三章 ⑯俺と彼女の関係
ガラリ、といきなり教室のドアが開かれ、俺たちは一斉に首を回した。顔を出したベリアルが手招きをする。
「マリウス、ちょっと……」
訝しく思いながらも俺はベリアルに応じて廊下へ出る。そこに紫の姿はなかった。
「紫は?」
「終わったよ」
微笑んで言われ、俺は眉を寄せた。
「……終わってねえだろ。俺の契約はまだ解かれてないぞ」
契約から解放されれば地獄の瘴気が俺を包み、本来の姿に戻るはずだ。本来の姿といっても、俺はほとんど容姿変わらないけどな。顔の片側に入れ墨が少し入ってイケメン度が三パーセント(当社比)アップするくらいか。
「それより紫はどうした? 一緒じゃないのか?」
訊くと、ベリアルは「キミに一つ謝らないといけないことがあるんだ」と静かに言った。美麗な顔が内緒話でもするみたいに近付く。
「――あの酸っぱい葡萄、キズモノにしちゃった」
心臓が鷲掴みにされたように縮んだ。
横目でベリアルを窺うと、爛々と輝く深紅の瞳とぶつかる。
「ごめんねえ、やっぱり綺麗なままで欲しかったよね。でも、俺は悪くない。俺の誘いを頑なに拒否して、契約書を破らない強情なあの葡萄がいけないんだよ」
「……てめえ、何しやがった……」
震える声が乾いた喉に張りついて、うまく出てこない。
どうしてこんなことに気付かなかったのだろう。
こいつの職能は悪徳。人の道に外れたありとあらゆる悪行を司り、彼の力は人間を悪へと引きずり込む。
その所業の悪さからついた二つ名は――邪淫王。
「ナニをしたかって? 心外だなあ。俺はあの葡萄に指一本触れてない。俺の術にかかった人間たちがどうしたかは知らないけどね。くく、ははは……!」
「てめえ……!」
殴りかかってもベリアルの哄笑は止まらなかった。拳を受け止め、笑いながら俺を見下ろす。
「あの葡萄、たまんないね。キミはマリウスに売られたんだよ、て教えたらさ、この世の終わりみたいな顔して否定するんだよ。必死に契約書に呼びかけちゃってさ、いくらやってもマリウスは来ないのに、ほんっと可笑しいよねえ。そろそろ諦めて契約書破ってもいい頃合いなんだけど、くく、いつまでもつかなあ」
頭が冷えた。
狂ったように笑い続けるベリアルを放り、俺は廊下を駆け出す。と、背中から抱きつかれた。
「行かないで、マリウス」
囁かれる女の声。脳髄が痺れるような甘い香りが俺を包む。振り解こうとするが、細腕はしっかりと絡んで離れない。
「どうして? これでマリウスの契約は破棄されるんだよ……? マリウスが望んだことじゃない」
「だけど! こんな方法はないだろ! 放せ、ベリアル。紫を助けに行かないと……!」
「ダメ、行かせない」
艶めかしい声が、じわじわと効いてくる毒のように耳に流れ込む。
「マリウスのために、わたし頑張ったんだよ……? マリウスがひどい契約させられてるの、見てられなかった……。マリウスだってあんな契約、嫌だったんでしょ? だから、わたしに頼んできたんでしょ、違うの?」
そうだ。俺がこいつに頼んだのだ。紫との契約を破棄させてくれ、と。
そしてそれは今、成就されようとしている。
けれど、何だ。この胸を衝き上げる感情は。
「あんな子に執着しないで、マリウス。悪魔の尊厳を踏み躙られるような毎日は終わりにしたいでしょ……?」
悪魔の尊厳。一体、それは何だったか。
かつてソロモン王は俺に言った。
『たとえそれが悪魔と呼ばれる身に相応しくないものであっても、そなたの職能を貫くがいい。それが悪魔の尊厳であろう? 我はそなたの正義を見てみたい』
痺れたね。それまで誰も、正義を職能とする俺とは契約してくれなかったから、なおさら。
こうして断トツ売れ残りの俺なんかが、ソロモン王に仕える悪魔の最後の一体として名を連ねることになったわけだが。
「……悪魔の尊厳か。忘れかけてたわ」
呟いた俺はベリアルの手首を掴んだ。
地獄の瘴気はまだこの身体に戻っていない。つまり、紫との契約は今もなお、有効だ。
「マリウス……?」
「……頼んどいて悪いが、悪魔の尊厳にかけて誓ったんだ。それが契約だと」
言うなり俺はベリアルを背負い投げた。
廊下の窓にベリアル♀が叩きつけられ、ガラスが割れるド派手な音がした。その身体は呆気なく窓の外へ消える。
合戦峯とノアが何事かと教室から顔を覗かせたが、俺は脇目もふらず駆け出した。
明らかな中二設定。
初めてした命令が、常に護衛しろ。
契約書改ざんするわ、聖水かけるわ、職能無視するわ、悪魔をナメくさっている。
そのくせ、傍にいろだの、俺を信じるだの言いやがるんだ。
そして今も、俺が助けに来るのを信じて待っている。
どうしようもねえ奴だな。
でも、あいつと俺は契約を結んだ。中二病のエセ魔術師と、リストラ寸前の役立たず悪魔だが、その事実は変わらない。
だったら、俺の正義にかけて彼女に応えるだけだろう。
それが、人間の望みを叶えるために神の如き力を有する悪魔の尊厳なのだから。
廊下を歩く生徒たちを押しのけ、全力疾走に息を切らしながら、俺は校長室のドアを叩き壊す勢いで開け放ち、
「俺のマスターから離れろおおおぉぉ――――っ!!」
紫に群がる教師たちに殴りかかった。
***
最後の一人に拳を打ち込んで無力化すると同時に、俺は事務机に背を預けてへたり込んでいた。
「……はは、人間相手に負けるかっつーの。不死身の悪魔はどんだけダメージ食らっても、立ち上がれるんだぜ……」
と言いつつも、顔は腫れて唇は切れていたし、全身はズキズキと痛かった。たぶん、打撲とかめっちゃしてる。
「……おい、紫」
倒れ伏す教師たちを眺めながら、俺は背後の机の陰にいる少女へ声をかけた。
返事はない。
ちらりと振り向くと、紫は乱れた制服のまま俯いて膝を抱えていた。まるで怯えた小動物だ。いつもは綺麗に流れている長い黒髪がぐしゃぐしゃになっているところから、激しく抵抗したことが窺えた。
制服のジャケットを脱ぐと、俺はそっとかけた。と、
「……………………………遅い」
紫の力ない声が洩れた。
「これ、絆だって、あんたが言ったんじゃない……呼べば、すぐに来るって。……なんで、こんな遅いの。もう少しでわたし、先生たちに、取り返しのつかないこと……!」
紫の手には契約書があった。きつく握られた手の中で、皺になった羊皮紙が小刻みに震えている。
「……悪かった」
返すと、紫の肩が大きく跳ねた。
堰を切ったように嗚咽が溢れ始める。
――何やってんだ、俺は。
悪魔の恐ろしさを思い知らせてこいつの魂を奪うんじゃなかったのか。
自分が望んで仕組んだことなのに。
それでも、ベリアルなんかに頼むべきじゃなかった。
悔恨が胸で幾重にも渦を巻く。普段、弱音一つ吐こうとしないこの少女を泣かせてしまったことに、ひどく狼狽えていた。そんな自分に、さらに戸惑う。
緊張が解けた反動で子供のように泣きじゃくる紫を見下ろし、俺は重ねて言った。
「悪かった」
西日が射し込む室内には、涙に濡れた嗚咽しか返ってこなかった。
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