一章 ⑩対価

「はい」


 紫が持っていたのは鶏卵だった。真っ白い、ごく普通の卵。

 差し出されたそれを意味もわからず受け取る俺。

 俺があまりに不可解な表情をしていたのだろう。紫は一言、端的に付け加えた。


「それ、対価ね」

 ……は?

「対価って……何の?」

「何のって、契約のに決まってるじゃない」

「は?」


 今度は実際に声を洩らしていた。

 え? どういうこと? さっぱり意味がわからないんですけど。

 キョドる俺へ紫は、ついさっき交わしたばかりの契約書を突きつけた。

「ここに対価のこと書いてあるでしょ」

 言われて読む。悪魔には契約書の控え(人間用)は触れないから、中腰になって顔を近付ける。


『第七条 対価について

甲は乙に対し、労働の対価として契約日から五年後に魂を差し出さなければならない。それは甲の寿命いかんに関わらず……』


 文字が細かいため読みづらい。どうにかならんのか。って、俺が作ったのか。

 一人ツッコミをしながら文字列を追っていた俺は、第七条の最後に見覚えのない文言が付け足されているのを見つけた。


「……『ただし、魂は一日一個の卵で代用可』って、なんじゃこりゃあああっ!?」


 叫んだ俺を、紫は悪戯っぽい目で見つめる。

「そういうことよ。あんたは卵一個でこのわたし、セルシアと契約したの」

「んなバカな! 何故、卵なんだ!? よりにもよってなんで卵なんかで……」

「だって、魂を取らないといけないんでしょ? 簡単に手に入るものって、卵しか思いつかなかったのよねえ」

「なっ、卵に魂なんかあるわけないだろ! てか、それ以前に俺が言ったのは人間の魂のことだよ! こんな契約認められるか!」

「でも、契約書には書いてあるわよ? 手書きでも書いていればいいのよね?」


 にんまりと確信的な笑みを浮かべる少女。

 悪魔だ……!

 戦慄を覚えた俺の手の中で、冷たい卵がずしりと重みを増した気がした。


「本当は単に『卵一個で代用可』にしようかと思ったんだけど、五年も働いてそれだけって、さすがに悪いから、一日一個にしといてあげたわ。わたしったら、なんて心が広いのかしら」

 肩にかかる髪を優雅に手で払い、紫はまだ呆けている俺を見遣った。

「さあ、悪魔なんだから一瞬で掃除終わらせてよね。次は夕飯の買い物よ。荷物持ちは任せたわ」


           ***


 それから後のことはよく覚えていない。

 物置きに巣食っていたネズミのせいで掃除が難航したり、紫が箱買いしたお菓子やらペットボトル飲料やらを両手いっぱいに持たされた気がしたが、目の前が真っ暗になっていた俺にはどうでもよかった。

 夜になって、部屋へこもった俺はレオンの口からパソコンを出した。

 パソコンが立ち上がるのを待っている間、俺はすり寄ってきたレオンに卵をあげた。俺は悪魔だから人間の食べ物はいらない。嗜好品として食べることはあっても、生命を維持するのに必要なものではない。

 レオンが喜んで卵を丸呑みするのを見ながら、俺はため息を抑えられなかった。

 卵なんかで契約してどうすんだ、俺。

 油断したとはいえ、これではあんまりだ。

 俺は起動したパソコンで、掲示板にアクセスする。だが、いつものようにスレッドを見る気が起きず、気が付いたら新規スレッド立ち上げ画面に来ていた。思いついたスレタイを打ち込み、エンターキーを押す。



【悲報】俺が卵一個で残念な美少女と契約してた件【悪魔失格】



そのまま俺は眠りに就いた。すべてが悪い夢であることを願って。

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