第十六曲 片羽の蝶

(一)

「坂野くん、どうしたの?」


 全身黒づくめのもこもこした格好で、同じ講座の坂野くんが道のど真ん中にしゃがみこんで何かしていた。


 そこは大学構内の散策路。散策路って言っても講義棟の裏手にあるから、人はあまり通らない。ぼさぼさの木立がまだらに生えていて、その間を縫うようにして舗装されていない細い道がよろよろと続いている。

 夏の暑い時は木陰が多くて涼しい場所だけど、蚊がすっごく多い。学生だけでなく、教職員からも木を伐り払った方がいいという意見が出てるみたい。でも旧跡の一部が敷地に入り込んでいて、勝手に現状を変えられないらしい。だから人通りが少ない幽霊道みたいになっちゃってる。

 今は冬だから蚊はいないし、多くの木が葉を落としていてすっきり明るい。散策路という評価に十分耐えると思う。ただ。わたしは裏道の風情が好きだからそこを歩いていたわけじゃない。わたしを知ってる人と出くわしたくなかったんだ。坂野くんだけじゃなくて、同じ講座にいる他の誰とも会いたくなかったのになあ。


 しゃがみこんだまま顔だけわたしの方に向けた坂野くんは、素っ気なく答えた。


「ああ、戸山とやまさんか。蝶を撮ってたんだ。キタテハの秋型。もうほとんどの蝶が越冬に入ったと思うんだけど、今日は暖かいからね」


 坂野くんは、長身でがっしりした体格だ。顔も押し出しが強い上に、ひげだらけの毛むくじゃら。容貌が目立つのに愛想がよくないので、講座の中では浮いてる。わたしもあまり話をしたことがない。わたしの顔を一瞥した坂野くんが、手にしていたカメラを持ち上げた。ごっついデジイチ。へえー、坂野くんが蝶ねえ。

 撮影を邪魔したくなかったけど、坂野くんが道のど真ん中にしゃがんでいるからこのままじゃ通れない。こそっと近寄った。


「あ」


 昨日の夜降った雨が道に小さな水溜りを作っていて、その縁に茶色っぽい蝶が留まっている。


「逃げないの?」

「逃げない……というか逃げられないんだよ」


 坂野くんが、そっと指を伸ばした。驚いたように羽ばたいた蝶が、不恰好にひっくり返る。


「え?」

「片方の羽が根元から砕けちゃって、ないんだ」

「生きて……るよね」

「生きてるよ。水溜りで吸水している時に鳥に襲われたのかもね」

「ふうん……」


 さっきまでじっとしていたはずの蝶が激しくのたうち回るのを見て、わたしは気分が悪くなってきた。


「ごめん。わたしこの先に行きたいから通してくれる?」

「ああ、済まん済まん」


 のそっと立ち上がった坂野くんが道の脇に退いて、わたしはその横を走り抜けた。坂野くんの視線が背中に当たるのを感じる。でも、振り返りたくなかった。


◇ ◇ ◇


 午後イチのマクロ経済概論。わたしは一番前の席にいるのに、ほとんど気絶していた。さっき見た蝶の姿がべったりと脳裏に張り付いて、どうしても消えてくれない。蝶を考えないようにするためには、意識をぼやかすしかなかったんだ。

 何にもセンサーを働かさないで、教授の声を穏やかに吹き渡る風のように聞き流しながら、少しだけ顔を伏せる。このまま眠ってしまえればどれほどいいだろう。でも、脳内はきんきんに冴え渡っていた。何を思い何を考えても、それらがわたしを小さな黒点にじわじわと追い込んでいく。

 黒点の裏には「失恋」と書いてある。裏側に引きずり込まれたが最後、わたしは一歩たりとも動けなくなるだろう。それがわかっているから、できるだけ意識を拡散させる。蝶にも失恋にも意識が吸い込まれないように。


◇ ◇ ◇


 失恋なんてどこにでも転がっていることだし、自分に縁がないなんて思ったこともない。でも、知識として知っている失恋と、自分が今味わっている失恋が同じものだとはとても思えなかった。


 失ってから初めて恋だと気づいたなんていうふざけた言い訳を聞くけど、そんなの恋じゃないよ。逃した魚が大きいことに後で気づいて、自尊心を保つためだけに「恋」というフォトフレームに自分を入れて飾っているだけ。自分の横にぽっかり人型がくり抜かれていて、恋にし切れなかったカレシカノジョの残像が置かれる。それは特定の人でなくてもいい。誰でもいいの。隣に立っている自分が嬉しそうな顔をしていて、その姿を恋だと錯覚できれば、ね。

 本当の失恋は違う。恋を失う痛みは、自分も含めた世界全ての崩壊になる。失恋の痛みに耐えかねて、自らの生命を断つという悲話。かつてのわたしは、バカじゃないのとそれをせせら笑っていた。でも自分がいざ当事者になったら、死に値するほどの激烈な痛みにみんなはどうして耐えられるんだろうと思ってしまう。


「じゃあ、今日の講義はここまで。レポートは、必ず提出期限前に出してください。締め切りを過ぎてからは一切受け付けません」


 老教授のかちっと乾いた声で我に返った。ああ、誰かにノートを見せてもらわないとな……。


◇ ◇ ◇


 講義棟を出て、また裏に回る。飛べないんだから、あの蝶はまだいるんじゃないかなと思って。見たくはなかったんだけど、どうしても確かめたかったんだ。でも……蝶はもういなかった。


「ああ、やっぱりいなくなったか」


 道の真ん中で凍りついていたわたしを見かけたんだろう。昼前と同じ格好……ごついカメラを片手に坂野くんが水溜りを見下ろしていた。


「さっきのが、今年の蝶の見納めになったかな」

「あの蝶はどこに行ったの?」

「わからないよ。飛べないから、自力で遠くに行くことはできない。おそらく鳥のえさになったと思う」

「そっか……」


 わたしの中では。さっきの蝶が食べられてかわいそうだという意識よりも、蝶に生の終焉が告げられたことへの安堵の方が大きかったかもしれない。


「坂野くん、午後の講義は?」

「それは俺が聞きたいけど。もういいの?」

「五、六講とあるんだけど、今日はパスする。削がれた」

「ふうん」

「あとで、さっきの講義のノート見せてくれる?」

「講義に出てたよな」

「出てたけど……」


 澄んでいるのか濁っているのかわからない小さな水溜りに、自分の姿を写してみる。苦笑とは言え、こうやって笑顔を作れること自体がどうしようもなく不思議だ。自分でも、ひどく痛々しいなと思ってしまう。表情にすることができない絶望を、小さな言葉の綴りに編んでみる。


「今はダメ。どうにもならない」


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