第1章 王都編 第3話(1)
エメリアが夜の街を駆けていたのと、時を同じくして。
王都ブライトハイトの王城のとある一室で、男が机に向かっていた。
男の居室であろう部屋の大きさと造りは、豪奢とまではいかないが装丁の整えられたまさに王城の一室といった趣で、整然と整頓された部屋は部屋の主の性格を表しているかのようだった。
白銀色の髪と凛々しい目をした男は、机上照明器の光を頼りに、机に向かって紙に金属製のペンを走らせていた。その目は光を映すように鋭く、細面の表情も引き締まっていた。
机の上に既に七通したためられた書簡は、彼にとって自らの運命を託すほどの大事なものだった。月明かりがベランダの窓から入り込み、紫色のカーペットの敷かれた室内を淡い夢幻のような色に染めていた。
最後の一通を書き終えた所で、男は微かな物音と気配を感じて、窓の方を振り向いた。
窓の外、ベランダで一匹の猫が窓を叩いていた。月明かりを浴びてその滑らかな毛並みを
男は窓に歩み寄って窓を開け、猫を部屋の中に入れると窓を閉めた。美しい毛並みからしても想像がつくように、この猫は王城に住む男の飼い猫だった……というとやや語弊があるのだが。
「首尾はどうだ、シェリル」
男は青さの残る切実な声で、猫に、まるで人に話しかけるように話しかけた。
その言葉に、猫が前足を舐めながら、甘い声でふてくされたように答えた。
「もう、アルベルト様のいけず。可愛い飼い猫がせっかく危険な仕事を終えて帰ってきたのに、お疲れさまの一言もなしですか?」
その言葉と同時に猫の体が光に染まり、流体のようにその輪郭を変えていく。
光が収まった時、そこには菫色の髪と猫のような丸い瞳をした少女がすたりと立っていた。着衣はなく、あどけなさを残す小柄で無垢な体をあらわにしたまま。
裸のまま目で何かを訴えてくる少女に、男は参ったような顔で首を振った。
「男の前では服を着ろと毎度言っているだろう、シェリル」
「あら、ごめんなさい。でもわたしはそうやってアルベルト様が照れ隠しに困るのを見るのが好きなんですよ。そうでもしないとアルベルト様、ドキッとしてくれないでしょ?」
菫色の猫少女――シェリルは男をからかうようにうふふと笑うと、その場でくるりと一回りし、魔法で首元の鈴の中に収納していたフリル付きのミニスカートのメイド服をぱっと身につける。男はため息をついて、愛しい飼い猫を労った。
「すまなかったね。お使いありがとう、シェリル。……まあいい。それで?」
「ちょっと危なくなってきてるかもしれませんね。計画は表と裏で着々と進行しているみたい。王様も宰相様に判断を動かされていますし、国府の流れはあの方々の思惑通りに傾きつつあるみたいです」
「そうか……」
シェリルの言葉を受け、男は険しい目になる。
「まずいな……このまま潮流が強くなれば、僕一人の力では止めようがない。このままでは、彼女が……クラウディアが、危ない」
男はそう呟くように言って沈思黙考に入ろうとする。
「どうなさいます? アルベルト様」
シェリルが主人の判断を仰ぐ。
彼女の言葉に、主人――アルベルト・ハインツヴァイスはしばし考え込んだ後、
「時は、動きつつある、か……僕も動く時かもしれないな」
深刻な声で、自身の運命を考えるように言葉を紡いだ。
窓から入り込む月明かりが、静寂に満ちた二人の部屋を薄明るく照らしていた。
「実働班希望、か。頼もしいこったな」
翌朝、詰所の会議室の机で受付嬢に渡された書類に記入をしていたクランツを上から覗きこむ声があった。
クランツが声のした方に顔を上げる。
そこには、年季を経た褐色の固い肌に色の渋い
「ゲルマントさん」
「よう。頑張ってるか、クランツ」
歴戦の士――実働班長にして「教官」ことゲルマント・ゲガンゲンは、気さくな口調と笑顔でクランツを労った。
「話はあいつから聞いてるぜ。ようやっと最終試験にこぎつけたらしいな」
あいつ、というのはクラウディアのことだ。クラウディア、サリュー、ゲルマントの三人は王都自警団の古参メンバーにして実質上のリーダー格である。過去にそれを実証する三人共通のとある実績があることもあって、三人はほぼ等しい立場にいる。当然のように三人の関係も昔なじみのように気さくで親密なもので、クランツはあまりに立場が違うことを自覚しながらも、そんな彼女との距離の近い関係を羨ましく思ったりする。
クランツはそんな老練の士に認められたような気がして、少しばかり喜色の滲んだ声で、ゲルマントに答えた。
「はい……今書いてるのは、意思確認の書類みたいです。必要事項と希望を書けって」
「お前さんみたいなちびっ子が実働班志願か。いやはや、大した根性だな」
またしても子供扱いされているようなゲルマントの言葉に、クランツは少しむっとした。
「ちびっ子って……僕みたいな子供は、やっぱり実働には向いてないってことですか」
「いや、気に障ったなら悪かった。むしろ歓迎だよ。実働はいざという時の人手が何より貴重だ。一人でも心ある奴が志願してくれるのを歓迎しないわけがない」
少年への非礼を詫びたゲルマントは、それに、と少しばかり感慨を込めた声で続けた。
「お前さんみたいな若さで入ってくれるんなら、いくらでも育てがいがあるしな。若いってのは素晴らしいことなんだぜ。時間と未来があるからな。いくらでも強くなれる」
年寄り臭い言葉にも聞こえる台詞だったが、クランツにはそれは練達の戦士の金言に聞こえた。
「本当ですか?」
「ああ。本当さ。だからお前さんの意志は高く買うぜ。期待するよ、クランツ。まあただこの間の訓練での失態はちと見過ごせんがな。女に気を取られて実戦中によそ見たぁ、先が思いやられるぜ」
「う……す、すみません」
ゲルマントはそう言って、恐縮するクランツの肩をポンと叩いた。自警団に入ってからというもの、彼には訓練や研修の内で指導を受けていたが、ここまで個人的に期待をかけてもらうような言葉をもらったのは初めてかもしれなかった。クランツは不思議な感慨を覚えて、胸が熱くなった。
「だが一応実働班の長としてちょいと言っておくが、実働は甘くねえぞ? 実際に町の人らの信頼に関わることが多い上に、有事の時には戦力として真っ先に出動する役目だ。当然負傷や死の危険にもさらされることだってある。それも覚悟の上か?」
そして、ゲルマントは少し意地悪にクランツを試すようなことを投げかけた。
その言葉を聞いた時、クランツの脳裏にふいにクラウディアの姿がよぎった。そしてその一瞬の眩しい閃きは、クランツの心に勇気を漲らせた。
僕が頑張るのはあの人のためだ。そのためなら、どんな大変な仕事だってやってみせる。あの人に認めてもらえるのなら……あの人のためなら、何も恐れてはいられない。
そう思うと、クランツは心が引き締まるのを感じた。
「はい。何でもやってみせます。力になれるように頑張ります!」
あの人のために、というのは心の中に伏せておいた。ゲルマントはクランツの自信の表れた声を聞いて満足そうに笑った。
「頼もしいな。その言葉、確かに聞いたぜ。バシバシ鍛えてやるから覚悟しとけよ。だがまあその前に、今はお前さんは目の前の試練に集中する時だったな」
その言葉を聞いて、クランツの中に素朴な疑問が生まれた。
「そういえば、ゲルマントさんは今日の仕事はどうしたんですか? いつも朝からどこかに出立してて夜まで帰ってきませんけど」
「俺を浮浪人みたいに言うなよ。せっかくお前さんのためにその通常営業をさぼってやったってのに」
「え……」
言葉の意味がわかりかねるクランツに、ゲルマントは頭を掻いてみせた。
「まあ、俺もその任務にちょいと協力することになったのさ。政府の裏が絡んでるとなると、何かと内情を探りやすい俺が役に立ちそうだからな。それでついでにお前さんの様子を見に来たってわけだ」
「そうだったんですか……」
状況を飲み込んだクランツに、ゲルマントが続けて声をかける。
「ま、そういうわけだ。あいつから今回の任務要員に召集がかかってる。書類の記入が終わったらさっさとあいつの所に来いよ」
「あ、は、はい! もう終わりますから、ちょっと待っててください!」
ゲルマントの言葉にクランツは慌てて書類にペンを走らせた。
どんな小さなことであれ、彼女を待たせるのはよくない。
記入を終えた用紙をさらうように持って、クランツはゲルマントと共にクラウディアの待つ団長室に向かった。
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