(二)
ちんっ!
澄んでいるが鋭い
「
「ああ、済まぬ」
青く細い
「のう、楊よ」
「なんでございましょう?」
茶器に湯を注いでいた楊が、その湯を切りながら私に向き直った。
「そなたは、ここにずっとおって飽きぬか?」
「またその話でございますか」
呆れ果てたように声をあげた楊が、少しだけ眉根を寄せた。
「飽くもなにも、私ども
「まあな」
二人の間で何千何万回と繰り返されてきた確認の会話。だが私は、着実に忍び寄っている衰微の足音にずっと耳をそばだて続けてきたのだ。
ここはかつて大勢の天界人が住まう世界であった。辺りを営々と埋め尽くす丹塗りの御殿。それはかつての栄華を今も匂わせている。私の住まうこの庵は、その端にある一点に過ぎない。だが、荘厳華麗な世界に残っている月人は今や私と楊だけになっていた。
争いや
◇ ◇ ◇
月人が減っている。多くの月人は、自らそれを覚っていたと思う。だが、月人はあくまでも月人であった。美しく平穏な日々をひたすら全うすること。それが月人というものなのだと。恐らくはここに住まっていた全ての者がそう信じ、月人としての節度と日常を守り、ひたすらそう在り続けてきた。
己が月人でなくなるのは、罪を犯し他所に放逐される時のみ。それは伝説として語り継がれてはいたものの、現実に罪を犯すものなど誰もいなかった。月の世界では全てのものが浄化され、罪という概念すら希薄化していたからだ。そして、月人である間は決して消滅することなどない、と。多くの月人は信じて疑わなかった。
が、それは単なる盲信であった。
まず天帝が消滅した。月人を統べる存在が失われて歯止めが外れたかのように、月人の数はみるみる減り始めた。豪華絢爛な
私と楊が月人であることを互いに確かめ始めた頃には、すでに二人しか残っていなかったのだ。私はその状況に飽いた。美しい世界でひたすら永らえること。もし本当に永らえることが可能ならば、それはそれで一つの在り方であろう。しかし退屈なままいつの間にか消え去ることは、私には苦痛にしか思えなかった。
ここを脱したい。月を出ることは可能だろうか。これまで月人が誰一人として考えようとしなかったことに私は挑んだ。そして、眠りの中では月から出られることに気づいたのだ。それも単なる逃避幻想ではなく、現実に月で眠っている間は別の世界で別の存在として確かな日々を過ごしている。
眠りの中で別人として振る舞うこと。最初こそほんの遊興に過ぎなかったが、私は徐々に月で眠っている時間を長くしていった。最初は、向こうの世界に在る自分が仮の存在であったはずなのに、今では月人としての自我が残滓になりつつある。
向こうでも眠りは必要であり、その間に月にはいつでも帰れる。だが、もうそろそろ月を捨てよう。私はそう考えておった。問題は……楊だった。
「楊を一人きりには出来ぬ。どうしたものかのう」
◇ ◇ ◇
楊を連れて野を歩く。咲き乱れる
「のう、楊よ」
「はい?」
「そなたは夜を知っておるか?」
「夜……でございますか?」
「うむ」
「存じませぬ」
「そうか」
月人の世界では光が絶えることはない。現実の月が自ら光れぬように、ここも我らを照らし出す光が絶えれば消える。つまり、光の届かぬ夜が来ることは永劫にない。理屈の上ではな。
だが、実際にはそうではない。月人で在り続けたいという願望は、存続に不都合な事実を無視することで叶えられてきた。たった今すらもそうだ。その「見てはならぬもの」から目を逸らし続ければ、消滅をただ座して待つだけになる。光は……己を輝かせる光はもはやここでは得られぬ。目隠しを外す覚悟をせねばなるまい。
川端に歩み寄り、せせらぎを見下ろすように枝垂れている柳の枝をぽきりと折り取る。
「のう、楊よ」
「なんでございましょう」
不安げに私の顔を見上げていた楊は、私の
「よいか。ここは月人の世界じゃ。永劫に何も変わらぬ。私もそなたもそう思いながら今まで暮らしてきた」
「はい……」
「じゃが、ここは今まさに消え去ろうとしておる」
そんなことはありえぬと強弁すると思うた楊は、顔を伏せて黙し、やがてさめざめとすすり泣いた。
「私を置いて……行かれるのですね」
「まさか」
苦笑しながら、もう一度手を強く握る。
「ここを出る。付いてきてくれ」
さっと顔を上げた楊が、一転して芙蓉の花のように華やかな笑みをほころばせた。
「ずっとお側に」
「うむ」
柳の枝を高く掲げ、それを振るって蒼天を千々に切り裂いた。手の届かぬところに広がっているやに見えた青の世界。それは、ぴんと張られた卵膜のように薄く脆く、枝を一振りする度にぱりぱりと割れて青い蝶に変わった。まるで長い間の呪縛から解き放たれたかの如く、無数の青い蝶が狂喜乱舞し……やがて何処にか飛び去った。蝶が塞いでいた空には漆黒の闇が広がっていた。
向こうでは、私が毎夜見ている夜景。だが、楊はまさか月世界の崩壊がかようにあっけないとは思っていなかったのであろう。袖で顔を覆い、私にしがみついた。
「さて、戻ろうか。庵で
「は……い」
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