五章 ④裏切り

 屋上の出口へと駆けていく二人の女子高生を脇目に、俺は任されてしまった一人と二体を見遣った。


 ……なんだ、こいつら?


 契約書も取れず、ノアを奪い返されたのに、妙に他人事だ。黒ローブもベリアルも慌てる素振りがない。ベルゼブブに至っては、じっと紫とノアを見つめている。


 おかしい。なんで人質を捕らえる役のベルゼブブが、何もせずノアを見送っているんだ――?


 不意に、その可能性に思い至った。

 まさか、自分はとんでもない勘違いをしている……?


「紫! ノアから離れろ!」


 え? と紫が振り返る。と、ノアの手が紫の握るペンダントを捕らえた。

 駆け出そうとしたとき、俺はベルゼブブに襟首を掴まれていた。振り切ろうとするが、「暴れるな。心配しなくても、契約書は破ってやる」と囁かれる。


「ノア? 何、どういうこと……?」


 ペンダントを握り合ったまま、紫がノアを呆然と見つめる。金髪の少女は困ったように眉をハの字にした。


「これを渡してください、荊原さん。契約破棄しても絶対、荊原さんの魂を真理須くんに取らせはしませんから」

「ノア……また操られてるの? ねえ、しっかりしてよ!」

「操られてはいません。あたしはイルミナティの一員なんですよ、荊原さん」


 紫があからさまに傷付いた表情をした。


「……嘘、でしょ……」

「本当です。この誘拐は、荊原さんに契約書を渡してもらうために仕組んだものでした。お願いです。手を離してください。こっちには真理須くんの何倍も強い悪魔が二体いるんです。どうやっても荊原さんに勝ち目はありません」


「そんな……。ノア、わたしたちをずっと騙してたっていうわけ? ほんとはイルミナティなのに、わたしを陥れるために仲間のフリをしてたってこと!?」


 紫の叫びがコンクリートに反響した。ノアが苦しげに顔を歪ませる。


「紫の薔薇十字会に入ったのは、荊原さんを監視するためでした。従兄と言っていた真理須くんに話しかけたのも、荊原さんに近付くためです。真理須くんのほうから秘密結社に誘われたのは好都合でした。それが、あたしの任務だったので」


 なんてことだ。紫の中二病的推測は当たってたのかよ。


 脱力感がこみ上げる。思えば、最初にノアの胸元に触れた時点で気付くべきだった。あの痺れは契約書によるもので、ノアが悪魔と契約しているのを俺たちに隠していたことに。

 ……あれ、でもそしたら、ノアはなんでルシファーを召喚しようとしていたんだ?

 ノアが哀しそうに瞳を伏せた。


「……そうです、あたしは騙してたんです。責められても文句は言えません。あたしは荊原さんと違うから、魔術の才能があるわけでも、たった一人で生きていくだけの強さもないから、イルミナティにいるしかなかったんです。ごめんなさい」


 何を言ってるの……と紫が掠れた声を上げる。ノアは吹っ切れたように「ベルゼブブ」と言った。


「荊原さんを無力化しなさい。……できるだけ傷付けないように」

「了解した」


 ブン、と羽音がして、ベルゼブブから蠅の塊が飛び立つ。

 俺はポケットからレオンを出し、放っていた。


「レオン! 無限喰間(インフィニティ・グラ)だ!」


 空中を舞った黒蛇が蠅を吸い込んでいく。ベルゼブブが舌打ちをした。


「邪魔をするな、アンドロマリウス!」

「それは聞けませんよ。俺にもマスターの命がありますからね!」


 紫へ跳びかかろうとするベルゼブブにしがみつく。離れない俺にベルゼブブが痺れを切らした。スーツから再び無数の蠅が放たれる。


「食らえ! 食われても、食い返せ!」


 まるで一匹の巨大な生き物のように密集した蠅の群れは、紫へ突撃する。地面にいるレオンには、空中の蠅を呑むことはできない。


「逃げろ、紫――!」


 叫んだ。だが、ノアとペンダントを取り合う紫は、動けない。

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