一章 ⑧契約取ったよ!!!

 何はともあれ、これで契約は無事に結べそうである。こっそり安堵の息をついて、俺はペンを取った。紫の横に署名する。


 ペンを置いた瞬間、契約書が発光した。

 俺を見つめていた少女が「あ、ペイント消えた」と呟いた。だから、ペイントじゃねえ。入れ墨が消えたということは、俺が契約に縛られた証拠だった。

 契約書が二枚に分かれる。元から薄い紙が二枚重なっていたかのように、綺麗に剥がれた羊皮紙の一枚は俺の左胸――心臓の位置に吸い込まれた。



「《これは契約。悪魔の尊厳に誓い、我は汝をマスターと定める》……これで契約完了だ」


 契約時の古代語の詠唱は本来、マスターとなる者に敬意を払い、跪いてするのがしきたりなのだが、俺は省略した。この女子高生にわざわざ跪くこともないだろう。案の定、少女は「何これ、カーボン紙だったの?」と残った羊皮紙を摘んでいる。んなわけあるか。


「それは契約書の控え(人間用)だ。俺たち悪魔はそれに触れられない。おまえが俺のマスターであるという証拠であり、おまえと俺を繋ぐ絆でもある」

「絆……?」

「契約書の片割れは俺の胸にある印章(シジル)――心臓に入ってる。マスターがその控えに呼びかければ、印章を通じて俺はいつでもおまえに召喚される、というわけだ」


 いつでも、と少女の唇が動いた。契約書に目を落とし、紫は大事そうにそれを胸に当てた。その反応が新鮮で、ちょっとドキドキする。

「あと、これは注意事項だが、それが破れると契約破棄とみなされる。破棄された場合は、契約年数に関わらず俺たちは契約者の魂を取っていいことになっている。だから、悪魔と契約している奴は大抵、契約書を肌身離さず持ち歩いているな」

 魔術師としては素人くさい少女に親切心から説明した俺は、片手を上げた。


「じゃ、これで」

 レオンを掴んで教室から出て行こうとしたところで、シャツの背中を引っ張られる。


「待ちなさいよ。どこへ行くつもりなの?」

「どこだっていいだろ。こっちは久しぶりの地上なんだよ。テキトーに観光したら地獄に帰るつもりだけど」

「あんた、わたしに仕えるって言ったわよね? そんな勝手な行動が許されると思ってるの?」

「へ? だって、望みがあるときは契約書から呼んでくれたらすぐ来るけど? それまでは俺がどこにいたって問題ないはずじゃ……」

「セルシア・ローザ・レヴィが命じる。アンドロマリウス、常にわたしの傍から離れず、わたしを護衛しなさい」


 身体を捩って紫の手を振り解こうとしていた俺は、凛とした声に動きを止めた。肩越しにマスターとなった少女を見遣る。紫は大真面目な表情で俺を睨みつけていた。磨き上げられた黒曜石を思わせる瞳が鋭い光を放ち、俺を射抜く。

「……はあ?」

 四千年来、初めて言われた望みに俺は素っ頓狂な声を上げていた。すると、少女の顔がみるみる間に赤く染まっていく。

「『はあ?』じゃないわよ! そこは『御意』と言うとこでしょ! それとも、わたしの命令が聞けないというわけ!?」

「いや、聞けないわけじゃないけど、護衛って、そもそもおまえは誰かに狙われているのか? とてもそんな風には見えないが……」

 フッ、と紫が笑みを洩らした。俺の視線を受けながら、思わせぶりに紫は窓へ近寄る。


「そう思うのも無理はないわね。普段、わたしはただの女子高生として振る舞っているけれど、山下高校一年二組、荊原紫とは仮の姿。正体は、二十一世紀最大の魔術師にして秘密結社、紫の薔薇十字会の会長、セルシア・ローザ・レヴィなのよ!」


 痛々しい台詞と共に、少女は窓を開け放った。校庭の土埃を含んだ暖かい春風が吹きつけ、長い黒髪を躍らせる。

 部活動に励む生徒たちの声をバックに自らの設定を公言した紫を、俺はぽかんと見つめていた。それを驚嘆したとでも勘違いしたのか、紫は得意げに続ける。


「世界征服を目論む悪の秘密結社イルミナティは、最強の魔術師であるわたしを恐れているわ。だから、いつもわたしを監視して、刺客を放ったり、陥れようとしてくるのよ。そういうわけで、あんたはずっと傍にいて、イルミナティからわたしを守らないといけないの。わかった?」

「……わかった」

 おまえが重度の中二病患者だということが。

 とんでもない奴をマスターにしてしまったという後悔が沸々と湧き上がってくる中、紫は俺の内心に気付くことなく続ける。


「あ、返事は『御意』ね。イケメンじゃないとしても、悪魔キャラなんだから定番の返事くらいは守ってもらわないと」

「キャラじゃなくて、俺、本物の悪魔……」

「それじゃあ、家に帰るわよ。そろそろ住み込みで働く人手が欲しいと思っていたところなの。ちょうどよかったわ」


 俺の弱々しいツッコミを華麗にスルーした紫は、机に放り出していたカバンを取ると、俺の脇を軽やかな足取りですり抜ける。鼻歌でも歌い出しそうな調子で教室のドアを開け、少女は俺を振り返った。


「返事は?」

「……御意」

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