(三)

「ねえねえねえ、松野課長!」

「う……ん?」


 聞き慣れた電子音の代わりにかしましい女性の声が耳元で響いて。いつものように三十分の午睡から覚めた。のろのろと顔を上げると、いつも好奇心たっぷりの瞳の上にさらに好奇心を五割り増しした須貝さんが、倒れ込まんばかりに身を乗り出していた。目尻にうっすら残った涙を拳で擦りながら、でかい欠伸を一発ぶちかます。


「はわわわっ」

「課長、結婚されるって本当ですか?」

「おいおい、いきなりその突っ込みかよ」

「だって課長ってば、全然そういう素振り見せなかったしぃ」


 まだまとわりついて離れない眠りの破片を、ゆっくり首を振って払い落とす。次々こみ上げてくる小さい欠伸を噛み潰しながら背を伸ばすと、現世うつしよの輪郭がかちりかちりと音を立てながら定まり始める。その中に須貝さんのちゃめっ気たっぷりの顔が大写しになっていて、思わず苦笑する。


「っふうう。昨日今日の話じゃないんだ。付き合いの長いひとだから、結婚というよりけじめをつけると言った方が近いかもな」

「へえー!」

「俺らの年が年だ。俺にも妻にももう両親がいないし、親族も年配者ばかり。だから結婚式とかそういうのは一切なしさ。事実婚に等しいから地味なもんだよ。まあ、そのうち若い連中で飯を食いに来てくれ。妻も喜ぶだろう」

「そっかあ。奥様はどんな方なんですかー?」

「んんー、どんなって言われてもなあ」


 改めて訊かれると……なあ。思わず考え込んでしまった。


 ずっと二人きりだったんだ。俺も楊も、そこに俺ら以外の者がいるという世界を久しく失っていた。月がそこにあるのが当たり前なように、楊はそこにいるのが当たり前の存在だとしか言いようがない。ただ、もし月がなくなってもそれは仕方ないと思えるが、楊が失われることには耐えられそうにない。

 だからこそ、楊が俺と同じように眠りの回廊を無事くぐり抜けてこちらの世界にたどり着いたことに、たとえようのない安堵を覚えた。公に祝言を挙げることにしたのも、こちらの世界で互いの存在を確固たるものにするまじないなのかもしれない。


 俺はこちらで年を重ねて冴えない中年男になったが、こちらに来たばかりの楊は見てくれが俺よりずっと若い。職場の連中は楊を見て仰天することだろう。ははは。


「まあ、実際に会って判断してくれ」

「ええー? ずるーい!」

「てか、こんなくたびれ切ったおやじの恋バナなんざ聞いたって、おもしろくもなんともないだろ。須貝さんこそカレシの自慢話はせんのか? いくらでも突っ込んでやるぞ」


 一撃必殺。ぐっと詰まった須貝さんが、こそこそと退散した。中年のおっさんいじってる暇があるなら、もっと自分の恋活をがんばれよ。まったく。


◇ ◇ ◇


「あなた? 何を見てらっしゃるの?」


 マンションのベランダに出て満月を見上げていたら、楊がそっと隣に立った。


「月さ。俺らがここに来たから全部なくなるかと思ったんだが、とりあえずまだ向こうも残っているようだな」

「ええ」


 俺らが眠っている間は、あの庵に戻れている。居所の主従は逆になっているが、慣れ親しんだ時の過ごし方を全部捨て去らなくても済んだことは間違いなく僥倖だろう。ただ……。


「いずれは消える、な」

「そうね」


 楊が寂しそうに顔を伏せ、それから小声で嘆いた。


「わたしにも……なんとなくわかっていたわ。わたしたちは、ここの人たちに創られた儚い存在。その想像が途絶えれば、月人の世界はいつしか消える」

「ああ」

「衰微というのは……そういうことだったのね」

「まあな。だから、ここで俺ら自身が月人のことを想っている間は、向こうは消えない。ここでの俺らの終焉が、全ての月人の終わりになる。そういうことなんだろう」


 改めて月を見上げる。煌々と輝く黄金色の月。そこに永遠不滅の理想郷を描きたくなる魅力的な天体だ。だが俺らが月を離れる時に見たのは、染みるように青い月……地球だった。己の生をこれでもかと誇示するように鮮やかに輝き、俺らをいざなった。そして今。俺らは青い蝶の上にいる。いや、月から解き放たれた俺らもまた、青い蝶の一羽として新たな世界の中を羽ばたき始めたのだろう。


「お茶になさいます?」

「ああ、そうだな。その前に」


 楊を引き寄せ、長いキスをする。それから肩を抱いて、二人でもう一度月を見上げた。


「もはや、いずれが夢でいずれがうつつか分からん。まさに胡蝶の夢、だな」



【 了 】

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