五章 ③交渉

 いつの間にか屋上には緋色の馬車が出現していた。

 御者台から降りたベリアル♀が馬車のドアを開け、目深にフードをかぶった黒ローブの男が降りてくる。その後にノアが続き、もう一人、眼鏡をかけたスーツの男が降りる。


「げっ」


 思わず声を出していた。最後の男はよりにもよってベルゼブブだった。目が合う前に、咄嗟に顔を伏せる。


 屋上の端と端で紫と黒ローブは対峙した。


「直に会うのは初めてだな、荊原紫。私は輝ける魔術師たちの集い、イルミナティ日本支部を代表して、そなたに会いに来た。先日、使いの悪魔が提案を伝えたはず。その答えを聞かせてもらおう」

「提案? 脅迫の間違いじゃなくて?」


 紫の攻撃的な口調に、黒ローブは肩を揺らした。フードで覆っている顔から唯一見える口元が歪む。


「これは手厳しい。ベリアルの職能上、少々伝え方が手荒になってしまったようだ。容赦願いたい」


 ベリアル♀を従えた男は泰然としていた。その横には、ベルゼブブに腕を捕らえられたノアがいる。

 王が二人、そのうち一人は七君主ときた。絶望的な戦力差。だが、おそらくそれに気付いていない紫は物怖じせずに言う。


「ノアを放しなさい。今なら手持ちの悪魔を溶かさないであげるわ」

「この状況で、提案を拒否すると?」

「そうよ。何のためにわたしが完全武装したと思ってるのよ!」

「よせ……!」


 俺の制止を聞かず、紫は飛び出した。ベリアルが黒ローブを庇うように前へ出るが、紫の目標は彼らではなかった。身構えたベリアルには目もくれず、紫は真っ直ぐベルゼブブへ水鉄砲を噴射する。


 どうやってベルゼブブが聖水攻撃を防ぐのか、と見ていたら、ノアを盾にしていた。代わりに水を浴びたノアが「んっ……」と顔をしかめ、濡れたブラウスが透ける。


 ……何このエロい戦い。


 その間にベリアルは黒ローブと屋上の隅へ退避していた。戦闘に参加する意思はないらしい。不幸中の幸いだった。戦闘においてもやはり紫は素人で、二丁拳銃のように水鉄砲を持ってはいるものの、まったく使いこなせていない。


 右手の水鉄砲を使い切り、攻撃が途絶えたそのとき、ノアの背後で防戦一方だったベルゼブブから、黒い塊が放たれた。


 蠅の群れだ。


 唸りを上げて羽虫が紫へ襲いかかる。「いやっ!」と叫んだ紫は、持ち替えようとしていた水鉄砲を取り落とした。


 それを見たベルゼブブが動く。

 両手の武器を失った紫がはっとした。

 ベルトに付けられた水鉄砲へ手を伸ばすが、それは間に合わない。


 ベルゼブブが紫へ肉薄する。鋭い爪の生えた手は紫を狙って伸ばされ、


「やめて――っ!」

「――お待ちくださいっ!」


 間一髪、セーフ。


 紫の胸を突くはずだったベルゼブブの手首を掴んで止めた俺は言っていた。

 俺と同時に叫んでいたノアも、ほっとした表情になる。


「おい、そこの魔術師。おまえの目的は紫の命じゃないはずだ。これだろう?」


 ペンダントを掲げて見せた。黒ローブの沈黙を肯定と取る。


「これは大人しく渡してやる。だから、紫とノアには手を出すな」

「真理須、あんた勝手なことしないでよ……!」


 紫が声を上げたが、俺は無視した。ベルゼブブを見る。


「どうぞ。お納めください」


 ペンダントを差し出すと、ベルゼブブは小さく鼻を鳴らした。俺の手を乱暴に払い、じろりと見られる。


「つくづく貴様はロクな契約をしないな。身の振り方は考えておけ」


 小声で言われた。ベルゼブブがペンダントを取ろうとしたとき、



 シュッ。


「熱っ!」


 聖水を手にかけられ、俺はペンダントを落とした。それを紫がキャッチする。


 味方に聖水をかける奴があるか。


 唖然とする俺の前で、紫はベルゼブブの後ろにいたノアの手を引いた。


「ば、荊原さん!?」

「逃げるわよ!」


 言うなり紫は猛然と駆け出す。捨て台詞を俺に残して。



「後は任せたわ、真理須!」


 開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 何だよ、それ。ここは俺に任せて先に行け、なんて俺は言ってないぞ。

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