第十四曲 月と眠り

(一)

 ぴぴぴ。ぴぴぴ。ぴぴぴ……。


「んー?」


 小さな電子音が耳の中に忍び込む。麗しい小鳥のさえずりならばまどろみから抜け出すのは難しいかもしれないが、味気ない一本調子の電子音だ。意識が、眠りの沈泥から現実の水面へと徐々に浮かび上がる。


「はわ……」


 小さな欠伸を噛み殺しながら、垂らしていた首をゆっくり持ち上げる。目の前に広がるのは桃源郷ではなく、事務机とパソコンがずらっと並んだ味気ないオフィス。ぼつぼつ外メシ組が戻ってくるかな。

 昼休みの一時間をどう使うかは、自由時間の乏しいデスクワーカーにとっては一大事だ。若い連中は、息抜きを兼ねて外に食事に出る。短時間であっても身体から仕事をひっぺがし、馬鹿話をしながらリフレッシュする……それは仕事に相対することと同じくらい重要で、欠かせない時間なのだろう。

 だが我々おじさん世代にとっては、外に出て飯を食うこと自体がエネルギー消費につながる。体力、気力を持て余している脂ぎったやつならともかく、俺のように声を出さない限りいるんだかどうだかわからないぼんやり男の場合は、外出する気力を絞り出す気力がない。


 ……ああ、入れ子の罠だな。ははは。


 それゆえ出勤時にコンビニに寄って昼飯を仕入れ、昼休みが始まった早々にそいつを秒殺して惰眠をむさぼることにしている。惰眠と言っても、三十分ぽっきりだけどな。だがそれは、俺にとってどうしても必要な三十分なんだよ。


「ふう……」


 三十分で向こうからこっちにすっぱり戻ってしまうのも、それはそれで味気ないわけで。つきまとっているまどろみが、垂れ落ちる蜂蜜のように意識と頭を揺らす。ゆらゆらと。

 しぶとく漂っていた眠気を追い散らすようにして、華やかな女の子の声が頭上に降ってきた。


「松野課長!」

「んー?」


 ああ、昼休み終了五分前か。若い連中はもうほとんど戻ってるな。


「寝てたんですか?」

「昼はいつもだよ。三十分こっきりだけどな」


 隣席の須貝さんが、小さな紙袋を机の上に置いてこくんと首を傾げた。今日は鮮やかなコバルトブルーのサマースーツか。女の子たちの服装が年々華やかになる。時代が変わったなあ……。

 うちの社には制服がない。一応ドレスコードはあるもののそれほど厳しい規定ではないので、女性たちは着たいものを自由に着てくる。男どもは結局シャツとタイのビジネススタイルになっちまうから服装を選べる女性たちはいいなあと思うが、以前その話を須貝さんに振ったら全力でどやされた。


「課長! 女性は、着るものを通して自己表現をしなければならないんです。見栄と体裁、それに他人のひが目という厄介なハードルをクリアしながらね。すごく大変なんですよ!」


 お説ごもっとも。たとえダンボール箱や新聞紙を着ていてもがちゃがちゃ言われないであろう俺は、「さようでございますね」と素直に引き下がるしかなかった。


 それにしても、この須貝さんという子が実におもしろい。人当たりは決して悪くないんだが、とにかく誰に対してもはっきり物を言う。仕事はきびきびこなすし物怖じしないから、むしろ営業向きだと思うんだが、お客さんの前で余計なことを口走りそうだと上層部が判断したんだろう。デスクワーク専門のうちの課につけた。その上、昼行灯の俺の隣に置いたってことは、相当この子の口害を心配したと見た。

 まあ、俺はいつでも泰然自若だ。誰に何を言われようが一切気にしない。俺以外にはかなり言動に気を遣うようになった須貝さんも、俺に対してだけはいまだにタメ口を利く。彼女に悪気がないのはわかってるから、気にならんけどな。


 ノートパソコンのスリープを解除し、昼休み終了と同時に仕事に戻る態勢を整えた須貝さんが、さっきの昼寝の話に食い下がった。


「三十分て、なんか中途半端じゃありませんか? かえって眠くなっちゃうような」

「ははは。まあな。でも仕事中に船漕ぐことはないね。少なくとも俺の場合は、三十分でしっかり足りてるってことさ」

「そうなんですよねー。課長のはそれが不思議で」

「つーことはなにか? 須貝さんは学生の時、授業中に教科書立てて寝くたれてた口だな」

「えへ」


 図星だったんだろう。ばつが悪そうに髪をいじっている。


「まあ、上手にやってくれ。仕事中に寝るのはさすがにご法度だからな」

「うう、わかってますー」


 須貝さんが持ち上げた紙袋。中にはエネルギーチャージ用のおやつと眠気覚まし用のミントタブレットが入っているんだろう。


「さて。午後の分をさくさくっとやっつけるか」

「はい!」


 仕事の電子化が進んで、机の上が書類の山なんていう光景は過去のものになりつつある。だが、仕事の絶対量自体は効率化によってむしろ増えてるんだ。数枚のスプレッドシートを黒々と埋め尽くす数字の山。そして、空欄のところどころに付けられているカラフルな電子付箋が、しつこくへばりついていた眠気を徐々に、だが確実に削ぎ取っていく。


 手を動かし始める前、広いグラスエリアの向こうにある空に月を探す。当たり前だが、真昼間に月なんざ見えるわけがない。わかってる。わかってはいても、目が蒼天を走り回る。


「そこに見えればもっと気楽なんだがな」


 俺の奇妙な独り言に、須貝さんが再びこくっと首を傾げた。


「何が、ですか?」

「月、さ」


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