(三)

 青い服を着た女性の白骨死体を発見した私たちは、怒涛のような警察の取り調べとマスコミ取材に連日悩まされた。真犯人が特定され、嫌疑が晴れてやっとごたごたから解放された私と加藤くんは、揃って私の書斎の床で大の字にのびた。弱々しい声で加藤くんが嘆く。


「先生……呪文ていうのは、こんなに強烈なんですかね」

「いやあ、呪文なんてものはほとんどが思い込みと自己暗示さ。それ自体にはなんの力もないよ」

「うう」


 怪奇譚というのは、現実ではないからこそ怪奇でありうる。しょせん絵空事にすぎないから読み物として鑑賞できるんだよ。こんなとんでもない事実をセットにされたら、怖くて読めなくなるだろうが。くそったれ!


「ふう……」


 彼女はすでに死んでいる。加藤くんから最初に状況を聞いた時、すぐにそう思い至った。私はそういうのをネタにしているから仕方がない。一種の商業病だ。

 同じ服で、時間とタイミングお構い無しに現れ、ずっとつきまとう。彼女がその異常性を一切考慮していないということは、「早くわたしを見つけて欲しい」というアピールに他ならない。ただ……見つけて欲しかったのは死体ではなく、彼女の存在そのものなんだろう。美浜さんの身辺を調べているうちに、彼女の抱えていた深刻な事情が浮かび上がっていたんだ。


 美浜さんは実の両親と死別していて、叔母の家から学校に通っていた。叔母の家ではずっと邪魔者扱いされており、大学に通い始めたものの両親の遺した財産を使い果たした叔母からさっさと辞めて働けと言われていたらしい。叔母との激しい口論の末に家を飛び出し、行き場がなくて真夜中とぼとぼと歩いていたところを暴漢に襲われ、廃屋に引きずりこまれて犯された挙句に殺された。

 半年近く事件が表沙汰にならなかったのは、扶養者である叔母が捜索願いを出さなかったからだ。厄介払いしたとしか思っていなかったんだろう。ひどい話だよ。


 自分の存在がどこにもない。どこにも自分の置き場が見つからない。美浜さんは、同じような立場なのに自力で居場所を作ろうとしていた加藤くんがうらやましくて仕方なかったんだ。その感情が好意という名で呼べるものかどうかはともかく。単なるシンパシーさえ愛情と錯覚してしまうほど、彼女はどうしようもなく寂しかったんだろう。

 どれほど多くの友人に囲まれ、どれほど先生たちから称賛されていても。それは、彼女が抱え込んでしまった底無しの寂寥感を埋めることはできなかった。事実として、できなかったんだ。


 力なく床から半身を起こし、両腕で頭を抱え込んだ加藤くんが、うめくようにして問うた。


「ねえ、先生」

「うん?」

「なんで……僕に絡んだんでしょうね。本当に僕のことが好きだったんですかね」


 なぜ彼女が執拗に加藤くんに絡んだのか。真意は彼女ではない私にはわからないよ。ただ……私がもし彼女の立場なら、私もきっと加藤くんに絡んだだろう。

 それまでどんな付き合いがあったにせよ、死んでしまえば自分の存在は結局誰からも忘れ去られてしまう。みんな自分の幸福を膨らませることに躍起になって、ちっぽけな自分を置き続けてはくれない。自分の身の置き場がない辛さを知っている人……自分と同じ重荷を抱えて苦しんでいる人にしか強い印象を残せないんだ。

 アプローチを好意という形で示さなかったのも理解できる。美浜さんがどんなに真剣に愛の告白をしたところで、加藤くんが告白を受け入れることはない。絶対にない。にべもなく拒絶し、徹底的に遠ざけるはず。自分の存在を彼の心に刻み込むためには、傷をつけ続けるしかなかったんだ。

 わたしはここにいるの。わたしから目を逸らさないで。わたしを見捨てないで。彼女が執拗に続けた揶揄は、魂の叫びだったんだろう。


 でも。私は推論の中身を加藤くんに言わないことにした。それは生きている彼には何の足しにもならない。呪文を代唱したのは私だ。だから、私があの世まで持っていくさ。


「なぜか、か。それは分からんわ。私は彼女じゃない。彼女の口からじゃないと真実は得られないよ。もっとも」

「はい」

「彼女がもし何か言い遺したにしても。それが彼女の本心かどうかはわからないね」

「そう……ですか」


 私もゆっくりと身体を起こす。さっきから、窓の外で一羽の青い蝶が中に入りたそうに飛び回っている。その蝶を横目で見ながら、言葉を足す。


「彼女がずっと唱えていた呪文は、君に……いや誰にも届かなかった。誰にも効かなかったんだ。それが、呪文というものの正体なんだよ」

「……」

「人に効かない呪文が、ましてや自分自身に効くはずがない」

「あ、それで」

「そう。だから私が代唱したわけ。君や彼女以外の誰かが口にしない限り、その呪文が効く可能性は永遠に生じないんだ」


 しばらく黙って考え込んでいた加藤くんは、ゆっくり顔を上げて私の顔を見つめた。初めて会った時と同じ、とても切羽詰まった表情で。


「先生は……今回の話をネタにされるんですか?」

「しないよ」


 ほっとしたように。加藤くんが、力の入っていた肩をそろっと下ろした。その様子を見ながら理由を説明する。


「怪異というのは実存しないから怪異でありうるのさ。そこから離れればいつでも現実に戻ってこれる。だが、今回の出来事は現実だ。私にも読者にも逃げ場がない。それに、ノンフィクションじゃそもそも創作にはならないよ」

「そうですよね」

「永遠に、呪文のままにしとくさ」


 ゆっくり立ち上がり、窓の外を忙しなく飛び回っていた青い蝶をじっと見つめる。それから、覚悟を決めて窓を開けた。霜月の寒気がどっと流れ込み、それと一緒に青い凍て蝶がすいっと舞い入った。吸い寄せられるように加藤くんに向かって羽ばたいた蝶は、呆然としていた彼の目の前で一瞬きらりと強く輝き、ふっと消えた。


 彼女の最後の呪文は。


 加藤くんの涙に変わった。



【 了 】

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