苦しさに耐えきれず横たわった僕の目に流れ星が一つ明るく輝きながら流れたようでした。ああ、星子さん、死んだのだな、と思いました。桟橋までは後50mほどでした。でも僕はもう立ち上がりきれませんでした。泣きながらその流れ星を見つめるだけでした。

 死んでゆく星子さん。そしてこれからも苦しみながらも生きてゆくであろう僕。息苦しさと胸の痛みに耐えかねて輾転反側しながら、そしてどちらが幸せだろうか、と考えていました。手紙の中で『車椅子の少年の方がずっと良かった』と何度も書いて星子さんを困らせたこともありました。でも僕は体だけは健康に生まれてきて、やっぱり僕の方が幸福だったのかなあ、と思っていました。

 でも僕は立ち上がりました。人生とはやっぱり根性なんだと。根性で生きてゆくんだと。どんなに辛くても、血を吐いても、根性で生きていかなければいけないのだと。そして死んでゆく星子さんはいけないんだと。死んでだけはいけないんだと。

 僕はよろめく足で歩き始めました。もう走ることはできませんでした。桟橋のバス停が夜の燈明に光って見えています。人一人居ないようでした。さっき星子さんが掛けたと思われる電話ボックスの扉が風に揺られてカタカタと鳴っていました。

 死んでだけはいけないんだ。死ぬことだけはやめなっくては。僕はきっと死んだら死後の世界があると信じているけど、みんなは死んだらすべてが終わりだと言っている。でも死んだら生きているときに苦しんで償わなければならない罪を放棄してしまうことになる。そうして家の人や親戚の人に償ってもらうことになってしまう。僕も何度も死んだ方が良いと思ったか解らない。でも僕は死ななかった。僕は死んだ方が良いような苦しみと小さい頃からいつもいつも毎日戦ってきた。でも死ななかったのは、そのとき僕はいつも仏壇の前に座っていたからだと思う。そうして題目を上げた。そして甘かった自分に、弱かった自分にその度に気付いていた。

 胸元は息を吸う度に焼けるほど痛かった。僕は歩いた。桟橋まで後、少しだった。

 僕たちの愛は結局、実らなかったのかもしれない。でも僕らは幸せな恋をしたのかもしれない。この世の誰よりも幸せな恋を、結局、一度も手を繋いだことさえ、言葉を交わしたことさえなかったのかもしれないけれど、僕らは誰よりも幸福だったのかもしれない、誰よりも。

 ときどき、自分の生きている価値って何なのだろう、自分は何のために生きているのだろう、と思ってしまう。でも、ふっと僕はその考えを吹き消してしまう。そんなことって解らないんだ、と。そんなことどんなに考えたって解らないんだ、と。

 僕は沈みゆく星子さんの姿を倒れ伏しながら悲しく見つめているようでした。

 力尽きて再び倒れ伏した僕はそうして再び立ち上がりかけました。僕はもう幽霊のようでした。桟橋はもう目の前でした。でも僕は立ち上がれただけでもう前へは進めないようでした。

 でも僕は一歩、また一歩と前へ進み始めました。胸の中には血が滲んでいるようでした。胸の痛みに耐えかねて再び倒れそうになるのを僕は星子さんへの愛の力でどうにか我慢し続けていました。もう限界でした。僕は血を吐き再び倒れ伏しました。

 星子さんとの楽しい文通やゴロと遊んだ星子さんがよく来ていたペロポネソスの浜辺の情景が僕の目にありありと走馬燈のように映っては消えていっていました。星子さんは自分の病気に負け、こうして今死んでゆこうとしている。僕も自分の病気に負けてこうして力尽きてしまった。

 黒い海の底へ沈んでいった星子さんの姿を再び倒れ伏した僕は悲しく見送っているだけでした。

 星子さんの苦しみはもう星になって消えていったのかもしれない。大きな大きなまっ黒い海の中に、星子さんの苦しみは消えていったのだと僕は思う。

 何とかなる、と思ってきた。でも、なんともならなかった。僕の苦しみは続いた。学校での毎日の辛さはずっと続いた。

 学校での毎日の辛さは、3年間続いた。いつか治ると思ってきた。病院(耳鼻科)にも何軒か通った。クラブを休んだりして一日おきに通っていたときもあった。でも全然治らなかった。喉の病気も吃りも全然治らなかった。

 僕の病気が治って星子さんと話せる日が来ることを僕は祈ってきた。でも星子さんとは話せなかった。

 僕は立ち上がったとき、たしかに星子さんの名を呼んだ。もう桟橋が見えているときに僕は血を吐いて倒れ、もう起き上がれないと思っていたとき、僕は不思議に星子さんの名を叫べば星子さんが助かるような、海面でもがいている星子さんが岸辺に辿り着くような、また今にも海の中に飛び込もうとしている星子さんを僕のこのかすれた声が聞えたならば星子さんを海に飛び込ませないで済むような気がして僕は立ち上がって星子さんの名を呼ぼうとした。

 血で溢れた僕の喉は小さな声しか出さず、桟橋に居る(またはもう冷たい海の中に居る)星子さんの耳に届いたはずもなかった。

 星子さんは凍えるような水の中で聞いていた。僕が走ってくる足音を。冷たい冷たい水の中に沈みながら星子さんは僕が懸命に星子さんを救うために桟橋へ向かっている足音をちゃんと聞いていた。それなのに星子さんは一度浸った海の中から這い出せないでいた。必死に岸辺へと泳ごうとしながらもできずにいた。そうして星子さんは苦しみの中で死んでしまったんだ。

 僕が立ち上がった時、草叢のなかから血を吐きながら立ち上がった時、星子さんも海の中で苦しかったと思う。星子さんより僕の方が苦しかったなんていうことは僕の思い上がりだった。星子さんの方が僕よりずっとずっと苦しんでいた。

 青い海の向こうに、冬の海に揺れながら立っていて僕を見つめている星子さんが見えてくる。孤独に耐えている僕を、僕を見つめている星子さんの瞳が見えてくる。桟橋のバス停の灯りが見えてきたとき、もうそこには星子さんの人影も誰もいる気配もなかった。たった一つの街灯は午後八時の闇を虚しく照らしているだけだった。星子さんの姿はそこにはなかった。

 もう星子さんは海の方へと向かったようだった。

 星子さんは海の方へと向かい、海の中へと消えていったようだった。暗い暗い海の中へ、まだ冷たい五月の海の中へ。

 僕は走る力を喪い、歩こうとした。でもまだ星子さんは海の中へは飛び込んではいないかもしれなかった。それに飛び込んでいても助けあげられるような気がした。

 僕らの4年間は、今僕が走っているこの闇のようだったのかもしれない。そして今のように苦しい4年間だったかもしれない。でも道端の処々に見える明かりのように、僕らの4年間は処々明るかった。たしかに処々明るかった。

 手紙の中の星子さんはいつも楽しげだった。いつも夢を語っていて、落ち込みがちな僕に勇気を与えてくれていた。そんな星子さんが自ら死を選ぶなんて僕には信じきれない。

 星子さんはあまりにも自分を真剣に見つめ過ぎていたのだと思う。星子さんはあまりにも真面目で、それに星子さんは自分を真剣に見つめなければならないほど苦しんでいた。そして星子さんは自分をあまりにも責め過ぎていたんだと思う。僕は再び倒れた。

 ごめんね、星子さん。

 僕はもう起き上がれなくなっていた。僕は道の横に倒れ伏したままだった。星子さんとの楽しかった文通の思い出の数々が思い出されてきていた。そして僕らが文通し合うきっかけとなった思い出のペロポネソスの浜辺のことなどが。

 辛かったけど楽しかった日々の思い出が走馬燈のように、もう立ち上がれなくて倒れ伏したままの僕の頭の中を駆け巡っていた。

 僕は自分の良心にもそして根性にも敗れ去っていた。僕の心は弱くて僕は裏切り者だった。涙が次々と頬に伝わり落ちていた。

 きっと星子さんは今、水の中で僕よりも苦しい目を受けていると思いつつも僕はもう立ち上がれないようだった。でも僕は立ち上がった。もう桟橋は目の前だった。僕は星子さんを死なせるわけにはどうしてもいけなかった。


「星子さん、生きてなくっちゃ。星子さん、生きてなくっちゃ。そうしてカメ太郎さんが来たら星子さん、カメ太郎さんに抱きつくの。苦しいくらい、苦しいくらい、カメ太郎さんに抱きつくの」—————そうして星子さんは水の中でチャップン、チャップンと跳ねました。でも、苦しいわ。とても苦しいわ。何故なの。——————


 僕は泣きながら歩いていた。桟橋が見えてきた。月の光が桟橋を照らしていた。星子さんの車椅子がそうして微かに見えた。

 僕は何のために歩いているのか解らなかった。僕は一度は星子さんを棄てた男だった。僕は愛でもなく、もう死にかけた星子さんへの償罪のために歩いているのだった。

 僕が桟橋に着いたとき、僕の頭は朦朧となっていた。たくさん血を吐いたためだろうと思っていた。桟橋のバス停の灯りも僕の目にはぼんやりとしか映らなかった。

 僕は桟橋に着くと陸と桟橋とを繋いでいる鉄の微かな傾斜を降りていった。桟橋には誰もいなかった。でも教室の半分ぐらいの広さの桟橋の上には朧ろに星子さんのものと思われる銀色に灯火に輝く車椅子があった。しかし車椅子には誰も乗ってなかった。僕は駆け寄って車椅子の前に膝まづいた。やっぱり車椅子の上には誰も乗ってなかった。

 僕は海の方を向いて叫んだ。小さな声しか出ない僕の喉がこのとき虎のようになって大きく星子さんの名を呼んだと思う。

『星子さん』

 僕の声は闇の中に哀しく響き渡っていった。僕は涙を流しながら何回も何回も星子さんの名を呼んだ。

『星子さん』

 僕の声は夜の海の中に哀しげに吸い込まれてゆくだけだった。


  『カメ太郎さん、生きてね。星子さんの分まで生きてね』

   星子さんは網場の黒い海から舞い上がりながらそう言っていた。

  『カメ太郎さん、生きてね。星子さんの分まで生きてね』              


 桟橋には星子さんが“白銀の”と自慢していた車椅子だけが寂しく闇の中にポツンと置かれています。誰も乗っていません。

 星子さん、何処に行ったのだろう。

 黒い海面はひっそりと佇んでいて何も見えなかった。月の光が反射しているだけだった。

 僕は悲しげに海面を見つめた。黒く澱んでいる港の海面を。

 星子さんがボラのように海面を飛んでいないかと思いました。星子さんがボラになって楽しげに夜の海面を飛んでないかと思いました。涙とともに僕は海面を見つめていました。

 何も見えません。海面は波音一つ立てていません。一瞬何かが飛び上がったような気がしましたがそれは本当のボラでした。星子さんではありません。

 カモメらしい白い鳥が泣きながら僕の視界を通り過ぎてゆきます。

 星子さんは何処へ行ってしまったんだろう。

 星子さん、何処だい?。出ておいで。

 僕は空を見上げた。あっ、空に舞い上がったのかな。今頃、星子さんはウルトラセブンのように空を飛んでいるのかな。

 かっこよくなったんだな、星子さん。

 空は暗く雲が微かに白っぽく見えて星が処々に遠い他国の家々の灯りのように見えます。消えていったんだな、星子さん。あの遠い他国の家々の灯りのなかに。明るい幸せな他国の家々のなかに。今頃、暖炉にあたって遠い旅の自慢話をしているんじゃないのかな。遠い日本という国の西の果ての長崎の一漁村で儚く短かい人生を送った自分の生涯をおもしろおかしく語り聞かせているのかな。そして僕のことも。僕のことも自慢げに話しているんだろうな。

 暖炉にあたりながら暖炉の火が橙色に揺れてて美しいんだろうな。コーヒーが出ていてケーキもある。

 星子さんが明るく喧ましいほど喋っている。


 やがて僕の目に15mほど沖にたゆたっている砂袋くらいの物体が見えました。今まで沈んでいたけど海底から浮き上がってきたのかな、と思いました。僕に会いたくて浮び上がってきたんだな、と思いました。頬を赤らめて浮び上がってきたんだな、星子さん。

 僕は始めそれが全く動いていなかったため砂袋と思いました。静かな港の海面に浮かんでいる人の背中くらいのものが月の光に反射されて見えていました。

 それは星子さんの背中なのでしょうか。まるで小さなゴミ虫の背中のようでした。僕はコンクリートの桟橋から飛びました。僕の躰は頭から5月のまだ冷たい水の中めがけて落下し始めました。

 冷たい五月の夜の海の中を星子さんの方へ向かって泳ぎつつあった僕は『何故、僕らだけがこんなに苦しまなければならないんだ。何故、僕らだけが』と苦しい息の下で思っていました。

 僕らだけ何故、こんなに苦しまなければならないのだろう。他の人たちは幸せに暮らしているのに何故、僕らだけこんなに苦しまなければならないのだろう。

 星子さんの死の前の涙は、港の黒い水のなかに溶けていって、僕はその水のなかを泳ぎつつあるのかもしれない。星子さんの悲しみの涙は冷たくて、だからこの海の中が冷たく感じられるのかもしれない。

 僕は黒い海の中を懸命に泳ぎつつあった。顔を上げ、星子さんの浮かんでいる方向を確かめながら僕は懸命に泳いだ。星子さん、僕が悪かった。僕が星子さんから思われ続けたいという醜い欲望のために星子さんと喋らず、喋ることによって必ず幻滅されることを知っていたから僕は喋ることを極力避けてきたけれど、そうしたらこんな結末になってしまって。

 僕はたしかに桃子さんに性欲によって惹かれつつあった。しかし僕がどんなに桃子さんに心惹かれつつあったにせよ、やはり僕の心の片隅には星子さんの面影が不動のものとして横たわり続けていた。

 星子さんは僕にとって女神のような存在であり続けた。

 でもこの頃、僕の胸にどうしようもない衝動として湧きつつあった性欲という邪悪なものが、僕を星子さんから遠ざからせつつあった。星子さんが疎ましく僕には思えつつあったのは事実だ。

 悪魔の峻動が僕の躰のなかで胎動し始めていたんだ。


 海の中は苦しく星子さんまでの距離がとても長く感じられた。水中で靴を脱ぎ少しでもよく進めるようにした。僕は泳ぎは得意なはずだった。しかし桟橋まで全速力で走ってきたためだろう。僕は自分が黒い冷たい海水の中に沈んでいこうとしているのを感じていた。まるで海の中から何者かが僕の足首を引っ張っているように。

 でも僕は必死に泳ぎ続けた。僕は泣くように海面を叩きつけながら必死に泳いだ。

 星子さんの悲しみの涙は、黒い水の中に溶けていっていて、僕を冷たく覆っている。星子さんの死の前の涙は悲しくて、一生懸命、泳いでいる僕にも嗚咽を起こさせている。星子さんの死の前の涙はとてもとても悲しくて。

 夜の海の中は寒かった。まるで僕らの今までの人生のように寒かった。とても寒くて、それにとても苦しくて、僕は沈みかけていた。走り続けて疲れ尽きて沈みかけていた。

 黒い水の中に沈みつつあった僕は、途中でフッと意識を取り戻すと、海面へと海面へと夢中で足を漕いだ。やがて海面へポツリッと浮かび出て、僕は夜空のお月さまに始めて気づいた。走ってくるとき全然気づかなかったのに、丸いお月さまが、ちょうど夜空のてっぺんに輝いていた。

 でも僕は黒い海中から浮きあがると僕の意識はふと現実の世界に呼び戻され僕は懸命に両手を水車のように動かし始めた。

 僕の両手は水車になっていた。そして僕は今、アメリカ開拓時代の蒸気船のように両手を水車のように回して黒い海面を泳ぎつつあった。僕は今世の新しい黒人奴隷のように自分を思った。

 水車は疲れていました。ここまで全力で走ってきて疲れ切っていました。水車はやがて回転を止めました。そしてブクブクと水車は黒い海中に沈み始めました。意識がだんだん遠くなってきました。

 でも水車はハッと意識を取り戻すと、海面へ海面へと浮上し始めました。いっときの休息は終わり、黒い黒い海の壁を上昇し始めました。そして海面に浮かび出ました。

 すると黒い大きな波が僕を覆います。巨大な巨大な波で本当は海面は波一つ立ってないはずでした。でも僕の躰は再び沈みかけ星子さんまで辿り着くのに嵐の中の荒波を乗り越えなければならないようです。僕はこのまま再び黒い波の中に呑み込まれてしまいそうでした。

 でも僕は再び海面に出ると両手を水車のように回し始めました。一度回転をやめ沈みかけた僕は再び動き始めました。

 星子さんまでの距離は遠く、僕の周囲に巻き起こる荒波は僕が造っていました。僕が水車のように両手を動かすその波動が僕の周りに荒波を造っていました。


 海の中で、疲れ果てて沈んでゆきながら僕は『何故、僕らだけこんなに苦しまなければならないのだろう。世の中のみんなは、幸せに暮らしているのに、何故、僕らだけ、身体に障害を持った僕らだけ、苦しまなければならないのだろう』と思って震えていた。『何故、僕らだけ、苦しまなければならないのだろう』と思って僕の胸の中は悔しさに煮えくり返ろうとしているようだった。

 僕の胸の中が、お腹の処から湧き上ってくる感情の昂ぶりみたいなものに、浸されてゆく。お腹に感情の昂ぶりみたいなものが感じられる。何なのだろう、これは。僕はそう思って、海の中で躰を硬直させながら震えていた。そして僕は再び思いっきり海面へと出て星子さんの方へ向かって泳ぎ始めた。

 泳ぎながら僕の脳裏には小さい頃からのいろいろな出来事が走馬燈のように思い出されてきていた。それは星子さんとの思い出が多かった。

 小さい頃の星子さんとの出会い。そして口もほとんどきかず僕が中一の夏の頃まで過ぎた日々。辛かった小学校時代、あの空白の日々。

 今は取り壊された懐かしい木造校舎。そこで僕は小学1年、二年と過ごした。小学1年の三学期から始まった僕の鼻の病気。

 苦しかった、本当に苦しかったあの頃。そして鼻の病気のことで悩みながらも比較的幸せだった小学3年、小学4年の頃。僕が小学4年の途中から僕たちの日見小学校に転入になった近所の二つ年下の星子さん。車椅子で、でもいつも微笑みを浮かべていた星子さん。僕には幸せそうに見えた。体は元気でも鼻の病気でこんなに苦しんでいる僕よりもずっと幸福そうに見えた。

 星子さんは幸せそうに見えた。僕よりも車椅子の上の星子さんの方が何倍も幸せそうに見えた。

 そして僕は再び力尽きたようになって海面に浮かんでいた。本当に何故、自分たちだけこんなに苦しまなければならないのだろうと思いながらも僕は水の上で苦しんでいた。

 僕は力尽きかけていた。でも僕は今度は海の中に沈むことなく再び星子さんの方へと必死に泳ぎ始めた。しかし僕の体力は尽きていた。蒸気機関車は再び泳ぐのを止めた。

 僕は妥協しかけていた。自分の心に。水の中に沈んでゆきながら僕は自分の心に妥協して、そうしてもう疲れ切っていて、泳ぐのを止めていた。まっ暗な水の中に沈んでいきながら意識が薄れてゆくのを僕は感じていた。

 でも僕は水の中に沈んでゆきながらも星子さんの幸せを祈っていた。星子さんはたぶんもう死んでいるんだろうけど、でもそれだから僕は泳ぐのを止め、海の中へ沈んでいっている。星子さんと一緒に死んでいこうと思っているのかもしれない。少なくとももう星子さんは助けられないから僕は泳ぐのを止めているんだと思う。

 僕らはそうして結局、結ばれないまま死んでゆこうとしているようだ。海の中では喋らなくても良いから僕はせめて星子さんと一緒に死にたかった。でも僕は疲れ果てていた。それに暗くて星子さんが何処なのか解らなかった。

 もしも明るかったら、月夜なら、僕はまっすぐに星子さんの処へ辿り着いていたと思う。でもまっ暗だから僕は星子さんが何処なのかよく解らなかった。


 一度、水の中に沈みかけた僕は再び蘇み返り海面を必死に星子さんの方へ向かって泳ぎ始めました。ごめんね、星子さん。僕は激しい罪悪感に責め苛まれていました。星子さんを救おう、間に合わないかもしれないけど今の身の苦しさに耐えて泳ぎ続けよう、と僕は再び思ってました。

 僕は罪悪感の故に泳いでいるのでした。可哀想な星子さんの好意を避け続けてきた(それはすべて自分の利己心のためでした)罪の償いのため僕は海面を叩きつけるようにして肺が破れるような苦しさとともに泳いでいるのでした。

 僕の目からは涙が流れていました。死の苦しみとはこういうものをいうのだろうと思ってきていました。罪滅ぼしなんだ。そうだ。罪滅ぼしなんだ。

 僕は身じろぎもせず浮かんでいる星子さんのもとへ再び一生懸命、泳ぎ始めました。やっぱり僕はもう死んだのだと思うようにしました。そしていつの間にか水泳大会のときのようにスムーズに泳ぎ始めました。黒い海水が滑らかに僕の体側を後方に流れていっています。


 星子さん、寂しかったろ。僕だよ。やっと僕が来たんだよ。遅れてごめんね。僕、やっと来たんだよ。遅れてごめんね。

『星子さん、星子さん……』

 僕が呼びかけるのにちっとも反応してくれない星子さん。星子さん。やっぱり孤島になってもう死んぢゃってるのかな? 

『星子さん、星子さん……』

 でも星子さん、ちっとも反応してくれません。 

『星子さん、星子さん……』

 僕は拳を造り星子さんの胸を叩いた。 

『星子さん、星子さん……』

 星子さんは今魂が抜けて天界へ上昇していこうとしているのかな? 

『星子さん、星子さん……』

 僕はなおも星子さんの胸を叩き続けました。

 僕は孤島に辿り着いたばっかりで息が苦しくって。それに星子さん、僕にしどけなくもたれ懸かってくるから、僕、息できなくて、苦しいんだよ。とてもとても息が苦しいんだよ。

 でも星子さん、全然動いてくれません。やっぱり星子さん、もう死んでしまっているのかな?

 僕ははっと『あっ、僕、星子さんに触れてる!』と気づき、びっくりしました。今まで気づかなかったのが不思議なくらい僕は星子さんに触れていたのでした。

 星子さん、おかしいな。何故、僕が今こうやって星子さんに触れているんだろうなって思って僕、不思議だな。僕、何故、触れているのかな。

 僕は星子さんの胸を引っ張り星子さんを覚醒させようと必死だった。でも星子さんからはさっき魂が抜け出ていったのを感じていたから、僕はやっぱり覚醒させるのを止めたのでした。抓ったり、引っ張ったりしてごめんね、星子さん。

 僕は動かないちっちゃな星子さんを引っ張って桟橋へと戻り始めました。僕は息が苦しくて、本当なら星子さんの首に左肘を回して、星子さんの顎を上げてから戻らなければいけないことを解っているのに、僕は息が苦しくてそんな余裕なんてなくて、星子さんの服の端を掴んで必死に平泳ぎをしていました。僕は息が苦しくて、気が遠くなってきていました。僕は息が苦しくって、このまま死んでいくような気がしていました。

 夜空に何かが輝いた。よく見ると星だった。僕の涙と星子さんの涙でできたような赤い赤い星だった。僕の思いは星子さんには届かなかった。星子さんはこうして寂しく死んで行き、今僕の手の中にある。僕の思いは星子さんには届かなかった。

 僕はブクブクと星子さんを抱きしめたまま海中を沈みつつあるらしかった。星子さんは無言だった。黒い海の中に沈み込んでいこうとしている僕を見ても無言だった。僕はもう一息そしてもう一息と海水を飲み込んだ。

 僕が泳ぎ着いたとき、もう星子さんの胸のなかに星子さんは居なかった。僕は始めて抱く星子さんの胸を思いっきり叩いたけど、もう星子さんの胸のなかには星子さんは居なかった。僕が泳ぎ着く前に、星子さんはもう天国へ旅立っていったらしかった。僕が泳ぎ着いたとき、春の月が悲しみに沈む僕をそっと照らしていた。

 海の中で僕らは始めて一緒になり、僕らは抱き合いながら黒い海の底へと沈んでいった。ブクブクと僕の口から漏れ出ている空気の泡と星子さんの柔らかな頬が僕と星子さんの間にあった。

 僕らはお互い悲しい運命を持って生まれてきたけれど、そうして僕らはこうして幼くして死んでゆくのかもしれないけど、僕らは幸せだったのかもしれない。

 僕らはきっと幸せなんだ。こうしてお互い抱き合いながら死んでゆける僕らはきっとこの世の誰よりも幸せなんだ。

 僕らはあの世では一緒に暮らせるんだろう。もう文通だけでなくって、ちゃんとした恋人どうしとして付き合えるだろう。


 僕は沈みかけていた。星子さんを抱きながら僕はただ泣いていた。もう疲れ果てていた。星子さんを連れて岸辺まで戻ってゆく力がもう僕には湧いて来ないでいた。

 僕も星子さんも一人っ子で親に苦労ばかり掛けてきた。そうしてこのまま死んでゆくことを思うと。

 砂浜が呼んでいる。砂浜が赫く燃えながら僕を呼んでいる。ペロポネソスのあの浜辺が僕を呼んでいる。

 星子さんは早く岡に上げて人工呼吸をしたらまだ助かるかもしれなかった。もうあきらめて真っ暗な海の底に沈みかけていた僕は再び必死になって泳ぎ始めた。再び心の中で必死に題目を唱えていた。

 僕は生き返ったように一生懸命、岡へ向かって泳ぎ始めた。口の中に水を入れては吐いたりしながら必死になって泳いでいた。

 僕の親は僕の小さい頃から生活苦との戦いで僕のことをあまり構ってやれないほど忙しかった。毎日毎日仕事と借金に追われていて僕のことをあまり構ってくれなかった。でもそれだけ僕の親も苦労してきた。忙しい仕事の中、僕のことを懸命になって世話をしてきた。やはり僕も死ねなかった。

 星子さんは小さい頃から足が悪くて星子さんの両親は星子さんに構いっきりだった。

 僕も星子さんも死ねないのに、僕と星子さんは今こうやって死にかけていた。悪魔の仕業のようにも僕には思えた。

 僕は一時あきらめて泳ぐのを止めていた自分をとても恥ずかしく思っていた。このまま星子さんと一緒に死んでいこうと思った自分の弱い心をとても責めていた。僕は親のためにどうしてでも死ぬ訳にはいかなかった。

 薄れゆく意識は僕を、遠い昔へと連れていっていた。僕らが出会った4年前のペロポネソスの浜辺の光景や、夜遅く2時や3時ぐらいまで懸かって書いていた手紙のことを、僕は悲しく思い出していた。


      (海の中で、僕が思う)

 星子さんは人一倍頑張ってきた。それなのに今こうやって星子さんが負けてゆくなんて、死んでゆくなんて、おかしいな。僕には解らないな。星子さんは誰よりも負けずに明るく生きてきたのに。

 僕の差し伸べた手は、星子さんの処には届かなかった。星子さんはもう暗い海の底へと沈んでゆきつつあった。僕が走ってきたとき、もう遅かった。

 星子さんは僕が来ないのを恨ましげに思ったのかもしれない。でも僕は、星子さんの電話を貰ってから、自分の体力の許す限りに一生懸命、走った。僕はここまで一生懸命、走って来た。

 冷たい暗い海の中から星子さんを救い出すのは僕には辛かった。僕は疲れ果てていた。また、もう息を止めている星子さんを陸に上げて、そうして大声を挙げて(僕には大声が、人を呼ぶことのできる声が)助けに来てくれる人を呼ぶことができるか、僕は迷った。僕は星子さんを抱きながらもう体力も気力も失せていた。

 星子さんの手は柔らかすぎた。始めて握った女のコの手は、僕には柔らかすぎた。

 星子さんの手は僕から通り抜けて、再び黒い海の中へと落ちていった。僕は潜った。星子さんを再び掴んだとき、もう四メートルほど潜っていたと思う。

 星子さんを掴んでから、再び水面へ浮かび出るのが大変だった。星子さんは疲れ果てていた僕には重たくて、星子さんはとても重かった。

 海面へと星子さんを連れて登りながら、僕は一瞬手を放した。ほんの何秒かの間だったと思うけど、僕には辛かったから。星子さんを、重い星子さんを手にして水面までへと行くのがあまりに辛く思えたから。だから僕は星子さんへの手を放した。

 僕にはこの苦しさが、今までの自分の(僕の)苦しかった人生のようにも思えて、僕は手を放した。四つの頃から中一の秋までの市場の2階での僕の人生。狭い六畳二間で僕たち一家4人は生活してきた。毎日辛かった。毎月、月末には金策に追われ、毎日、夫婦喧嘩が絶えなくて、少なくとも僕が小学4年の頃までは、毎日辛かった。

 黒い海の中で星子さんを抱いたとき僕の心の中は、何年も何年も星子さんを理想化し、星子さんを神聖なものと思ってきた僕の誤解が崩壊してゆく、まるで石造りの大きな建物が崩壊してゆくような感じに囚われていた。

 僕は星子さんを抱いて沈みながら4年間続いた僕らの文通の思い出を一つずつ一つずつ思い出していた。星子さんの綺麗な封筒、夜の2時や3時まで懸かって書いた手紙、バレンタインデーや誕生日の贈りもの。星子さんの優しい言葉。

 星子さんが僕の手を引いたと思ったとき、星子さんは沈みかけていた。黒い海の底へ沈んでいこうとしていた。でもたしかに星子さんは僕の手首を握り締めていた。たしかに僕の手首を握り締めていた。

 星子さんが手を引っ張っている。暗い海のなかで、星子さんが手を引っ張っている。


(星子、水の中で)                       

 苦しかったの、星子。やっと楽になれたの。苦しかったの。カメ太郎さんもいろんな障害を持った人は明日が来るのが辛いと思うけど、星子、今やっと解放されたの。星子、やっと自由になれたの。

 星子、自由になったの。これで苦しまないで良いようになったの。

 幸せになりたかったの。カメ太郎さん、解って下さい。死んだ方が楽だって、そう思って星子は死を選んだの。


 僕も苦しんできたのに、僕も苦しいときも何度も何度もあったのに、頑張り屋の星子さんが死ぬなんておかしいな、おかしいな、と、僕はもう死んでしまった冷たい躰に抱きついたまま泣いていました。僕だって、僕だって毎日の学校生活は地獄のようだったのに、それなのに死ななかったのに、僕の方がもっと苦しんできたものとばかり思っていたのに。星子さんの方が僕よりずっと楽なように思えていたのに。


 ブクブクと水の中に沈んでいきながら、僕は自分という存在を儚く見つめていた。小さい頃から苦しんできて、そうして今もこうやって苦しみながら死のうとしている。僕の人生は何だったのだろう、と近頃、僕は思い始めてきた処だった。

『ずっと苦しんできたのよ、カメ太郎さん。星子、ずっと苦しんできたのよ……』

 海の中に沈んでゆきながら星子さんは心の中で僕にそう叫び続けていた。

『カメ太郎さん。星子、ずっと苦しんできたのよ。カメ太郎さん。星子、ずっと苦しんできたのよ……』

 僕も海の中に沈んでいきながら何も答えられなかった。僕も苦しんできた。星子さんだけでなくって僕もずっと(たぶん星子さんよりも)苦しんできたことを僕は星子さんに語りかけたかった。

『僕の方がもっと苦しんできたんだよ。僕の方がもっと苦しんできたんだよ……』

 僕は海の中でこう星子さんに語りかけるしかなかった。身じろぎもしなくなっている星子さんにそう語りかけるしかなかった。

 冷たい海の中で星子さんは囁いたようだった。

『カメ太郎さん。星子たちが始めて結ばれたとき、星子たち、もうこうして死んでいこうとしているの。カメ太郎さん、寂しい?』

『星子たち、死んでゆくの。始めて抱き合ったとき、星子たち、死んでゆくの』

 星子さんはもう死んでいた。もう星子さんの魂は天国へ旅立ちつつあった。僕が来るのが遅かったんだ。そうして星子さんの飛び込むのが早過ぎたんだ。

 星子さんは僕が懸命に走っていることを、星子さんの鋭い感で気づいていた。それなのに星子さんは桟橋からすぐに身を投げた。もし、もう少し桟橋の上で、僕の来るのを待っていてくれたなら、星子さんは死なずに、僕と、涙の中で抱き合っていたと思うのに。悪魔が星子さんの周りを(もしかしたら僕の周りをも)暗躍していたんだ。悪魔が星子さんを死なせたんだ。本当なら僕と星子さんは桟橋の上で劇的な再会をしていたはずなんだ。

 僕はそう心のなかで言いながら、もう死んでしまったらしく動かない星子さんをポコポコと水の中で叩いていました。

 星子さんの魂は飛び上がりつつあった。僕が網場の桟橋に着いたとき、星子さんの魂はもう網場の海の上を、お星さまになろうと、舞い上がりつつあった。

『寂しかったからなの。カメ太郎さん、さようなら。本当にありがとう。カメ太郎さん、さようなら。楽しい文通、本当にありがとう!』

 星子さんはそう言いながら五月の暗い冷たい海の中に呑み込まれていった。星子さんは最後まで手を振っていた。小さな不自由な手を、僕の方に、一生懸命に振っていた。

『カメ太郎さん、さようなら。カメ太郎さん、本当にさようなら』 

 星子さんはそう言って暗い五月の海の中に消えていった。いつまでもいつまでも桜の花びらみたいに星子さんの手が僕に振られていた。

 僕は笑っていました。僕は星子さんを抱いて星子さんと一緒に黒い水の中に沈んでいっているのを薄れゆく意識の中で感じ取っていて笑っていました。ああ、これで僕も苦しい毎日から解放される。がんじがらめに縛りつけられたような苦悩に満ちた泥沼のような毎日から解放される、と喜んでいました。しかも、星子さんと一緒に白い天国へ旅立てるなんて。星子さん、もう全然意識がないのか少しも動かなくて、もう死んでしまっているようだけど、僕は小さい頃からずっと好きだった星子さんを抱き締めながら死ねることに、とても幸福な思いを感じていた。

 僕は星子さんの肉体の重みを感じ取って幸せだった。僕は何もかも忘れていました。このとき僕は現実の塵埃に満ちた毎日の苦しみを忘れ果てて、何処か湖の岸辺を星子さんと手を繋いで飛んでいるようでした。

 それは緑色の草や花や木々に囲まれた岸辺でした。いつか星子さんは健康な足を持っていてピョンピョンと元気そうに跳ねていました。星子さんの表情はとても幸せそうで岸辺を跳ね回っていました。







                                      


           (星子 最後の日記)


 カメ太郎さん。愛してます。星子、死ぬ前に一度でも良いから、会いたかった。そして、せめて、少しでも良いから手をつなぎたかった。ここ半年ほど、全然会ってませんものね。寂しかった。カメ太郎さん。星子、とっても寂しかったのよ。寂しすぎたから死ぬのかもしれないのよ。会いたかった。会って、話をしたかった。でも、でも、こんなこと、もうできないのね。星子、もうすぐ、死んでゆくのだから。

 カメ太郎さん。立派なお医者さんになって下さい。星子、天国から応援します。きっと、カメ太郎さんの傍に居続けます。そしてカメ太郎さんを守りつづけます。

 星子の魂は海の中に溶けてゆくんですね。星子がいつも夕方見つめていたあの海の中に。心配しないで下さい。星子は幸せでした。今もとっても幸せです。死ぬのが勿体ないみたい。

 カメ太郎さん、ステキな恋人を見つけてね。星子よりずっとずっと素敵な女の人を。そして幸せになって下さい。そして星子のことは『アー、あんな変わった女の子がいたな』ぐらいにしか思い出せないようになって下さい。

 では、さようなら。お元気で。さようなら。


(完)





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星子 @mmm82889

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