悪の華


「アラベル様は、ボスの娘です。と言っても表向きには、娼婦が産んだ父親の分からない子供となっておりますが……。ボスが事実上妻となるその娼婦の方と、結婚をしなかったのです。ギャングの者と知られ、妻と娘に危害が及ぶのを恐れての事でした。内縁の妻という事で秘密とし、ボスの血を唯一引く子供であるアラベル様も出自を伏せられ、ボス自身には勿論、勢澄会とも一切の関係が無いという事でと。徹底した情報管理の元、ボスとご家族は幸せに暮らしていましたが……。十年程前に、妻であるリシュエル様をこの病院で看取って以来、ボスは人が変わったように、組織の運営を始めました」

「……例えば?」


 ブラスコが促す。


「今新たなビジネスとして始めている、臓器売買です。リシュエル様は元々身体の弱い方で、心臓を悪くしておられました。然し移植医療はまだ、現在でも新しい技術でありまして……。リシュエル様の移植が間に合わなかった臓器不足に、目を付けられたのではないかと。アラベル様もリシュエル様と同じく、丈夫ではない方ですので……。その新事業が軌道に乗り始めた所で、やっとアラベル様が悪くされていた肝臓の替えを用意出来たと、それは喜んでおられました」


 めらりと黒い炎が再燃しかけた少女を、注意深く見ながらテニアは言った。


「……それが、例の東洋人の少女の?」

「はい。いちいちどこの誰から調達して来たものかは記憶していないとボスは言っておられましたが、印象的だったのか、よく覚えていると。確かに、非血縁者間では数百から数万分の一でしか現れないHLA型が、完璧に一致する肝臓でしたから、医師の私としても、強烈な記憶です」


 少女は刺々しくも、落ち着いた調子で医師に問う。


「何で今その娘さんは不調だったんですか。確か勢澄会は、半年前にはその肝臓を手に入れていた筈ですけれど」

「それは……」


 医師は言葉を濁すと、気付いたように足を止めた。

 冷たい灰色の廊下の突き当りに、その部屋はある。


 ネームプレートの無い病室の向こうから、 聞こえるような音は無い。


「こちらです。既に処置は済んでおりますので、また何かあれば……」

「何で不調だったのかって訊いてるんですけれど」


 今にも殴りかかりそうな声だった。

 それでも少女は、固く両手で拳を作り、身体が動き出すのを堪えている。


 懇願しておきながら、聞きたくないとでも言うように。


「…………」


 俯いていた医師は、僅かにドアを開けて促した。

 じっと押し黙ってしまうとそれ以上は言わず、一人で廊下を引き返してしまう。


 コツコツと寂しく遠ざかっていく靴の音を、誰も止めようとはしなかった。

 僅かに廊下に差す病室からの明かりが、どうしても三人の意識を引き付けてしまって。


 ブラスコは病室の前に立つと、ドアノブを握る。


 雪村に家族がいたなど知らなかった。

 それでもこの先に待つものを、彼はもう分かっている。


「……失礼するよ」


 ゆっくりとドアを開け、病室に踏み込んだ。


 がらんとした白い部屋だった。

 三つぐらい置けそうだと思うが、そこにあるベッドは一つだけ。派手な丁度品も無ければ、古びた木製のエンドテーブルが、寂しさを増していた。

 年季の入った白は灰色となり、床も、天井も、カーテンすらもくすんで、部屋を満たす澄んだ空気で清潔にされていると分かるのに、どこか埃っぽく感じてしまう。


 そこに、アジアの血は感じさせない、アッシュブロンドを胸まで伸ばした、色白の少女がいる。

 歳は十七、十八だろうか。ギャングのボスの娘とは思えない、一般家庭の子が着るようなパジャマに包まれ、静かに目を伏せ、ベッドに横たわっている。

 その均整が取れた顔がはにかむ様を、一度でいいから見てみたいとブラスコは思った。鼻や口、腕にまで、寄生するように繋がれた無数のチューブが、静かに唸る機材へと伸びているその様に、既に叶わない望みであると、暗に告げられてはいたが。

 その痩せこけた頬や、異様に細い腕と首、頼り無い程に薄い肩にも。


 雪村の娘、アラベル。彼女は人形のように美しく、人形のように……。生気の感じられない少女だった。


 ただ、遅かったのだろう。

 だからせめて、いつでも駆け付けられるように、病院の入り口は開いていた。


 彼女に肝臓を奪われた少女は、両手で口と鼻を覆い泣いていた。

 見開かれた右目は、少しでもアラベルを焼き付けようとしていて、何とかそこに広がる光景を理解しようとしている。


 別に、殺してやろうなんて思っていなかった。


 皮肉の一つや二つは、言ったかもしれない。いや、どんな奴か次第では、拳の一発や二発もあっただろう。でも殺そうなんて、これっぽっちも思ってはいなかった。全く不本意ではあるものの、誰かの命を救う為に持ち出されたと、分かっていたからである。

 例えそれに絡む金銭が真の目的であったとしても、汚い手段で得られた延命の術だとしても、でも確かに自分の臓器は、誰かの命を救っているのだ。そう考えた時に果たしてそれを、悪と断じ取り戻そうと思えるか。


 無理だった。そんな事は。


 医者の娘であるからではない。そんな事は関係が無い。己の肉ではなく肉親、己という存在そのものを作った両親の死を、愛する者の死を知ってしまった彼女には、とてもそんな事をしようとは思えなかった。

 知っているからである。奪われた時の、その悲しみを。

 怒りを、憎悪を、己を頭から飲み込もうとする自責の念を。


 例えこの横たわる少女を思う家族が、もういないと分かっていても。


 最初から分かっていた。肝臓を持ち出した奴らは殺せるだろういや然し、その肝臓で命を繋いだ誰かを、殺す事など出来ない事は。何をしても両親が帰って来ないように抜き出されたその肝臓が、確かに誰かを救った事は変えられない。


 事実と過去とは同義である。取り戻せず、捩じ曲げも出来はしない。だから、ならせめて、ギャングを頼ってまで生き延びようとした厚かましいその誰かが、人の幸福や平凡すらも踏み台にし、のうのうと生きているその誰かが、幸せそうにしているその様を見て、それでいいだろうと思いたかった。誰かを救った事実までを、否定したくなどなかったから。


 散々で、散々だったけれど、これで何が埋まる訳でも無いけれど、少しはいい事だって、あったじゃないかと。


 その虚しい希望染みた光さえ、消えようとしている。


「……鬼みたいな事して、持ってったくせに……!」


 何故涙が出るのか分からなかった。

 悲しむ義理など無いと分かっていた。

 でもどうしてか、止まらない。


「どうせ持ってくんやったら……ちゃんと助けたれやボケ!!」


 少女の叫びを、灰色が吸い込む。


 床に泣き崩れてしまう彼女の肩に、羽織っていたブラスコの上着を、テニアは素っ気無く掛けた。ぐしゃっと乱暴に頭を撫で、先にドアを開けていたブラスコと、病室を後にする。


「今朝買ってから、まだ吸えてないんです」


 ブラスコがドアを閉めると、テニアは腰を叩いて言った。

 ライターと、アークロイヤルのパッケージのラインが、ポケットに浮かぶ。


「ん、それは一服したい気分だ」


 ブラスコは笑うと、揃って廊下を引き返した。

 同時に、堪えていた少女の嗚咽が、慟哭どうこくに変わる。


 外を駆け回っているらしい無数のパトカーのサイレンが、微かに廊下に響いていた。

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