第四章

胆(い)を食らいしは

「――ってどぉあ!?」


 前の建物に飛び移ったブラスコは、窓の右手に潜んでいた影に不意打ちを浴びる。


 床を蹴り、背を向けるように捻った影の身から放たれたのは、足でなく尾。


 身体を捻ると同時に、腰から伸びた――直径は三十センチ程だろうか、今度は、蛇の尾のような黒い輪郭が、咄嗟に屈んだブラスコの頭を掠める。

 ブラスコは着地を狙い、影の胸倉を両手で掴むと、後ろへ身を捩って投げ飛ばした。

 ――その投げ飛ばした時の重さから、尾が消えている事に気付く。


 天井すれすれで宙を舞う影は、ヤモリのように貼り付くとブラスコを睨んだ。

 手の平が吸盤になっている訳では無く、手足の先を天井に食い込ませている。


 悪魔とは、人間には及ばない力を持つ者だ。魔法と呼ばれる彼らの力は勿論、膂力と言った身体能力も、人間よりも遥かに優れている。それこそ、わざわざ魔法を使わなくとも、容易に人を殺せてしまうぐらい。

 契約により、彼らの力を貸し与えられた魔法使い達も同様で、今やブラスコの標準装備となっている並外れた身体能力も、テニアとの契約により得たものだ。テニアの場合、夜目や超人程度の力なら、いちいち血を与えなくても貸してくれる。制約コンストレーンツと分類される彼女ら悪魔は、よくある悪魔のイメージそのままのような存在で、余りその辺りは、約束に厳しい悪魔らしくない彼女であった。

 制約コンストレーンツ憑依ポゼッションだと、人間が分かりやすいよう勝手に分類しているだけとは言え、悪魔とは本来、そういうものである筈なのだが。


 憑依ポゼッションと呼ばれる悪魔達も、人間と契約を交わすのは変わらない。両者の違いは、契約相手に対する姿勢と、悪魔としての格である。


 制約コンストレーンツの悪魔達は、人を模した姿を持つ。憑依ポゼッションの悪魔達は、生物らしい姿を持ちはするものの、人間には化けられない。犬や猫、獣の姿を主に取る。そしてその、憑依という名の通り、まず契約相手から離れない。太陽が苦手で、契約相手の影に潜んでいないと、昼間は表にも出れないからだ。その代わり契約相手とは強固な関係を築き、強い魔法を繰り出す。

 人をそこまで必要としない、高位の悪魔である制約コンストレーンツにとって、人との契約はその多くが、処世術に過ぎない。 危険を伴うがその気になれば、自分の空腹に忠実に生きる事が出来る。テニアがブラスコに、ほぼ無償と言ってもいい代価で、身体能力を上げる魔法を標準装備させているように、大雑把と言うかドライな関係が、制約コンストレーンツには多いのだ。

 契約を結んでいる悪魔は安定した餌を得た以上、無闇に人間を食い殺さない。という、人からのイメージを得たいが為であり、人がかつてのように、対策を打ち出せる力が無ければ、自由に食べ歩いていた彼らである。時代と共に知恵を付けられた故での契約に過ぎず、制約コンストレーンツは人間が摂る食事でも生きる事は出来るので、ちびちびと専用の餌を食らいながら、あとはそれで補っている状態だ。

 そのように順応性の高い、制約コンストレーンツと呼ばれる高位悪魔達の中では、今でも昔ながらの暮らしをしている者が多く、人間との争いは日々絶えない。


 テニアに言わせれば、時代遅れの野蛮人だそうだ。


 昼間が恐ろしくて、契約相手の影に潜っていなければ歩く事もままならない、憑依ポゼッションと呼ばれる下位悪魔達の方が余程賢いと。


 人のような姿を持ち、人のように食事も摂れれば、人のように太陽の下でも堂々と歩ける。秘める力も上位だけに一流だ。なのにまあどうして、歪ながらもその魔法を授ける者として、親切な神か天使のような存在に転身すれば身の危険から解放されるというのに、何をいつまでも類人猿のような事を。


 そのような時代は、もう終わったのだ。絶対の強者として君臨し、勝手気ままに食らえたあの頃は、あの名と共に死んでいる。魔法使いでもなければ魔女でもない、所謂堅気の人間だって知っている、空前絶後の力を持った、大悪魔おおあくまの死によって。


 『悪魔の長』は、死んだのだ。


 ついに対抗策を手に入れ、ただの餌から脱却した人間により。


 時の移り変わりに流されるように、制約コンストレーンツと呼ばれるようになった高位悪魔達。秘める力は強大だが、それを人へ貸し与える術は拙い。

 下位悪魔である憑依ポゼッションは、己の非力さを古くから理解し、変革の時となる『悪魔の長』の死以前から、密かに人と共存し、より効率的に魔法を貸し与える事が出来るようにと、生き残る術を身に付けてきた。食事に関しては順応性の低い彼らは、人の血肉でしか生きられず、人と完全に敵対して生き残っていける程、強い魔法は持っていない。

 故に、単体では非力だが契約相手と組めば、力はあっても稚拙な制約コンストレーンツと契約した魔法使いよりも、技術的に優位に立て、開けられている戦力差に迫る事が出来る。その低い順応性から、多量の血を代価とするが。


 つまり消耗が激しい、憑依ポゼッションの魔法使いに遭遇した際は、疲れてしまうのを待てばいい。


 身体能力の強化ぐらい、制約コンストレーンツ程低コストではないが、憑依ポゼッションでも出来る。悪魔に言わせれば人間が弱過ぎるだけで、これぐらいの魔法は造作も無い。


 魔法使い同士での争いが起きるようになったこの昨今、身体機能の強化を土台に、各悪魔の本領である魔法を与えるのが基本となった。あの黒づくめの魔法使いは、影から蛇のような生物を現す魔法を使うらしい。ブラスコはテニアを救出する際、彼女を銜えて持ち上げていたのは、影の足元から現れた、大きな爬虫類のような頭だったと確認している。蛇と呼ぶには、妙に顎がしっかりしていたと言うか、肉食恐竜のような厳めしい顔をしていたが。

 あるいは魔法ではなく、憑依ポゼッションそのものが加勢しているのか。自在に大きさを変えられるという事は、己を強化する魔法を本領としているのかもしれない。

 どちらにせよ元となっているのは、あの黒い魔法使いだ。血が払える上限まで達すれば、魔法は止まる。


 そう思った時、影は剥がれるように天井から離れ、ブラスコに背を向けて着地した。


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