三章 ⑬誘惑

「……おまえ、どこの部屋もらったの?」

「一階の客間」


 随分待遇いいじゃねえか、という僻みを呑み込んで俺は目元に険を寄せた。


「なら、なんでついてきた」

「俺、誰かと一緒じゃないと眠れないんだ」

「何その寂しがり屋設定」

「だから入れて。女になるから」 


 ベリアルが腕を伸ばしてドアを開ける。慌ててディフェンスに入った。


「いやいやいや、女になったら余計まずくね? 布団一つしかないんだよ?」

「は? キミの倫理観どうなってんの? 男同士のほうが問題あるだろ」

「待てこら。男同士って、話の前提変えんな」

「そうか、やましくて三千年、俺に性癖隠してたんだな。ごめん、マリウス。俺、今までキミの想いに気付いてやれなくて……」

「違げえよ! 勝手に寒々しいBL始めんな!」


 おもむろに頬へと伸びてきたベリアルの手を反射的に避ける。と、ニヤっと笑ったベリアルが、俺が避けた隙から部屋へ入った。しまった、と思ったとき、その背が縮む。女になったのだ。


「初めてだね、マリウスと一緒に寝るの……」


 部屋に甘ったるい芳香が漂った。はにかみながら、何かを期待するように俺を見上げてくる美女。ごくりと俺は唾を飲み込み――思わず一歩、後退った。


「……お、俺、じゃあ、一階の客間使うから……」

「ダメっ!」


 途端に腕を抱えられた。当たる胸に気を取られている間に引っ張られ、ドアを閉められる。退路が断たれた。


「お願い、一緒にいて。……何してもいいから」


 ……ここ、普通だったら喜ぶとこだよな。

 庇護欲を煽る美貌に見上げられ、冷や汗が全身から噴き出す。


 ベリアル♀の誘惑は後が怖いと聞く。こいつに破滅させられた天使と悪魔の噂は後を絶たない。なんでも上級天使ですらベリアルに逆らえない奴がいるとか、ポイントのほとんどを貢がされている悪魔がいるとか。


 俺、まだ人生終わりたくないんだけど!


 とにかく壁のほうを向いて寝よう。目に入らなければいないのと同じだ、と俺は布団の端に横になった。

 すぐ傍で衣擦れがした。気になってちらりと後ろを見た俺は、下着を外そうとしている美女に目を瞠った。


「ちょ、待って! なんで! なんで脱いでんのっ!?」

「寝るときは脱ぐよ……? ブラジャー着けたまま寝ると身体によくないんだよ……?」


 なんてこった、と俺は壁とにらめっこを再開する。冗談じゃない。俺の理性と人生を崩壊させる気か。

 身体を固くして、壁の木目を真剣に数えていると、布団にベリアルが入ってきた。ふにょん、と柔らかいものが背中に押し当てられる。


「あったかい……ねぇ、マリウス。ぎゅってしてほしいなぁ」

「……」

「どうしたの、マリウス……? まだ眠ってないでしょ。寂しいからこっち向いてよお」

「……」

「マリウスが反応してくれない……無視するなら、イタズラしちゃうよ……?」


 ベリアルの吐息が耳を掠めた。首筋に唇が当てられた瞬間、ゾクゾクとした快感が背筋に走る。後ろから回された手は俺の太腿を優しく撫で、


 もう無理。


  俺は勢いよく身体を反転させた。ベリアルの細い手首を掴み、布団に押しつける。


「……いいか、誘ったのはおまえだからな。後でつけ入るような真似すんじゃねえぞ」


 噛みつくように言った俺は、キャミソール一枚を着ただけの魅惑の身体へ手を伸ばし、

 バタバタという足音を聞いた。


「真理須、今日の対価忘れてたっ! 今日は子持ちししゃ……も……」


 俺の部屋をノックもなしに開け放ち、ししゃもを持った紫が俺とベリアル♀を見て硬直した。

 痛いほどの静寂が六畳間にしばし流れ、


「…………………………っ、ゃだ、マリウス。無理やり、ひどい……!」


 え? ―――ええぇ!?


 ベリアルの涙声で紫のこめかみに青筋が浮かぶ。

 さあ、と血の気が引くのを自覚した。


「……あんたねえ、また女の子襲って……許さないわよ、このエロ悪魔がっ……!」

「違う、騙されんな! これは、こいつから……って、熱い熱い熱いっ! 死ぬっ!」


 霧吹きを連射してくる紫から逃れるため身体を捩った俺は、いつの間にか部屋の隅で怯えたように膝を抱える半裸の美女を認めた。

 なんでおまえ、被害者ヅラしてんの?


「ベリアル、てめえのせいだぞ! 誤解を解け!」

「襲ったの認めないんだ、マリウス……」


 誰が火に油注げと言ったああああぁぁ!

 叫ぶ前に聖水が背中を焼き尽くし、俺は悲鳴を上げて床に沈んだ。


 降ってきた子持ちししゃもが顔の脇にペタンと落ちる。そのまま紫の足音は遠ざかっていき、ドアが乱暴に閉められる音がした。

 ししゃもを珍しそうにつつくベリアルを横目に激痛に呻く俺は、さっきまでのモヤモヤが払拭され、奇妙な安堵感が胸へ広がっていくのを感じていた。

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