(三)

「このブローチがなぜこの世に生を受けたのかわかりません。でも、これはただの宝飾品ではありません」

「呪われたもの、ということですか?」


 永井が、慎重に確かめる。


「いいえ。もしどなたかの念がこもっているものなら、わたしはそれを感知できますし、邪念を祓うことも可能なんです。でもね。これは違う」

「違う、か……」


 静江さんが、ふっと息をついた。


「本物の蝶以上になまめかしい蝶を作ろう。そういう芸術家さんがどこかにおられたのでしょう。その方の心血が注がれた至高のモルフォ」


 静江さんが掲げたのはブローチではなく一枚の写真だ。金属質の青い輝きを誇る美しい蝶。モルフォチョウというらしい。


「モルフォという言葉には形、美という意味があるそうです。人が憧れる究極の形、永遠に変わることのない真の美しさ。そのようなイメージが、作り出された蝶に着せられたのかもしれません。でもね」


 写真がさっと伏せられた。


「蝶は蝶に過ぎないのです。美しい羽を持つのはオスだけ。つまりオスは常にメスを探し、羽を誇示して惹きつけ、交尾しようとします。自分たちの生命をつなぎ続けるために」


 静江さんが、ゆっくり俺らを見渡す。細い指が、バッグの上に覗いている白い布を指差した。


「あまりに精緻に作られたこの蝶は、性質もピュアな蝶そのものでした。メスを探して飛び回り、交尾しようとしますが……これはただのブローチです。メスの蝶なんか最初から存在しないんです」


 なるほど……。


「でも、この蝶はそれを知りませんので、常にメスを探して飛び回っています。それが蝶ではなく、人間の女性を誘惑してしまうんです」

「あの。どういうことですか」


 永井だけでなく、その場にいた全員が絶句していた。わけが……わからん。


「独身女性、中でも自分は男性にアピール出来ていないとコンプレクスを感じている女性が、この蝶を誘引するんです。メスの蝶がフェロモンを出してオスを惹き寄せるのと同じですね。そして、このブローチを手に取った女性は無意識に胸元につけてしまう。蝶の誘惑に堕ちてしまうんですよ」


 静江さんの表情が一段と険しくなる。


「それだけではありません。ブローチを身につけた女性は、性的アピールがぐんと強まる。蝶の留まる位置が胸元ですから、そこから強烈な誘惑が周囲に発散されるのでしょう」

「だから全部胸、だったのか」


 思わず呟いた俺に頷いて見せた静江さんが、そのあと視線を落とした。


「蝶にとって、人間の女性は交尾の対象にはなりえません。蝶が探しているのはメスの蝶ですから。人間の女性を誘惑し、その性的魅力をどんなに高めたところで、蝶には何の意味もないんです。それでも」


 説明は……なんともやるせない言葉で幕を下ろした。


「蝶である限り、彼はパートナーと巡り合おうとして女たちの間を飛び続け、誘惑を振りまき続けるのでしょう」


 静江さんに尋ねてみる。


「それを壊すとか、滅するということはできないんですか?」

「できません」


 バッグから、ブローチを包んでいた布だけが取り出された。あれ? さっき包んでバッグに入れた……よな。ま、まさかっ!


「最初に永井さんが幽霊だと言われたこと、そのままなんです。あれは、ブローチの形をした蝶の幽霊。蝶には人間でいう意思というものはないんです。本能だけで動いていますから、わたしだけでなくどなたにも説得、滅却はできません」


 言葉が……出てこない。俺たちにはどうしようもないってことか……。


「わたしは独身なので、蝶を呼び寄せることが出来ました。でも、居着いてはくれません。これまでブローチに惹かれて身につけたどの女たちも、蝶が出会うことを望んでいる相手ではないんです」


 ひらひらと布を振った静江さんが、いつの間にか飛び去っていた蝶を探すように目を上げた。


「軽佻浮薄が蝶の代名詞。蝶は違うと抗議するかもしれませんが、事実一箇所には落ち着きません。逢瀬を果たせない蝶は、女たちの間を永劫に飛び続けるのでしょう」

「じゃあ……」

「ええ。蝶が存在している間は同じことが繰り返されます。誘惑を避けるために、男性はあの時間あの車両に乗らない。二両目は女性専用車両だと考える。被害を防ぐなら、それしかありません」


◇ ◇ ◇


 静江さんのフォローによって、永井の甥っ子はなんとか名誉回復に成功した。婚約者さんも、父親のあの姿を目の前で見ればさすがに……ね。婚約破棄は撤回となり、二人の仲も修復されたと聞いた。ほっとする。


 俺は、被害に遭った黒木さんと組んで『二両目の誘惑』という特集記事を組んだ。フィクションじゃなく現在進行形のドキュメンタリーで、注意喚起の意味合いもあったため、読者への訴求力が大きかったようだ。そいつが載った号の販売部数は、普段の十倍以上になった。気を良くした編集長が俺と黒木さんに臨時ボーナスを振舞ってくれたから、少しだけ溜飲を下げる。千鳥さんに尻を安全ピンでど突かれたんだ。そのくらいのご利益はないと見合わないよ。


 そして。俺は千鳥さんと付き合い始めた。確かにおっかない女性ではあるんだが、性格が悪いわけじゃない。嫌味なところがなく、からっとしていてとても付き合いやすい。周囲から物好きなやつだと言われたが、それはそれだ。

 ただ……千鳥さんと付き合うことにしたのにはもう一つわけがある。理由を千鳥さんに言うつもりはないけどね。


 黒木さんともおかしいなって話をしたんだ。なぜあの電車の二両目だけなんだろうって。全てを蝶のせいにしてるけど……本当にそうだろうか? それがずっと気になっていたんだ。俺は仮説を立ててみた。蝶の他に、もう一つ幽霊がいるんじゃないか、と。

 午後十時、特定電車の二両目ドア付近に、ある条件にあてはまる女たちだけが惹きつけられる見えない花が咲くんだろう。誘惑に関わるのは蝶だけじゃない。その花もなんだ。花の誘惑は強力で、千鳥さんだけでなく静江さんすらその引力に勝てなかった。だから二人とも、あそこをずっと凝視していたんだ。蝶と花の誘惑が揃ってしまうと何度でも悲劇が繰り返される。そして、千鳥さんには誘惑される条件が揃ってる。


 わたしに魅力がないわけじゃないよね。それなのになんで誰も女性として認めてくれないの? 千鳥さんの心の奥底に畳まれている強烈なコンプレクスが、もしあの蝶を呼び込んでしまったら。その結末は……しゃれにならないんだよ。

 前は痴漢を半殺しにしただけで済んでるけど、今度はそれじゃあ済まない。相手が本職の痴漢ならともかく、誘惑に操られただけの男をかっとなって叩きのめしたら、それは過剰防衛だ。千鳥さんは被害者じゃなく加害者になっちまう。蝶に操られた男だけでなく、千鳥さんの人生まで壊してしまいかねない。


 まあ、いい。誘惑されるなら、相手は蝶よりも現実の女性の方がいいよ。それなら、想いを双方向にできるからな。


「ねえ、タキ。何考えてるの?」


 編集会議の帰り。洋風居酒屋で千鳥さんと晩飯を食っていたら、彼女がぴったり体を寄せてきた。俺はその肩に手を回しながら、蝶の誘惑を思い返していた。


「いや、あの蝶さ」

「うん」

「結局、どこに行き着くんだろうと思ってね」



【 了 】

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