五章 ⑤イルミナティの誘い

 くっ、と歯噛みしたとき、


 ―――パン、パン、パン……!


 銃声が連続して響き、ノアの身体が傾いだ。金髪の少女が胸を押さえて崩れ、蠅が目標を見失ったかのように散らばる。

 屋上にハスキーボイスが響いた。


「飛鳥ノア。イルミナティの魔術師であるおまえは悪魔の力を行使し、民間人を襲撃させた。よって、SADTの特別権限において始末対象となった」


 屋上に設置されている高さ五メートルほどの貯水槽の上。おそらく最初からいたのだろう、片膝をついた合戦峯が銃を構えていた。猛禽のように鋭い瞳がノアを睨み据えている。


「ど、して……?」


 紫が震える声を出した。目の前で人が撃たれて腰が抜けたのか、ぺたんと尻餅をつく。


 と、ツインテールが揺れた。次の瞬間、狙撃されたとは思えない俊敏さでノアは紫からペンダントを奪い取る。


「あっ……」

「それであたしを動けなくしたつもりですか、合戦峯先輩。その銃、ほんとに対悪魔武器なんですね。ちょっと濡れただけで、ダメージはほとんどありませんけど……」


 言っている途中で、ノアの表情が固まる。

 俺はとっくに気付いていた。傍らにいるベルゼブブから、桁違いの地獄の瘴気が溢れ出していることに。


「そんな、嘘……」


 戦慄きながらノアがブラウスの襟首を探る。そうして出したのは、小瓶だった。

コルクで蓋をされた透明な瓶。だが、それは弾を受けたせいで割れていて――。


 ノアの手からペンダントが落ち、カランと音を立てた。それに紫が這っていき、ペンダントを取り戻す。


 梅雨特有の湿った風が、小瓶に残っていたノアとベルゼブブの契約書を散らした。

 羊皮紙の残骸は、紙吹雪となって屋上を儚げに飾り、


「契約は破られた。食事の時間だ」


 青ざめたノアに黒い影が射した。

 ベルゼブブは本来の姿――体長五メートルはある巨大な黒い蠅になっていた。それに四本の腕と二本の脚が生え、二足歩行をしている。ぶっちゃけグロテスクだから、あんまり直視したくない。


 ノアへ近付いていくベルゼブブの背を見送ったとき、合戦峯が貯水槽から飛び降りるのが見えた。銃をホルスターへ戻し、紫の傍らにしゃがむ。


「もう大丈夫だ。契約書を破壊してしまえば、魔術師は自滅する。あの悪魔がノアに夢中になっている間に逃げるぞ」


 合戦峯の言葉に紫は反応しなかった。ベルゼブブの醜悪な姿に慄いているのか、立ち上がらない。


「い、嫌っ……! 来ないで……!」


 ノアは恐怖と嫌悪でガタガタと震え、後退る。ベルゼブブはそんな彼女を複眼で映し、嘲るように言った。


「今さら何を恐れる? おまえとは百日の契約。あと十日足らずで、おまえの魂は私のものだっただろう」

「百日だって……!?」


 思わず俺は声を上げていた。

 短すぎる。規定の三年をまるで無視した契約。それは不当契約だ。

 屋上のフェンスまで追い詰められたノアは両腕で身体を抱え、叫ぶ。


「お願いです! 助けてください、会長……!」


 会長、という言葉に紫が震えた。

 だが、涙ながらに訴えるノアの目は黒ローブに据えられている。

 金髪の少女に助けを求められたローブの男は、冷徹に言った。


「契約を失ったおまえに用はない。大人しくベルゼブブの慰みとなるがいい。……ベリアル、馬車を」

「かしこまりました」


「ちょっと待ちなさいよ!」


 叫んだ紫に、黒ローブは首を回した。


「なんでっ、ノアはあんたの秘密結社のメンバーでしょうが! なんで助けないのよ!」

「その娘は出来損ないだからだ」


 ローブの男が無感動に言った。ノアがびくりとする。


「そいつを拾い、教育を施してやったのは私だ。だが、いつまで経ってもそいつは悪魔の一匹も召喚できなかった。匙を投げて捨てるところを、私の召喚したベルゼブブがそいつを対価にと望み、契約を結ばせたのだ。それを地獄の法に逆らってまで救い出す価値はない」


 あまりの言い草に、俺は険しい表情になっていた。紫も怒りを露わにする。


「あんたねえ、人を物みたいに……!」


「だが、荊原紫。おまえは違う。その才能を埋もれさせるのは惜しい。どうだ、私と共に来ないか。イルミナティの幹部候補としておまえを迎えよう。

 アンドロマリウスなどという末席の七十二柱を手放し、偉大な地獄の七君主を手中に収めるのだ。おまえならば、その威光をもって六六六体の悪魔と契約を結ぶことができるかもしれぬ」


 すげえ、中二病のポテンシャルがソロモン超えたよ。


 驚きすぎて「末席」に反論もできなかった。

 過大評価された中二病が図に乗るんじゃないか。そんな不安を覚えた俺は紫を見る。少女は俯き、小さく肩を揺らしていた。


「……わたしが幹部? 六六六体の悪魔? よくもそんなことが言えたわね」


 紫は立ち上がり、ビシッとローブへ指を突きつける。



「お断りよ! わたしは二十一世紀最大の魔術師、セルシア・ローザ・レヴィ。悪の秘密結社イルミナティには屈しない!」



 少女は漆黒の瞳を輝かせ、自信たっぷりに言い放った。


 ――ああ、これでこそ紫だ。


 安堵を覚えた俺とは対照的にローブの男が嘆息をつく。


「……残念だ、荊原紫。おまえと相見えただけでも収穫であった。今日はここで退くとしよう」


 ベリアルの用意した馬車へ黒ローブは乗り込む。馬車は虚空を駆け、すぐに見えなくなった。

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