三章 ⑫無価値

 最悪なことにベリアルはこの調子で家にまでついてきた。この上なくウザかったが、俺の契約破棄のためである。文句など言えるはずもない。唯一よかったのは、紫は虚飾で万能を騙るベリアルに夢中で、放置中の俺に聖水をかける暇はなかったことくらいか。


 ベリアルが用意した盗品オンリーの豪勢な夕食も俺には気持ち悪く、紫は「一緒に食べない?」と誘ってきたが、固辞した俺は早々に部屋にこもった。

 ベリアルと紫を二人きりにするのに抵抗がなかったと言えば嘘になる。けれど、ベリアルの欺瞞もそれに堕ちる紫も見たくなかった。


 枕元のレオンはとっくに蜷局を巻いて眠っている。布団に包まっても寝つけず、俺はずっと天井を見つめていた。


 ――自分は、誰からも望まれない存在なのだろうか。


 指名がない、というのはそういうことだ。

 人間に必要とされないから召喚されない。レメゲトンの順番が、なんてのは言い訳でしかないってことくらい俺も気付いてる。六十八番目に載るベリアルが一日に何度も指名されているのが、何よりの証拠だ。


「『もういらないんだけど』、か……」


 ベリアルに言われたことを反芻する。同時に今日の浮かれた紫を思い返して、俺は唇を噛んだ。


 紫もベリアルがいれば、俺は必要ないんだろう。元々、俺はベリアルと間違えて召喚されたのだ。紫が望んだのはベリアルで、俺じゃない。


 ……ひどく惨めな気分になった。早く契約破棄させろ、バカ、とベリアルに心の中で悪態をつき、俺はむくりと起き上がった。


 水を飲みに下へ降りた俺は、ダイニングでベリアルが一人でいるのを見つけた。イスに身体を預けて煌めくブロンドをいじっている。どことなく不機嫌そうだ。

「おまえ一人か? 紫はいないのか?」

 俺がダイニングに入るや否や、ベリアルはさっと微笑を向けてきた。


「お風呂に入ってるよ。一緒に入ろうとしたら、断られちゃってね」

「ざまあ。『お風呂でばったり』をスキップして、『お風呂で洗いっこ』イベントが発生するわけねえだろ」


 俺はコップを取り、思いきり蛇口を捻った。勢いよく出た水が溢れて、手を濡らす。


「おい、今日のあれは何だ。俺には何の説明もされてないんだがな。契約破棄はどうなっている?」


 低い声で言った俺は、水を煽った。コップを音高く置いて振り向くと、ベリアルがくつくつと笑っていた。


「大分カリカリしてるね。自分がいかに無能な存在か思い知ったかい?」

「おまえは契約じゃなくて俺を潰しに来たのか」

「まさか。そんなつまらないことするわけがないじゃん。無力で無様で無価値なキミがいてこそ、俺の有用性が際立つんだから」

「はっ、どっちが無価値だか、この万年反抗期野郎が」


 刹那、ベリアルの顔から削ぎ落としたように笑みが消えた。


「……マリウス、今、何て言った……?」


 ベリアルという名の意味は「無価値」である。

 神(父親)からそう名付けられたこいつの気持ちは、俺には計り知れない。けれど、その闇が深いのは、歪みきった性格を見ればわかる。自らの名に抗うため、復讐のように己の職能――悪徳に情熱を注ぐのが、ベリアルという奴なのだ。


 だから、こいつに「無価値」は禁句だ。だけど、今はそれ以上に俺もむしゃくしゃしていた。


「ああ、何度でも言ってやるよ。いくら悪徳を重ねたって、所詮おまえは無価値……」


 ブチリ、と音がした気がした。

 美麗な顔が凄絶なものに変わり、彼の手が炎に包まれる。

 同時に俺も腕を振るっていた。

 俺の胸を炎が穿ち、ベリアルの頬を拳が打つ。


 ―――衝撃音。


 一瞬後、俺たちは同じようにキッチンに倒れていた。契約して地上にいる悪魔は、力をセーブされている。特に王クラスはそのままだと地上を滅ぼしかねないため、セーブ量が多いのだ。おかげで殴り合いくらいなら、引けは取らない。


「…………最低だな。顔を狙うなんて」


 しばし後、むくりと起き上がったベリアルが赤くなった頬を押さえて言った。先ほどまでの猛り狂った憤怒は見られない。俺も一発殴ったことで大分、すっきりしていた。


「いや、印章狙うほうが最低だろ。印章は悪魔の心臓だぞ」


 俺は自分の胸を確認する。印章の一部が焼けているため、明日一日くらい、その機能は制限されることだろう。

 ぱんぱん、と長衣の裾を払い立ち上がったベリアルは、後腐れなく笑った。


「心配しなくても今日のは布石だよ。マスターの信頼を得るための、ね。明日にはすべて終わらせる。俺だって、酸っぱい葡萄にかかりきりになるわけにはいかないさ」

「そうか。ならいい。もし今日みたいな日があと一週間続くとか言われたら、俺、自主退職しようかと思ってたとこだ」

「俺、転職経験者だけど、なんかアドバイス欲しい? あ、参考までに俺の天使時代の給与、聞く? びっくりするよ、高くて」

「自慢かよ! そんな四千年前の情報いらねえ」


 話しつつ俺は二階へ上がり、自室のドアに手をかけたところで、まだついてきているベリアルを振り返った。

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