(三)
学食の片隅。講義の真っ最中なので、学生はまばらにしかいない。ぼーっと放心しているわたしの真向かいで、坂野くんがデジカメの液晶をずっと確かめ続けている。
「さっきの、撮れたの?」
「撮れたよ。さすがに、今年はこれで最後だろなあ」
「ふうん」
意識が自分自身に戻ると、すぐ自虐モードに陥る。それが嫌で、少しだけつっこんでみる。
「ねえ。坂野くんて、理系だったっけ?」
やっとこさカメラから目を離した坂野くんが、ひげ面をもさっとさすった。
「いいや。ばり文系。蝶撮るのは純然たる趣味だよ。もう十年以上になるからね。撮影の腕前はともかく、撮影歴だけはベテランさ」
「なんで蝶?」
「そうさな」
坂野くんは、テーブルの上にデジカメをごとっと置いて電源を切り、腕を引くなり頭の後ろで組んだ。
「小学校三年の時」
「へ?」
いきなり何をと訝ったわたしを置き去りにして、坂野くんが真顔で話し続ける。
「クラスに仲のいい女の子がいてね。そいつが蝶大好きだったんだ」
「へえー、女の子で虫好きかあ」
「その年齢なら、あんま男女関係ないよ。虫というより、ピンポイントに蝶好き。きれいだし、飛ぶ姿もかわいいし、襲われるとか刺されるとかの心配もないし」
「まあ……そうだよね」
坂野くんが、冬枯れの木立に目を移した。
「俺はどっちかというとかっこいい虫派で、カブトムシとかクワガタの方がよかったんだけどさ。そっちは虫好きっていうより自慢話ばっかになっちゃうんだ」
「何を何匹持ってるってやつね」
「そう」
少しだけ目を細めて。坂野くんが昔話を続ける。
「純粋に虫が好きってやつは、その子しかいなかった。だから俺も自然に蝶オンリーになった」
「ふうん」
「で、それが今でも続いてるってわけ」
「その子は?」
細められていた坂野くんの目が不意に閉じた。
「死んだ。俺が小五の時。病気でね」
「あ……」
「そいつ、病院は蝶が見られなくてつまらんとずっと文句言ってたからさ。それから写真撮るようになったんだ」
淡々と。坂野くんが事実を並べる。
「その子のこと、好きだったの?」
「いや、友達。虫好きの大事な友達」
「……」
「小学生で、俺らの年齢みたいな好き嫌いはないって」
「……うん」
「ただ、俺はかけがえのない友達を失った。俺には、蝶を追うという趣味だけが残った」
ごついデジカメを持ち上げた坂野くんは、それを革ケースに納めてバッグにしまうと、代わりにタブレットを取り出した。
「なに?」
「いや、行きたいとこがあってさ」
「どこ?」
「ブラジル」
「何しに?」
「蝶を見に」
再生された動画はどこかの森の中だ。無音。青い蝶がきらきらと羽を輝かせながら樹間を飛び交う様子がひたすら続く。
「モルフォチョウ。日本でもミドリシジミとか、羽が金属光沢のきれいな蝶はいるけど、こいつは別格」
「蝶だとは思えないね」
「そう。でも、日本にはいないんだ。その女の子と、一度飛んでる実物を見たいなって何度も盛り上がったんだけどさ。標本ならともかく、生きてるやつは向こうに行かないと拝めないから」
「いつ行くの?」
わたしが聞いてもしょうがないと思ったけど。思わず口をついてしまった。坂野くんは、画面上で飛び交っている蝶をじっと見つめたまま黙り込んだ。それから……ぼそっと答えた。
「いつか、さ」
「……」
さっき道に落ちていた枯れ葉色の
ああ、でも。わたしもそうじゃないか。地味で目立たない上に、羽が片方折れてる。どこにも動けないのに、はるか上空を青い蝶……サトシが軽やかに舞い飛んでいる。
坂野くんの独り言は続いた。
「そこになければ諦められるけど、そこにあれば欲しくなる。人の欲望ってのはおっかないなと。しみじみ思う」
「欲望、かあ」
「戸山さんのもそうだろ。増井先輩。まだいるもんな。彼女連れで」
いきなり真正面から槍で串刺しにされたようなショックだった。血の気が引いたわたしを見ることなく、冬木立に蝶を探すような視線を向ける坂野くん。その口だけが無慈悲に動いて、残酷な言葉を静かに整える。
「
ぼやける光景。遠ざかる音。世界が引き裂かれる。その真っ暗な亀裂に滑り込むように、坂野くんの声が密やかに舞い落ちる。ちぎれた青い羽のように舞い落ちる。
「物理的に離れた方がいいと思う。講座変えるか、いっそ休学するか。空が見えれば、戸山さんは必ずそこまで飛びたくなる。でも、片羽じゃ飛べない。焼けた赤土の上をあてどなく転がり続けるだけだ。それじゃあ、最後に壊れちゃう」
泣き崩れたわたしの向かいで、がたんと椅子が鳴る音がした。
「それが好意とか愛情ってものに絡んでなくても、俺はあの時からずっと片羽のままなんだ。だから、蝶撮りは趣味にしかできない」
◇ ◇ ◇
這うようにしてアパートに帰り、着の身着のままで丸一日泣き続けた。サトシに振られたばかりの時には、ここまで泣けなかった。心のどこかで、まだ失地回復のチャンスがあると思っていたのかもしれない。
でも積み重なるサトシなしの日々は、すぐにわたしを幻想から追い出した。サトシが、次の彼女と付き合い始めたからだ。わたしと違って、すぐ感情が表情に出るテンポのいい子。ああ、サトシはわたしで懲りたんだなと……思わざるを得なかった。
折れたのはわたしの羽だけだ。二つあったはずの羽がいつの間にか一つになっていて、わたしだけがそれに気付かない。いや……気付いていても認めない。わたしは飛べる。まだ飛べる。だって、そこにサトシがいるから。
膨れ上がってしまった恋情が出口を失い、サトシというもうない羽を力づくで羽ばたかせようとする。わたしは無様だ。どこにも飛べずに、その場でぐるぐるただ回り続けるだけ。ぐるぐるぐるぐる……。
ぴん!
メールの着信音。真っ暗な部屋の中、スマホの四角い明かりが空のように見えた。どこにもつながっていない、狭苦しい空に。
のろのろと体を起こして、メールを読む。
『ノートのコピー、添付しました。ついでに俺の分もレポート書いといて。明日からしばらくブラジルに行きます。どうしても
「……」
いくつか改行が続いて、追伸ぽく一文が足されていた。
『蝶と違って、俺たちの羽はまた生えます。あまり思い詰めんようにね。ほな行ってきます』
【 了 】
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