三章 ④叛意
六畳間で立ち尽くした俺は、しばし放心していた。
常に護衛しろと俺を四六時中拘束し、中二病の秘密結社に付き合わせる。まあ、そこまではよしとしよう。俺の職能ガン無視&ブラック企業並みの労働時間だが、我慢できなくはない。しかし、悪魔の矜持を擲って得たバイト代を搾取するとは、どういうことか。
その対価が、卵一個。
――――冗談じゃねえ。
ぐしゃり、と手の中で卵が潰れた。
このままじゃいけない。ここ数日、久しぶりの地上生活に浮かれていたが、魂を得られない契約に価値はないのだ。それに、俺にはもう後がない。この契約で結果を出せなければ、リストラは免れられないだろう。しかし、対価は卵で契約書は交わしてしまった。後から内容の変更は不可。悪魔側からの契約破棄も不可。ならば――
紫から契約破棄をさせればいい。
ジョナクンでの合戦峯の言葉が甦る。
『直接、攻撃したり術をかけられないだけだろう。間接的にマスターを追い詰めることはできるはずだ』
その通り。マスターが自ら契約を破棄するよう仕向ければいいのだ。
マスター側から契約内容が守られない、もしくは契約書が破損した場合、契約破棄とみなされる。悪魔との契約を破棄した人間にはペナルティが課せられる決まりだ。それは地獄の法で決まっているし、契約書にも明記されている。
ペナルティとは魂の清算である。具体的には、契約者の魂を強制的に奪う権利が発生する。
つまり、契約破棄になれば、俺は対価や契約年数に関わらず、正当な権利をもって紫の魂を奪い取れるのだ。それしか俺の生き残る道はない。
クッ、と喉の奥から声が洩れる。俺の禍々しい気配を感じ取ったのか、床に垂れた卵をペロペロと舐めていたレオンが引いたように距離を取った。
今に見てろ、紫。悪魔の本当の恐ろしさを思い知らせてやる。悪魔を愚弄するとどうなるか、魂を奪われてから己の愚かさを悔やむがいい。
握り締めた手の隙間からどろりとした液体が垂れるのも構わず、俺は嗤い続けた――。
***
「ちょっと、何よ、これ!?」
週明けの放課後、秘密結社本部を訪れた紫と俺は、水浸しになった教室を前に立ち尽くした。
ロッカーの上に置いていた聖水のダンボール箱が破壊され、ペットボトルが散乱している。その蓋はことごとく開いていて、中身はすべて床にぶちまけられていた。
「きゃっ、荊原さん! これどうしたんですか!?」
後ろから来たノアが教室を覗き込み、驚いた声を上げる。紫は部屋の惨状を見つめたまま、握った両の拳をわなわなと震わせた。
「……片付けよ。今日の活動は片付け! 教室を元に戻すわ!」
紫は上履きが濡れるのも構わずバシャバシャと室内へ踏み込み、掃除用具の入っているロッカーを開ける。雑巾とバケツを取ると、入り口に佇む俺とノアをぎろりと睨む。
「何してるの! 早く掃除するわよ!」
「はいぃっ!」と紫の気迫に押されて返事をしたノアは、つま先立ちで教室に入っていく。それを見ながら俺は心底困ったように両手を挙げてみせた。
「俺はパスな。手伝いたいのは山々なんだが、聖水に触れると溶けるから」
じゃ、と内心でほくそ笑みながら踵を返した矢先、
ビシャリ、と音がして首筋に灼熱が爆ぜた。
ぐああぁぁ……と断末魔を上げて身体を捩ると、投げつけられた聖水の染み込んだ雑巾が首から重い音を立てて落ちる。
助けて、首が溶ける! 頭取れる!
不死身の悪魔の頭が取れたらどうなるんだろ、という素朴な疑問が、激痛に苛まされる俺の脳裏を掠めた。冷たい廊下に頬を寄せていると、濡れた上履きが近付いてくる。ドン、と顔の脇にバケツが置かれた。
「いい? あんたはバケツ運びだから」
降ってきた絶対零度の声に、俺は涙目になりながら「……御意」と答えた。
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