もう一度、雪よ。

みぞうら泰弥

第1話 悲しみも絶望もあるものか

 それは、雪のように真っ白な空間。ここがどこで、いまがいつなのかも分からない。自分という存在すら曖昧になる。

 お腹も減らない。喉も乾かない。痛みは…ついさっきまで、もしくは何十時間も前には、確かに感じていた気がする。

 そうだ、私はとても痛い思いをしたんだ。全身で悲鳴を上げるような、生きている中で一番の痛い思いをした。あれ、でも“生きている”って…?

 時間の感覚も分からないまま、思い立って手足を動かそうとしてみる。ところが、そんなものは、全くどこにも存在していないことに気付く。私は一体なんなんだ? あるのはただ、雪のように真っ白い空間だけ…。

 「…き…よ……」誰かの声が聞こえる。きっと、私の知っている人だ。

 私は返事をしようとした。きっと、私の名前が呼ばれているからだ。でも、おかしい。声が出ない。…というよりは、そもそも、声を出すとはどんなことだったか。思い出せない。すごく昔から知っていた筈なのに。

 「…ゆ…きよ……、ゆき…よ、…………雪代……」私がよく知っている人の声だ。そして、そうだ、“雪代”は私の名前だ。

 その声は、とても優しい声だった。そして、私の名前を呼びながら、涙ぐんでいた。それなのに、私は何故か、悲しい気持ちになれなかった。嬉しいとも思わなかった。

 どれだけ時間が経ったのかも分からない。自分にいま何が起きているのかも分からない。それでも私は、私の名前を呼ぶ声を聞きながら、徐々に思い出してきたことがある。


 体のありとあらゆる場所が、悲鳴を上げているような感覚。私は激しい痛みを感じながら、視界に入ってきた情報を懸命に処理する。お気に入りの銀のネックレスが、真っ赤に染まって、コンクリートの上に転がっている。遠くでビニール袋が、どさり、と音を立てて落ちたのが分かる。直後、私がよく知っている優しい声が、酷く焦った様子で私の傍まで駆けてくる。買出しに行っていた彼が、ちょうど帰ってきたのだ。彼は私を愛していて、私も彼を愛していた…。

 それなのに、何故だか今の私は、その時目の前に広がっていた赤い海に、季節外れの白いものが舞い降りてくる光景を、最も鮮明に思い出していた。

 もうすぐ春を迎えるというのに、白い空から降ってくる、季節外れの寂しい雪。将来を誓い合った恋人の顔よりも、ずっとはっきりと、そんなものだけを思い出していた。




 「あ、気が付いたみたいです」

 「そうか。お前が案内しろ」

 「え、自分ですか? なんて言ったらいいんでしょうこういう時…初めてなんですよね、“死に先案内人”やるの」

 「誰だって最初は初めてに決まってる。やれ」

 「う、うーん…。『天界へようこそ!』みたいな?」

 

 視界が徐々にクリアになっていく。まるで、しばらくのあいだ眠りについていたような感覚だ。真っ白い空間が、相も変わらず目の前に広がっている。

 ただ、少しいつもと様子が違うのは、そこに自分以外の人の姿があったことだ。立っているのか浮いているのかよく分からないその場所に、一人の青年男子と、一人の男性がいた。男性の方は、いやに背が高く見えた。

 「あっ、分かります? 自分らのこと、見えますか?」青年が近付いて話しかけてくる。黒いクセのある短髪が、ふわ、とゆっくり動いている。まるで重力がないみたいだ。

  ―はい、見えます。

 答えたつもりが、全く声になっていないのが分かった。しかし、青年はきちんと声が聞こえているかのように、私の返答にリアクションをした。

 「うん、“死後覚醒”も正常ですね。雹矢ひょうやさん、通常通り試問しても大丈夫ですかね?」

 「お前がそう判断したならそうしろ。俺はそもそも“死に先案内人”じゃない」

 雹矢と呼ばれた男性は、うぐいす色の整えられた短髪に、氷のような薄い瞳が印象的だった。これを「冷たい視線」と形容する人もいるのかもしれない。顔も彫が深く、外国人にも見える。不思議と存在感のあるその人は、私のことをしばらく見つめた後、目を伏せた。

 「よし! それではあなたにいくつか質問させてください」青年は緊張した面持ちを隠すように、意気込む態度を見せながら言った。

 「質問します。まあ嘘を吐く必要はないと思いますが、正直に答えてくださいね。…まず、あなたは自分の名前が分かりますか?」

  ―雪代、だと思います。

 「“自己認識”も異常なし、と…。では、自分が今どういう状況か、なんとなくでいいので想像はつきますか?」

  ―…死んだんですよね、多分。

 「“死亡自覚”もアリですね…。それじゃあ、死ぬ直前のこと、もしくは、何が自分の死に直結したのか、認識はありますか?」

  ―落ちました。ベランダから。四階からです。頭とか体を、強く打ったのが原因かと。

 「ふむふむ。では、それでは単刀直入に聞きますが―」

 青年は、ふと真面目な表情で私を見つめた。


 「生きることに未練はありますか?」




 「ワタシたち死者は、生きている時と比べると、“人間の三大欲求”を中心に様々なものを失う。“食欲”、“睡眠欲”、“性欲”はもちろん、感情の起伏も非常に穏やかになる。所謂、現世でいうところの“人間的”な感覚が失われていくといったところか。たまに例外もいるが、そういう奴は大抵、天界に留まらずに“生まれ変わり”の方を選んでしまうんだけどね。

 ただし! ワタシの圧倒的なオススメは、天界でお仕事をすることだ! 現世のアレコレを見下ろしながら、生と死にまつわる云々かんぬんを管理するのは、生前では決して気付くことの出来なかった真理に近付けたような気分になって気持ちいいぞ! 中でも、最近出来たばかりで引く手数多の部署があるらしいじゃないか。そこなら君も間違いなく歓迎されるよ! さあ、是非ともワタシが案内してあげよう!」


 「ダメだったのう…」

 「どうせ晴見さんお得意の『エンゼツ』でもしてきたんでしょ。あんな長々と話されたら普通引きますよ。」

 とある空間の端っこ、大きな白い箱の前に立つ少年が言う。少年は、箱の上部の表面を、何やらキーボードを打つかのようにいじっていた。

 「そりゃないよ、つむじ~。課長が直々に、死に先案内人たちに頼み込んで、新しい死者を優先的に紹介して貰ってるんだぞ~」

 晴見は、馴れ馴れしく少年の隣まで飛んでくると、強引に肩を組んだ。つむじと呼ばれた少年は、あからさまに嫌そうな態度で晴見を睨みつける。

 「晴見さん、メガネがずれずれですけど? あと髪も結わくのはいいですが、それ以前にぼさぼさです。女性である以前に上司として尊敬できません」

 「つむじこそ、いっちょ前に金髪になんかしちゃってさ~。おまけに制服みたいなその服? なんていうんだろ? ブレザー? 君死んだの中学生の時だよね~。高校生みたいにキメちゃってさ~! このこのっ」

 つむじは真っ赤になりつつも、晴見を容赦なく突き飛ばした。課長である晴見のイメージから成り立つこの空間は、天界の中では非常に狭く、三次元の現世のような雑多さがある。突き飛ばされた晴見は、空間の一番端にある社長机のモチーフまで飛ばされていった。晴見がぶち当たったモチーフは、一瞬形を歪めるものの、晴見の意思によって即座に社長机の形に戻る。

 「別に金髪は関係ないでしょ! っていうか、ボクの中学はブレザーでしたから! そもそも、天界では外見なんていくらでもイメージで変えられるのに、わざとそんなインチキ博士みたいなだらしない格好をしているのがおかしいって言いたいんです!」

 「うーん、厳密には、自分で変えられるというよりも、相互のイメージの平均化が互いの目に映るだけなんだけどなあー。だから、つむじが“晴見さんは絶世の美女”と強くイメージするのであれば、ワタシだっていくらかは―」

 「…そんな気が微塵もないからその格好のままなんでしょ。というか、生前の顔立ちまではいくらイメージ化でも変えられませんよ。呆れた人だな」

 溜息を吐いて白箱をいじるつむじに、うだうだと絡みを入れる晴見。こんな気の抜けた光景が死後の世界にあるなどと、生きとし生ける誰が想像するのであろう。

 ふと、晴見は片耳に手を当てた。まるでインカムでも聞くような仕草だが、死者にはそんな機械は必要ない。

 「何か伝達ですか、晴見さん」突然、絡みをやめた晴見の表情を見て、つむじも手を止めて聞く。

 「うん、今、ある死に先案内人からね」

 晴見は空間の端まで向かうと、“飛び出す”準備をした。つむじはその様子を見て、「またか」と一人ごちる。

 「ちょっと新人勧誘に行ってくる!」

 直後、晴見の姿は空間から消えた。まるで、初めからそこには誰もいなかったかのような静かさが広がる。

 「…どうせ空振りだよ」つむじは白箱をいじりながら、つぶやいた。

 それでもなぜか、少しだけ、いつもと違う予感を感じていた。




 目の前に現れたその人は、胡散臭いメガネの女の人だった。二十代後半で死んだ私よりも、いくらか年上に見えなくもない。だらしないジャージみたいな格好で、もうちょっと身なりを綺麗にしたら、さっきの二人みたいにカッコよくなりそうなものなのに。…そう思ったけれど、何故か思ってから、さっきの二人の格好を思い出せなかった。ちゃんと二人の全身は見ていた筈なのに、なんだか妙な感じだ。ちなみに、女の人はよく喋った。死んでからもこんなに喋る人がいるなんて、もっと変な感じがする。

 彼女の話によると、私はどうやら、二択を迫られているようだった。

  ―生まれ変わる方を選ぶと、どうなるんですか。

 「眠りにつく。次に気が付く時は、赤ん坊として産声を上げる時だよ。ま、記憶はないんだけどね。天界での出来事はそこで終わり、って感じ」

 晴見と自己紹介したその女の人は、そう答えた。要は、この人は私に自分の部署で働いて欲しいということなのだ。死んでから働くなんていうことがあるとは驚きだが、死後の自分はなかなか順応性が高いようで、比較的すんなり話を飲み込んだ。

 「迷いがあるのかな?」晴見が私に聞く。

  ―いえ、正直、ないです。

 「おや」晴見は興味深そうに私を見る。「君は特段、生への未練が薄いようだけど?」

 私は特に返事をしない。

 「ま、いいや。それなら答えは決まったも同然だね! 君の顔を見ていれば分かるよ」

 晴見は、私の方へ手を差し出す。

 「おいで、我が仕事場へ」




  ―未練、ですか。

 「そうです。もっと生きていたかったとか、成し遂げていないことがあるとか」青年は少し考えた様子で続ける。「享年二十六歳ですよね。結構若いし、色々あってもおかしくはないかと」

 未練。私は今、初めてそれについて考える。しかし、悩ましいことではなかった。私の返答は決まっている。

  ―ないです。

 「え? 本当に?」

  ―はい。全くありません。

 「え、どうして?」

 思わず素の反応をしてしまったような青年の後ろで、咳払いが聞こえた。雹矢と呼ばれた男性が、青年を睨みつけている。恐らく、「要らぬことを聞くな」という意だろう。

 青年は雹矢の注意に怯み、苦笑いをすると「すみません」とだけ言った。

別に話してもいいんだけどね。そう思ったものの、与太話にしかならなさそうなのでやめた。青年は何かごにょごにょと雹矢と話をした後、まるで電話でもかけているかのように、この空間に居ない誰かと会話を始めた。

 未練なんて、残せるわけがない。私は、 “ここ最近”の出来事を思い返す。

 私が死んだ後のことを、私はどこかから、ずっと見ていた。




 章介は、私の婚約者だった。大学の頃から付き合い続けて五年が経ったある日、私に婚約指輪をくれた。優しくて、でもちょっとだけ眼鏡の奥から臆病が覗くような人だったけれど、その瞬間は間違いなく幸せで、私達の未来を明るいものにしていくことを二人で誓った。

 私が死んだ後、一番最初に私を見つけてくれたのは彼だった。それでも、私の体がコンクリートに打ち付けられた時点で、もう私の命が終わることは決まっていたのだと思う。とても焦っているのに、一刻も早く救急車を呼ぶことを判断してくれた彼が、どんなに一生懸命私の名前を呼んだとしても、私の命の灯はあっけなく消えてしまった。

 彼は葬儀で泣いていた。両親も泣いていた。友達も、幼馴染も、同僚も、上司も、みんなが私の死を悲しんでくれた。

 でも、それもせいぜい三日間だ。

 きっと、彼も両親も、彼らなりの形で涙を乗り越えてくれたのだと思う。おおよそ四十九日くらいが経った今、彼の隣には、私の知らない女性が寄り添っている。新しい一歩を、彼は踏み出してくれているのだろう。

 両親は、一人っ子の私の収入を大事にしていた。今ではそれもなくなり、二人だけの家族会議では、私の喪失よりも、これから先の老後の不安の方が議題に出される。

どれも、きっと仕方のないことだ。みんな切り替えが早くて、寧ろ助かる。「そんなもんだったのか?」という気持ちはなくはないけど、幸いなことに、晴見の言う通り、死後の私からしてみれば、そんなに感情を揺さぶられる出来事ではなかった。

 みんな私のいない世界を歩き始めている。それはきっと正しいことであって、悲しむべきではない。寧ろ、死んでからも役割が与えられるのであれば、私はそれに従おう。

 たとえ、私の死が、いずれ彼らに忘れ去られてしまったとしても。




 晴見の差し出した手を、私は取ろうとした。

 瞬間、一瞬目の前にフラッシュが光る。

 私自身に、体のような、生きていた頃のような感覚が徐々に満ち始める。私の手が、指が、銅が、つま先が―曖昧だった私の“形”が、頭の中でくっきりイメージされていくかのように作られていく。例えるなら、生きていた頃に眠りの中で見ていた夢のような感覚。

 死んでからもやもやしていた私の形が、生前の頃の姿を取り戻しつつあった。鏡はないから分からないけど、死んでから初めて明確に“自分”を感じる。彼が好きと言ってくれた黒くて長い髪も、両親が昔から褒めてくれた、大きくて黒い瞳も―。

 晴見は、形になった私の手を取って、言った。

 「ようこそ、天界こちらがわへ」

 死んだ私に、涙は流れなかった。

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