人斬り庄五郎

@kuratensuke

第1話





    人斬り庄五郎

                                     

                                               

                                                                   


                       

十津川 会津

 







             一


 






奈良吉野の南に位置する、十津川の朝は早い。雲の波が山々に流れ込み、白く海を作ると庭鳥の鳴き声が始まりひとびとは起き出す。高地に住まうものが、多いので一応に寒さを感じざる負えない。しかし、空気の澄み具合は格別で美味い。

木の数に対して人が少ないせいか澄んだ空気はふんだんで、育まれる生き物は、一応に元気で健康である。

滋養が多く、潤滑に栄養が働いている感がある。

 しかし、厳しい山々の織り成す自然の猛威は人々を飲み込み、生き物の運命を簡単に左右する。

さらに盆地ゆえ寒暖の差が激しく、朝方は冷え込み昼は暑い。

激しい高低差のある地形であるから、川が激しく流れ、人々の命を簡単に流しさる力を秘めている。

地形のせいもあるのだろうか、住まう人々は、一応に優しさの中に激しい性格を併せ持つ。

 十津川の人間は妙にプライドが高い、南北朝時代から朝廷に尽力してきたという自負がそうさせるのであろう。

なかには、子種をせがみ、また自然に交わった経緯などもあるかもしれない。

高貴な血すじを誇り、同時に近親交配をさけるという意味合いもあった。

 十津川が御赦免地であったという理由は、朝廷と長い間なんだかの形で関わってきたという理由もあろうが、地形によるところが多い。

地形が急で複雑に入り組んでいる。測るに計れないのである、秀吉の時代には太閤検地もかなり厳しく行われたように記録に残るが、結局、わづらわしい測量の割には石高も挙がらず、明治になるまで赦免されてきたのである。

 江戸時代も終わりに近づいていたのであるが、この地の関心ごとは神武創世の古来より、日々の生活と何が起こるかもしれない天災との戦いだけであった。

 中井家は、十津川の中央部野尻部落に位置する農家である。

父の代までは医者で生活も楽ではあったが、秀助の代になると農業で食って行くのが精一杯であったのだ。それも、少ない平地を部落それぞれで分け合いながら耕すものだから作地面積は少ない。子が増える度、生活はより貧窮し食い扶持がなくなる。


「母ちゃん、畑に先行きよるでさ後から来いよ、今日は、苗の様子見てからにおおきなっとたらさ大根植えるよってによ」

「わかったよ、さきいきよってさ」

 といってやにわにはたけの畦四尺くらいの高さのところから飛び降りた。

「あかんかよ」腹を叩いたりして飛んだり跳ねたりしているのだ。間引きせねばならない。

 と、トヨは考えたのである。

五人目の子が腹に出来たのをトヨは感じていたのだ。

 これ以上の子供は生活を急迫するのは目に見えて明らかであったのだ。

「なにしょんなら?」と秀助はいった。

 そのすぐ後に気がついた、子が出来たのか、それ以上何も言う気がしなくなり畑に向かう。

四人の子供たちは、上の子に任せて畑に出る。

一向に楽にならない生活を考えるとこの子はなんとかして間引きせねばならないのだ。

仕方なく畑仕事に向かうトヨであった。

 それから、数ヶ月して間引きを乗り越え生まれてきたのは、五男の庄五郎であった。

 生まれたときからやけに毛深く毛で覆われていた。

熊のような子を授かったとトヨは思う。秀助などは、熊五郎というあだ名を付けた。

「熊五郎、やけに毛深いにゃ? 眉毛が繋がっとる」

 庄五郎はよく笑う子で、あやすと大声で笑うのだ。人の顔を見つめて目を離さない、眼力の強さがあった。

よく食べ、よく寝る子であった、ほかの子供たちの食いものまで奪い兄弟喧嘩がたえなかった。

 十年も経つとひときわ背が伸びてほかの子供たちに比べて乱暴で言うことを聞かない権太に成長した。

冬にも関わらず、川遊びの好きな熊五郎こと庄五郎は鰻を捕ろうと、ゴリの一種、ガブとりに余念がなかった。

ざるで何匹か目のガブをとり終えると、

「こら熊、川は行ったらあかんちゅうとんにゃ、冬やろ」

「浸かっとらんよ、膝までじょ」

「風邪引いたら知らんじょ」

「やかましゃあ、風邪ら引くもんかよ」といっこうに聞く様子はない。

 秀助も野菜の行商があるのでそれ以上取り合わずその場を立ち去った。

「まったく父ちゃんの心配性にもかなわんわよ」

 ガブもそこそこ数が捕まり、今日の鰻の仕掛けには十分だ。

 庄五郎は、鉈で整形した細長い竹を先だけ二股に削りだし、紡績でつないだ仕掛けばりに餌をつけた。

さきほどの竹先に引っ掛け、鰻の潜んでそうな川原石にしたから差し込んで反対にかまぼこ板状の板を縛り付け、岩の上におき、その上に石を置いて仕掛けを完成させた。

 二十本ほどのかばしという仕掛けを作り、意気揚々と山にかえる。

「これで明日の朝が楽しみじょ、母ちゃんに鰻食わしたらなあかんわ」

 兄弟が多く、食う物にも困る毎日であったので少しでも食料の足しにと鰻を捕り、売ったり、余れば家で食うことにしている。

鰻とりは、庄五郎の役目であった。

 天性の器用さと鰻のいる場所を見つけることが出来る臭覚を持ち合わせていたのである。

 庄五郎の鰻とりは年中かまわず、夜中でも気が向けば出かけて行って漁なる物をやろうとするので親泣かせである。

後先考えずに思い立ったら出かけてしまう、たまに収穫が無ければ畑を荒らして食い扶持をとってくる。

親は近所の農家に謝るのが日課なのである。

 その頃から庄五郎は、脇差しに竹のしなりの効いた長い物をさしていた。

暴れてしょうがない庄五郎に、少しはましになるかと考えた秀助が寺子屋ならぬ道場にかよわせていたのだ。

道場主は、風屋部落福寿院の住職で紀州田宮流抜刀術をおさめた玉置山の修験者道俊法師、棒術と居合い、読み書きを教えたのであるが、読み書きなどそっちのけで庄五郎は居合いの剣術ばかりに熱中した。

 この頃において、すでに道俊もうかうかしていると小手先から面取りを許すほどにまで腕を挙げていた庄五郎だった。

まだ十歳を過ぎたころにしては恐ろしく強い。

天賦の才能が備わって山々を駆け巡り足腰が強く、天性の瞬発力、手先の器用さ、何よりも人を人とも思わない剛胆さがあった。

十三をすぎる頃ともなると剣豪相沢力也の稽古も受けてより実践的な居合い抜刀術に磨きがかかった。

 ある日のこと、五尺の高さぐらいの竹燭台のろうそくをともし、相沢は、正面に端座している。空気が張りつめて息をすることも許されない。

庄五郎は文武館の道場で仲間や兄弟と少し離れて壁を背に正座していた。

同じ年頃のものたちからは、乱暴者故に嫌がられ疎んじられている。

みんな庄五郎からはなれて座る、しかし、気にしない庄五郎であった。

 

その時、

「きえーっ!」

 気合い一声、同時に鞘に戻る刀の金属音が同時に聞こえる

「チン!」

 辺りはまっ暗になった。

すぐに光が戻り、今までと変わらずに明かりがついている。

「熊、ろうそくの上見てみろ」相沢が言った。

 庄五郎が立ち上がり、ろうそくの芯先に手を触れてつかもうとすると半寸あたりのところからきれいな断面で斬りとられて上が半寸分取れた。

「すげえーにゃ」

「おおう!」

 館内にも歓声が上がった。それと同時に、ろうそくがバラバラと等間隔で落ちてきた。二つ三つに切り落とされている。

あの瞬時にこれだけの刀裁きが行われたとは信じがたい。

「ええーっ!」

 館内にさらに歓声が上がる。

相沢の技を目の当たりにし、どうしても習い盗み取りたい庄五郎がいたのである。

                    







            二








 

 年の暮れが近づいてくると、おしのの様なとし若い女にも京の町の底冷えは寒くてたまらない。

 つけ木でおくどさんに火をつけたが、なかなか暖まらない台所である。白い息を吐きながらしもやけの手を火口に近づけてかざしていた。

冷えきっていた台所のたたきがようやく暖まりだしてから、人肌を暖め、湯を沸かすにはさほどもかからなかった。

おしのは、湯をすくい、湯のみに入れた麦焦がしにつまんだ塩を入れて注ぎ込む。

 頭に変な人やという考えがあった。頼んだ若者は、酒飲みのくせにはったい粉が好きなのである。

 十津川ではこれを飯代わりにしていたと言ってはったけど……

 はったい粉の煙にむせておしのは、二、三度くしゃみをしながら台所を出る。

 はったい粉の湯戻しを持って裏庭に回ると思わず足がすくんだ。

縁側の明かり障子に映る影が、抜き身を映していた。殺気があたりを支配し息をのむ静けさがあった。

 おしのの姉お梅は四年前の夏、壬生の八木源之承の屋敷でめったづきにされて死んだ。

抜き身を見ると足がすくむ、どうしても姉のむごたらしい死に様を思い出すのだ。

 四条堀川の太物問屋のかこわれものだったお梅は、新撰組局長の芹沢鴨のところへ着物代金の掛け取りに行って手込めにされた。

 その後も八木屋敷に軟禁状態にされて鴨の慰み者にされていたのであった。

鴨は、人を斬った日には必ずと言うほどお梅を激しく抱いた。血なま臭い匂いが未だ消えていない腕でお梅の股間に手を入れて女陰をいじり回し、無理矢理いきり立つものを入れてくるのだ。 

 ある土砂降りの夜もそんな営みが終わり、同衾中に同じ新撰組の土方歳三、沖田総司らに襲われて、布団からはい出したところを殺された。

刺客たちは、神道無念流の使い手だった鴨が泥酔し前後不覚になるまで待ち、寝込んだところを襲ったのである。

 鴨は、布団の上から屏風を倒されて身動きが取れなくなったところを所構わず刺され、枕元の刀架に手をかけようとしたがその手も切り落とされ、畳に落ち佩刀に届かなかった。

この闇討ちで鴨の配下であった平山五郎が首をはねられ、お梅も口封じのため道連れにされたのであった。

当時十二だったおしのは、知らせを聞いて壬生に駆けつけたが変わり果てた姉の屍骸を見たのであった。

目許涼しく、きりりとした色白の美貌が評判だったお梅は、目鼻の見分けがつかぬほど斬り刻まれ、肩口深く切り込まれた首はもげる寸前であった。

棺桶に入れるには首がもげ落ちそうであったので、おしのは震える手で縫い針をもち、胴に首をつなげたのである。

 その後、おしのは成長し、菱谷太兵衛の口利きで今の奉公先酢屋で働く、抜き身を見ると肉がはじけて白い頬骨が露出していた姉の死に顔を思い出し、震えが止まらない。侍やない、脳裏を掠める。女の顔をめったづきにして斬り刻むようなことはしない。

おしのは、侍に、壬生浪ににくしみをもっている。

肩で風を切っている新撰組隊士たちは、京都市中をのし歩いてはいるが、殆ど武士の身分ではなく食い詰め者であった。

仕返ししたいのは山々だがおしのの細腕でどうする訳にも行かず、泣き寝入りするのであった。

そんな時、十津川の山奥から一人の恐ろしく強い若者が現れたのである。おしのは、一目で惚れ込んでしまう。

どこか田舎の雰囲気があるのだが、笑うと底抜けに明るく屈託がない。長身から見下ろされて話しかけられと声がうわづった。

恐ろしい人斬り庄五郎という名があるのだがおしのは、壬生浪に無い気品を感じ、本当の侍を感じた。

お梅の敵を取ってくれる、そう感じていたのだ。男と女の仲になるのには時間がかからなかった。

酢屋の材木置き場裏手、納屋がある暗がりで二人は結ばれた。太く力強い庄五郎の手をおしのは避けられなかった。庄五郎の指がおしのの秘部に触れて、割れた唇をかき分けてくる、よりぬれそぼる口が開き、庄五郎の根元を包み込むように向かい入れた。

おしのは何度も何度も押し殺した喜悦の声を上げる、二人は同時に果て満足感にしたった。

昨日も抱かれた余韻も忘れられないまま、おしのは今、凍りついている。

明かり障子越しに見る鬼と化した庄五郎其の物がいた。裏庭に立ちすくんだおしのの前で張りつめた殺気を頂点に高めて突然、庄五郎の影が動いた。

腕が動き何かが放り投げられた、小さな丸い物が片割れとなり、一文銭とわかった時おしのは

「とっ!」と絞り出した声が気合いとともに

チンー。

とかわいた音を殆ど同時に聞いた。

居合いの抜き打ちを見たのだった。金縛りから解かれるのにしばらく時間を要したがおしのは我にかえり、湯飲み茶碗を持ち直し、

「庄五郎はん。はったい粉どすえ」

明かり障子に声をかけた。


                          

           






                三





 




おしのが台所仕事におわれていた家は、河原町三条を少し下がったところにある。屋号を酢屋という。もっとも、酢を商っていたのは先代までで、今の酢屋は京都でも有数の材木商として名がある。

裏手は、高瀬川の舟入に面していて、ここから伏見経由で淀川に出れば、そのまま土を踏まずに大阪に行ける。

 諸藩の京都藩邸増改築が盛んな時勢に目を付けた酢屋の当主中川嘉兵衛が、利の薄い商いから材木に切り替えたのが図にあたり、もっか商売は大いに繁盛している。

 代々、土佐藩に出入りしていたことも相まって、嘉兵衛は藩の重職から頼まれるまま、以前酢を醸造していた別棟に土佐からやってきた若者たちを住まわせていた。

 坂本龍馬が作った海援隊の若者たちである。

 海援隊の本部は長崎にあるが、京都ではこの酢屋の別当が屯所のようになっている。

 伊予の体州藩所有の蒸気船「いろは丸」を一航海十五日間を五百両で借り受けた竜馬は、隊士たちに操船術を実習させながら、長崎で仕入れた鉄砲弾薬のほか米や材木を積み込んで上方まで運んだ。

 百六十トンの「いろは丸」にのせた材木は高瀬川を船で漕いで京都に運ばれ、それを一手に売りさばく嘉兵衛のもとに、海援隊のかかりなどをはるかに上回る大金をもたらした。

 ただ、おしのが惚れている十津川の熊こと中井庄五郎は、海援隊の正規の隊士では無くて、神武天皇の東征を助けて以来、大和と紀州とに挟まれた天領の十津川郷では、朝廷にことがあるたびに一村を挙げて武装して出るのが古くからのしきたりとなっており、攘夷騒ぎで京都の治安が悪化した今も、村から二百人の壮丁が上洛していた。

 会津、長州、薩摩、土佐、芸州といった雄藩が下命により宮闕守護に任ぜられているときに、山奥から大挙して出てきた郷士たちが手弁当で衛士をつとめているのである。

 なんでも中川宮朝彦親王(青蓮院宮)の令旨と称する物が十津川郷にと届き、昔から勤皇の志が厚いのを名誉とする村人たちが、五条代官所を動かして上洛した。

 その村人を率いたのが、野尻に生まれた、上平主税であった。

紀州松岡梅軒に医術を学び、また京において国学を修めて、黒船の来航により天下騒然としている時同士を鼓舞して国事に奔走せんと図った。

十津川郷中総代として五条代官所に建白書を出し、京に梅田運浜を訪ね私淑したのである。

 庄五郎もその一人だった。

 寺町通り三条下るにある円福寺が十津川郷士の屯所となっており、京童からそこは十津川屋敷とよばれている。

酢屋の海援隊屯所と掛け持ちをしていた庄五郎は、ほかにも北白川村の陸援隊の屯所にも出入りしており、土佐藩の下士たちとはあたかも仲間のようにつきあっている妙な男である。

「はったい粉どすえ」

もういちど、おしのは明かり障子に声をかけた。

「おう」

無愛想な返事とともに、さっき一文銭を両断したばかりの刀を大事そうにかかえた庄五郎が、縁側に姿を現した。

 熊の異名通り、筋肉隆々のひげも濃いが目許に少年っぽさがのこる。

 齢に二十一。おしのよりも五つも年上のくせに言葉遣いが幼く、物を食べるときの箸の使い方がまるで子供みたいであった。

「長包丁を使てからのこれが美味いんじゃ」

と、庄五郎は、湯のみに入った麦焦がしの湯を目を細めて飲み、縁についたねばりを手でとり、ぺろりとなめた。

 なめながらこっちを見た訳ではないが、おしのは頬が染まるのを感じた。庄五郎の指使いを思い出して、昨日の濡れそぼる秘部にする手淫を思い出す。押し殺す声に喜びのまま頂を見た。おしのは、庄五郎の口元から目を背け、裏庭を眺めた。

日当りの悪い厠の影には未だ雪が残っている。

寒さには山の寒暖差がひどい十津川生まれの庄五郎には、何ということも無い。座敷から抱えてきた刀の目釘をあらためて、

「ほな……」

とつぶやいて、椿湯をしみ込ませた吉野紙で刀身をぬぐった。

龍馬から佩刀された刀に打ち粉を振りかけてほれぼれと眺めていたが、

「さすがやな、一文銭をまっぷたつにしても刃こぼれひとっとしてないわい、ええしろものじょ」

刀の長さは二尺七寸五分。丸棟で重ね薄く、身幅が広くて、鋒も大きくのび、いかにも古刀らしい味がある。

「そのお刀どすか?竜馬はんから頂戴しはったというのは……」

「ほうよ、これで壬生浪ぶったぎるんじょ」

刀身をくるりと手の内で返して庄五郎はいった。

 中反りで板目肌の刀身に澄み肌が混じり、所謂匂い出来の逆丁字となっているのが未青江の特徴だが、庄五郎のにもそれがある。

ただ銘は無く、庄五郎が彫らせた、

ー中井庄五郎義高

という七文字があるだけだ。

「坂本さんはの、おんしみたいな使い手にはこれぐらいの業物でないと……と俺にくれたんよ……」

庄五郎の声が少し湿っぽくなった。

江戸の千葉道場の塾頭をつとめた坂本龍馬は、庄五郎には格別に思い入れのある人物らしい、

「この刀無名かもしれんけどにゃ、後藤象二郎さんに見てもろたらさ、青江吉治に間違いないちゅうわよ」

とおしのが初めて見るうれしそうな、それでいて暗い殺気を漂わす目をして刀身を眺めた。

伏見船宿寺田屋でたまたま竜馬と同宿した時、庄五郎は竜馬の部屋に呼ばれて酒を馳走になった。

酒を振る舞いながら、竜馬にせがまれるままに庄五郎は抜き打ちを披露した。

ろうそくの火の根元半寸ぐらいで斬り上げて、さらに両断して鋒を翻し、短くなったろうそくの火の根元から消さずに刃先にのせてみせた。

「まっこと安田のオンちゃんの技をみとるようじゃ」

竜馬は絶賛した。

 安田のオンちゃんとは、竜馬の姉千鶴が嫁に行っている土佐安芸郡の郷士安田順蔵のことであった。

 順蔵は漢学者であったが剣技にすぐれ、なかでも居合いの達人としてしられていた。

一文銭を投げ上げて、空中で切断するのが得意で、竜馬も幼い頃この神業を目撃している。

庄五郎の電光石火の抜き打ちに惚れた竜馬は、その後しばらくして自筆の手紙とともに酢屋にいた十津川の熊の元に無銘の名刀を届けた。慶応三年八月のことである。

ー青江吉次

備中ものの中でも、鎌倉時代末期の古刀として珍重されている名刀である。

 それをただ一度だけ酒を酌み交わした庄五郎に送った。

豪毅な竜馬であった、また、それほどまでに庄五郎の技は冴えていたのであろう。

一文銭を両断する作業に熱中したのだが、負けん気が手伝ってすぐに出来るようになったのである。おしのは竜馬にも庄五郎にもにたところがあると女の直感で感じていた。

 互いにぬーと育ちすぎた体を持て余す子供のように、身なりや作法などまるでかまわない野立ての無鉄砲さがあり、おしのはそこが好きであったのだ。

が、酢屋にやってきた時に、いつも蓬髪をごしごしと掻いては冗談ばかり飛ばしていた竜馬は、もうこの世にいない。 







            四








 庄五郎は、土佐の郷士に気になる男がいた。以蔵、岡田以蔵である。

一度宴席を供したが、眼光鋭く隙がない、かなりの使い手と見た。

俺と何方が強いか、考える。人斬りとして武市半平太の犬であった。

何処か下衆で、品がない。出歯の中にあてを放り込み、酒をこぼして飲む、香子の音を立てながら食う口元が何とも卑しい。

しかし、暗く曇よりとした見た目に合わず、精力というのか筋肉の詰まった腕や足から人斬りの経歴がにおい立つ。

おそろしい、と庄五郎は思った。自分の比では無い。以蔵が気づき、察すると睨みをきかせてきたが、目をそらしてしまった。

何かあれば命のやり取りをせねばならないかもしれない、と覚悟した。

以蔵と会って、しのと事をいたす時も、厠で用を足す時にも太刀筋が、体躯から出る雰囲気でああでも無いこうでもないと頭を駆け巡ってしまい止まらない。

手合わせをせずとも分かる剣客の癖が想像出来る。

以蔵も最近宴席で会っただけの庄五郎と言う使い手が気になっていた。

「うりゃー」

 空を切る、木刀は円を描きながら鞘の中に戻り、

「おりゃー」

 さらに乾いた空をきる音がして突きが入る。

以蔵の猫背気味の姿勢から、おそろしく素早い突きや面が繰り出される、亜流と言うか、独自の剣だ。

形を越える殺人剣、とにかく人を殺すという究極に向けて剣は繰り出される。

前にする相手は庄五郎そのもの。

狭い京の路地を想定する、通り過ぎようとする庄五郎にむけてすれ違い様に剣を切り出す練習をする。

想像上の相手は庄五郎であり、庄五郎には以蔵であった。

お互いに頭から離れる事は無くなっていた。

 



 安政の大獄の折、日本には、外国船が相次いで来航した。清朝がアヘン戦争に敗れると、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題が議論される。老中・阿部正弘が幕政改革を行ない、一八五四年にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国とは日露和親条約を締結した。

黒船が来航した一八五三年には、第十二代将軍徳川家慶が死去し、第十三代将軍に家慶の四男・徳川家定が就任するが、病弱で男子を儲ける見込みが無かったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩主徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しく対立した。

 その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが、通商条約への調印を江戸幕府に迫っていた。この時、江戸幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦が京に上った。当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。

 正睦が空しく江戸へ戻った直後の安政五年四月、南紀派の井伊直弼が大老に就任する。直弼は無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。前水戸藩主・徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して長男である藩主徳川慶篤を動かし、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永らと連合した。彼らは(条約調印自体は止むを得ないと考えていたが)「無勅許調印は不敬」として、直弼を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)した。直弼は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。

 薩摩藩主・島津斉彬は直弼に反発し、藩兵五千人を率いて上洛することを計画したが、同年七月に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父・島津斉興が掌握した。一八五八年八月には朝廷工作を行なっていた水戸藩らに対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白・九条尚忠が辞職に追い込まれた。このため九月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛し、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。そして、吉田松陰が最後の刑死者となった。

 京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、評定所などで詮議を受けた後、死罪、遠島など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨や岩瀬忠震らの非門閥の開明派幕臣が処罰され、謹慎などの処分となった。この時、寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる。[1]。

安政七年(一八六〇年)三月三日、桜田門外の変において直弼が殺害された後、弾圧は収束する。

 文久二年(一八六二年)五月 勅命を受け一橋慶喜が将軍後見職に、越前松平家(福井藩)の松平春嶽が政事総裁職に就任。

慶喜と春嶽は井伊直弼が行なった大獄は甚だ専断であったとして、

一、井伊家に対し十万石削減の追罰[2][3]

二、弾圧の取調べをした者の処罰[4]

三、大獄で幽閉されていた者の釈放

四、桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦

を行なった。

 幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。

安政の大獄は幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因になったとも言われている。

受刑者死刑・獄死

• 吉田松陰………長州毛利大膳家臣、斬罪

• 橋本左内………越前松平慶永家臣、斬罪

• 頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪

• 安島帯刀………水戸藩家老、切腹

• 鵜飼吉左衛門…水戸藩家臣、斬罪

• 鵜飼幸吉………水戸藩家臣、獄門

• 茅根伊予之介…水戸藩士、斬罪

• 梅田雲浜………小浜藩士、獄死

 

武市のかけ声に土佐、長州、薩摩あわせて二十四名の刺客団が結成された。

天誅とばかりに京都東町奉行所森孫六、大河原十蔵、西町奉行渡辺金三郎、上田助之承の四人の大獄を推し進めた幕吏に対して天誅を下すというのだ。

渡辺の取り調べは、安政の大獄のとき、酷烈を極めたと言う。

武市は、大獄で倒れた諸先輩の恨みを晴らそうとかねてから算段怠りない。

斬奸団として結成された中に以蔵は入っていなかった。

「先生……」

 以蔵は、頭を垂れた。涙が膝の上に落ちる。人斬りを後悔していると武市は見たが、以蔵の涙は別の涙腺であった。憎悪にも似た半平太への恨みであった。足軽以蔵としてしか見ない、差別意識が腹を煮え繰り返さすではないか。志士以蔵としてはどうしても見てもらえないのか。

田中新兵衛という人斬りには足軽としての軽輩と見る身分がありながら兄弟の義盟を結んでいた。

 齟齬はやがて増々広がる……。

石部宿での暗殺が決行されると土佐藩の同士から聞いた以蔵は、刀をとって駆けた。

 刺客団が出発してから2時間半が経ってからだ。京から九里十三丁。

腰には自慢の肥前鍛治忠吉2尺6寸の直刀差料を、朱鞘、紺の柄巻、鍔は薄鉄と言う土佐ごしらえに仕立てていた。

実を言うと、この土佐ごしらえは竜馬からの佩刀という嘘を称していた。

それだけに始めてあった時の以蔵のねたみは尋常を越えていた。

もちろん、竜馬から佩刀を許された庄五郎に対してである。未青江の鞘を抜き、本身が見たくて仕方ない以蔵であった。

のちに一戦を交える二人はこのとき、寸違いの差が勝敗を大きく分けようとは想像にもしなかった。

睨んで威嚇する以蔵にはそんな思いが有ったのだ。庄五郎は知る由もない事ではあった。

 漸く、草津の宿に到着した以蔵は、

「石部までは如何程……」

「三里に十丁足らず」

 宿場人足の答えに安堵した。

一息に甲賀を抜け駆け上がる、宿場へ乱入した。

同時に先に着いていた刺客団と落ち合う。宿場入り口近くに門を構える橘屋の階段を駆け上がると、

覆面をした背の高い庄五郎とおぼしき人影、

「おぬし以蔵ではないか?」

「土佐藩志士以蔵だ」

 怒鳴り返す。

「馬鹿たれい」

 正体を迂闊にも吐露してしまうこの二人の馬鹿者に皆はあきれた。

宿屋主人、女中、手代に正体がばれた。

以蔵は構わず、庄五郎を押しのけて自習した室内での立ち会いの妙技を見せた。

転がり込んだ以蔵は転びながら剣を抜き、見事に一刀のもとに渡辺の胴を斬った。

返り血を浴びながら以蔵が起き上がる、即死した筈の渡辺の体が少し震えながら断末魔に喘ぐ……。

同僚の森は手練の渡辺がいとも簡単にやられるのを見てあわてて逃げようとしたが、

「きえー」

 庄五郎の抜き打ちが、以蔵の剣の返しより早く、森の首を天井に飛ばした。

「どん」

 と、天井に森の首があたり、落ちて来る。後から後から斬り放たれた胴から血が吹き飛んでいる。

其の頃にはもう庄五郎は、宿の階段を駆け下りて次なる標的の大河原十蔵を狙った。

慌て以蔵も後を追う、

「大河原だな……」

 首を刎ねる前に聞くや否や、大河原の顔が引きつる暇もなく、

「どん」

 天井に当たる音がした。

二、三歩歩み寄る胴の切り口から吹き出る血潮を後にして、庄五郎が鴨居を頭を下げて潜る。

拾い集められた首達を集めて、京の粟田口刑場に晒したのはその日の事であった。

 ただもう一人の男、上田助之承が見つからない。

後で分かったのだが既に森の手下と思い、切りかかって来た所を以蔵が袈裟懸けにあばらまで斬り落としていた。上田は数時間後に死んでいたのだった。

「ブン」

 京への帰り、以蔵がふざけ半分に庄五郎の頭に途中で拾った木で面を撃つまねごとをした。

「チッッ」

 いきなり頭に来た庄五郎が、以蔵の手元までその木を寸寸と切り落とした。

「抜け」

 素っ頓狂に腰が抜けて以蔵がいった。二人の人斬りが腰から抜いた青い閃光を飛ばしたかと思うと、二つに分かれた。

勝負は一寸の違いであった。

「うっ」

 以蔵が首から血を流した。

庄五郎も切り込んだ左足から鮮血が飛んでいた。

「馬鹿たれい」

 また久坂玄瑞の一喝が飛ぶ、

「早く飲みたいわい」

 玄瑞の笑い声が祇園の方へと消えて行った。

二人は斬られた所をかばいながら、鼻息が荒い。

「今度有った時には命が無いと思え」

 以蔵の囃子に、

「フフフ……」

 不吉な笑いで返した 庄五郎であった。

居合い切りの庄五郎の方が一寸ほど長い剣のせいで以蔵ののど元を切り込んだのだ。

以蔵の踏み出した庄五郎の太ももへの一撃もついぞは、のど元への一撃が邪魔で踏み込みが甘くなり、加えられた物であった。本来であれば足の半分は切り込まれていただろう。

この後、玄瑞等の計らいで、二人とも顔を合わすのが暫く遠退くのであった。

理由は言うまでもなく、仲違いはなはなだしい、共同させるなという事であった。






              

           

                 五








京へ戻った庄五郎は、人斬りの余韻にしたる。

夜、床に入って寝ていてもはねた首の様子が浮かんで来る、斬られた人首が笑いながら近寄っては消え、消えては笑う。脂汗をかいて目が覚めると一緒に寝床にいるおしのの女陰を股を割って割れ目に沿って触る。

と、少し、心が落ち着くのだ。

俺は生きている、と、同時におしのの割れ目から甘い女陰の蜜の香りがしてさらに落ち着くのだ。

「庄五郎はん、寝れんの?」

「……」

 おしのの中核を触った手を嗅いで見る。


「いややわ、何してはんのん?」

 うれしがり後ろを向きながらおしのは仰け反った、尻が股間に触れて、庄五郎はまたおしのの乳を後ろ手に揉み拉ぎ、交ぐわう。



……事が済むと、酒を飲み横になる。

阿保以蔵は何してるんかな?言葉にしないが頭で言ってみる。

おしのは着物の佇まいを直しながら、

「今日は晩餉は何にする?」

「……」

「なあ、何よっ?」

 返事をしない庄五郎に苛立ち、語気を荒げた。

「……」

 覚えたての煙管に半身起こして火を点けてみる。

「魚や!」

「ほな錦はんまでいこか」

 煙越しに見る、後ろ向きのおしのの細い首筋が赤い襦袢の襟元から伸びて艶かしい。

襦袢の後ろ姿を上から下へ眺めてみる、尻の当たりに来ると大きくてそれでいて締まっていた。

尻を向けて座るおしのの尻を触りたくなって、触る。摺るようにしてから揉んでみる。柔らかいが弾力が有り締まっていた。

「庄五郎はんええ加減にしいや、はよ用意しい!」

 近く母親になろうとするおしのの言動は日に日に手きびしくなって、庄五郎には苦笑いの種になった。

どうせ、何時死ぬるか分からん命や 頭で思っていると、

「はよ死んだらあかんで、アンタだけの命じゃないからな」

 驚いた、心が透かされている、

「はよ行こ」

 渋々、庄五郎が立ち上がる。

背伸びをしながら、欠伸をして手を挙げたら天井に着いてしまう様子であった。

「フフフ…」

「何笑とんじゃ」

 鴨居を潜り、先に庄五郎は出て行った……。

 

 錦市場の入り口に来ると、魚の生臭さや漬け物の饐えた匂いやらでごった煮である、人も次いでにごった返すので庄五郎は嫌いであった。

ふと、人並みに何時まで有るか知れない命、惜しくは無いが残して行く愛しい者達へは申し訳ない気がした。

咄嗟、背後から殺気が走った。

振り返ると錦市場の南口から東、八坂さんの方向に一丁歩、殺気を放つ以蔵がいた。人込みをかき分けてでも其の殺気が駆け寄って来た。

ぎょろりとした目で口には薄笑い、いつもの下からの上目遣いだが人を切った後なのか妙に落ち着きがあった。

人斬りは事が済んだ後の方が変に落ち着きが有る態度だ、庄五郎もそうであった。

睨み合う二人に気づいた、

「庄五郎はん、行こ!」

 錦市場の中に身を隠すように入ると、暫く歩いて、東西に繋がる逸れた道に入る、

「誰なん、今の?」

「……」

 強く庄五郎の手を握り返すと、女の柔らかさに包まれて我に帰る。

「以蔵や、人斬りじょ」

「壬生浪ちゃうの」

「其れより恐ろしい、獣や」

「……」

「お前の事見られたかもしれん、気いつけて歩けよ、今度からわ!」

 目は笑ってなかった。ひと時とは言え、人斬りの性分上やすらぎを感じる暇はない。



        




             六








「構うな」

 壬生浪は、京詰めの衛士である天領十津川の熊には手出しは出来ない。

他の浪士なら路地に逃げ込んだりするのだが、

「我ら殺して食らえよ」挑発に挑発を重ねる。

「ええから見てみんふりしろや、ありゃ、あかん」

 庄五郎の姿を見ると逃げ出した。

京都市中見廻り役の勅命も無視をして新撰組は逃げた。

その後、庄五郎は長州藩の品川弥二郎に頼まれ、新撰組隊士を斬った。

処分したのは、長州藩から脱藩して新撰組隊士となっていた村岡伊介であった。

壬生の屯所から目と鼻の先に有る郭、島原は、隊士たちが連日連夜通っている。

庄五郎は、東方に一つだけ開いている郭門で伊介を斬った。

「村岡の伊介やな?」

身に覚えの有る伊介の事、このように刺客が来るとは予想にはしていたものの、郭の中で大胆不敵にも襲われるとは、想像にもしてはいなかった。

伊介が振り向き際に刀を抜いて、郭の薄暗がりに閃光が放たれた瞬間、其れよりも刹那に青江吉治の閃光が放たれた。

一刀のもと溝落ちまで斬り下げて、吹き出す血しぶきを背越しに浴びながら庄五郎は去って行く。

郭のお囃子が後から鳴り響くのを聞いて、漸く人を切った後の落ち着きが戻る。

後日、新撰組は凄まじい切り口に薩摩示顕流と断じていた……。


「おしの帰ったで」

 おしのには人を切った後の庄五郎が分かる。

無理に優しい、押し殺すように熱り立ちを押さえている、とでも言う雰囲気が有った。

鷲掴みにされた尻を横に振って去なしながら、

「やや児に障るよってにあかん、今晩はおとなしい寝えや」

 血の匂いを感ずると、

「庄五郎はん、風呂はいってき」

「臭いか?」

「くっさい、くっさい、堪らんわ」

「……」

 しかし、笑いながら、座敷を出て風呂に向かった。

「金は足るか?」

「金は仰山ですがな、もう要らんで」

 悲しい気持ちになりながら、涙を忍んでおしのは言う、

「あたしの百年分は、稼いではるわ」

 言いながら滔々、涙をこぼす。人を殺して金を稼ぐ、半端な報酬ではない。

しかし、何時死ぬかもしれないと言う恐怖がおしのには有る。

尋常な精神状態では生きて行くのは難しい。知らず知らず涙が出る。

おしのと庄五郎は一緒に住む事に成り、河原町三条の町を出て少し離れた、十津川藩屯所に最寄りの長屋を借りて住んでいた。

間口の狭い、鰻寝床のように出来ている。中庭が有り、其の横を通り過ぎて行くと風呂と厠が有る。

「金はまた壷の中に入れてあるからな、要る時勝手に使え」

「はいな、おおきに」

 十津川の時から食うに困り果てていた庄五郎はせめておしのの苦労した人生を聞くにつけては楽にさせようとしていた。

「金だけは山盛りにしとかな落ち着かんのよ、内職で人を斬るのも主税はんに見つかると具合悪いけど……、子供や嫁はんの為や……」

 貧乏育ちには庄五郎も負けてはいないから、信用出来るのは金と力のみである。

「もう着物も、生まれてくる稚児の着物も腐るほど有るから、命だけは大事にしてな、子供の顔見れん間に死んでまうで……」

「ほやな……」

 人斬りに惚れた腫れたも無い、あるのは血の匂いと屍骸の匂いのみである。

以蔵は女にうつつを抜かす性分ではない、無論、元々の顔の美しさや体躯の形の良さ等縁遠い。

猫背に上目遣いの曇よりとした目、歯は出っ歯であごが無い醜い顔つきである。

人斬りに最善の素質を持って生まれているのはもちろん、庄五郎ではなく以蔵であった。

人斬りとして両極のこの二人は、嫌悪こそすれ許しあう隙間は持ち合わせない、やがて二人はそれぞれに死に場所を探していた。







              七







「壬生浪か」

「なにを!」

抜いた三人とたちまちに騒動に成った。斎藤一、永倉新八、沖田総司の手練の衆であった。

 酒好きの那須盛馬も土佐の大刀を抜いて酔った勢いで応戦した。

酔っていた事もあったが盛馬は形勢が悪い、沖田総司と斬りあっていた庄五郎は、盛馬の劣勢を見て危険を感じて四条河原の橋の袂を乗り越えて河原に飛び降りた。

無論総司は追って来る。

「逃がすな!みなで追いかけるんだ!」

「中井を殺せ!」

 どうも、日頃から隊士をおちょくる庄五郎を気に入らないので、この場で殺し血祭りにあげようと三人は考えたらしい。

後で近藤や土方に怒られるのは承知の上で分かっていたが、屯所で話題になる庄五郎の狼藉にはもう堪忍袋の尾が切れていた。

 結局、三人が河原に降り立ち、庄五郎を探したが後の祭り。

反対の橋の袂から一人残された手負いの盛馬を担ぎ、庄五郎はおぶりながら逃げてしまった。

十津川の激しい川相手に比べれば、鴨川の流れは緩やかすぎた。

後日、

「やはり一番の若手の沖田とか言う奴の剣は鋭いわい」

 庄五郎は思う。永倉は様子を伺う事が多かった、手合わせをした時、剣の力をあまり感じなかった。

 斉藤は、盛馬を斬っていたが自身も最初、庄五郎と組み合った瞬間に鋭い抜き身の一撃を浴びて、のど元を深く切り込まれその声帯をやられた。

腹から切上げられた盛馬は何とか命を取り留めたが、

「この人は持たんかもしれない、今日中に皆に会わせた方が良いわい」

 と、日頃おしのが世話になっている医者にそう言わせるほどであった。

盛馬は庄五郎に一命を助けられ、おしのにも暫く厄介になったのでお礼に盛馬が女と会うのにと借りた家を差し出したのである。







              八








 其の頃、以蔵と言えば、武市をはじめとする殺しの注文主が国元に帰り、以蔵の家業も左前に成って来た。

 逆に、新撰組見回り組に斬られる可能性を恐れる立場に成っていたのである。

剣を捨て、天誅、勤王と言う正義が無くなった。

人を斬る気負いが無くなった。

 以蔵は裏店で隠れ住んでいたが、肥後鍛治忠吉も売り、二両の安刀に変えて仲居だった女と抱き合って暮らしていたが、

「アンタこの頃違うわ、何だか腑が抜けたみたい」

 と、女は去った。

以蔵は女を追う、無腰で京の町を歩く。

 堀川筋を曲がると浪人の肩が当たり喧嘩になった。

相手は酒も入っていたのか、いきなり抜き身で切り掛かって来た。

以蔵は獣に戻り、相手の刀を赤子の手を捻るように取り上げて斬りに斬った。

が、切れの悪い手入れの行き届かない刀なのか、相手の肩肉は切れたものの骨が斬れない。

 三人ほどを斬り刻んで気がつくと官吏に囲まれている。

捕吏であった。

棒で叩き上げられる、刀は有るが届かない、次の手は有るのだが其れをする気力も無くなっていた。

身動きができぬほど叩き上げられ、本当なら半分は斬り殺せたろうがやる気が起こらなかった。

 所司代屋敷の牢内にいた、博徒や盗人と同内に居たが、著名な殺し屋以蔵とは誰も気づかない。

尋問の折に

「土佐の以蔵であります」

 と、言ってみたが誰も気づかなかった。

騙りかと思ってみたが河原町の土佐藩邸に紹介すると、数人がやって来て、容堂の手の者、警吏達、藩内閣の再編で出来た組織の者達であった。

「以蔵か?」

 と聞いた時、彼らは小躍りしたのである。

(格好の生き証人を得た)

藩吏は小躍りしたのである

何故かと言えば、武市以下の下獄の者達は口が堅かった。容易に口を割らない。

拷問に屈せず、東洋の殺人を確信に至る証拠に足らない。

「せめても、大阪での下横目井上佐一郎殺し、京での天誅事件の一つでも白    

状すればそれだけで良いわ」

 断罪を成立させようと必死の追求が続いた。

「見覚えの無い顔でございます、当藩には岡田以蔵といような者はおりませぬ故、何かの間違いに存じます」

以蔵は其の声を黙って聞いていたが、

「以、以蔵にござります、まさかお見忘れござりますまい」

 悲痛な叫びが牢内に響き渡る。

(足軽をそこまでに馬鹿にするのか)

格子戸の根に崩れ落ちる以蔵、藩吏はそのまま立ち去るのであった。

扱いが代わり、無宿人となる以蔵。

差別、人別の厳しい世相であったので、百姓、町人以下の扱いとなる。

「無宿鉄蔵」

 入れ墨刑の上に洛外追放、所司代不浄門より追い立てられ、二条通紙屋川の土手当たりで放たれた。

待っていたのは土佐藩の藩吏、警吏達であった。

「岡田以蔵だな?」

「無宿鉄蔵」

 以蔵は投げやりに答える。

いきなり警棒で頭を殴る、

「痛いやないか」

 弱っている体の上にまた警棒の嵐を見舞う。

「痛い痛い、ひーっ」

 籠で土佐屋敷に連れてこられても拷問の日々は続いた。

やがて、数日もすると国元から警吏が数人やって来た。

「以蔵だな?」

「無宿鉄蔵」答えるや否や、鉄の警棒で頭を殴られる。

「ひい、ひいいー」吹き出る血しぶき、

「以蔵以蔵にござりまする」

「おのれ無宿鉄蔵」

 また鉄の警棒で殴る、意識がなくなると水をかけられて、

「以蔵か?」

「以蔵にござりまする」笑い声とともに殴る蹴るの仕打ちを食らう。

「鉄蔵か?」

「鉄蔵にござりまする」

 また笑いながら殴る蹴るの連続であった。

 






             九





 


 

おしのが先の道行きを調べに道標の有る分かれ道に立つ、

「庄五郎はん、こっちが風伝峠、こっちが丸山やわ」

 明るく楽しそうなおしのの声が聞こえる。

風が運んでくる匂いは、秋の気配か、籾殻の豊潤な匂いが混ざっていた。

風伝峠に行くと、海の匂いがそろそろしたものである。

しかし、今日は左に曲がり、丸山の千枚田を越えて育成地区に入るつもりだった。

「おしのはこんな田舎は始めてやろう? 」

「いや、丹波の田舎はこんな感じどす! 」

 声が弾んでしょうがないおしのであった。

 庄五郎も後ろからついて行く、左手に丸山の千枚田が見えだした。

庄五郎も小さい時、母に連れられて親戚の家の有る、丸山に何度か来た事が有る。

 母は、丸山の千枚田の夕暮れが好きだと言った。

西に沈む夕日は、赤く染まりながら紀州方面の山々にその身を隠して行く、

夕方の熊野灘から流れ込むかすかな海風は、熊野と紀州を分つ熊野川を伝い、稲穂に潮風を与えて味を良くする。

 おしのも今其の風景を目の当たりにしていた。

「きれいどす」

 涙がおしのの頬をつたう、稲穂の匂いがして思い切り吸い込む。

はったい粉の好きな理由が分かった。

こんな所に住んでいたら、それはそれはそのようになるに決まっている。

おしのは感慨を膨らませた。

ここで庄五郎はんと子供と暮らしたい、目に映るすべてのものは、おしのの心を満たし余り有った。

「庄五郎! 」

「伯父さん」

「長い事見ん間に、また、でかなったにゃ」

 満面の笑顔を返す、庄五郎。

ここでは生まれたままで良いのだ、壬生浪も何にもいない。

「よってけよ、酒でものもうら」

 おじは、この地区の総代をするほど人望が有る、ただ、幼い記憶では酒を飲むと一癖も二癖もある。

 従兄弟同士の親父とよく喧嘩しているのを何度か見ていた。

それに変わった趣味が有る。

蘭を集めるのが趣味であった。

山に入ると、三日、四日帰ってこない、蘭を集めるのに忙しい。

一度、村人が山の奥深く叔父とであった時、

「新種かにゃ、この蘭わよ、うふふ……」

 気持ち悪くなった村人は、すぐさま薪拾いを辞めて村に帰って来たと言う。

「ありゃ、アホか? 気違いよ」

 三日間も有れば村の隅々に行き渡り、瓦版に載る勢いである、頓着のない叔父はまだ其れでも山からは戻ってこない。

 こんな調子なので親戚やら村人からは疎んじられては入るのだが、役所の検地番などがくると何故か何事もないかのように言いくるめて返してしまうわざがあった。

 そこを利用されて総代は長くつとめている。

 所謂変人であった。

 もう一山越えると、親戚のもっとも多い地区、育成に入る。

おしのの子が出来ているかもしれない腹の事を考えると、今夜は叔父に甘えて一夜の逗留をする事にした。

 変人では有ったが、若い頃京に出て学問を修めていた叔父は京の情勢をいち早く、庄五郎に聞いていた。

「主税はよ、この間さ、ここに来てよ、庄五郎はよく京都守護代のお役目を手助けしております、ご心配めさるな、だとよ」

 それでも、まだ物足りないのか、別名熊殺しという酒を勧めながら、

「わしがいた頃はよ、大獄の前やからにゃ、まだまだ幕府の力がそこらかしこに及びよったさかいに、飲んで京の町、安心して歩けんかったわよ、この頃はどないや」

 さっき、おしのと見ていた夕日は釣瓶落としでなくなり、盆地特有の晩方の冷たさが骨身に沁みて来た。庄五郎は酒を飲むと、おしのが心配になり台所を見ると、叔母と一緒に何やら此方の悪口でも言いながら食事の支度等しているようだ。

 心配する事もなかろう、

「おしの、無理せんと座れよ」

「あれ、熊ちゃんやさしいわよ」

 おばが言った。おしのも、

「大丈夫よ」

 二人はそう言って台所横の漬け物臭い板間に座った。

 それから、数日、親戚巡りをして歩いた。庄五郎は、

「おしの、ここによまた墓を作っておくわよ」

 山の中腹に庄五郎は、自分とおしのの墓を作った。

誰も来ない、来れない山の中にである。ただ此所は、庄五郎にとって忘れられない所であった。

親父にしかられて此所に来ては、眼下を見下ろして、

「いつか、なんぞ成し遂げてやるぞ」

 と、心した場所である、そこにおしのと庄五郎の夫婦の墓を二人で作った。

おしのには幸せの日々が続いていた。






               十






 京へ戻ると、また冷え込みの激しい季節が足音を立てて来ていた。

木枯らしが吹き、京の鴨浄水のあちこちに氷が張る季節になろうとしている。

朝早くに、おしのはおくどさんに立ちながら、たたきに火をつけ暖を採ろうとするが、底冷えがひどくたたきはなかなかに暖まる様子はない。

 大きくなった腹を抱えて、おくどさんに竹筒から息を吹きかけていると何度めかには漸く周りが明るくなるとともに暖かくなりだした。

 と、背中から鈍痛が走った。

「うぐっ」

 おしのは何が何だか分からずに、痛みを、激痛を覚えた。背中肩口から入れられた刀は、おしのの腹にめがけて背骨沿いに差し込まれ、生まれてくる筈の子の命をも奪う。

名もない子の断末魔が聞こえた。ぴくりと動いて死に絶えた。

 おしのは、怒りとともに最後の力を振り絞り、

「庄五郎はん…… 」

 と、叫ぶ。もう声にはならない程であった。

かすむ目の中で涙がこぼれる。

 漸く暖まりだしたたたきに倒れ込みながら、薪の燃える香ばしい香りは痛みを和らげた。仰ぎ見た姿は、壬生浪の姿であった。

怒りが込み上げる。

「姉さん……」

 走馬灯のように白くおぼろげな姉の顔が浮かぶ、熊野の山々が見えた。

丸山の千枚田、お梅が手招きしている。……おしのは静かに息絶えた。

「腹ぼてかいや、小便臭い女のくせに」

 斉藤が言った。

 斉藤と沖田は、かねてより憎しみを抱いていた庄五郎の女を殺しに来たのであった。

そそくさと、奥の部屋を確認して沖田が戻って来た。

 そして二人は、笑いながら、

「これで少しはわしらも気が晴れたわい、中井の苦しむ顔を拝みたいわ」


 土佐藩屯所に庄五郎の姿が有った、泊まり番の役回りで一睡も出来なかったが、家に帰ればと……、つらい役目も忘れた。

以蔵のその後の消息も昨日の夜聞いた。

 土佐に返された以蔵は、拷問に次ぐ拷問に泣き叫んでいたと言う。

最後には武市に毒を盛られ、殺されそうになるとすべてを吐露したと言う。

 武市半平太は切腹、あまりの以蔵のみっともなさに天祥丸を弁当に盛った。

土佐の雁切り河原で梟首にさらされて死んで行ったらしい……、以蔵……。

感慨に浸る庄五郎では有った、だが、事態はつらく悲しい事になっている。

「おしの!」

 泣き叫ぶ。

「おのれ壬生浪め、殺したるわい」

 怒りを通り越して手が震え、声が声にならない。

庄五郎は家に帰り、おしのの亡骸を見つけた。

抱きしめながら、どうしょうもない悲しみと怒りに打ち拉がれた。

 小便と血の匂いが混じる。一晩近く抱きしめた儘だった。

とどめを刺されたおしの腹からは、赤子の紫色になった手が小さく握られて血と一緒に滲み出ていた。

白くなったその顔からは、一筋の無念そうな涙の痕が見受けられた。

おしのの顔に頬を寄せて泣きじゃくる、涙で生き返りはせぬが夜どうし、庄五郎は泣いた。あまりの泣き声に近所のもの達が集まってきた。

 其の者達の噂に寄ると壬生浪の仕業とわかった。

沖田と斉藤の仕業と知るのに時間はかからなかった。


 ちょうど其の頃、海援隊の坂本の片腕として働いていた陸奥陽之助から近江屋事件の刺客団黒幕は、三浦久太郎と判明したと聞いていた。

「坂本さんを殺したのは、三浦じゃ、身辺を新撰組に守られているが隙を見て殺すぞ!」

 紀州藩用人格の三浦久太郎の名は、海援隊士にはなじみ深い。

「いろは丸」が讃岐箱崎沖で紀州帆船「明光丸」と衝突して沈んだ。

この件で、竜馬は、英国の海事判例を持ち出して多額の賠償金を紀州藩に要求した。

 此の時、紀州藩から交渉の場に出て来たのが、三浦久太郎であった。

竜馬の巧みな話術に翻弄されて三浦は、八万三千両と言う多額の賠償金を藩庫から払うはめになった。

 此の事が原因で、竜馬が憎まれて殺されても可笑しくは無い、新撰組の使い手が近江屋に差し向けられたのである。

以前から三浦は新撰組の幹部と親しく、祇園の料亭一力に通っている局長の近藤勇の飲み代や花代を持っていた。


「何もかも壬生浪をぶった切ればええわい」

庄五郎は何時死んでも構わない、どうせなら、壬生浪とともに……、心中の覚悟である。

 この頃に至っては、斉藤と沖田を探しに探すのだが二人はおしのの暗殺を知った近藤と土方に江戸への用事とばかり、蟄居隔たりの所払いを受けていた。

庄五郎が何処をどう探しても見つかる由もなかった。

 また竜馬を襲った、手練達は、近江屋に踏み込む際に「十津川の者」を名乗っていた。

十津川郷士の名誉の為にもこのたびの復讐計画に、坂本龍馬、おしの、おしのの姉、我が子の為に死ぬ気でいた庄五郎である。

 

陸援隊の中岡慎太郎の残党に庄五郎の従兄弟の倉前信吾が加わっていた。

「粗剛なれども気品あり」

と言われた剣客である。義経流と言い、今日でもこれを伝えうるが、十津川郷に伝えられた古拙な剣であった。独自の庄五郎と同じ居合が刻まれていた。

籠手切りを得意としている。

洛中、新撰組が猛威をふるう中、これに立ち向かうのは、庄五郎と血を分けた信吾のみであった。

二人は辺り構わずしきりと挑戦を続けた、信吾も人斬りという異名をつけられそうではあった。

が、去年暮れの薄明かり、鳥目の信吾は同士数人と木屋で飲んで帰りがけに襲われた。

呼び止められて振り向くと、肩を切られた。

左の腿もやられた、相手は六人ばかりの新鮮組である。

京の町ではこの倉前信吾と中井の庄五郎だけは新撰組に敬意を払わない、言わば隙あらば殺してもかまわない対象であった。

犬衣を着込んだ肩の傷はたいしたことは無かった、太腿は深く切り込まれている。

此の時、やっとの思いで河原町まで逃げ切り、土佐の藩邸に逃げ込んだ。

此の事から二人は敵を討つという一つの願いで一致した。

庄五郎は何故か難しい事を理屈でひねくり返す、信吾や主税を好きにはなれない、と感じている。信吾は幼少の頃からの剣術仲間であり、庄五郎とは一手違いで刺し違えるほどの腕の持ち主であった。

信吾は、主税の幼なじみでもあったので、腹の知れた仲間として五条に代官所を口説きに行き、主税と行動をともにしていた。

「庄ちゃん、あんまり飲まんとき、おしのさんかて心配して成仏することできんばかりやで……。」

「……。」

 あのときから人が変わって、庄五郎には殺気しかない。目つきは鬼のように変貌し、殺し屋の拝命其の者であった。

 壬生浪を殺す、斉藤を殺す、沖田を殺す。

頭の中には其れ、其のお経のような物しかなかった。

 そうこうしているうちに、紀州材木商加納宗七からの通報により、三浦久太郎は油小路花屋町の天満屋を定宿にしており、十二月七日夜、其の天満屋で新撰組の幹部達と会合会食する事が分かった。

「この日をおいて、竜馬はんの仇を撃つ機会なぞ無い」

 と、陽之助は天満屋内部の間取り図を海援隊と陸援隊の残党達に示し、討ち入りの段取りを事細かく説明した。

 その日がいよいよ来た。



        



             十一






 酢屋に集まって来た若者たちの話題は、どうしても天満屋に討ち入りに入る際の使い手の事になるのである。

「陸奥さんは刀を抜いた事有りますの?」


 と、無遠慮に聞いたのが中島作太郎である。

寺社奉行として八百万石はんでいる伊達自得斎こと宗弘を父に持つ、陽之助は幼名牛麿、下士大半の海援隊では異色である。

英語が得意で、亀山社中の折から関雄之助に学ぶ、時に長崎の外人商館にボーイとして住み込み、半年ほどで英語を習得した。

「刀は苦手じゃ、しかし、これが在るわい」と、酢屋で中島に聞かれた陽之助は、懐中から短筒を出して見せた。

作太郎は、

「それで行けるか」

不可思議そうな顔を陽之助に向けたが、

「持ちの論でござる」

 笑って返した。







十二






 

 



「新撰組は余程、お前に執着している、暫らく京を離れるがよかろう」

数日後、薩摩藩船に乗り、京を去る。

信吾は、数か月、十津川で山の湯に浸かる事とした。

信吾の家は昔から甲羅と言う、修験者宿場であった。次男である彼は、店の迷惑とばかり寄り付かない。十五を越える頃には、山を出て五条や、和歌山で小商いをしながら生計を立てていた。

十津川の庄五郎とは、母が兄妹で、小さいころからの知り合いである。

知り合いと言うのは、余所余所しいが、余りにも似ても似つかぬ性格で、同じ血が流れているとは信じ難い。

剛とすれば、柔と言う仲である。むろん庄五郎が剛である。

頭を使うのが得意とする信吾とは馬が合わなかったが、それぞれの分野で二人は理解し合っていた。

喧嘩は、庄五郎、信吾は頭を使う。

領域を荒す事は無い。

十津川に帰ってから二十日もすると、

「京からことづかった」

 と、山伏は、信吾に油紙包みの書状を出した。

開けてみると、主税からの書状であった。

「至急体の調子が良ければおいで願う、主税」

 待ってましたと言わんばかりではあった。

しかし、此の何日間の間にえらい事をしてしまったと思う。

お加代が身ごもったらしいのだ、信吾は蒼くなった。

唯の一回限りで身ごもるか、恐ろしい悪夢である。

お加代はこう言っていた、

「私が家を抜け出してあなたの元に身を寄せるか、すぐに家に来て申し開きをしていただくか、いずれかを早く決めて頂きたい。今のままでは、父母に見つかりはせぬかと気が気ではない、案じてばかりで毎日が地獄の様です」、と言う。

手紙は子飼の子供に持たせたらしい、

「お駄賃」子供はそう言って、手を出した。

 金を渡すと、走りかえって行った。

信吾は、お加代の父の顔を思い出していた、十津川の郷士の千葉赤龍庵の顔を思い浮かべた。信吾の学問の先生であった。

宗家で信吾の君主の様なものである、その娘と私通した事が露わになれば、十津川を出て行くしかないと考えた。

「逃げるしかない」

 腹に決めた信吾であった。



―あの日は、冬にしては珍しく温かい日であったー。

信吾は怪我の癒着を幸いに、谷向こうの千葉屋敷へ挨拶に行った。

仏間で近頃は寝た切りの赤龍庵は、ひどく喜んでくれたのであった。

傷はどうか、京の様子はどうか、と咳をしながらも聞いてくる。

「華やかなものであるな」

 羨ましそうに信吾の目を見つめて来る。赤龍庵は、思い出した。

藤田東湖が、儒者とはいえ、藩主斉昭の御用人である時、謁見が許されたのである。

大和十津川郷士。

「十津川の人とはお珍しい」東湖は書屋奥に通して珍獣でも観るように、何度も言った。

「お珍しい」

 古事記、日本書紀には神代の国ズ人という人種が住み、神武天皇が熊野に上陸して大和盆地に攻め入る時、この天孫族の道案内を務めた土着民が先祖である。

依頼、朝廷が、大和、奈良、京都と移ってもこの山の人たちは、様々な形で奉仕している。

古くは保元平治の乱、南北朝の乱などに登場している。

東湖が十津川の赤龍庵の登場を喜んだのには、こういった理由が在る、南朝時代に活躍し、味方したからだ。

東湖の水戸学は北朝を否定し南朝に付く、歴史観が在った。勤皇の模範、生きた化石が十津川人であった。

「信吾泊まって行くがいい」

「お言葉に甘えますじゃ」

 納屋を借りた。

十津川の納屋は、修験者や旅の者を泊めるように造作が行き届いている、何故なら、熊野詣や修験者が泊まれるように昔から造作してきているのであった。 

赤龍庵の娘、お加代が、信吾の世話をしてくれた。寝屋を整え、明かりを灯す。山里の醜女で有名なお加代である。お加代は誘う。

醜女と言え、男は欲しい。

無理に襟元をはだけた、裾から、着物の裾から唯一自信の有る足を出す。

信吾は股間に熱い物を感じる。

顔はいい、要らないのであった。

後ろから着物をまくり上げ、背後、尻から一物を入れた。

醜女の要求は、激しい。二度三度と求める。

股間からは醜女特有の男日照りの長さに、待ち続けた分、出来る限りの淫滝が流れ落ちる。

女の香りと共にそれはここぞとばかりに流れた。

またを開き、迎え入れて足で信吾の尻を抱きかかえる。

朝までに全身の精を奪われた気がした、激しい情事の代償は十月後にやって来る。

「恥ずかしい限りじゃ、遺憾ともし難いわ」

 醜女を嫁にするのも嫌である。

小さいときから、下僕のように使うてきた、清がいる。このまま清の嫁にして責任を逃れたいと思った。

清は、十津川の生まれでは無い。

何でも、何代先かの戦の先陣を切った曾爺さんの足軽であった。

出は東北の寒村と聞いている。

その子孫が代々倉前に使えている。

信吾と同い年の清は、小さいときから、従兄弟の庄五郎等と共に遊んだ。

虐められ、都合のいいように使われたのである。

あれには、どうせ嫁は来まい。そう考える。

庄五郎はそんな信吾の狡さが嫌いであった。

下衆の信吾は嫌いである、子供の頃から思っている、ただ、血が、血が同じである。

それが逃れたい現実、自分にもその血が流れている。

「二人を何とか、く付けるつける方法は無いか」

 庄五郎に言った。

「大概にせい」本気で怒った。

                         

                      




 十三






 



 御陵衛士は常陸志筑出身の伊東甲子太郎を盟主として結束した総勢十数名の志士集団である。

「孝明天皇御陵衛士」「禁裏御陵衛士」[泉山御陵衛士」とも記録される御陵衛士は、朝廷の沙汰によって伊東らに与えられた名称であり、身分上は山陵奉行戸田大和守忠至のお預かりであった。

 山陵奉行は朝廷の沙汰により新設され、奉行以下に朝廷から微禄が与えられている特殊な役目である。

 衛士拝命には、歴代孝明天皇御陵のある湛然長老(前泉涌寺住持)の尽力(朝廷への建白)があったといわれる。

京都東山高台寺の塔頭月真院に最後の屯所を置いたため、後世、「高台寺党」とも呼ばれる。

 伊東はじめ、御陵衛士は新選組出身である。

 新選組は元来が「尽忠報国」を目的とした尊王攘夷集団であり、加盟時、伊東と新選組(近藤勇)の政治目的に大きな齟齬はなかったはずである。

 しかし、政局の変化とともに、「国」(日本国)と幕府(徳川家「私」)の乖離が明らかになっていったとき、「国」を第一に考える伊東らと、幕府(「私」)にこだわる幕権回復派の近藤らの溝も深まっていったようであった。

 新選組の暴力的側面とも相容れなかったともいう。

 慶応2年末に新選組総員の幕臣取立てが内定したとき、このままでは志が貫けないと判断し、離脱を決意。

 しかし、新選組を簡単には分離できず、兼ねてから懇意にしていた湛然長老の仲介(朝廷への建白)で、朝廷から孝明天皇の御陵衛士を拝命すると、慶応三年三月十三日、話し合った上で円満に分離した。

「斉藤、どうも、わしには伊藤の動きが気に入らん」

 和解して分離したものの近藤には考え方の違いが、胸に引っかかった。

「……」斉藤は黙って聞いている。

「間者を入れて、動きを探ろうと思う、倅が間者を用立ててくれぬかや?」

「自身が片を付けましょう」

「そうかそうしてくれるか」

 間者として、御陵衛士の隊員となった斉藤は逐次、近藤に報告を入れた。

 御陵衛士が江戸幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を主張する建白書を提出したことが、長州厳罰論を説く近藤勇を激怒させ、油小路事件につながったといわれている。

同年十一月十八日、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で油小路七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路に新選組隊士の大石鍬二郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。

 伊東は深手であったが一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで、本光寺前で絶命したという。

新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。

 遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助はじめの七名であった。

 この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の三名が討死した。

偶然、現場を通りかかった桑名藩士の談話(史談会速記録)によると、新選組隊士四十〜五十名が御陵衛士七名を取り囲み、まず藤堂が討たれ、次に毛内が討たれ、最後に服部が奮戦したが及ばず討死したということである。

 毛内有之助(服部との取り違えとも)の遺体は五体バラバラで無惨だった。

御陵衛士のまとまった集団としての活動は、伊東ら四名が新選組に殺害された慶応三年十一月十八日に終息を迎えた。

新選組離脱からわずか八ヶ月後であった。

「明らかに、斉藤の策略よのう」

 土方は言った。

近藤は、何も言わずに酒を飲んだ。

究極の所、近藤は最初から、伊東を殺すつもりであった。

火をつけるにはどうとでも出来たのである。反逆者がいれば一網打尽も出来た。

いわゆる生け贄の羊である。

伊東は格好の生け贄になった、緩む隊士の気付け薬となり、血の粛清で全体を纏めようとする。

最初はその気はなかったのだが、人間、時が経つにつれ、えてしてこうなるものでもある。

土方は、そう見ている。

これから先誰がどうなるか、知れたものではない。血の約束や鉄の約束など烏合の衆には意味がなかった。



 御陵衛士が江戸幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を主張する建白書を提出したことが、長州厳罰論を説く近藤勇を激怒させ、油小路事件につながったといわれている。

同年十一月十八日、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で油小路七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路に新選組隊士の大石鍬二郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。

 伊東は深手であったが一太刀敵に浴びせ、

「奸賊ばら」

と叫んで、本光寺前で絶命した。

新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようと目論んだ。

 遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助はじめの七名であった。

 この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の三名が討死した。

偶然、現場を通りかかった桑名藩士の談話(史談会速記録)によると、新選組隊士四十〜五十名が御陵衛士七名を取り囲み、まず藤堂が討たれ、次に毛内が討たれ、最後に服部が奮戦したが及ばず討死したということである。

 毛内有之助(服部との取り違えとも)の遺体は五体バラバラで無惨だったらしい(『鳥取藩慶応丁卯筆記』)。

服部武雄は隊内でも相当な二刀流の使い手として鳴らしていたため、服部の孤軍奮闘は鬼気迫るものがあったという。

民家を背にして激戦し、新選組にも多数の負傷者を出したが、最後は服部の大刀が折れたスキを狙って原田佐之助が槍を繰り出し、一斉に斬りかかって絶命した。

鈴木・加納・富山は逃げ延び、翌十九日午前四時過ぎ、今出川薩摩藩邸にかくまわれた。

その後、油小路から逃げ延びた篠原と、不在だった阿部・内海も今出川薩摩藩邸に合流し、伏見薩摩藩邸に移された。

伊東らの遺体はしばらく放置してあったが、光縁寺に埋葬された。

 この葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨天の中、生き残りの衛士七名は騎乗、その他百五十人ほどが野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出されたということである。

 御陵の衛士を暗殺し、その遺骸を路上に晒した油小路事件は朝廷でも騒ぎとなり、新選組を切腹させよという議論にもなったが、実現できないうち、鳥羽伏見戦争で新選組が江戸に去ったため沙汰止みとなった。

 伊東らの遺体は、新選組退京後、朝廷の沙汰により、孝明天皇の御陵のある泉涌寺の塔頭で、彼等とのゆかりも深い戒光寺に埋葬された。

 油小路事件で新選組の重囲を逃れた生き残りの同志は、伊東を失った後、再び政治活動を展開することはなく、兵力として新政府軍側に取り込まれていった。

 その多くは、鳥羽伏見戦争を経て、綾小路俊実前侍従(大原重徳の息子)に助力を乞われて赤報隊結成に参加し、二番組(君側)幹部となった。

 赤報隊は薩摩藩の西郷隆盛の支援を受けて新政府軍(官軍)先鋒として年貢半減を触れながら進軍したものの、年貢半減方針を変えた新政府により、偽官軍として捕縛され、幹部が投獄あるいは処刑されて潰滅した草莽隊である。

「御陵衛士」という名称だが、彼らが実際に孝明天皇の御陵の守衛にあたっていたという史料はみあたらない。

実際の守衛には泉涌寺の塔頭の家臣から選ばれた「守戸役」と呼ばれる人びとがあたっていた。

御陵衛士の中心人物である伊東が、大政奉還後に提出したとされる長文の建白書によれば、彼は、一和同心・国内皆兵を基本とし、大開国大強国を国是とする朝廷/公卿中心の政体作りを構想していた。

「大開国大強国」は積極開国による富国強兵策。

「大開国」は外国に迫られたからの開国ではなく、日本の国益を考え、開国通商の利点をいかす積極開国である。

それにより「大強国」をつくろうという。

大開国大攘夷。

 政権基盤として五畿内を朝廷直轄領とし、さらにそこから陸海軍を取りたて朝廷直属の兵力(親兵)を整備するというものである(大開国を国是としながら、孝明天皇の攘夷の遺志を継承して五畿内だけは鎖港を提言)。

 そこには、徳川家に代って別の大名が武力を背景に実権を握ったのでは王政復古の意味がないという考えが基底にある。

ただし、伊東は、王政復古の過程においては公議・衆議(話合い)を重要視している、外交については徳川家臣を参政させることを提案もしており、討幕(=武力倒幕)派だとはいえない。

問題解決手段としての武力行使(戦争)はできるだけ避け、挙国一致体制でのりきろうという穏健な思想であり、公議政体派に近いといえる。

 新選組に報復される危険にさらされながら、しかも新選組出身ゆえに王政復古派からは疑念をもたれるという困難な状況のなかの活動だった。

 同じ王政復古を目指していても、実質上は徳川幕府にかわって諸藩が政権を担うことを考えていた薩長土の討幕派と、再び武家に政権を委任することを排除し、朝廷が統帥権ももち、実質的にも政権を担うことを構想していた伊東は方向性が違う。

 藩という有力な後ろ盾のない草莽だからこその思想だともいえる。

朝廷第一志向が、御陵衛士を拝命すること、綾小路前侍従・大原重徳との関係、また薩摩藩から伊東が疑念をもたれることにつながったのではないか。




                          




                  十四

  







 慶応三年十二月七日の夜ー。

三浦休太郎之の身辺警護を頼まれた新撰組は、土方の指揮する手練達が天満屋の二階に集まっていた。

副長助勤斉藤一、高台寺党の間者の役目を果たし、伊東を殺してここにいる。新撰組には近頃復帰したばかりであった。

庄五郎の一番の敵は此処にいた。おしのを殺した張本人である。

金で動く、これが斉藤の人生の主信である。

人間は金でしか動かないとも信じている、近藤には間者の手当としてたんまりと頂戴した。

 しかし、後になって近藤が、伊東の敵に教われたときには、斉藤は金を出されても動こうとはしなかった。

刺客となって近藤の敵は取らない、腹に決めた。

 何故なら、金が無い近藤にはついては行けないと決めていたからだ。それに斬首にやがてなる事は見えていたのだ。

「近藤さんよりこれからは、土方さんだな」

 飲み屋でそう呟く、それでは何故おしのを殺したのか、芹沢の襲撃の後に、斉藤は、おしのを見初めた。

「俺の女になれ」と、沖田と共に口説いたが、無下も無く断られた。

「壬生浪の女に何かなるかいな」

 当然におしのは敵にそう言ったのだ。

「欲しい、あの女が欲しい」

 沖田は美剣士で有名で有ったので、すぐにおしのを忘れる事が出来た。

醜男の斉藤は、どの女にももてる事は無い。其れだけに質が悪い。

思いが叶わず、庄五郎の物になると、地たんだを踏んだ。

「殺す、これだけこけにされれば、殺してもいい」

 少し、偏執狂のある斉藤であった。

沖田は三度目の吐血をしていた、酔った勢いで肺病の女を抱いた報いだったのだ。

斉藤に従った。もうすぐ死ぬ事は知っている。

それでも女を殺すには勇気がいる、男なら平気でもある、しかし、身重の女を殺るというのは気が気ではない。

斉藤には二度命を救われた、戦場での恩師でもある。

どうせ死ぬ命と諦めたのだ、付いていくしか無かった。

市中周りの間者から、

「そろそろ今夜当り海援隊残党の打ち込みが有る」

 海援隊、陸援隊と新撰組は仲違い甚だしい。

もちろん海援隊は坂本龍馬が作った、陸援隊は中岡慎太郎である。

二人は近江屋で殺された。寝っ転がって酒を酌み交わしている。腹這いで世間話に花を咲かせた。

「お龍はよ、オンシは幾つよ言うとよ、いつも、知らん、知らん ちゅうてからに、幾つになったかは知らんぜよ」

「又お惚気かいな」

「慎ちゃん、又金がいるぜよ、こんないだ、紀州のよ三浦ちゅう奴から、英国の海運法を真似てから銭ふんだくったんやけど、其れも当て込みの銭やけ、すぐんに足らんちゅうわい」

「わいんとこも足らんがね、どないかならんかのう」

 突然階下で物音がした。

「十津川のもんでございます、こちらに坂本はんは居られますかい」

 ほろ酔いに酔った二人は夢心地。不覚をとった。

いきなり傾れ上がる、

「慎ちゃん、気いつけ」

「龍馬はんも」

 酒が飛んだ、ガチャン、酒宴の配膳が蹴り上げられて、ろうそくが消えた。

刀の重なり合う音が聞こえる、

「慎ちゃん、どうも往かんぜよ」

 頭を割られた坂本が言った。天井の低い二階の軒下の小部屋である。

刀は効かない、小刀を上手く利用した、刺客の有利であった。

怒濤のごとく、斬り捨て、辺りを血の海にする。

何度かの刀の応戦が有るが、確実に坂本の声がしなくなる。

中岡も深手を負ったが、坂本程では無い、坂本は頭を割られ、畳に伏せた。

しばらくすると刺客団は疾風のごとく去っていった。階下では用心棒の力士が殺されていた。

こうして坂本は殺されたのだが、誰が殺したのか、考えてみれば恨みをかう人間は多い。

新撰組、京都見回り組が執拗に追っていたのだ。

佐々木只三郎、会津藩出身見回り組である。

後記に今井信朗が坂本を斬った男と書いている。

小太刀の名人であった。狭い屋根裏部屋では小太刀が有効に働いた。








             十五








「そろそろ今夜当り海援隊残党の打ち込みが有る」

 天満屋二階で始まった宴席で、斉藤は鎖帷子を着込み着物を着ていた。

三浦の右側に座り酒を飲んでいる。

大石鍬二郎が左を固ためていた。この席では自慢の槍も使えないと脳裏を掠めていた、其の直後の事。

「御主が三浦か」

 けたたましく、新撰組の手練の中を進んだ庄五郎、百目蠟燭と行灯の光の中を、あたかも無人が野を往く風情であった。

「ひえっ」

 三浦久太郎があまりの大胆さに息をのんだ。

仰け反った三浦に、抜き打ち一刀、斬り込んだ。

龍馬の佩刀は、少し短い、仇となって久太郎の目の下をえぐるに留まった。

「チッ」

 さらに、閃光が散った。

庄五郎の最後のため息と共に肩筋から激痛が走った。

斉藤が慌てて肩越しに剣を入れたのだ。斉藤の肩筋にも庄五郎の剣が刺さる。鎖帷子を貫通する事無く、庄五郎の首が斉藤を睨め付けながら、傾いた。

あばらに達した一撃に庄五郎は息絶えた。

中島が庄五郎の首を切り取り、抱いて逃げる。

大石の策で三浦は逃げた。

真っ暗になった天満屋の2階での出来事であった。

ああ、庄五郎、二十一歳の齢を全うした。

悔いの無い人生であったか、おしのの元に一目散に駆けていこう。

中島があまりの重さに投げ込まれた庄五郎の頭は、投げ込まれた井戸に音ともに落ちた。

作太郎も逃げるので必死であった。致し方ない。

三浦は、大石の奇略で一命を救われた。

「三浦を打ち取ったぞ」嘘を付いた。

「引き上げろ」又嘘を付いた。

 其の隙に庄五郎の一撃で目の下を抉られて目が見ない三浦を二階から逃がしたのだ。

追撃してくる新撰組を、

「ドーン」

 陸奥陽之助の短筒が唸りをあげた。

この襲撃で斉藤は肩口からの凄まじい庄五郎の一撃で腕にかけて一生直る事の無い傷を負う。

この傷を見る度に庄五郎を思い出さずに居れなかった、おしのも同様である。

仲睦まじい、二人にどれほどの嫉妬を覚えたか知れない、醜い自分を恥じるのだ、永遠に死ぬまで傷が痛めば痛むほど消えない傷を負った。

赤子の泣き声も独り寝の寂しい夜に限って聞こえる。

「ええ死に方は出来んわ」

 独り言を言うと、

「当たり前じょ」庄五郎の声がする。

 今は、庄五郎は、東山の一角で龍馬の墓に寄り添っている。

天満屋に残された胴しか無い屍骸に佩刀された刀を持った庄五郎。

後日、京童の歌には麦焦がしの歌が歌われ、無縁仏には麦焦がしの湯のみが供えられていた。

坂本、中岡が殺された時、真っ先に駆けつけた谷千城(たにたてき)は、


「十津川の物という事で取り次ぎの相撲取りの用心棒も安心した。語られて

十津川の郷士は憤慨をする、三浦休太郎を殺しにいったのもそう言う理由が多いにあった」

と、坂本中岡暗殺事件で語っている。

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人斬り庄五郎 @kuratensuke

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